ビル・Wに問う (23) 聖イグナチオと12ステップ
Q23:12ステップは聖イグナチオの「霊操」と比較しうるものか?
A23:1941年に私はセントルイスを訪れ、彼の地でエド・ダウリング神父(Edward Dowling, 1898-1960)とお会いすることができた。それは猛暑の日で、彼は私を[イエズス会 の]本部に連れて行ってくれた。私はその形式ばらない爽やかさに心を打たれた。もちろん、そうした場所に行ったことそれまで一度もなかったのである。私はバーモント州の小さな村で、ヤンキーの流儀で育てられた。幸いにも、私を育ててくれた祖父には偏屈なところがまったくなかったのではあるが、しかるに宗教に対する接点も理解もなかった。そんな私が修道会の中にいた。まさかと思われるかもしれないが、その時にもまだ私には、カトリック はアイルランド人たちの迷信だという観念が抜けていなかった。1)
それからエド神父とイエズス会の人たちは私に質問を始めた。彼らは出版されたばかりのAAの本について、特に12ステップについて知りたがった。私が驚いたのは、私がカトリックの教育を受けたに違いない、と彼らが考えていたことだ。私が11才の時に教師が禁酒宣誓書に署名させようとしたので、〔プロテスタントの〕会衆派教会 の日曜学校をやめたことを告げると、彼らはさらに驚いていた。私の受けた宗教教育は、その範囲のものにすぎなかったのである。
AAの12ステップについてさらに質問を受けた。私は、数年前の初期の頃に私たちの一部がオックスフォード・グループと一緒に活動していたこと、その善良なる人々から、自分を調べること、告白、償い、他の人を助けること、祈りといった考えを受け取ったこと、そうした考えはおそらく他からも得ることもできただろうと説明した。私たちがオックスフォード・グループから分離した後は、そうした原理や考え方は「口伝え」のプログラムのかたちを取った、それに私たちが「アルコールに対して無力である」という自分たちのステップを加えた。私たちの12ステップは、読者がより具体的なプログラムをつかめるように、そして私たちが絶対必要だと考える原理と考え方が漏らさず伝わるように、かつての口伝えのプログラムをより明確で精密なものとして定義しようとした私の努力の結果である。その文章は私だけの考えで書き起こした。この拡大バージョンのステップを書き留めるのにたいして時間はかからなかった――おそらく20分か30分だったろう。それは私がすっかりイライラしている晩だった。なぜステップが今ある順番で書かれたのか、なぜそうした言葉が使われているのか、私には分らない。
私のこの説明の後で、イエズス会の新しい友人たちは壁に掲げられた一枚の図を指さした。その図は、聖イグナチオの「霊操 」とAAの12ステップを比較したもので、原理上、それらは驚くほど一致するのだ、と彼らは説明してくれた。そして、私たちの12ステップに記述された霊的な原理は、聖イグナチオの霊操と同じ順番になっている、というかなり驚くべき意見も出されていたと思う。
私はひどく無知だったので、実際こう尋ねた。「教えて下さい、このイグナチオとはどんな人なのですか?」と。
もちろん、アルコホーリクス・アノニマスの12ステップには新しいものは何も含まれていない。このイグナチオの霊操との特異かつ正確な同一性が、私たちが現在享受している教会との密接で実りある関係性に大きく寄与していることは疑いない。(Blue Book, Vol.12, N.C.C.A.2), 1960)
- 18世紀にプロテスタントの国として建国されたアメリカには、ジャガイモ飢饉 をきっかけに大量のアイルランド人(カトリック教徒)が移民してきた。移民として後発のアイルランド系のアメリカでの地位は低く、大陸横断鉄道建設の肉体労働や、警察官や消防士などの危険な仕事に従事せざるを得なかった。また、アイルランド系は喧嘩っぱやくて大酒飲みというイメージもつきまとった。社会的地位向上の努力が継続して行われ、1960年にはジョン・F・ケネディ がアイルランド系カトリック教徒として初の大統領に就任した。オックスフォード・グループ(プロテスタント系)を母体として始まったAAには、当初はカトリック教徒はまったくいなかったが、1955年にはその三分の一がカトリックで占められるようになったという推定もある。[↩]
- National Clergy Conference on Alcoholism – 1960年代に聖職者がアルコホリズムに焦点を当てて開いていた協議会。[↩]
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