付録D 狂気の定義
28DAYS
サンドラ・ブロック が主演した『28DAYS』(2000)という映画は、アルコール依存症の主人公が、治療施設で28日間のリハビリプログラムを受けるというストーリーです。
この映画で描かれる施設の様子は実際の施設とはまるで違う、と言う人もいますが(そりゃ映画ですから)、なかなかに面白い映画であることは間違いありません。日本では公開されませんでしたが、日本語版のDVDが発売されており、Amazon Primeで観ることもできます。
この映画のなかで何度も登場するのが、馬の足を持ち上げるというリハビリプログラムです。これに参加する者は、馬の足を持ち上げるように要求されるのですが、何百Kgもある馬の体重がかかった足を人間の力で持ち上げられるわけがありません。それでも、持ち上げろと言われるので、一人ひとり順番に力づくで持ち上げようとするのですが、もちろん、持ち上がりはしません。
そして、うんざり顔の人たちを相手に、講師役のスタッフがこう言い放ちます。
狂気の定義とは、同じ行ないを繰り返しながらも、違った結果を望むことだ。
the definition of insanity is repeating the same behavior over and over, and expecting different results.
同じことを繰り返しても、同じ結果にしかならない。それがわかっていても、また同じことをやってしまう。それが狂気だというのです。
同じことを繰り返しながら違った結果を望む
ステップ1で私たちが認めるべき問題の本質は強迫観念――すなわち狂気(insanity)です。そして、ステップ2では、そのように狂った私たちを、神が健康な心(sanity、古い訳では正気)に戻してくれることを信じます。
これに対して、「私はちょっとおかしくなっていたかもしれないけれど、狂っているだなんて、とんでもない!」と、自らの狂気を認めることを拒む人もいます――特に家族のグループでは、狂っているのはアルコホーリク本人であって、家族である自分は正気であると考える人は少なくないそうです。
そんな人たちには、先ほどの言葉をかけてあげると良い、というわけです。
違った結果を望むことである
今度こそ望んだ結果が出ると期待して、同じことを繰り返えすのは、アルコホーリク本人だけでありません。それに家族もしばしば同じ状態に陥るというのです――だからこそ家族グループでも同じ12ステップを使うわけです。
これは誰の言葉なのか
ところで、これは誰が最初に言った言葉なのでしょうか? アルバート・アインシュタイン (1879-1955)の言葉だという説もありますが、それは眉唾でありましょう。
『心の家路』では Quote Investigator というサイトを頼りにしています。様々な名句のオリジナルの出典を明らかにしてくれる便利なサイトですが、この言葉についても調査が行なわれていました。
それによると、プリンストン大学 出版局から出版されている The Ultimate Quotable Einstein (2010) という本の Misattributed to Einstein という章には、アインシュタインが(言ったとされているが実は)言っていない言葉のリストが掲載されており、そのリストにこの言葉も挙げられているというのです。つまり、アインシュタインの言葉というのは誤りです。
ノルダウの世紀末文化批判
Quote Investigator によれば、ハンガリー出身の文学者マックス・ノルダウ (1849-1923)が書いた近代文明批評の文章のなかに、この言葉の元になった表現があるのだそうです。
第61回でも触れましたが、19世紀後半は産業革命 の影響がヨーロッパ各国に広がり、社会全体が近代化を始めた時期でした。ノルダウは1892年に出版した Dégénerescence(頽廃論)という本のなかで、世紀末の文化の変質と頽廃を幅広く批判しました。若い頃に医学を学んでいた彼は、病理学的立場から、近代人は心身ともに病んでいて、無気力で夢想的だと断じました。
『頽廃論』は各国語に翻訳され、大きな反響を呼び起こしました。日本でも、中島孤島 (1878-1946)による抄訳が『現代の堕落』(1914)という題で出版されました。国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており、ネットで読むことができます。
このなかでノルダウは、メーテルリンク (1862-1949)1)の戯曲を批判して、こう述べています:
斯くの如く愚かなる戯曲の一節が何處にありや。實に愚なる文句が四度も五度も繰り返さるゝは、作者の頭腦が如何に病的状態にあるや示すものなり。2)
戯曲のなかで同じ言葉を4回も5回も繰り返すのは、作者の頭が病んでいるからだ(原文では「クレチン症 の臨床像に一致する」)と、ノルダウは批判しています。
これに対して、イギリスの劇作家バーナード・ショー (1856-1950)は、同じ言葉を繰り返すのは人々の心に何かを伝える技法であるし、そもそも『頽廃論』の中でノルダウ自身が同じことを何度も繰り返し述べているではないかと指摘しました。つまり、繰り返しが狂気の表れだというのなら、狂っているのはノルダウ先生ご自身なのでは? と鋭いツッコミを入れたわけです。
それでも『頽廃論』はノルダウの代表作として後の人々に読み継がれていきました。
ケリーのパーソナリティ理論
時代は下って、アメリカにジョージ・アレクサンダー ケリー(George Kelly, 1905-1967)という心理学者がいました。彼は人間のパーソナリティを理解するための理論として、パーソナリティ・コンストラクト理論を提唱しました。代表的な著作 The Psychology of personal constructs (1955)のなかで、彼はこう述べています:
障害(disorder)とは、一貫して無効であるにもかかわらず繰り返し使用されるパーソナル・コンストラクトであると定義できる(拙訳)
コンストラクトとは、同じ現実に対して人それぞれの解釈を与える構造であり、いわば人はコンストラクトという眼鏡を通して現実を眺めているようなものだとされています。ケリーによれば、その人のコンストラクトを理解することが、その人のパーソナリティを理解することになるわけです。
ノルダウの無闇な繰り返し批判とは異なり、ケリーの表現には「無効であるにもかかわらず」という条件が付されており、現在使われている意味に近くなっています。
アラノンだった
そして、1981年にテネシー州の新聞に掲載されたアラノンについての記事のなかに、あるアラノンメンバーの言葉として、
Insanity is doing the same thing over and over again and expecting different results.
という言葉が紹介されているのが、この言葉が12ステップグループで使われていたことを示す最初の事例なのだそうです。
というわけで、1981年までには、アラノンでこの言葉が使われるようになっていたと考えられるわけで、おそらくはアラノンのメンバーの誰かが、ノルダウやケリーの言葉を踏まえて、「狂気とは、同じことをひたすら繰り返しながら、違った結果を望むことである」と言ったことが、12ステップグループ全体に広がっていったものと思われます。
ところで、『28DAYS』の主人公グエンは、映画の最後で馬の足を持ち上げて見せるのですが、どうやってという話はネタバレになってしまうので慎んでおきます。
- メーテルリンクの代表作は童話『青い鳥』で、ノーベル文学賞を受賞した。[↩]
- ノルドー(中島茂一訳)『現代の堕落』, 大日本文明協会, 1914, p.221 — from 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp).[↩]
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