心の家路

依存症と回復、12ステップのスタディ

ユーザ用ツール

サイト用ツール


books:study:aaca_history_list

『成年に達する』のAA史追補

『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』の pp.vii-xiv にはAAの歴史上のトピック一覧が掲載されている。だが英語版には1934年から53年までの各項目について記述のあるページ番号が記載されているが、日本語版にはない。そこで、それを補ったリストを作ってみる。

AA史の里程標

出来事日本語版
ページ
1934ウィリアム・D・シルクワース博士、ビル・Wを絶望的アルコホーリクと宣告76
8月オックスフォードグループがビルの友人エビー・Tをしらふにする86
11月エビーがビルを訪ね、自分の物語を話す85
12月タウンズ病院でビルがスピリチュアル(霊的)な経験をする94
1934 12月
~1935 5月
ビルがアルコホーリクたちにかかわる
しかし、すべて失敗する
96
19355月ドクター・ボブとビルがアクロンで出会う100
6月10日ドクター・ボブの最後の飲酒。アルコホーリクス・アノニマスの創始107
1937 ニューヨークのAAがオックスフォードグループから分離する112-113
11月ドクター・ボブとビルがアクロンで会い、結果を数える。40ケースが酒をやめていた。確実な成功の最初の認識115
19382月ジョン・D・ロックフェラー二世と接触。彼は5,000ドルを寄付するが、それ以上は断る。AAを職業化から救う224-226
5月アルコホーリク財団設立、AAの財産の受託者230-233
5月アルコホーリクス・アノニマスの本の執筆開始242
12月12のステップが書かれる245
メンバーが100人に達する273
19394月書籍『アルコホーリクス・アノニマス』出版263
フォスディック博士による書評279, 486
中西部のAAがオックスフォードグループから離脱。AAは全面的に独立114
8月ドクター・ボブとシスター・イグナシアがアクロンの聖トーマス病院で仕事を始める。ふたりは以後十年間に5,000ケースを治療10
9月クリーブランドでの急拡大が、AAの巨大な成長の可能性を証明29
12月ニューヨーク・ロックランド州立病院で、最初の精神病院でのAAグループ18
1940 宗教界のリーダーたちがAAに賛同。ダウリング神父とフォスディック博士が多くの人々の先駆けとなる56
2月最初のAAワールドサービスオフィスがニューヨーク・ビージー通りに284
2月最初のAAクラブハウスがニューヨーク西24番通りに274
2月ロックフェラー氏の晩さん会276-278
19413月『サタデー・イブニング・ポスト』紙の記事が全国的な大きな拡大と認知をもたらす。メンバーの数は1941年に2,000人から年末には8,000人に飛躍289-290
1942 最初の刑務所グループがカリフォルニア州サンクエンティンに135-136
19446月『AAグレープバイン』発刊3041)
1945 シルクワース博士とテディー・Rがニューヨーク二ッカーボッカー病院で仕事を始める。ふたりは以後10年間に10,000人の患者を治療310
1946 AAの12の伝統が初めて定式化され出版される350
1949 アメリカ精神医学会がAAを認知367
19506月第1回国際コンベンション、クリーブランドで開催。12の伝統が動議によって採択される320
11月ドクター・ボブ死去13, 322
19514月第1回評議会開催。AAの理事会とフェローシップ全体とを結ぶものとして、実験的な5年間を開始326
10月サンフランシスコで、アメリカ保健学会2)からラスカー賞がAAに授与される5, 454
19536月『12のステップと12の伝統』出版328
195410月アルコホーリク財団がAA常任理事会となる。初期の多目的財団の考え方は放棄される
19557月セントルイスで20周年コンベンション
『アルコホーリクス・アノニマス』第2版刊行
19557月3日回復、一体性、サービスの三つの遺産が、草創期のメンバーから運動自体に引き継がれる
1956 広報委員会設立。ビル・Wによって指揮されてきた広報活動の責任を引き受ける
1957 初めての海外でのAA常任理事会が、イギリスとアイルランドで設立される
『AA成年に達する』10月に出版
AAメンバーの数が70の国と合衆国属領の7,000のグループで20万人を超える
1958 長編テレビ作品『酒とバラの日々』、一九六三年に映画化。ともにAAが協力
1959 AA出版社がAAワールドサービス社となる
1960 二十五周年コンベンションが、7月に、カリフォルニア州ロングビーチで開催。
ジョセフ・ケッセル著『アルコホーリクとともに』(Avec Les Alcooliques)が、フランスとドイツでのAAの発展を活気づける
1961 ビル、カール・ユング博士と手紙を交換。1930年のユング博士のあるアルコホーリクへの援助が、後日、AA形成の第一投階と見られるようになる
1962 ビル・Wの著作『ワールドサービスのための12の概念』出版
1963 常任理事会に初めて地方選出常任理事が入る。この方式は、それまで一州だけから選出されていた地域担当常任理事にとって代わった。新方式に伴い、合衆国は六つの地方に分割された
1963-1967この時期の特徴は海外での急速な成長である。それは、増大する世界的サービス活動によって加速された。より多くのアドバイスの手紙、文書センターの新規設立、おびただしい数の新しい効果的な翻訳、AAの伝統の教育等である。
1965 30周年コンベンション、カナダ・トロント、7月。参加者一万人以上。この集まりの基調であった宣言は、のちに広く使われるようになった……「私の責任。誰かが、どこかで助けを求めたら、そこにAAの(愛の)手があるようにしたい。それは私の責任だ」
贈り物用のポケット版『12のステップと12の伝統』がトロントで発行される
ビルとロイスが草創期のAAの物語を語ったカラー記録フィルムが、グループ専用に作られる
1966 常任理事会の三分の二の多数をアルコホーリクが占めるように、常任理事会の比率を変更。AAのフェローシップがAAのすべてのことについて将来の運営の最高責任を引き受けることとなった、歴史的出来事であった。この変更に伴って、地方選出常任理事は8名に増員され、6名は合衆国から、2名はカナダからとなった
1967 ビル・Wの文章からの抜粋を集めた『AAの生き方』(のちに『ビルはこう思う』と改題)出版
1955-1967この期間に、AAグループの数は5,927から22,297に増加し、海外のグループはAA人口の約20%を占めるようになる
1969 第1回のワールドサービス・ミーティングがニューヨークで10月9日~11日に開かれ、14か国の代表が参加(1972年以降、隔年に開催)
1970 35周年国際コンベンションがフロリダ州マイアミビーチで開催される。参加者約11,000人。ビルがみなの前に姿を見せたのは、これが最後。基調スピーチは一体性の宣言
1971 ビル2月24日、フロリダ州マイアミビーチで死去。彼の名前と写真,そして物語が初めて一般報道を通して世界に伝えられる
世界のAAグループは2月14日に追悼式を催す
1973 小冊子『信じるようになった』出版。メンバー個人のスピリチュアル(霊的)な考え方を広範囲に紹介
4月書籍『アルコホーリクス・アノニマス』の頒布が100万部の大台に乗る
1975 40周年国際コンベンション、コロラド州デンバーで開催。19,000人以上が参加し、テーマ「私といっしょに始めましょう」をロイスと唱和
1975 小冊子『どうやって飲まないでいるか』出版。AAメンバーが飲まないために使ってきた実際的な方法を、詳細に述べたもの
1976 全世界でメンバーは100万人を超え、グループは約28,000に達したと推定される
『アルコホーリクス・アノニマス』第3版刊行
1978 『グレープバイン』の発行部数が10万部を超す
『アルコホーリクス・アノニマス』の頒布が200万部の目標を突破
1980 45周年AA国際コンベンション、ニューオーリンズで。テーマ「生きる喜び」を祝うために集まった参加登録者は22,500人に達する
書籍『ドクター・ボブと素敵な仲間たち』がこのコンベンションで紹介される。ドクター・ボブの伝記と中西部でのAAの歴史を併せたもの
19818月『アルコホーリクス・アノニマス』の頒布、300万部に達する
1988 ロイス・バーンハム・ウィルソン、10月5日死去
1)
英語版ではp.212とあるがp.201の誤りでは。
2)
American Public Health Association — アメリカ公衆衛生学会
books/study/aaca_history_list.txt · 最終更新: 2020/10/08 by ひいらぎ