ビッグブックのスタディ (33) ビルの物語 4

成功体験

第一次世界大戦が始まって召集されると、ビル・Wはいきなり士官に任命されました。それは彼が選んだ大学が士官養成課程だったので当然なのですが、それによって彼は、軍隊の中ではほぼ常に敬礼の対象となり、軍隊の外でも士官としての待遇を受けました。ニューベッドフォードで上流階級のパーティに招かれたのもその一つです。少し前までうつ病で休学し、実家で療養していたビルにとって、これは思いがけない体験でした。

彼は戦争中は指揮官としてリーダーの立場にありました。前回ご紹介したように、実際の戦闘で特に活躍したわけではありませんが、それでも彼はリーダーの地位を得た経験によって、自分が人の上に立つのにふさわしい人間である、と考えるようになりました。つまり、戦争体験はビルにとって成功体験になったわけです。

彼は自分には「巨大な企業のトップ」も務めることが可能だBB, p.2)と考えて、復員後はその地位を得るべく奮闘しましたが、生涯それを手に入れることはありませんでした。僕は多くの人の棚卸し(ステップ5)を聞いてきて思うことがいくつかあります。その一つは、成功体験はしばしば失敗体験よりも人を苦しめるということですが、ビルの前半生にもそれが当てはまるように思います。

アルコホーリクの一歩手前

戦争が終わってバーモントからニューヨークに出てきたビルを待っていたのは辛い現実でした。彼は大学を中退しており、職業経験もなかったので、戦後の不景気の中で仕事を見つけるのに苦労しました。結局は義父の口利きで、事務員の仕事を得ましたが、数ヶ月で辞めてしまいました。事務仕事に向いていないというのが表向きの理由でしたが、義理の弟が上司であり、その下で働くのが嫌だったというのが本音のようです。1)

それでも彼は、信用保証会社の調査員の仕事を得て、夜間の法律学校ロースクールに通い出しました。ビルはこの学校で3年以上学んで卒業要件を満たし、最後の試験さえ合格すれば卒業できるところまでこぎ着けましたが、その試験の日、彼は「ひどく酔っぱらっていて、考えることも書くこともうまくできない」BB, p.3)という状態で、この試験を落としてしまいました。

彼は当時の自分の状態をアルコホーリク予備軍(potential alcoholic)だったと表現しています。ビッグブックには potential alcoholicポテンシャル・アルコホーリク という言葉が他に4回出てきますが、他のページでは「アルコホーリク候補生(pp.50, 217)」、「潜在的アルコホーリク(pp.51, 57)」と訳されています。

potential とは潜在的とか、可能性がある、という意味ですから、まだアルコホーリクにはなっていないけれど、近い将来アルコホーリクになる可能性が高い状態を指しているのでしょう。アルコホーリクにですから、ここで酒を飲むのをやめたり、減らしたりすれば、将来アルコホーリクにかもしれないのですが、ビルは心配する妻ロイスに対して、自分の飲酒を正当化して飲み続けています。BB, p.3)

この予備軍の段階で、すでに自分はアルコホーリクになる運命からは逃れられなかったと考えているAAメンバーも多くいます。後にアルコホーリクになる人は、この時期に他の人から断酒を働きかけられたとしても、たいていそれを拒否してしまうからです。「証明のしようはないが、飲み始めの早いうちだったら、私たちのほとんどは酒をやめられたろうと思う。だが困ったことに、時間があるうちに心底やめたいと思うアルコホーリクはほとんどいない」BB, pp.47-48)という一節が、その考え方をよく表わしています。

さて、この時点ではまだアルコホーリクではない、とビルは考えているわけですが、卒業試験という大事を酒で台無しにしたことや、家族(妻)が大変心配していることからして、現在の基準で判断すれば、彼はこの時点ですでにアルコール依存症と判断される可能性も十分ありそうです。第23回で説明したように、病気と診断される範囲は時代とともに広がってきていますから。

ビル自身の説明によれば、彼は落とした試験を半年後に受けなおして合格しました。ところが学校側はディプロマ (学位証明書)をすぐに用意してくれず、次の年の学位授与式までお預けになりました。そしてそれっきり、彼は生涯そのディプロマを受け取りに行きませんでした。そして、「私の法学士の学位証明書は今でもブルックリン・ロースクールに眠っているのだ」と語っているのですが、その存在はちょっと疑わしい気もします。

金融の世界へ、そして成功

ビルとロイスの夫妻に子供がいない理由は、ビッグブックには書かれていません。この時期にロイスは3回妊娠しましたが、いずれも子宮外妊娠 で、最終的に夫婦は子を諦めなければならなくなりました。後にビルが経済的に成功したときに、養子を迎えるべく紹介機関に申請しましたが、ビルの飲酒を理由に紹介して貰えなかった、というエピソードがあります。2)

あまり知られていない話ですが、当時ビルは新聞で社名を伏せた求人広告を見つけて応募しました。それが実は発明家にして電力王トーマス・エジソン の研究所のスタッフ募集でした。ビルは高い求人倍率を突破して見事採用されたのですが、なんとそのオファーを蹴ってしまいました。彼は子供時代には無線機に凝り、大学はマサチューセッツ工科大学を受験したこともあるわけで、エンジニアになることを目指していたのでしょうが、ここで方針転換して、金融の世界へと身を投じました。3)

夫婦は共働きで1,000ドルほど貯めていました。当時の1,000ドルはどれぐらいの価値でしょうか? Inflation Calculator で、2019年時点に換算すると約15,200ドルとなりました。現在1ドルが104円ぐらいなので、日本円にして約158万円相当になります。彼はそれをゼネラル・エレクトリック (エジソンの会社だ!)の株につぎ込みました。

Dow Jones Industrial Average (1920 to 1929)
1924年から29年の暴落前まで株価の上昇トレンドが続いた
Dow Jones Industrial Average (1920 to 1929) from GoldSilver

この株は当時1株が180ドルだったそうですが、これが最終的には4,000~5,000ドルへと値上がりしました。株価は1924年から1929年まで長期的に上昇を続けました。この長い好景気を支えたのは、自動車やラジオや映画といった新技術による新産業の発展であり、政府が国中に道路や発電所を作り、電話や電気や水道が普及したのもこの時代でした(アメリカの話ね)。文化的にもジャズ・ミュージックが大衆化し、アール・デコ という建築様式が流行った時代でもあります。社会全体が活気に溢れ、狂騒の20年代 (ローリング・トウェンティーズ)と呼ばれた10年間でした。

信用買い
信用買いの説明 from みずほ証券

1920年代はアメリカ人の語彙の中に「信用買い」(margin buying)という言葉が加わった時代だと言われています。100万円の現金で100万円分の株を買うのが現物取引 です。これについては説明は不要でしょう。それに対して信用取引 は100万円の現金を保証金(担保)にして、その何倍もの株を買うことができます。(信用買いの場合。現在の日本では法律で約3倍までに制限しているので、最大約300万円分の株を買うことができる)。株価が上昇すれば、現物取引の何倍もの利益が得られます。

保証金の何倍の取引ができるかは、時代によっても国によっても違います。アメリカでは19世紀には2倍に制限されていましたが、第一次世界大戦後の不景気の対策として金融緩和が行なわれ、10倍以上のレバレッジ も珍しくなくなっていました。株価が長期の上昇トレンドに入っているならば、借金してでも保証金を用意して信用買いを行うことで金が稼げます。僕は1980年代後半を飲んだくれのフリーランス ・エンジニアとして東京で暮らしていました。ほうぼうの会社に出入りしていましたが、どこの会社に行っても机の上に会社四季報が置いてあり、サラリーマンの人たちがボーナスを突っ込んで、あるいは借金してでも株の信用取引をやっていました。日本のバブル景気 と狂騒の20年代はよく重なります。僕自身は稼いだ金は全額酒に突っ込んでいたので、その恩恵にはあずかれませんでしたが……。

ビルは自身が株の取引をしただけでなく、ウォール街 の株のブローカーとなりました。保証会社険の調査員にすぎなかった彼が、どうやって金融街に食い込んでいったのでしょうか?

株が長期上昇トレンドにあっても、どの株でも儲けが出せるわけではなく、上がらない銘柄もあれば、むしろ下がる銘柄もあります。儲けるためには値上がりする株を見つけなければなりません。ビルは、人びとが十分な情報もないまま投資を行っていることに気づきました。取引はニューヨーク証券取引所 で行われていましたが、そこに上場している企業の本社や工場はたいてい他州にありました。当時はすでに電信や電話はあったものの、まだまだ通信手段は未発達で、人びとは企業が実際にどんな活動をしているのか知らないまま、その将来に投資していました。

The happy couple starting out on an adventure
ビルとロイス – The happy couple starting out on an adventure from The Vintagent

そこでビルは、企業活動の現地調査を行って株価が上昇しそうな銘柄を見つける、というアイデアを得ました。そのアイデアに資金を提供してくれる人はいなかったものの、ビルとロイスは仕事を辞め、サイドカー付きのオートバイにテントなどを積み込んで、調査に出かけてしまいました。

Lois Wilson on the ‘Hobo’ Harley-Davidson
Lois Wilson on the ‘Hobo’ Harley-Davidson from The Vintagent

ビル・Wの伝記映画 My Name is Bill W. (日本名『ドランカー』)でも、ロイスの伝記映画 When Love Is Not Enough: The Lois Wilson Story でも、このオートバイはビルが運転し、サイドカーにロイスが乗っていますが、実際にはビルは酔っていたために、ロイスがオートバイ(Harley-Davidson Model J)を運転し、ビルはサイドカーにしがみついていたことが多かったようです。

オートバイで移動し、テント生活をしながら企業の現地調査をするというアイデアは奇想天外なものでしたが、ビルの現地調査の手段も、研究員や工員と飲み友達になって、新技術や工場への投資情報を探るという、あんまりマトモとは言えないものでした。それでも彼の情報収集と推論の能力は確かなようで、彼の報告書はロイスの親友の夫であるフランク・ショー(Frank Shaw)という人物の目に留まりました。ショーは、ウォール街の証券会社の共同経営者で、ビルの情報に従って株を買ってみたところ、それが値上がりして大きな利益を生みました。二人はこの旅を1年以上続け、アメリカの東海岸を北から南までくまなく回りました。ビルがニューヨークに帰る頃には、彼の報告書はとてつもない価値を持つようになり、彼はショーの会社(J. K. Rice Jr. and Co.)に社員身分で雇われ、株式購入のための2万ドルの融資枠も与えられました。

Bill Wilson the Successful Stockbroker
株式ブローカーとして成功していた頃のビル・W
Bill Wilson the Successful Stockbroker from Cheever4)

これが1926年の6月のことでした。彼は31才。その後の3年間は、彼にとっては第二の成功体験と呼べる時期でした。彼は現地調査の範囲をカナダからキューバまで広げ、それによって得た彼の投資情報はニューヨークの裕福な人たちの注目の的になりました。「とうとうやったのだ(I had arrived)」と彼が書いているとおりBB, p.4)、彼は自分が目的としたもの――金銭と称賛を得ました。ブルックリンの高級住宅地に大きなアパートを借り、隣も借りて壁をぶち抜いて広くし、人がうらやむような生活を続けました。

だが同時に、彼のアルコール問題はこの時期に急速に悪化していきました。オートバイで移動してテント暮らしという生活にロイスが賛成したのは、そうやってビルをニューヨークから引き離せば、彼の酒が減ると期待してのことで、実際この旅の間は彼の酒はかなり減っていました。ところが、ニューヨークに帰ると、彼の酒は完全にぶり返し、さらに悪化していきました。

次回は、ビルが酒のせいで「思い通りに生きていけなくなって」いくことに焦点を当てます。


  1. PIO, p.64 []
  2. PIO, p.76 []
  3. PIO, pp.65-66 []
  4. Susan Cheever, My Name is Bill, Bill Wilson — His Life and the Creation of Alcoholics Anonymous, Washington Square Press, 2004 []