ヤマアラシのジレンマ

Das Dilemma der Stachelschweine - 「心の家路」のブログ

今年も終戦記念日(を前)に、戦争について考えた

今年も終戦記念日がやってきます。
任期切れ寸前の首相は、15日に靖国神社に参拝するのでしょうか?
しかなったら、この文章は浮いてしまいますが、まあいいでしょう。

参拝が政治的に良いか悪いかという話はここではしません。
ただ、僕自身あまり靖国神社のことは知らなかったので、ここにメモとして記しておきます。
(と言いつつ、なんとなく主義主張があるのはいつものこと)。

まず名前は靖國神社。青ではなく靑、国は旧字体。これが靖国神社になってしまうのは、澁澤龍彦が死亡記事になると渋沢竜彦になってしまったのと同じ理由でしょう。

奉られているのは、明治維新以降に国のために戦って死んだ軍人。もっと正確に言うと、天皇を頂点とする政治体制のために戦って死んだ人間ということになっています。
たとえば明治維新の時の幕府側の人間は含まれません(会津とか)。長州薩摩は入ってますが、西南戦争の西郷隆盛や、萩の乱の江藤新平は入っていません。敵方は含まれないということでしょう。

東京大空襲や広島の原爆で犠牲になった一般市民も入っていません。沖縄地上戦でも、軍の命令で戦闘に参加した市民は対象ですが、ただ巻き込まれて死んだ人間は対象外です。たぶん国のために戦っていないからでしょう。

戦前でも平和のうちに死んだ軍人はどんなに偉い人であっても対象外です。

戦没という言葉は「戦場で死ぬ」ことを意味します。広くは、戦闘で負った怪我が原因で後で死んだ場合や、戦場に動員されてそこで病気になって死んだ人間も含みます。戦闘行為に参加している必要はありません。生活の場が、たまたま戦場になった結果、巻き込まれて死んだ市民も含まれます。むろん、敵・味方・中立の区別もありません。
ところが、靖国神社は、前述の通り体制維持のために死んだ人が対象で、市井の犠牲者は含まれません。戦没者の追悼施設とはどうやら違うようです。

靖国神社は「契約の場所」なのだと思います。
国のために戦って、「てんのうへいかばんざーい」と叫びながら死んでいけば、靖国神社に神のひと柱として奉られるという暗黙の契約があった、ということでしょう。そしてその靖国神社に天皇が参拝にやってくる。これによって契約が完遂するわけです。
戦前は合祀は、神孫たる天皇が祭主として行われました。それは戦死した人間にとっては最大の名誉であっただろうと思われます。なにせ(戦争に勝って平和のうちに死んだ)乃木陸軍大将も、東郷大元帥でさえも、そのような名誉には預かれなかったわけですから。

国のために戦って死ねば神になれるという理屈は、今各国で起きている殉教という名の自爆テロの論理にも似て、空恐ろしさしか感じられません。まそれはともかく。

戦後は靖国神社も国家から離れ、ひとつの宗教法人になりました。そして天皇も政治上の元首ではなく、国家統合の象徴という立場になりました。本来であれば、政治とはあまり関係のない、私的な関係であるはずでした。

天皇に私的な部分も、もちろんあるでしょう。昭和天皇の植物の研究だけじゃありません。たとえば、天皇は神道の祭司としての役割もあって、神事をおこなうために巫女を雇っています。この巫女は国が雇っているわけじゃなくて、天皇が直接雇用しています。国が宗教を行わなくなった現在は、それはまったく私的な行為です。

昭和天皇が戦後も靖国神社への参拝を続けたのは(8回)、信義に基づいて契約を遂行するためだったと、僕は解釈しています。ところが78年にA級戦犯が合祀された後は、参拝は途絶えています。最近の報道にもあったとおり、A級戦犯(全員ではなくてもそのなかの何人か)が合祀されることが好ましくないと、昭和天皇が考えていたのでしょう。
合祀について天皇に相談があったなら、おそらくそれは実現しなかっただろうと思われます。が、合祀はこっそりと行われ、その事実は伏せられていました。むろん、独立した宗教法人たる靖国神社が、天皇の裁可を仰ぐ必要はないでしょう。それでも、戦前の政治体制を前提として存立している靖国神社が、とんだ面従腹背といったところでしょうか。

たとえ天皇であっても、国事行為じゃないんだから、不快だから参拝に行かないというのも、個人の自由でありましょう。

A級戦犯合祀に関わった人間たちは「しまった!」と思ったことでしょう。合祀をした結果、天皇が参拝に来てくれなくなったなら、それは大失態であります。かといって、いまさら合祀は取りやめるというわけにもいきません。なにしろ、世の中には靖国に奉って欲しくないと思っている遺族は沢山いるわけで、裁判までやっています。それを認めてしまうと、ぼろぼろと歯が欠けるみたいに分祀が進み、靖国の存在意義そのものが揺らいでしまいます。

しかたないから、総理大臣が公式参拝するという策に出たわけです。
実はそれ以前も首相が靖国を参拝するのは珍しいことではありませんでした。しかし、天皇が参拝に来るのと、首相が参拝に来るのでは、前述の契約の上ではまったく意味が違います。
そのことは重々分かっていたんでしょう。「国家を代表して公式に」参拝することで、その差を埋めようとしたのは、愚かな行為でありました。

それまで私的な問題だったことが、公式参拝によって政治的な問題になってしまいました。政治問題になれば、韓国も中国も黙ってはいません。あのころから外国が急にうるさくなったなと思っていたのですが、それはこうした文脈をくみ取らなければ理解できないことでありました。

いったん政治問題になってしまったら、それは簡単には引っ込まないでしょう。どうすりゃいいかなんて、僕にはわかりません。代替わりしても、天皇が参拝することはないだろう、ってことは分かりますが。
愚かな人間の思惑によって、契約は遂行されずに終わるのでしょう。しかし、それも今となっては私的な契約です。

靖国神社が英霊とよぶ人たちは、「天皇陛下万歳」と叫びながら死んでいったわけで、決して「総理大臣万歳」と叫んだわけではありません。8月15日に参拝に来た首相の顔を、英霊たちが苦笑いしながら見つめている光景が、僕の心の中に浮かぶのであります。

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