鏡をもて見るごとく見るところ朧なり

コリントの信徒への手紙一より

若い頃の僕はおたく でした。コミックマーケット で同人誌ならぬ同人ソフトを売り出した初期のいくつかのサークルの一つで活動していましたPC-8801 用のゲームソフトを5インチのフロッピーディスク で売っていた)

なぜその世界から離れたかと言えば、アルコホーリクになり、AAに時間を使うようになったからです。フリーウェア の作成やSF小説を読むという趣味よりも、回復を優先させた結果、すっかりおたく世界とは縁遠くなってしまいました。

だから、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 』というアニメ映画が1995年に公開されたときも、その存在に気づきませんでした攻殻機動隊 士郎正宗 のマンガで読んでましたが)。初めて観たのは数年後、大晦日の深夜にテレビをつけたところ、WOWOWでこの映画が放映されており、それを途中から観たのでした。それは、草薙素子という主人公の、こんな台詞の場面でした。

われ童子わらべの時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子のごとく、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。1)

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 の一節ですが、文語訳を使ってくるところが押井守 らしいところです。その続きは「今われらは鏡をもて見るごとく見るところおぼろなり。しかれど、かの時には顏をたいせてあい見ん。今わが知るところまったからず、然れど、かの時には我が知られたるごとく全く知るべし」となっていて、今回のタイトルはここから取っています。

そこも含めて新共同訳で見てみましょう:

13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 2)

子どもの時には子どもの考えをしていたけれど、成長して大人になった今は子どものようには考えなくなった、ということです。私たちにとっては回復すなわち成長BB, p.87)ですから、私たちは回復するにつれて、回復前の考えを捨てていきます。ビル・Wも「常識が非常識になる」と述べていますBB, p.20)

つまり、成長や回復は、自分の考えを否定し、捨てることで実現します

自己(自分)とは自分の考えのこと

ところで、旧約聖書 箴言 23:7にはこう書かれています:

そはその心に思ふごとくその人となりもまたしかればなり・・・3)


For as he thinks in his heart, so is he…4)

 

押井守をまねて文語訳を使ってみましたが、つまり「その人の考えることが、その人を作る」ということですから、自己(自分)とは自分の考えのことです。

自分 = 自分の考え

だから私たちは他の人から自分の考えを否定されると、まるで自分が否定されたように感じるのです。

自分を肯定していては成長できない

ところで、セルフ・エスティーム(self-esteem)を自己肯定感と訳したのは間違いだと僕は思います。セルフ・エスティームを育てることは、回復・成長していく上でとても重要です。しかし、それを自己肯定感と訳してしまったおかげで、自分(=自分の考え)を肯定することが必要だという勘違いが生じてきます。その結果、自分の考えを守り、肯定する材料を集めることにエネルギーを費やします。

しかし、その考えが子どもの考えだった場合には、それを守ってしまうと、子どもの考えのまま回復も成長も止まってしまいます。私たちの内面が子どものままだったとしても、周囲の人たちは、私たちに大人としての責任ある行動を期待します。内面が子どもなのに、外からは大人の責任を期待されるというギャップが、私たちに精神的な苦痛と人間関係のトラブルをもたらします。自分を肯定しようとすればするほど、私たちの苦痛は大きくなっていきます

だから、回復したければ、自分の考えを否定する(=自分を否定する)という覚悟が必要になります。もちろん、自己を完全に否定することは誰にもできません。せいぜい、小さな一部分を否定できるだけです。回復とは、そのような小さな自己否定を積み上げていくことであり、棚卸しや埋め合わせはそのためのものです。

回復や成長は、小さな自己否定の連続である

自分の考えを守り、肯定することで、いっときの心の安らぎを得ることはできます。人生にはそうした安らぎが必要な時もあります。アルコホーリクが酒を飲むことにもメリットはあります。酒を一杯飲むごとに破滅へと近づいているにしても、今はこの一杯を飲むことで得られる安らぎのおかげで死ななくて済むということもあります。大恐慌 で破産した人たちがウォール街のビルから飛び降りているときに、ビル・Wはバーで酒を飲むことで窮地を乗り切っていますBB, p.6)(だからアルコホーリクの再飲酒は必ずしも悪いことばかりではない)。しかし、いつかは酒を止めなければなりません。同じように、自分の考えを守り、肯定することで得られる小さな心の安らぎがその人の助けになることもあるでしょう。しかし、そればかりやっていたのでは、回復も成長もできず、苦しみは増すばかりです。(だから、12ステップに取り組む人は、アルコホーリクに限らず、共依存やACという人たちにも、棚卸しや埋め合わせといった取り組みが欠かせないのです)。

そうやって、大人としての考えが次第に身についてくれば、自分の考えが社会の中で通用する確率も上がっていきます。その時に、私たちは自分の成長を実感し、成長し続けることができる自分のセルフ・エスティームは高まります。遠回りですが、酒を飲んだり、自己防衛をするよりも、ずっと安定したセルフ・エスティームが手に入ります。

見るところ朧なり

コリント人への手紙に話を戻します。

子どもは、将来大人になった自分が、どんな考え方をしているか想像できるでしょうか? 子どもなりにいろいろ想像しますが、実際に大人になってみると、大人の自分の考えていることは、子どもの頃に想像していたものと違い、決して子どもの自分には理解できなかったことばかりです。つまり、成長した自分の考え方は、成長前の自分にはつかめません

コリント人への手紙 は、使徒パウロ によるものですが、彼は先ほどの一節で、信仰を得た後の考えは、信仰を得る前には分からないと説いています。アニメの主人公草薙素子は、脳が完全に電脳化 した自分が何を考えるかは、生身の脳のいまの自分には決して分からない、と言うために聖書の一節を引いているわけです。

将来成長した自分が身に付ける考え方は、今の自分には理解できないものです。(「見るところ朧」とはその意味)。

何年もビッグブックを学び続けて、いまでも新しいことが学べるのはなぜでしょうか? ビッグブックに書かれている文章は、前から変わっておらず、私たちはそのすべてにいつでも接することができます。情報は常に私たちに提示されています。なのに、私たちはそれを「いま」受け取ることができません。

仲間内での笑い話の一つを紹介しましょう。ビッグブックの87~89ページには「何もかも取り仕切りたがる役者」が登場します。これは人間の持つ自己中心性を説明するための例え話で、とても重要な一節です。ところが、いまビッグブックを学んでいる人の多くが、自分がこの「役者」であることを分かっていなかった時期があったと言うのです。AAミーティングでビッグブックを輪読することも多いので、何度もその部分を読んできたはずですが、まったく気づいておらず、「へー、世の中にはこんな人もいるんだねー」などと、完全に人ごとだと思っていたわけです。やがて、それが自分のことだと理解できたときに、ステップ3の意味が分かるようになりました。それまでは、ステップ3の決心は、行動のプログラムに取り組む決心をすることぐらいに思っていたわけです。

このように、どんなに情報を提供しようとも、受け取れる準備が整っていなければ、得られた情報は私たちの考えとして定着せずに、ざるに注いだ水のように流れていってしまいます。だからそれを受け取りたければ、成長を続けるほかありません。

わきみち鏡に映したようにおぼろげに、という言葉は、くっきりと見える現代の鏡に慣れた私たちにはピンとこない表現です。聖書が書かれた時代には銅などの金属の表面を磨いて鏡として使っていたために、ぼんやりとした像しか写らなかったのだそうです。(参考:藤原編集室, 鏡の中におぼろに『本棚の中の骸骨』)

将来の自分によって否定される

成長というものは徐々に起きるものであり、私たちは少しずつそれまでの自分が考えていたことを否定し、新しい考えを取り入れていきます。その一つひとつを私たちは「気づき」や「洞察」が得られたと表現することもあります。

成長や回復が続いていくならば、自分が得た新しい考えも、将来の自分が否定することになります。一つの気づきを得るために、私たちは大変な苦労をすることもあります。得られた新しい考えが、大きな対価を支払って得たものである場合には、それが自分の信念(あるいは確信)と言えるほど大切なものになってしまうこともあります。ですが、上に述べたように、その考えも将来の自分が否定するときが来るかも知れません。どんな信念も、将来の自分によって否定される可能性があるのです。そうでないと、自分の中に決して成長・回復できない部分を作ってしまうことになるからです。

例を一つ挙げましょう。私たちはハイヤー・パワー(神)を理解したいという願望を持つことがあります。ビッグブックの80~81ページには、神は自分の一番奥深いところに存在すると書かかれてあるので、そのことから「ハイヤー・パワーは自分の良心のことである」という理解を得る人もいます。その考え方は間違ってはいません。しかし、それが正解と捉えて、ずっと「ハイヤー・パワー=自分の良心」という考えのままであるならば、その人の成長は止まったままということになります。

成長が続いていくならば、いつか「以前は、自分の良心がハイヤー・パワーだと思っていたけれど、違ったな」と考えるようときが来るでしょう。同じように自分のホームグループやAA全体をハイヤー・パワーとして捉えるのも間違いではなく、それでオーケーなのですが、しかし、ずっとその理解のままならば、成長は止まってしまいます。

そのように回復の中で得た考えも、将来の成長した自分が否定する可能性はありますし、ぜひそうなって欲しいと願うべきです。それと同時に、いま得られた洞察や気づきは、喜んで分かち合うべきです。幼い考えを分かち合ってしまったことに赤面するときが来るかもしれませんが、恥ずかしがることはありません。それこそが成長なのですから。新しい生き方とはつまりそういうことです。

そんなまどろっこしいやり方ではなく、一気に究極の答えに達したいと願う人もいます。僕が施設で働いていた頃には、臆面も無く「究極の答えをくれ」と要求してくる人たちもいました。僕自身も究極の答えは得られていませんし(僕も成長の途中なんだから)、もし得られていたとしても、その人には役に立たないものでしょう。その答をその人に伝えたとしても、受け止めることも、理解することもできないでしょうから。ビッグブックの中の、いまの自分には意味を成さない文章のように、頭の中を素通りしていってしまいます。

子どもに大人としての考えを無理に押しつけてはいけないのです。押しつける相手が自分自身でも同じことです。自分が成長するにつれて、大人としての考えを受け入れられる時期が来るでしょう。その時まで成長を続けることです。ステップに対する理解も、ハイヤー・パワーに対する理解も、同じことです。人間に対する理解も、社会に対する理解も同様です。成長を続けることでしか、得られないものがあるのです。価値あるものを見つけ、自分に取り入れ、自分の一部を否定し、捨てていく・・・回復や成長はその繰り返しです。

私たちが暮らしていくためには、食料など様々なものを手に入れる必要があります。同時に、要らなくなったものを捨てていかなければ、生活空間は汚部屋やゴミ屋敷になってしまいます。考え方も同じで、新しいものを手に入れる一方で、役に立たなくなったものを捨てていかなければなりません。ところが、考えというのは自分自身であるし、長年使ってきた道具のように愛着も生じるので簡単には捨てられなくなります。しかし、頭の中をゴミ屋敷にしたくなかったら掃除が必要です。

ジョー・マキュー(Joe McQ)の言葉を紹介します:

だれもが、これから手に入れるものによって変わることができると思っているが、そうではない。これから進んで手放していくものによって変われるのだ。それはちょうど、熱気球が重しの砂袋を投げ捨てて上昇していくのに似ている。ところが、砂袋を捨てようとせず、重しをかかえたままでなお上昇したがる人が多い。5)

捨てなければならないのは、回復が始まる前に手に入れたものばかりではありません。自分の回復(成長)のプロセスの中で得た考えの中にも、いつかは捨てなければならないものが混じっています。AAの中で学んだことも同じです。


  1. ウィキソース『コリント人への前の書(文語訳)』13:11 (ja.wikisource.org), 2020-8-3. []
  2. 共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』コリントの信徒への手紙一, 日本聖書協会, 1987, 聖書本文検索 []
  3. ウィキソース『明治元訳旧約聖書』箴言23:7 (ja.wikisource.org), 日本聖書協会, 2020-8-4. []
  4. New Proverbs 23:7King James Version (biblegateway.com)  []
  5. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『回復の「ステップ」』, 依存症からの回復研究会, 2008, p.95 []

その他,日々雑記

Posted by ragi