ビッグブックのスタディ (64) 解決はある 15

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前回は、コーラ・フィンチ(Cora Finch)が、2006年から08年にかけて公開していた Stellar Fire というサイトの内容を紹介しました。これには補遺が2008年に追加されました。1) 今回はその内容の紹介です。

シンボリック・ライフ

これまで取り上げた調査では、ユングローランド・ハザードの二度目の治療を拒んだ理由は謎のままでした。

ユングは独立開業した初期の頃にメディル・マコーミックMedill McCormick, 1877-1925, イリノイ州の上下院議員、シカコ・トリビューン紙の社主)というアメリカ人のアルコホーリクを治療しました。マコーミックは最初の数年間に何度か再発しましたが、最終的にはアルコホリズムを克服しました。そのことをユングは自伝でも取り上げています。2) このことから、ユングは少なくともすべてのアルコホーリクが治療不能だと見なしていたわけではなく、また再飲酒したからという単純な理由でそれ以降の治療を拒む方針を取っていたわけではないことがわかります。

さて、フィンチはこの補遺で、ユング自身がローランド・ハザードとおぼしき人物について述べていることを紹介しています。ユングは自らがパトロン となって設立した Guild of Pastoral Psychology3) で1939年に講演を行ないました。参加者が速記したものがユングの承認を得て1954年に個人的に出版され、後にユングの全集 The Collected Works of C.G. Jung の第18巻 The Symbolic Life に収録されました。

この The Symbolic Life は、ハードカバーで2万円ぐらいするので、Amazonで気軽にポチるわけにはいきません。どうしたものかと悩んでいたところへ、宗教学者の葛西賢太氏4)から、30年近く前に氏が訳された「シンボル的な生」のコピーを送っていただきました。ありがとうございます。今回はそれを参照させていただきます。

ユングはこの講演で、なぜ信仰の篤いカトリック教徒は神経症になりにくいのか、という質問に答えている5)のですが、まずユングがこう述べていることを踏まえておきましょう。

 このような事柄について私の取っている態度は、患者が実際にある教会の一員である場合には、真摯に信仰を求めるべきだ、ということです。彼は本当に心からその教会の一員となるべきであり、自身の葛藤を、神におさめてもらうべきだと思いながら、医師のもとに行ったりすべきではありません。たとえば私のところにオックスフォードグループの方が治療を受けにみえたことがありましたが、こうお話しました。「あなたはオックスフォードグループにいるわけです。そこにいるかぎり、あなたはオックスフォードグループを通じて身を処してください。私にはイエスよりもうまくやることはできないのですから」6)


オックスフォードグループ連動を信じている限り、その人はそこに留まります。ローマ・カトリック教会にいる限り、彼はよかれあしかれそこにいて、そこの流儀で癒されるべきでしょう。そして注目していただきたいのですが、彼らがその流儀で癒されうるのを私は見てきました……これは事実なのです。赦祷式、聖体拝領によって、かなり深刻な症例であっても、癒されうるのです。7)

ここからは、ユングが宗教的な癒やしについて敬意を持っており、クライアントの持つ信仰を尊重していたことがわかります。その上で、オックスフォード・グループの一人のアルコホーリクについてこう述べています。

そういう症例の話を一つしましょう。ヒステリーとアルコール中毒で苦しむ患者が、このグループ運動によって癒され、彼らはこの人を一つのモデルケースとして使い、ヨーロッパ中をまわって、そこでこの人は素晴らしい告解をし、また自身が悪しき行ないを過去にしてきたけれども、グループの運動を通じて癒されたと語ったのです。ところが彼が話を二〇回、いや五〇回も繰り返したとき、もう飽き飽きして再び飲みだしてしまったのです。宗教的感覚は薄れていってしまっていました。彼らはこの人をどうしたと思いますか。彼は病気だから、今度は医者のところに行くべきだと言うのです。第一段階ではイエスに癒され、第二に医者に、というわけです! こういう症例は断るべきですし、私は実際にそうしました。この人を彼らのもとに送り返して私は言いました。「イエスがこの人を治したとあなた方が信じているのなら、イエスは二度目もやってくださるでしょう。もし彼にそれができないのなら、私がイエス以上にできるとは思わないでしょう?」。しかし彼らが期待していたのはまさにそういうこと、つまり病気の人をイエスはその人を助けないが医師は助けてくれる、ということなのです。8)

これはいかにもローランド・ハザードのエピソード(あるいはそれを加工したもの)のように思われます。オックスフォード・グループによって癒されたと大衆に向かって言いながら、裏で心理学的治療を受けようとするのは、一貫性に欠けると指摘しています。前回説明したように、ブックマンらによる「魂の手術」と心理学者による分析が競合関係にあったことを踏まえれば、そのような表裏のある行動はユングには許容しがたかったのでしょう。9)

ただし、ローランドがオックスフォード・グループの講演活動に加わったのは1934年以降で、もしローランドとユングの再会が1932年だったとすれば、時間軸に齟齬が生じてしまいます。フィンチは、1936年8月にローランドが連続飲酒でニューヨークの病院に入院したことと、同じ頃にユングがアメリカ東海岸で講演を行ない、そこで多くのかつての被分析者と再会したことを結びつけ、この時に再会があったという可能性を指摘しています。しかし、それでもタイムラインの齟齬は解消できません。

いつオックスフォード・グループに加わったのか

というわけで、ローランドとユングの再会のタイミングは、三つ考えられます。

第一は、1928年春、ローランドがアフリカからの帰路にチューリッヒに立ち寄った可能性です。これは、フィンチの調査によってほぼ否定されました。

第二は、1931年夏の、ヨーロッパへの家族旅行の際に、ローランドと妻ヘレンがスイスを訪れていることです。ただし、この時点ではローランドはアルコホリズムの再発に悩まされていませんでした。

第三は、1936年8月の、ニューヨークでの入院後に、アメリカを訪れていたユングと再会したという可能性です。ただし、これはローランドがエビー・Tを助けた2年後です。

消去法で、1931年夏という説を採用することにしても、ローランドが再発直後でないならば、ビルの話とつじつまが合わなくなります。そこをどう考えるかです。

ローランドは、1926年にユングの分析を受けてから、1934年にエビーを助けるまでのどこかで、ユングからオックスフォード・グループへと頼る先を変えています。では、彼はいつオックスフォード・グループに加わったのでしょうか?

彼はオックスフォード・グループで行なった講演で、1932年に自分の娘からオックスフォード・グループのことを教えられたと語っています。だが、彼にはスーザン・キースという従姉妹がおり、彼女はフランク・ブックマンの熱心な信奉者で、親族にも熱心に勧めていたことがわかっています(そのせいで、ユングを信奉する兄レオナルド・べーコンとの間に亀裂も生じた)

ディビエルは、著書のなかで、ローランドの母親が1930年3月に書いた手紙を紹介しています:

In a March 9, 1930, letter to Thomas, the mother asserts: “I think Roy has had a spiritual awakening which makes him ready to do anything which he feels incumbent upon him. That is why I think those about him should try to prevent a sacrifice which is not to the best good of all.”10)


1930年3月9日にトーマスに宛てた手紙で、母親は次のように断言している。「ロイ11)は霊的な目覚めをして、そのおかげで彼は自分がやらなければならないことは、何でもやる気になっています。そのおかげで、最善とは言えない犠牲を払うことは避けられる、と私は思うのです」(拙訳)

また、母親が1933年2月に出した手紙には、「ロイが患者(patient)に対して成功した」とありました。12)

デュビエルは、この霊的目覚めや患者の存在をミステリーとして、それ以上追求していません。フィンチは、これはローランドがこの時点ですでにオックスフォード・グループに入っていたことを示している可能性があると指摘しています。

1929年初頭にローランドがニューメキシコ の土地を買ったときには、彼はまだオックスフォード・グループを求めていません。むしろ、ニューメキシコという土地柄はユングに縁のある土地だったわけですし、前年にはピーター・ベインズの分析も受けています。この時点では、ローランドの心はユング一辺倒であったと思われます。

しかし、1929年2月に妻ヘレンと離婚したことで、ローランドに何らかの心境の変化が起こり、従姉妹スーザン夫妻の勧めに従ってオックスフォード・グループに加わり、それが1930年の「霊的目覚め」につながった、という可能性は考えられます。それが翌年のヘレンとの再婚につながり、夫婦がチューリッヒを訪れてユングに再会し、現在の無事はオックスフォード・グループのおかげであると報告した上で、再度の分析をユングに依頼したなら、当然ユングはその依頼を断ったでしょう。

ローランドはもうユングを頼れないことを知ってショックを受けたでしょうが、それ以降彼は自分の患者(つまりスポンシー)に対して、なぜ自分はもうユングを頼れないのかを説明しなければならなくなったはずです。その時に、ユングの言葉通りに伝えるのをためらって、別の説明をしたことが、AAにおける伝承の発端となったのかもしれません。

もちろんこれは僕の想像に過ぎません。立証するための材料は僕の手元には何もありません。

ユングがAAに残したもの

1931年にユングがローランドに語った内容を要約すると、

    1. (ある種の)アルコホーリクは絶望的であり、医学的な手段による回復の見込みは無い。
    2.  霊的体験(すなわち回心)が起これば、そのようなアルコホーリクでも回復しうる。

このうち1.については、確かにユングがそう言ったという確証を得ることはできませんでした。2.については、当時はアルコホリズムが神経症の一種だと考えられていたこと、そしてユングが宗教的な癒やしの価値を認めていたことからすれば、ユングの発言として不自然さはありません。

いずれにせよ、ステップ2の情報は、ユングからAAにもたらされたのは間違いなさそうです。

1961年のビル・Wとユングの往復書簡は、第二章の付録として収録する予定です(対訳もWikiに載せる予定)が、ここにユングの返信だけ掲載しておきます。

ウィルソンさんへ

あなたの手紙を大変うれしく拝読しました。

その後ローランド・Hの便りを全く聞かなかったので、彼がどうなっただろうかといつも気にかけていました。彼と交わした会話の内容はあなたに十分に伝わっていますが、彼が知らなかったこともあります。私が彼にすべてを話さなかったのは、その当時はどう言っても誤解されてしまうことが分っていたからです。私は何を話すのかとても気をつけていました。だから、ローランド・Hにはとても用心深く伝えたのです。しかし私の頭にあったのは、彼のような人たちが様々な霊的経験をした結果についてです。

アルコールへの渇望は、深いレベルで、全体性を求める、古くさい言葉で言い換えるなら神と一体となることを求める、私たちの存在のスピリチュアルな渇きに等しいのです。(*)

こんにちでも、そのような洞察を誤解なく言葉で伝えることができる人がいるでしょうか?

スピリチュアルな経験は、実際にそれがあなたに起こった時にだけ、正真正銘のものとなりますが、それはあなたがより高い理解へ至る道を歩く時にのみ起こりえるのです。人は、神の恩寵の働きによって、あるいは友人たちとの個人的で誠実なふれあいを通じて、またはたんなる合理主義の制約を超えられるまで精神が高度な教えを受けることによって、そのゴールへと導かれるのでしょう。あなたの手紙によると、ローランド・Hはこの2番目の道を選んだようですね。事情を考えれば、彼にとってそれが最善の選択だったことは明らかです。

この世界に悪の原理が広がっていて、それが人間の無意識の「破滅へと向かうスピリチュアルな願望」を導いていることを、私は強く確信しています。それに立ち向かえるのは、真の宗教的洞察か、人間の共同体という防護壁しかないでしょう。天からの作用に守られず、社会から切り離されてしまうと、普通の人間は悪の力に抵抗できません。人は「悪魔」という言い方でこのような悪の力を言い表してきました。しかしこうした言葉を使うと多くの誤解を招いてしまいますから、できるかぎり避けるしかありません。

私がローランド・Hにすべてのことを十分に説明できなかったのは、こうした事情によるものです。あなたのとても慎み深く、誠実な手紙を読んで、あなたはアルコホリズムについてよく耳にする誤解の多い決まり文句ではなく、きちんとした見解を持っていること分りましたから、あえて危険を冒してこのことをお伝えすることにしました。

ご存じの通り「アルコール」はラテン語で「spritusスピリタス」です。私たちは最もスピリチュアルな経験と、最も致命的な毒に同じ言葉を使っています。ですから、役に立つ言葉は「スピリットはスピリッツ(酒)をしのぐ(spiritus contra spiritum)」でしょう。

有益な手紙に感謝します。

敬白

C・G・ユング

* 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:1, 新共同訳)13)

ユングは心理学者として世界的名声を得た一方で、自分の宗教的な考えが適切に理解されないことに失望を感じていました。神学的な彼の業績が評価されるのは死後のことです。14) また、ユングがAAに与えた影響は、心理学を通じてよりも、彼の宗教的考えの反映であるように思われます。

次回は、第二章の残りの3ページを扱い、第二章全体を振り返ります。

今回のまとめ
  • ユングがローランドの二度目の治療を拒んだのは、ローランドがオックスフォード・グループに加わったことが理由だった可能性がある。
  • ユングがAAに与えた影響は、その心理学によるものというより、彼の宗教的考えであった。


  1. Cora Finch, Additional Notes to Stellar Fire – Stellar Fire (stellarfire.org), 2008. []
  2. ヤッフェ編(河合隼雄他訳)『ユング自伝―思い出・夢・思想― 2』, みすず書房, 1972, pp.177-179 []
  3. https://www.guildofpastoralpsychology.org.uk/ []
  4. https://researchmap.jp/ktkasai []
  5. カトリック教徒が教会で送っているシンボリックな生の豊かさゆえに神経症になりにくい、というのがユングの考えだった。 []
  6. ユング(葛西賢太訳), シンボル的な生 -『ユング研究』第6巻, 日本ユング研究会編・名著刊行会, 1993, p.159 []
  7. ibid., pp.159-160 []
  8. ibid., p.159 []
  9. 一方、コートニー・ベイラーはそのことは気にしなかったようだ。 []
  10. Richard Dubiel, The Road to Fellowship: The Role of the Emmanuel Movement and the Jacoby Club in the Development of Alcoholics Anonymous, iUniverse, 2004, p.75 []
  11. ローランドの愛称。 []
  12. loc sit. []
  13. AA Grapevine, The Language of the Heart: Bill W.’s Grapevine Writings, AA Grapevine Inc., 1988, pp.280-281. []
  14. ヤッフェ, pp.10-13 []