心の家路
アルコール中毒という病気 (3.重大な危機の段階)
DRINKER OR DRUNKARD - Warning Signals on the Way to Alcoholism (4/6)

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2008/02/02 

DRINKER OR DRUNKARD - Warning Signals on the Way to Alcoholism

アルコール中毒という病気

―― アルコホリズムにいたる警告のシグナル ――


3.重大な危機の段階

コントロール喪失とは、どんなに小量でもアルコールを入れたが最後、それ以上のアルコールヘの要求が起り、その人にとって、何とかして転化したい限り、あたかも肉体的至上命令のように感じられるものである。

この要求は、その人が完全に酔いつぶれるか、それ以上飲めないほど加減が悪くなるまで続く。飲むことによって、この人の目的と正反対の肉体的不快がひき起されるが、それもこの人には何かおかしいとしか感じられない。実際問題として、飲み始めるのは、目下の個人的要求からというより、何かの社交的一杯によって始まるであろう。
酔いが醒めた後で、そう思うだけか、あるいは実際にそうなのか――肉体的要求が起る。それが、何日か何週間か後の新たな酒宴の起爆材になる。これはまだコントロール喪失ではない。また飲み始めるのは、新たな心理的葛藤か、あるいは単に、飲むことが含まれている社会的状況によるものである。

コントロール喪失というのは、新たに飲み始めるきっかけを与えるものをいうのではなく、その人間が飲み始めたあとに作用するものをいうのである。
この酒呑みは、一旦飲み始めると、その量をコントロールする能力を失っている。しかし機会が与えられた時、飲むか飲まないかというコントロールは、まだできるのである。このことは、コントロールを喪失した酒呑みが、ある期間、自分の意志で禁酒できる事実を見れば明らかである。
しばしば提出される疑問は、この酒呑みが何回も悲惨な経験をくり返しながら、どうしてまた飲み始めるのか?ということである。
本人は認めないだろうが、アルコール中毒者は自分が意志の力を失くしたのだと思っている。それを取り戻さなければならない、そして取り戻すことができる、と信じているのだ。彼は、アルコール摂取をコントロールすることが全く不可能になったプロセスに、自分が入ってしまっていることに気付いていないのである。
自分の意志を支配することが、彼にとって最大の重要課題になる。緊張が起る時、一杯の酒は彼にとって自然の妙薬である。そして、今回は一杯か二杯だけにする自信があるのである。

実際には、コントロール喪失のはじまりと時を同じくして、アルコール中毒の人は、自分の酒に理由づけをしはじめる。即ち、かの有名なアルコール中毒者のアリバイ=云いわけを生産しはじめているのである。
「自分はコントロールを失くしたのではない。酔っぱらうまで飲む十分な理由があったのだ」と、また「もしその理由のようなことがなかったたら、自分は他の誰もがするように、ちゃんとコントロールできたのだ」と、自分を説得するための説明を見つけるのである。
こういう理由付けは、家族や友人向けでもあるがそれは二の次で、まず自分自身を納得させるために必要なのである。
この理由づけは、彼が飲み続けることを可能にする。そしてこれこそ、問題をコントロールすること以上に、彼にとって最も重要なことなのだ。そして彼はそれを知っているのである。

これが理由づけの体系(システム)全体のはじまりで、それは次第に彼の人生のあらゆる面に拡がって行く。
このシステムは大部分内的必要から生じたものであるから、それは、コントロール喪失に際して起る社会的圧力に対抗するためにも働らく。もちろんこの頃には、飲むのがひどくなっているので、両親や妻や友人、使用者などが、彼を非難したり警告したりするようになるからである。
あらゆる理由づけにもかかわらず、そこには明らかな自尊心の喪失が見られ、それが代償作用を要求する。その代償行為の一つは、この時期に中毒者がとり始める大げさな態度である。途方もないお金の浪費をしてみたり、大言壮語したりするのは、彼が時たま考えるほどには、悪くはないと自分に納得させることなのである。

理由づけの体系は、もうひとつの体系を生み出す。名付けて孤立のシステムという。理由づけをしていると、ごく自然に、誤まりは彼自身の内にではなく、他人の側にあるのだ、という考えになる。その結果、次第に周囲の者から離れて行く。こういう状態の最初のあらわれは、目立って攻撃的な行動に出ることである。
この態度は必らず罪悪感を生む。警戒段階でも、時がたつほどに良心の呵責はあったが、今は絶え間のない呵責が起り、それがまた、もっと飲む原因になる緊張をひき起す。

社会的圧力に屈して、アルコール中毒者が一時期完全に酒をやめたとする。しかしそこに、酒をコントロールするという、中毒者にとってのもう一つの抜け道がある。これが中毒者の理由づけの中から頭をもたげて来る。
彼は、飲んだ酒の種類がいけなかった、あるいは、飲み方か悪かった、と信じる。そこで酒のパターンを変えてみる。たとえば一日の中で決まった時より前には飲まない、とか、一定の場所でしか飲まないとか、自分の問題をコントロールするために、似たようなルールを決めるなどのことをやってみる。
このあがきの緊張は、彼の周囲に対する敵対を進行させ、彼は友人を捨て、職場をやめるなどのことを始める。それは当然友だちに見はなされ、職場をやめさせられるようになることを意味するが、中毒者は、自己防衛のために、それよりもしばしば先手をとりに行くのである。
孤独、ひとりぼっちであること――は更に進んで、彼の全行動がアルコール中心になるほどまで決定的になる。即ち彼は、酒が彼の行動に如何に影響するか、ということよりも、如何なる行動が彼の酒のじゃまになるか、ということの方に関心をはらうのである。これはもちろん、彼が一層目立って自己中心的になることを含むもので、それがまた彼に一層の理由づけをさせ、一層孤独にさせるのである。
それと共に、外部のことへの興味を失くし、自己憐びんが目立ち、人とのつき合いをきらうようになる。
この頃から、孤独と理由づけは一層ひどくなり、空想的にかまたは現実にか、どちらかの地理的逃亡の欲求が表われるようになる。

このようなできごとの影響で、家庭の習慣に変化が起る。これまでは、恐らくちゃんとした社会的行動をとって来た妻や子供たちが、恐れと困惑のためにひっこみ思案になるか、あるいは逆に、家庭環境から逃避するために、急に外部の活動に熱中しはじめたりする。このことは、他の出来事と相乗して、アルコール中毒者の内部に不合理な恨みを発生させることになる。
目下最大の関心事はアルコールにあるので、中毒者は、その補給について考える必要がある、と思う。即ち、アルコール飲科を大量に、最も考えられない場所に隠匿するのである。彼にとって、生きるのに最も必要なものが欠乏することへの恐れが、アルコール中毒者をこうした行動に駆り立てるのである。
ほんとうの栄養を無視して飲み続けた結果が身体の組織に現われはじめ、アルコール中毒者が、はじめての入院を経験するのも、多くこの場合、この時期である。

身体機能への影響でしばしば見られるのが性的能力の減退である。そのことが妻に対する敵意を増大させ、しかもそれは妻の浮気が原因だという理由づけをするので、ここにあの有名なアルコール中毒者の嫉妬なるものが登場することになる。

この時期に、自責、恨み、アルコール中毒的必要と責任の衝突、自尊心の喪失、疑心暗鬼と見せかけの慰めなどが、すっかりアルコール中毒者を破壊しているので、朝、起きた直後か、時には起き上る前に寝床の中で、アルコールで元気づけないことには一日が始められないようになっている。
このような行動が出て来ると、もはや重大な危機の段階を通り越して、慢性アルコール中毒の段階が始まっていることをあらわす。

危機の段階までは、泥酔が常習的になっているとはいえ、まだ夕方に限られている。ほとんどの場合、この段階では、午後から飲み始めて夕方には酔っぱらっている、というパターンである。
コントロール喪失に含まれている肉体の命令が、ひっきりなしに飲まずにはいられなくしていることは注目すべきことである。特に、危機の段階の末期にあらわれる朝酒はのべつ幕なし、のバターンをあらわしている。起きる時に、云うならば朝の7時に始まって、恐らく10時か11時に次の、1時にその次の、と云った具合で、5時前にはもう出来上っている。
この重大な危機の時期の間、アルコール中毒者は、完全に自分の社会的立場を失うことを避けるために悪戦苦闘する。時には、夕方泥酔することが、結果として時間のロスを招くことはあるが、全般的に見て、家庭は顧みなくても、仕事の方はどうにか続けることができている。彼は「日中には酔っばらわない」ことに努力を集中するのである。
しかし彼の社会的自覚も進行的に弱くなり、朝の一杯が、職業上の責任を果そうとする努力を危うくすることになる。実はこの努力が、アルコールに向う肉体の命令に対する、彼の意識的低抗を支えていたのだが…。
コントロール喪失のはじまりは、アルコール中毒という病気のプロセスのはじまりであり、飲み過ぎの徴候とダブっている。この病気のプロセスは、中毒者の人間的、身体的抵抗を、進行的に弱めて行くのである。

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