ビッグブックのスタディ (32) ビルの物語 3

ビル・Wの初飲酒

第一次世界大戦で陸軍に召集されたビル・Wは、まずニューヨーク州プラッツバーグの新任士官訓練キャンプへ送られ、そこでの訓練を終えると次はマサチューセッツ州ニューベッドフォードの町の近くにあるロッドマン要塞Fort Rodmanのキャンプに送られました。1) (下の写真は現在は公園になっているロッドマン要塞)。1917年のことでした。

Fort Rodman, New Bedford
Fort Taber – Fort Rodman, by mjc2016, from NewBedfordGuide.com

士官になったビルは、ニューベッドフォードの名士の家で開かれるパーティに招かれるようになりました。そこで彼は社交というものを初めて経験しました。執事を目にしたのもそれが初めてだったそうです。彼は田舎者であることに劣等感を抱いていましたから、洗練された社交の場では自分が場違いに感じられ、恐怖の余り口をきくことができなくなりました。ところが、そこで差し出されたブロンクスというカクテルを一杯飲むと、たちまちのうちに彼と他の人たちを隔てていた奇妙な壁が溶けてなくなり、その場に所属しているという感覚に満たされました。そしてさらに三杯、四杯と飲むと、すっかり他の人と打ち解けられるようになっていました。2)

こうして彼は、戦地に送られる前の待機期間を、飲んだくれて過ごすことになりました。アルコホーリクになる前に普通に飲酒できた期間があった人も多いのですが、ビルは最初から底なしの大酒飲みになりました。ロイスはそんな彼を見て、ショックを受けましたが、結婚して自分と一緒に住むようになれば、彼は酒を必要としなくなるだろうと考えて自分を落ち着かせました。(これは、将来アルコホーリクになる人と結婚するパートナーが不安を打ち消すために、自分に言い聞かせる言葉として良くあるものです)。

ウィンチェスター大聖堂の墓石

1918年になり、ビルの部隊は船で戦地ヨーロッパへと送られました。まずは、イギリス南岸のウィンチェスターという街の近郊のキャンプに滞在しました。いつ戦地に送られるかわからない不安な日々を過ごす中で、彼はウィンチェスター大聖堂 を見に出かけました。

Winchester cathedral
Winchester cathedral, by Suicasmo, from Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0 Deed
Winchester Cathedral Choir looking west
Winchester Cathedral Choir looking west, by Diliff, from Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 Deed

聖堂の中を見てその雰囲気に感動したまま、その周りを歩いていると、ある墓石が目に留まりました。そこに書かれていた名前トーマス・テッチャーThomas Thetcher, 1737?-1764)が、彼の友人エビー・サッチャー(Ebby Thacher)の姓とよく似ていたことも、ビルがその墓石に目を留めた理由なのでしょう。その墓誌にはドガラルDoggerelが刻まれてありました。現在のビッグブックは doggerel を「へぼな詩」と訳していますがBB, p.1)、コミカルな雰囲気を出すためにいんを踏んでいない詩のことです。

ビルは、その墓誌に刻まれたドガラルを引用しています:

「ハンプシャーの近衛の一歩兵、ここに眠る。
 冷えた小ビールを飲みながら死んでいった男
 この良き兵士は忘れ去られはしない
 歩兵銃で死んだのか、酒で死んだのかはわからなくとも」3)


“Here lies a Hampshire Grenadier
 Who caught his death
 Drinking cold small beer.
 A good soldier is ne’er forgot
 Whether he dieth by musket
  Or by pot.”4)

 

この墓石はウィンチェスター大聖堂の近くに現存しており、観光名所になっています。こちらが現在の写真です。

Gravestone at Winchester Cathedral
Gravestone at Winchester Cathedral, by Mike Peel, from Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

墓誌を翻訳してみました:

In Memory of Thomas Thetcher
a Grenadier in the North Reg. of Hants Militia, who died of a violent Fever contracted by drinking Small Beer when hot the 12 May 1764. Aged 26 Years

In grateful remembrance of whose universal good will towards his Comrades, this Stone is placed here at their expence, as a small testimony of their regard and concern.

Here sleeps in peace a Hampshire Grenadier,
Who caught his death by drinking cold small Beer,
Soldiers be wise from his untimely fall
And when ye’re hot drink Strong or none at all.

This memorial being decay’d was restor’d by the Officers of the Garrison A.D. 1781.

An Honest Soldier never is forgot
Whether he die by Musket or by Pot.

The Stone was replaced by the North Hants Militia when disembodied at Winchester, on 26 April 1802, in consequence of the original Stone being destroyed.

And again replaced by The Royal Hampshire Regiment 1966.


トーマス・テッチャーを偲んで
北ハンツ市民軍の擲弾てきだん兵。1764年5月12日の暑い日に小ビールを飲み、激しい熱病で死亡した。享年26歳。

この石は、同志たちに対する彼の普遍的な善意に感謝し、彼らの敬意と関心の小さな証しとして、彼らの費用でここに設置された。

ハンプシャーの擲弾兵ここに眠る
冷たい小ビールを飲みすぎて死んだ
兵士たちは彼の不慮の死から学ぶであろう
暑いときには、強い酒を飲むか、まったく飲まないかだ

この記念碑は摩耗したため、1781年に駐屯地の将校たちによって修復された。

正直な兵士は決して忘れ去られはしない
彼が銃で死んだのか、ジョッキで死んだのかに関わらず

1802年4月26日、マンチェスターで石を分離する際に元の石が壊れてしまったため、北ハンツ市民軍によって新調された。

1966年、王立ハンプシャー連隊によってふたたび新調された。(拙訳)

ビルは20年以上前の記憶に頼って書いているので、細かいところに違いがありますが、大まかには合っています。

Grenadier
Grenadier, by Franz Gerasch (1826-1906), from New York Public Library’s Digital Library, PD

擲弾兵 とは、擲弾てきだんという原始的な手榴弾てりゅうだんを敵陣に投げ込んで攻撃することを任務とした歩兵でした。擲弾はかなり重かったので、それを投げるためには体格に優れ、敵陣に接近できる勇猛果敢な兵士が選ばれました。その擲弾兵の若い一人が1764年の5月の暑い日に、酒を飲んで死んでしまった、というのが墓誌の内容です。

なぜビルは150年以上前に死んだ男の墓石を気にしていたのでしょうか? これから戦場に向かうビルが、戦争で死んだのではなく、酒で死んだ兵士の墓石を見つけたのです。大人になるまで一滴の酒も飲まなかったビルでしたが、ニューベッドフォードで生まれて初めての酒を飲んでから、あっという間に飲んだくれになっていました。そんな自分と、トーマス・テッチャーが重なり、ビルにとってこの墓石は一生忘れられない存在になりました。

ところで・・・

小ビールsmall beer は、19世紀まで飲料水代わりに飲まれていたアルコール度数の低いビールです。上水道が整備されていなかった時代は、生水には雑菌が多く含まれていて、飲むと病気になる可能性がありました。そこで人びとは食事の時にアルコール度数の低いビールを飲んでいました。度数はたいてい1%未満で、私たちアルコホーリクに取っては水みたいなものです。この薄いビールのことをスモール・ビールと呼んでいました。ですから、暑いからとスモールビールを飲みすぎた男がそれが原因で死んでしまい、そんな薄いビールを飲まずに、ちゃんと強い酒を飲めば良かったのに、というのがドガラルの本来の意味のようです。

墓誌にあるとおり、この石は1966年に新調されましたので、ビルが見た石は上の写真のものではなく、先代の石です。そちらの石の写真がないかと探してみたところ、Historic England Archive というアーカイブに19世紀に撮影された写真がありました。ビルが見たのはこちらの石です:

Thomas Thetcher Headstone
Thomas Thetcher Headstone photograph taken 1850-1900, from Historic England Archive

この話には何の意味があるか?

スポンシーさんとビッグブックの読み合わせを始めると、第一章の先頭にこのドガラルが登場します。そこで、「いったいこの詩には何の意味があるのですか?」という質問を投げかけられることも多いでしょう。

表面的には、先ほど述べたように、ビルは同じ兵士であるトーマス・テッチャーの墓石を前に、戦争での死と、酒による死という、二つの死を意識しています。

不吉な予告だった。ぼくは注意をしなかったけれど。5)


Ominous warning – which I failed to heed.4)

warningウォーニングとは警告のことです。では、誰がビル・Wに対して警告を発しているのでしょうか?

「ビルの物語」を読み進めていくと、15ページと19ページにも、このウィンチェスター大聖堂での出来事が登場します。文学あるいは物語の場合には、このように繰り返し登場する存在をモチーフ と呼びます。モチーフという言葉は芸術全般において使われますが、どの分野でもたいてい「作者の意図を表現するために繰り返し使われるもの」を指しています。だから、このウィンチェスター大聖堂の墓石は、「ビルの物語」におけるモチーフだと言えます。

では、この墓石というモチーフを使って、ビルは私たちに何を伝えたかったのでしょうか? それをわざわざ説明するのは「野暮 の極み」ではあるのですが、ここはあえて野暮やぼをすることにしましょう。

AAには偶然はない」と言います。偶然の出来事のように見えたとしても(いや、偶然の出来事に見えたならなおさら)そこにはハイヤー・パワーの意志が働いているというのです。ビル・Wがウィンチェスター大聖堂の墓石を目撃したのは偶然の出来事のように見えますが、それは神の意志に働きによるものだというわけです。

ビルは酒を飲み始めてすぐに底なしの飲んだくれになりました。その後の彼は酒による死という結末に向って歩んでいきます。そんな彼の前に、「今ならまだこの道を引き返せる」「別の道へ行ける」という警告が現れたのです。この時点では、ビルはハイヤー・パワーを信じていません(自分しか信じていない)が、それでもハイヤー・パワーはビルに必要なものを与えています。

つまり、私たちがハイヤー・パワーを信じている・いないに関わりなく、ハイヤー・パワーは私たちに与えてくれるのです。信じれば与えてくれるというのであれば、それは条件付きの愛です。しかし、神の愛は無条件なので、信じていなくても与えてくれます。しかしながら、受け取る側である私たちが信じていないがために、せっかく与えられたものを無視して捨ててしまうのです。無条件に愛されていたとしても、自分しか信じていなければ、その愛を受け取ることはできません。ビルも警告を聞き入れることができませんでした(failed to heed=警告を聞き入れることができなかった)

15ページと19ページにウィンチェスター大聖堂での出来事が登場するのは、ビルが、自分が神を信じていなかったのに与えられていたことに気づくシーンです。この墓石は神の無条件の愛を現わすモチーフとして使われているのです。

ただ、第一章を読み始めたばかりのスポンシーさんに、こうした説明してみても、おそらく理解してもらえないでしょう。なぜならステップに取り組む前のアルコホーリクは、自分しか信じていないからです。せいぜい自分に都合の良い少数の人を信じている程度です(それは自分しか信じないことに等しいですが)。無条件に愛されていることにまったく気がついていないでしょうし、無条件の愛など経験したこともないし、この世にそんなものは存在しないという固い信念を持っているかもしれません。ですが、将来その人が誰かのスポンサーを務めるようになり、そして時間が経てば、やがてこの意味を理解するようになるでしょう。そうなるには時間がかかります。子供の肉体がゆっくり成長するように、私たちの精神の成長も(人格の変化も)たいていはゆっくりとしたものであるからです。

愛を受け取るということ

ビルに警告を発してくれたのはハイヤー・パワーだけではありません。妻のロイスも(pp.2-3)、友人たちも(p.5)、仕事仲間も(p.6)、ビルを心配して言葉をかけています。しかしビルは自分の意に染まない話を無視して、アルコホーリクになる道を突き進んでいきました。

いまアルコホーリク(やアディクト)になってこのブログを読んでいる皆さんも、アルコホーリク(やアディクト)になる前の段階で心配してくれた人がいたはずです。それは家族だったかもしれませんし、友人や学校の先生や会社の上司だったかもしれません。しかし、自分しか信じていなかったために、そういった忠告をありがたく受け取ることができず、むしろ小うるさい、気分が悪くなる言葉と感じていたのではないでしょうか。

かくゆう僕も例外ではありません。もう35年ほど前になりますが、下北沢 に午前2時すぎまでやっている居酒屋がありました。学生時代の先輩とよくそこで飲んでいたので、店の人とも顔なじみになっていました。店が閉まると先輩のアパートまで歩いて行き、朝まで酒を飲み、動き出した電車に乗って帰宅するのがいつものコースでした。まだ仕事も金も失っていませんでしたが、自分が普通の酒飲みではなくなっていることには薄々気がついていました。

僕は酒を飲んでも顔が赤くならず、むしろ白ばんでくるタイプです。さらに飲むと、顔がまだらに赤くなります。こういうタイプはアルコホーリクになりやすいらしく、AAに来ても同じような経験を複数の人から聞きました。アルコールの分解酵素が関係する現象なのかもしれません。その時もその居酒屋で飲みすぎて顔が斑に赤くなっていました。そんな僕の顔を見て、カウンターの向こうで料理をしていた板前さんが、「そういう顔になる人は、もう酒を飲まないほうが良いよ」と言いました。

僕はその言葉にひどく気を悪くしました。せっかくの酒が不味まずくなるじゃないか。酒を出す店の人間が、馴染みの客にそんなことを言うもんじゃない・・・と、妙に腹を立てたのを憶えています。

数年後、僕は彼の予測通りにアルコールの専門病院に入院していました。たぶん彼は仕事柄、僕のような人間を多く見てきたのでしょう。馴染みの客だからこそ、言いにくいことを言ってくれたのでしょうが、僕には気に入らない言葉にしか聞こえませんでした。何かがきっかけとなってその言葉を思い出す度に、あの時の苦い思いがよみがえってきて、気分を害していました(典型的な恨みですね)。

彼は親切で言ってくれたのであり、ありがたいことだ、と思えるようになったのは、AAに来てずいぶん経ってからでした。かように、自分しか信じていない者は、なかなか愛を受け取ることができないのです。それが神からのものであれ、人からのものであれ。

そのことは、アルコホーリクであれ、アディクトであれ、ACであれ、同じです。だから、これからスポンサーをやる人は、愛を受け取れない人を相手にするのだということを覚悟しなければなりません。

フランスへ、そして終戦

Capture of Carency aftermath 1915
Capture of Carency aftermath 1915, from Wikimedia Commons, PD

この墓石の一件の後まもなく、ビルはフランスへ送られました。しかし、4年間続いた第一次世界大戦 は、1918年後半には急速に終息に向かいました。11月11日にコンピエーニュの森で休戦協定が結ばれて戦闘が終結したとき、ビルの部隊はまだ前線からはるかに離れたフランスの山の中の町にいました。というわけで、ビルはヨーロッパ大陸に渡ったことで戦争の悲惨(上の写真は1915年の戦闘の様子)をずいぶん目にしたのでしょうが、実際の戦闘に参加する機会はなかったようです。6)

戦争が終わってもビルはすぐにアメリカに帰れず、翌年春までフランスの山の中の町に留め置かれました。その間、フランスのワインにずいぶん親しんだようです。というわけで、酒を飲んでばかりの2年間だったわけですが、ビルにとってこの兵役は成功体験として記憶されるのです。それについてはまた次回。

今回のまとめ
  • ビル・Wは飲み始めてすぐに飲んだくれになった。
  • ウィンチェスター大聖堂の墓石は、神の無条件の愛を現わすモチーフとして使われている。


  1. PIO, p.54[]
  2. かつて日本のAAが出版していた『アルコール中毒という病気』というパンフレットで、E・M・ジェリネク博士(E. Morton Jellinek, 1890-1963)は、アルコホーリクになる者は飲酒によって「際立った開放感を味わう」と述べているが、ビル・Wの場合にもそれは当てはまりそうだ。[]
  3. BB, pp. 1-2.[]
  4. AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.1.[][]
  5. BB, p.2.[]
  6. PIO, pp.60-61.[]

2024-04-05

Posted by ragi