ビッグブックのスタディ (94) どうやればうまくいくのか 6
ショー全体を取り仕切りたがる役者(続き)
前回は、ショー全体を取り仕切りろうとする役者の話でした。彼は演出家 気取りで、他の俳優やスタッフが自分の思い通りに動いてくれればすべてはうまくいき、自分を含めて全員が満足するはずだと信じています。そのために、二つの戦略を使い分けているという説明でした。では、このショーはどうなってしまうのでしょう?
ではどういうことになるのか。その芝居は成功しないだろう。彼は自分は運が悪いと考え、もっとがんばろうとする。1)
ショーはあまりうまくいきません。そこで彼は、自分の努力が足りなかったと思い、もっと努力して、もっとうまくやらなくてはならないと考えます。
ここで重要なのは、彼はやり方を変えようとはしておらず、同じやり方をもっと研ぎ澄まそうとしていることです。例えば、自分の説明が足りなかったのだと考えて、もっと丁寧に説明すれば、相手も分かってくれるはずだと考えるのです――つまり演出家(director)気取りをやめるつもりはありません。
次の回からはよけい命令的になるか、あるいは愛想よくするかもしれない。それでも芝居は、彼の気に入るようにはならない。1)
「命令的」というのは戦略②のことです。「愛想よく」は戦略①のことです。どちらの戦略を取るにせよ、彼はショー全体を取り仕切ろうというやり方を変えていません。だから、当然結果は変わりません。
自分にも幾らかはまずい点があったかもしれないが、彼はそれ以上に人のせいにする。いらいらし、憤慨し、そして自分を哀れむ(self-pitying=自己憐憫)。1)
彼はショーが成功しないことについて、自分にもいくらか責任があると認めます。だがそれ以上に他の人の責任にします(他責的)。彼は腹を立て、憤慨し、そして自己憐憫に陥ります。「こんなに努力しているのに、こんなに傷ついているのに、なんでみんな分かってくれないんだ!」と。
では彼がかかえている根本の問題(trouble)は、いったい何なのだろうか。1)
この問題(trouble)は、ステップ1の問題(problem)とは違います。2) ビルはこれ以降、私たちの自己中心性を表現するのに trouble という言葉を使っています(pp. 89, 90)。trouble という言葉には、困難な状況、悩み、苦しみ、およびそれらの原因という意味があります。彼は周りの人たちが、自分の思い通りに動いてくれないので腹を立て、努力しても報われない自分を哀れんでいます。つまり彼は悩んでいるのです。その悩みの根本的な原因は何なのでしょうか?
彼は人に親切であろうと努めていた時でさえ、実は自分勝手ではなかったのか。彼は、自分で何もかも取り仕切っていれば、申し分のない満足と幸福とがつかみ取れるのだという妄想にとり憑かれていたのではないか。1)
前回も述べましたが、私たちが「自分勝手な利己主義者」という言葉から思い浮かべるのは横暴な人やわがままな人(戦略②)の姿であることが多いのです。しかし、自分の本当の気持ちに蓋をし、自分が我慢すれば良いのだと考えて、人に親切に献身的に接している(戦略①)のも、実は同じく利己主義的な行動なのです。なぜならその奧に、自分が我慢すれば物事はうまくいく(=自分の思い通りになる)という意図が隠されているからです。
「自分で何もかも取り仕切っていれば、申し分のない満足と幸福とがつかみ取れる」というのは明らかな妄想です。それが彼の悩みや苦しみの原因なのです。
すべての人間はこの役者さんなのです。人間関係でトラブルが起きているときには、誰もが「自分が正しくて、相手が間違っている」と考えるものです。相手が間違いを認めて、こちらの言い分を受け入れてくれればいいのに・・・それが他責的な態度というものですが、相手も同じことを考えており、お互いに相手のせいにしているので、揉め事はいつまでも続くのです。
そして他の出演者はみんな、それを知っていたのではないか。・・・彼に報復してやれという気持ちにみんなをさせたのは、彼の行動ではないのか。3)
人を支配したりコントロールしようとすれば、相手は反感を持ち、抵抗します。人を頼りにし過ぎれば、相手はそれを負担に感じて私たちを避けるようになります。忍耐と献身で相手を懐柔し、自分の望みのものを相手から引き出そうとしても、その期待はしばしば裏切られます。
これは第87回で取り上げた「人生・生活を構成する三つの要素」の図です。外側に向いている暗い赤の矢印は、私たちが戦略①と戦略②を使って自分を取り囲む様々なものをコントロールしようとする様子を表しています。それに対する反発や報復が内向きの明るい赤い矢印で示されています。「年がら年中、人との間に、あるいは何かのことで、ごたごた(collision=衝突・不調和)が絶えない」(p.87)とありましたが、この二種類の矢印がそのゴタゴタの正体です。私たちは、自分の外側の存在が自分の心に苦しみをもたらしていると考えていました(内向きの矢印)。しかし、私たちが生きていく上で悩みや苦しみが絶えないのは、自分でショー全体を取り仕切ろうとするからのなのです(外向きの矢印)。
彼はどう見ても、協調よりも混乱の演出家ではないのか。4)
Is he not, even in his best moments, a producer of confusion rather than harmony?5)
最高によくやっている瞬間でさえ、彼は調和よりもむしろ混乱を生み出す存在なのではないか? と読者に問いかけています。この役者さんは、この舞台に関わる全員が協調して完璧な舞台を作り上げ、観客に満足してもらうという理想を掲げて努力しているのですが、その理想とは正反対の結果になってしまうのです。
わかりやすい実例
僕はAAで酒をやめ始めた頃、社員数人の小さな会社に勤めていました。そんな小さな職場でも、社員同士は競争意識を持つようになります。同僚のAさんは、自分の仕事の成果や能力が同僚より低く評価されていることを気にしていました。そこで彼は、自分の評価を高めたいと思ったのでしょう。彼は毎朝ほかの誰よりも早く出勤し、職場の掃除をするようになりました。その姿を見た社長は「実に関心だ」と褒めていました。
ところで零細企業の経営は厳しいもので、その年のボーナス の時期が近づいたときに、社長が社員全員を集めてこう言いました。「申し訳ないが今期は業績が悪く、今回の賞与はゼロです」。みんな何となく予想していたことなので、特に不平も出ませんでした(不満があるなら転職すれば良いだけのことですが、田舎にはそうそう良い転職先はないものです)。
続けて社長が言いました。「ところでAさんが、ずっと一番早く出勤して職場の掃除をしてくれているのは、みんな知っているな。その奉仕の心を表彰して、少額ではあるが彼に特別に賞与を支給したい。みんなも納得してくれるね」と言って、封筒をAさんに差し出しました。ほかの皆は、拍手しながら「よかったね」などと彼に声をかけていました。
社長が去って、同僚同士の打ち解けた雰囲気が戻ると、Aさんがぶつぶつと不満をこぼし始めました。特別賞与が彼の予想より少額だったこともありましたが、彼の不満の中心はそこではありません。彼は「掃除で評価されるのではなく、本業の仕事で評価されたかった。こんなかたちで評価されても嬉しくない。馬鹿にされたような気分だ」と言うのです。
ほかの皆は、少し曖昧な顔をしながら、うんうんと相づちを打っていましたが、「本業で評価されたかったら、本業で努力するべき。掃除で努力しておいて、本業で評価されたいというのは、筋違いでは?」という正論を彼にぶつける人は誰もいませんでした。賛同が得られないので、同じことを言いつのるAさんに対して、皆は気分がしらけたようで、背を向けてそれぞれの仕事に戻っていってしまいました。
翌日からAさんは、毎朝の早出と掃除をしなくなりました。そこで、ほかの皆が輪番で少し早出をして掃除をするようになりました。いや、もともと皆が輪番で掃除をしていたものを、いきなり相談もなくAさんが自分の仕事にしてしまったもので、それが元に戻っただけのことでした。その間、皆は掃除の役目から解放されていたわけですが、そのことについてAさんに感謝する人はいませんでした。
それからしばらくして、Aさんは無断欠勤をするようになり、自己都合で退職ということになりました。
自分に当てはめてみよう
Aさんは、他の人がすべき掃除を代わりにやってあげる親切を行いました。実に献身的です。そして、他の人がそれに礼を言わなくても不満を言いませんでした。それは思慮深く、忍耐強く、寛大な態度です。彼には節度があるので、社長に「自分を高く評価してください」などと頼んだりしていません。でも、それが彼の望みであることは明らかでした。
一方で、彼は社長の評価に対する自分の不満を同僚にぶつけています。周りの皆が自分の意見に同調してくれないことで、彼の不満はますます大きくなりました。人が自分とは違う意見を持っていることを認めようとしないのは、利己主義的でわがままだと言えます。
このときのAさんは、まさに「ショー全体を取り仕切りたがる役者」であり、うまくいかなければ人のせいににして、恨みと自己憐憫の泥沼の中にはまっているのです。
僕はここでAさんの一件について述べていますが、このように自分以外の人について、その人の自己中心性を指摘するのはたやすいことなのです(僕もAさんについてならば、こんなにスラスラ書けちゃうし)。
難しいのは、自分もこの「ショー全体を取り仕切りたがる役者」であることを認識することです。多くの人は、ビッグブックのp.87-89に書かれたこの役者の話を読んでも、それが自分のことであるとは気がつきません。かくいう僕もそうでしたし、僕以外の多くの人も「へー、世の中にはこんな人もいるんだねー」などと、完全に人ごとだと思っていたわけです(cf. 鏡をもて見るごとく見るところ朧なり)。
ですが、「人との間に、あるいは何かのことで、ごたごたが絶えない」(p.87)とあるように、人間関係や金銭のことで悩みごとを抱えているならば、そして「憤慨し、そして自分を哀れむ」(p.88)とあるように、腹を立てたり、自分が惨めに感じられて仕方ない時があるならば、あなたもこの「ショー全体を取り仕切りたがる役者」なのでしょう。
つまりそれは、あなたも人間だということなのです(自分が人間である事をあまり否定しない方が良いですよ)。
人は皆自己中心的である
この役者は、エゴイストなのだ。4)
Our actor is self-centered — ego-centric, as people like to call it nowadays.5)
この役者さんは自己中心的(self-centered)なのです。selfは英語で自己を示す一般的な言葉です。自己中心的とは、自分の欲望や必要にばかり関心がある状態です(他の人の欲望や必要には関心がない)。日本語の自分本位や身勝手も同じ意味です。前のページに自分勝手(self-seeker)という言葉が出てきましたが、これも同じ意味です。現在のビッグブックでは、これを「エゴイスト」と訳していますが、これも自己中心的な人という意味です。
そして、自己中心的(self-centered)を、エゴセントリック(ego-centric)と言い換えています――エゴ(ego)は、ラテン語で「私」を意味する言葉です(つまり意味はselfと一緒です)。エゴという言葉が一般化したのは、ジークムント・フロイト (1856-1939)の著作が英訳されたときに、ドイツ語の「私(das Ich)」の訳語としてegoが使われたことによります(フロイトについては第61回を参照)。それを日本語では自我と訳すのが一般的です。
ですから、エゴセントリックという言葉が登場するのが20世紀になってのことで、1930年代に活動を開始したビル・Wたちにとっては、まだ耳新しい言葉だったはずです。だから「現代風に言えばエゴセントリック」と表現しているのでしょうが、この部分はビッグブックの現在の日本語訳では省略されています。
エゴセントリックは精神医学・心理学の専門用語なので、自己中心的という一般的な用語とは厳密には意味の違いがあるのですが、この文脈ではその違いは気にしなくて良いでしょう。
次いで、自己中心的な人の例として、引退した事業家、牧師、政治家、社会改革者、金庫破り、アルコホーリクを挙げています――つまりアルコホーリクだけでなく、あらゆる人間が自己中心的たりうるのです。
ジョー・マキューは、唯一完璧だった人間としてイエス・キリスト を挙げています。6) とは言え、キリスト教の教義ではイエスは人であるとともに神でもあるわけですから、これは自己中心的でない人間は事実上存在しないという意味です。人はある局面では自己中心的でなかったとしても、別の局面では自己中心的になるのです。どの局面でどれだけ自己中心的になるかには人によって違い(個性)がありますが、すべての人が例外なく自己中心性を抱えているのです。
どう言い訳をしてみたところで、つまりは私たちのほとんどは、恨みと、自分をかわいそうだと思うことにかかりっきりになっていたのではないだろうか。4)
Whatever our protestations, are not most of us concerned with ourselves, our resentments, or our self-pity?7)
どのように反論してみたところで、私たちのほとんどは、自分にしか関心がなく(concerned with ourselves=つまり自己中心的で)、恨みと自己憐憫(self-pity)に心を占領されているのです。(例によって例のごとく「自分にしか関心がない」という大事な一節が訳し落とされています)。
恨みとは、不公平や悪に対して憤慨し腹を立てていることです。自己憐憫とは、恨みの一種であり、自分の悲しみや不幸ばかりをくよくよと考えることです。そんな状態にある人に、「あなたは自己中心的なのです」と指摘すれば、その人は大いに反発するでしょう。私はひどい仕打ちにあって傷ついているだから、もし私が自己中心的であるとしても、悪いのは「あの人たち」であって、変わるべきは自分ではなく「あの人たち」なのだと主張するかもしれません。
ですが、12ステップは他者を変えるための道具ではなく、自分を変えるための道具です。自分が幸せになるために「あの人たちが変われば」という条件を付けてはいけません。そんなことをすると「あの人たち」が変わらない限り、自分は絶対に幸せになれなくなってしまいます。それは幸せになれない呪いを自分にかけるようなものです(この呪いのせいで多くの人が不幸になっています)。だから、「あの人たち」が変わるかどうかに関係なく、自分さえ変われば幸せになれると信じた方が良いのです――なぜならそれが真実だからです。
では、社会を変えようとする運動は良くないのかと考える人もいるでしょう。それについて、少し説明しておきましょう。
僕の妻はアダルトチャイルドであり、その経験から、子供の虐待を防止する社会運動 に参加していました。彼女によると、そうした運動には様々な人たちが参加しており、その中には自分が子供の頃に虐待されたことへの恨みが活動のエネルギーになっている人もいるのだそうです。ところが、そういう人たちは長続きしないと言うのです。こういう活動は目に見える成果がすぐには得られませんから、なかなか社会が変わらないことに幻滅してしまうのでしょう。それは虐待のことだけでなく、ほかの様々な分野の社会活動にも当てはまります。だから、社会を変えることに強くこだらわず、自分ができることができれば十分だと考える人たちが活動を長続きさせ、結果として実際に社会を変えていくのです。
つまり、自己中心的な目的で社会を変えようとしても、ますます傷つくばかりで目的を達成できないのです。
ステップ3は、自分の意志と生き方(考えと行動)を自分なりに理解した神にゆだねる決心をするステップです。なぜ、そんな決心をしなければならないのか、つまりなぜ意志と生き方を神にゆだねないとならないのかを理解するためには、自分が「ショー全体を取り仕切ろうとしている役者」であること、そしてそのせいで自分が悩んだり苦しんだりする羽目になっていることを理解する必要があります。
その観点からすれば、しょっちゅうイライラしたり、不安になったり、惨めな気分になる人は有利です。なぜならその人は、自分がこの役者であることに気づくチャンスがたくさん与えられているからです。
- すべての人が例外なく自己中心性を抱えている。
- 他の人の自己中心性を指摘するのは簡単だが、自分もこの「ショー全体を取り仕切りたがる役者」であることを認識するのは難しい。
- であっても、自分もこの役者であること、そしてそのせいで自分が悩み苦しむ羽目になっていることを理解することが、ステップ3には欠かせない。
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