付録E 『宗教的経験の諸相』後記より
自分なりに理解した神の概念を求めている人のために、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』の一節をご紹介します。ビル・Wはタウンズ病院に入院中に霊的体験を得ましたが、その翌日に『諸相』を読み、自らの体験の意味を解釈したと述べています。1) 参考になれば幸いです。
『宗教的経験の諸相』後記より
私たちがみずからそれと結びついていると感じる理想的な力、普通人のいわゆる「神」は、普通人からも哲学者からも、・・・形而上学的属性の或るものを賦与されている。この神は「唯一」であり「無限」であるのか当然のことと認められている。そして多くの有限な神々という考えは、ほとんど考慮する価値のないもの、ましてや支持する価値のないものと考えられている。それにもかかわらず、知的明確さのために、私は、私たちの研究してきたような宗教的経験は無限性の信念を明らかに支持するものだとして引用されることはできないと言わずにはいられないような気がする。宗教的経験が明らかに証明している唯一の事柄は、私たちが私たち自身よりも大きい或るものとの合一を経験しうること、そして、この合一のなかに私たちの最大の平安を見いだしうるということである。統一への情熱をもつ哲学と、単一観念化的な傾向をもつ神秘主義とは、両方とも「極端に走り」、その或るものを、万物を含む世界霊たる唯一神と同一視する。これらの哲学や神秘主義の権威に敬意を払う一般の意見は、それの与える手本に追従する。
これに反して、宗教の実際的要求と経験は、各人を越えたところに、そして幾らか各人と連続したところに、各人とその理想に親切なより大きな力が存在する、という信仰に満足を感じているように私には思われる。この事実が要求することは、このカが私たちの意識的自己とは別のもので、私たちの意識的自己よりもより大きくなければならぬということだけである。次の一歩を任せるに足る大きさでありさえすれば、どんな大きさでもよいのである。無限である必要もなく、唯一である必要もない。
ウィリアム・ジェームズ(桝田啓三郎訳)『宗教的経験の諸相』下巻 pp.395-3962)
- AACA, p.95[↩]
- ウィリアム・ジェームズ(桝田啓三郎訳)『宗教的経験の諸相』/, 岩波書店, 1969/1970, 下巻 pp.395-396[↩]
最近のコメント