ビッグブックのスタディ (74) 私たち不可知論者は 1
第四章はステップ2の補足情報
今回から第四章に入ります。ビッグブックの第四章までは、問題(ステップ1)の説明と、解決(ステップ2)の説明が、代わる代わるに繰り返されています(cf. 第17回・第30回・第39回)。第三章はステップ1の説明の章でしたから、順番からするとその次の第四章はステップ2の説明になります。ただし、ステップ2についての主な情報は、すでに第三章までに十分に与えられています。第四章はそれらの補足にすぎません。
これまでステップ2について提示されてきた情報を振り返ってみましょう:
「医師の意見」 | |
第17回 | 回復には霊的変化を得ることが必要だが、そのためには人間の力を超えた何かが必要である |
第一章 | |
第41回 | エビー「自分でできなかったことを神がしてくれた」 |
第45回 | ビル・Wは霊的体験をしたことで自分が解決を得たことを知った |
第二章 | |
第56回 | 「自分たちではできなかったことを、私たちのために神がやってくれる」という事実 |
第60回 | これらはカール・ユングからもたらされた情報を元にしている |
第三章 | |
第73回 | 強迫観念に対する防御を与えられるのは、ハイヤー・パワー(神)だけである |
こうした情報を受け止めて、なるほどと納得し、「神様に解決してもらった人たちがいるのなら、自分もそうしてもらおう」と素直に思えた人は、すでにステップ2を終えていると言っても過言ではありません――ステップ2はシンプルな構造をしているのです。
ステップ1は、アルコホリズムというのは深刻な問題であること、そしてそれは人間の力では解決できない、という事実を「認める」ものでした。ステップ2は、その問題を神に解決してもらうことができる、という事実を「信じる」ことです。この段階では自分はその解決をまだ手にしていないのですが、世の中にはすでに神に解決してもらった人たち(霊的体験をした人たち)がいるという事実を信じられれば、自分も解決してもらいたいと思うようになるでしょう。
ステップ1のファクトを認めることを拒否しても、自分の中のアルコホリズムという問題が消えてなくなりはしません。同じように、ステップ2のファクトを信じることを拒否しても、神に解決してもらった人たちが消えてなくなることもありません。どちらも、事実(ファクト)であり、真実なのです。
このシンプルな構造を把握できていない人が、ステップ2を理解しようとして第四章を読んでも、理解が深まるどころか、むしろ混乱が増すばかりで役に立たないでしょう。そういう人は第四章を読むよりも、「医師の意見」から第三章までを読み直してみるべきです。
第四章は誰のためにあるのか
では、第四章は何のためにあるのでしょうか? 『12のステップと12の伝統』のステップ2の章では、窮地に立たされた人たちの悲痛な叫びを紹介しています:
私たちを完全に無力(helplessness=自分ではどうしようもない)の状態にしておいて、こんどはハイヤー・パワーだけがこのとらわれ(強迫観念)を取り除くことができると言われる。しかし私たちの中には、神を信じるつもりのない人もいれば、信じることができない人もいます。また、神の存在は信じていても、たとえ神がこの奇跡を行ってくれるにしても、信仰心をもたない人もいるのです。1)
つまり、神が解決をもたらしてくれるという事実(ファクト)を理解できても、神という存在に対して抵抗感を持っている人たちがいるのです。これは、前述のファクトが理解できていない人たちとは違います。ファクトは理解できていても、神や信仰に対して抵抗があるのです。ステップ2を伝えるときに、相手がファクトを理解できていないのか、あるいは神に対して抵抗感があるのか、その両方なのか、それによって伝え方も変えていかねばなりません。
もしあなたが、ステップ1と2の事実を受け止め、「神様に解決してもらおう」という前向きな気持ちになっているのなら、第四章は読み飛ばしてしまっても構わないぐらいです。しかし、そのようにハードルを易々と飛び越えていった人たちというのは、自分がスポンサーをやるときになって、ハードルに引っかかって転んでしまう人たち(「神を信じることはできない」と言う人たち)をどう手助けしたら良いかわからずに困り果ててしまうことが多いのです。だから、それを避けるためにも、第四章を読んでおくべきだと言えます。
このハードルを乗り越えるのに必要なのは、開かれた心(オープン・マインドネス)です(第58回)。開かれた心を持つというのは――ミーティングで自分をさらけ出してぶっちゃけトークをするという意味ではなく――自分の中にある抵抗感や警戒心を自ら乗り越えて、新しい何かを受け入れていくという意味です。ステップ2の場合には、神に対する抵抗感や信仰に対する警戒心を自ら乗り越えていくことです。この開かれた心を持つために必要な情報が第四章には書かれています。開かれた心を持つことは、回復を得るために不可欠である(BB, p.268/572)というのですから、やっぱり第四章を読み飛ばすわけにはいきません。
ステップ1のおさらい
第四章はステップ1のおさらいから始まります。
ここまでの章を読み進めてきて、アルコホリズムのことがかなり理解していただけたと思う。アルコホーリクとアルコホーリクでない人間の違いもはっきりしたと思う。2)
アルコホーリクとノン・アルコホーリクの違いは何でしょうか? それは身体のアレルギーと精神の強迫観念があるかどうかでした。
あなたが本気で酒をやめたいと思っているのに、きっぱりやめられないようなら、あるいは飲んでいて酒量がコントロールできないようなら、おそらくあなたはアルコホーリクだろう。2)
「本気で酒をやめたいと思っているのに、きっぱりやめられない(=再飲酒してしまう)」というのは、精神の強迫観念の存在を示しています。「飲んでいて酒量がコントロールできない」は身体のアレルギーの存在を示しています。アレルギーあるいは強迫観念があるなら、あなたはおそらくアルコホーリクだろう、と言っています。もちろん、自分がアルコホーリクであるかどうかは、自分で診断を下すことです(p.47)。しかし、そのためには診断の基準がはっきりしていなければなりません。その基準が身体のアレルギーと精神の強迫観念の有無でした。
霊的体験が必要
アルコホーリクであるということは、何を意味するのでしょうか?
だとしたら、あなたは霊的な体験をすることによってしか克服できない病気にかかっていることになる。2)
本物のアルコホーリクは、霊的体験をすることで神との関係を確立するしか助かる道はありません。これが、これまでに提示されてきた事実(ファクト)です。
しかし、神を信じるつもりがない人や、信じることができない人にとっては、霊的体験を得るなんて自分には不可能なことに思えるでしょう。とはいえ霊的体験を得ないまま過ごしていれば、やがてアルコホリズムがぶり返してきて、不幸な結果に終わります。
けれども、アルコホーリクにとっては、酒で死ぬのも、霊的な救いを求めて生きるのも、そのどちらかを選ぶのも、なかなかできないことなのである。2)
To be doomed to an alcoholic death or to live on a spiritual basis are not always easy alternatives to face.3)
「酒で死ぬ」と「霊的な救いを求めて生きる」という二つの選択肢が挙げられています。本物のアルコホーリクには二つの選択肢しかない、という話は第二章にもありました(第59回)。その時は「目をつぶって行き着くところ(=死)まで突き進む」と「霊的な助けを受け入れる」という選択肢でした。今回の選択肢の表現は少々違っていますが、その意味は同じです。
ちなみに to live on a spiritual basis を「霊的な救いを求めて生きる」と訳されていますが、原文の意味は「霊的な原理に依存して生きる」です。つまり、神を頼って生きるという意味です。
酒で死ぬぐらいならば、神様に助けてもらえばいいじゃないか、死ぬよりマシだろう、と周囲の人は気楽に考えるかもしれません。しかしそれは、アルコホーリク本人にとっては「そんなことはあり得ない!」というほどの無理難題なのです。死にたくはないけれど、神も嫌だ。どちらも選びたくない、という板挟み(ジレンマ)の状況に置かれてしまう人はたくさんいます。いや、たくさんいるどころか、アルコホーリクはほとんどがそうだ、と言っても決して言いすぎではありません。
だが実は何もむずかしいことはない。草創期のころのAAの仲間の半分はこのタイプだった。4)
AAが始まった頃でさえ、半分の人たちはこのタイプ(神を拒否するタイプ)だったわけです。エビーのように、すんなりとオックスフォード・グループの教義を受け入れた人ばかりではなく、ビル・Wを含め、神を嫌い、無視して生きてきたタイプが半分を占めていました。
AAはオックスフォード・グループから分離して成立したため、AAのプログラムにはキリスト教的な表現が残っています。そのことから、AAを始めたのはたいへん信心深い人たちだった、と勘違いする人もいます(僕もそう思っていました)。実際はその逆であり、神を嫌っている人たちが多かったのです。しかし、その人たちも、自分が助かるために霊的な原理を受け入れざるを得ませんでした。
AAはオックスフォード・グループからの分離の過程で非宗教化しました。ですから、AAは何かを信じるようにメンバーに要求することはしませんし、12ステップに取り組むか否かは一人ひとりの判断に任されています。しかし、回復のプログラムである12ステップには神や信仰が含まれており、12ステップに取り組む以上はそれらを避けては通ることはできないのです。
だからこそ、神を信じるつもりがない人や、信じることができない人たちのために、第四章がここに置かれているのです。
無神論者と不可知論者
無神論 者(atheist)とは、神――仏教における仏も含む――の存在を否定する立場を取る人たちです。「神は存在しない」ということを信じているわけですから、確信(faith)しているという点では「無神論という信仰を持っている人たち」だとも言えます。当然、この人たちは神社や仏閣にお参りすることもしません。日本の社会の中では、珍しい存在だと言えます。
では、第四章のタイトルにもなっている不可知論者(agnostic)とは何でしょうか? 不可知論 とは、哲学においては、有限な存在である人間には世界の本質は知り得ないという立場を取ることです。しかし神学では、少々違った意味を持っています。英語の辞書を引いてみましょう。
agnostic noun
a person who holds the view that any ultimate reality (such as God) is unknown and probably unknowable5)
究極の実在(神など)は未知であるし、おそらく不可知であると考える人(拙訳)
人間は神を知ることはできないし、だから神が存在するかどうかも人間には分からないと考える人たちです。無神論者のように神の存在は否定しません(存在するかもしれないと考える)が、人間は神と触れあうことはできないと考えています。
agnosticという言葉は、チャールズ・ダーウィン (1809-1882)の進化論を擁護したトマス・ヘンリー・ハクスリー (1825-1895)が自らの信仰の姿勢を表すために新たに作った単語です。古代ギリシャ語の α(a) と γνῶσις (gnōsis) の組み合わせた言葉ですが、a は「否定」を、gnōsis は「知ること」6)を意味します。 文字通り「知るを否定する」のが不可知論です。
霊的体験(霊的目覚め)をするには、それを引き起こしてくれる超越的存在(神)が不可欠ですから、神の存在を否定する無神論者にとっても、人間と神は触れあうことはできないと考える不可知論者にとっても、自分が霊的な体験をすることは不可能にしか思えないわけです。また、世の中にはすでに神に解決してもらった人たちがいることも事実だとは受けとめられません。
ところで、日本人の多くは宗教に対する関心が薄いのですが、神仏の存在を明確に否定する人は少なく、神社や仏閣に参拝し、宗教者が結婚式や葬式の儀式を執り行うことに異議は唱えません。ではあるものの、神の存在を確信するほどの信仰心も持たず、曖昧な態度を取っています。つまり、日本人の多くは(あえて分類するならば)不可知論者ということになりそうです。
もし、あなたが、世の中にはアディクションの問題を神に解決してもらった人たちがいるのだ、ということが信じられないのなら、おそらくあなたは不可知論者でしょう。
知ること(経験すること)
不可知論の話が出てきたところで、「神を知る」ことについて掘り下げておきます。霊的体験によって神を知るとは、いったいどういうことなのでしょうか?
「女を知る」とか「男を知る」という言葉があります。男が女と(あるいは女が男と)初めて肉体関係を持つことです。つまり、性的体験をすることで、女を(男を)知るわけです。童貞 とはまだ女を知らない男性のこと、処女 とはまだ男を知らない女性のことですね。性的体験をして、異性と交わることで、童貞や処女を「卒業」していくわけです。そして経験を重ねることで、男を(女を)より深く理解するようになっていきます。
霊的体験をして、神と交わることで、神を知るようになる・・・これも同じ構造をしています。触れ合いを続けることで、神をより深く理解するようになっていきます。つまり、性的体験と霊的体験には類似点が多いのです。
ティーンエイジャーの男の子の頭の中は「セックスしてぇ」でいっぱいです。早く童貞卒業したいと思っても、なかなかそんな機会はやってきません。エロ本やアダルトビデオをみても、それは実際の性体験とは違います。そんな童貞君がセックスについて語ってみても、リアルな話にはなりようがありません。「と童貞が言ってます」などと揶揄されるのがオチです。霊的体験も同じで、経験してないことは語りようがありません――語ろうとしても、童貞君のセックス談義と同じでリアリティがありません。
ティーンエイジャーが初めてセックスすると、とたんに気持ちが舞い上がってしまうのと、霊的に目覚めるとピンクの雲に乗ってしまうのは同じようなものです。7) 男女の(肉体関係を伴った)親密な関係は、それを維持する努力なしには続きません。面倒くさがって放ったらかしにしておいたら、浮気されて関係終了というのは良くある話です。同じように、せっかく霊的に目覚めても、神との関係を維持する努力(ステップ10・11・12)を疎かにすると、スリップへ一直線ということもあるのです。
つまり第四章は、「恋人を作るなんて自分には無理だ、きっとチェリーボーイ のまま一生を終えるんだ」と諦めている童貞君(不可知論者)に、努力して自分を磨けば、きっと素敵な人(神)との出会いがやってくるよ、と元気づけるような章であるわけです。
AOSMでの経験
僕に初めてAAのことを教えてくれたのは、精神病院に二回目の入院したときに出会ったNさんという人物でした。病棟の中でアルコールの問題で入院しているのは僕とNさんの二人だけでした。彼はもう20回以上も入退院を繰り返しており、依存症治療の様々なことに通じていました。入院生活は退屈で彼の話を聞くのは楽しみでしたし、その話のなかには、彼が出席したことがある断酒会やAAのことも含まれていました。
例えば、AAというのは黄色い小さな冊子(『ミーティング・ハンドブック』のこと)を最初に読んでミーティングを始めるということや、その冊子のなかに「神」という言葉が何度も登場し、ステップの文言のなかにも「神」という言葉が出てくること。ならばAAは宗教なのかと聞けば、そうではないと言われること。では「この神とは何か?」と尋ねても誰も何も教えてくれない・・・などなどのことをNさんは教えてくれました。それを聞いた僕は、神と言う言葉を使いながらも宗教ではないと主張し、でも皆でお祈りをしたりする奇妙な集団には、決して近寄らないでおこうと決めました。
だが、その9か月後、僕は自らAAミーティングに足を運ぶことになりました。この間に、すでに三回目の入院を経験していましたが、その退院の時でさえ、まだアルコールの問題は自分で解決できると信じていました。当時、僕は実家で暮らしていましたが、客間の棚に一本の高級酒が置かれていました。その酒は、叔父が海外旅行のお土産として持ってきたもので、父は特別なときにそれを飲もうと決めて、未開封のまま客間に飾ってありました。僕はその酒には決して手を着けないと心に決めていました。僕はひどい飲んだくれであることは自分でも認めていましたが、その酒に手を出さないでいることが、自分が「完全におかしくなってはいない」ことを示す最後の拠り所であるように思え、それを飲まずにいられるうちはまだ大丈夫だ、と自分に言い聞かせていました。
ところが、ある朝気がつくと、その酒が空き瓶となって自分の目の前に転がっているではありませんか。もちろん、他の誰でもなく自分が飲んだはずです。しかし、それは僕にとっては最もあり得ないことのはずでした。その時の驚きと絶望はいまでも忘れません。「ビルの物語」の8ページに、二度と飲まないと固く誓ったビルが再飲酒したときに、自分が「狂ってしまったのか」とおののいている場面がありますが、僕にはその気持ちがよく分かります。そこで僕はNさんから教えてもらった依存症に詳しい開業医を受診することに決めました。医師はそのクリニックのデイケアルームで、月に一回AAのミーティングが開かれていることを教えてくれました。
想像していたのと違い、AAの人たちは信心深そうには見えませんでした。むしろ極めて俗っぽい人たちばかりでした。また、神や信仰について語る人も、聖書や壺や仏壇を売りつけようとする人もいませんでした。神について尋ねてみても、「分からない」と答える人や、曖昧に言葉を濁す人ばかりだったので、僕はAAにおける神というのは、学校の校是のようなもので、高く掲げられていても実際には誰も気にしていない言葉なのだ、と結論を下しました。
そのようにして僕のAAライフが始まり、何年も過ぎていきました。
そんな僕が12ステップに関心を向けたのは、回復とは何かを知りたくなったからでした。あんなに止まらなかった酒が、AAのミーティングに通うことで止まっているのは大変ありがたいことではあったのですが、自分が回復できたという実感は薄く、あの狂気から自由になれたという気もしませんでした。「自分がまだ手にしていないものを人に手渡すことはできない」(p.240)というのは耳に痛い言葉で、回復を手にしたいというのが最大の動機だったと言えるでしょう。
しかし、12ステップのなかには神という概念がでんと居座っていて、それを避けて通ることはできません。ステップに取り組みながらも、神という超越的な存在に対する疑念や抵抗感は僕のなかに残ったままでした。
僕にとって2007年は、仕事でもプライベートでも、また回復という分野においても大きな変化が起きた年でした。7月には埼玉でAOSM8)というAAの会議が開かれました。AOSMとはアジア・オセアニアの各国のAAの代表が集まって様々ことを話し合う国際会議です。僕は会議に呼ばれる立場ではありませんでしたが、興味本位でオブザーバー参加していました。ニュージーランドの代表二人はどちらも若い女性でした。一人は金髪の白人女性、もう一方はニュージーランドの先住民族マオリ の黒髪の女性でした。僕は英会話は苦手なのですが、女性が大好きなので、会議の行なわれた2泊3日の間、この二人につきまとってはカタコトの英語で話しかけていました。
しかし3日間もあると、僕の貧弱な英語力で話せる話題もなくなります。そこで、ある疑問をぶつけてみました。
AAは180の国々に広がっていると言っています9)が、すべての国に均質に広がっているわけではありません。発祥国アメリカのようにAAが盛んな国もあれば、辛うじてAAグループが一つ存在しているだけの国もあります。WSM10)というAAの世界的会議の報告書を読んでいると、各国11)の状況が分かります。AAは北アメリカだけでなく、ラテンアメリカやヨーロッパ諸国でもそれなりに盛んに活動しています。しかし、アフリカやアジアでは振るいません。
特にアジアは人口は多いのに、AAの盛んな国は限られています。オーストラリアとニュージーランドは、ヨーロッパ系の白人が多数を占める英語の国で、この二つの国でAAが盛んなのもうなずけます。インド・シンガポール・香港はイギリスの旧植民地で、英語が半ば公用語です。報告書からは、これ以外の国では、商用などで長期滞在する英語圏の人たちがAAグループを成しているものの、現地の人たちにAAを浸透させるのにたいへん苦労している様子が読み取れます。その中でも例外的に成功したのが日本だと言えるでしょう。ヨーロッパやラテンアメリカでは、別の言語への伝達がうまくいったのに、なぜアジアでは苦労しているのか? そのことが僕の疑問になっていました。
AAはオックスフォード・グループを母体として誕生したので、キリスト教的な文化を持った国々には広まりやすいのではないか(例えばソ連時代にはAAが広がらなかったロシアで、ソビエト連邦の崩壊 後に急速にAAが広がった)。ゆえにアジアでは苦戦しているのではないだろうか・・・つまりAAは宗教的な文化障壁をぶちあたっているのではないか。それなら、12ステップから神という概念を取り除いてしまったほうが、日本などでAAを広めるには良いかもしれない・・しかしそれが12ステップと呼べるのだろうか、などなど。そんなことを何年も考え続けていました。
ところが、AOSMの会議のカントリー・レポートという時間に、ニュージーランドのAA代表は、マオリの人たちへのAAのメッセージの伝達という話をしていました。マオリは(オーストラリアのアボリジニ と同じく)アニミズム 的・祖先崇拝 的な信仰を持った民族です。現在では白人文化への同化とキリスト教への改宗が進んでいるものの、むしろ心の自由を守るために、マオリ固有の文化にこだわり、AAをキリスト教的だとして拒む人もいるのだそうです。また、ニュージーランドは、オセアニアに点在する小さな島国へAAのメッセージを運ぶ活動にも熱心に取り組みました。そうした試みが成功しているのは明らかでした。なにせ、代表(WSM評議員)の一人はマオリだったのですから。
そこで、二人に「ニュージーランドの人たちは、AAのメッセージを運ぶのに、どうやって文化的障壁を乗り越えたのか?」と尋ねてみました。すると二人は「はあ?」みたいな顔をしたので、僕はてっきり、僕の英語が下手すぎて通じていないのだと思い、焦っていろいろと説明を試みました。日本は非キリスト教文化圏だし、いまでは無宗教化が進んで、宗教嫌いな人も多い。だから、AAはキリスト教的すぎるとか、神そのものが嫌だとか、拒否する人がいるのだ。オセアニアの文化だって、似たようなものだろう。あなたたちは、どうやってうまくやっているのか?
僕の下手な英語でも、ようやく話が通じると、二人は顔を見合わせて大笑いを始めました。僕がきょとんとしていると、一人がこう言ってくれました。
そうなのです。障壁は文化と文化の間にあるのではなく、アルコホーリクの心の中にあるのです。僕は自分を変えていくことを拒む言い訳として、文化的障壁などという奇妙な理屈を考え出して、一人納得していただけなのでした(それが僕のステップ2を阻んでいたのです)。
僕が考えた「AAは非キリスト教文化圏では成功していない」という考えへの反証はいくつも挙げられます。たとえば、僕はイスラム教は中東だけのものだと思っていましたが、北アフリカから東南アジアにかけて広く信仰されています。酒を飲まないイスラム諸国でAAが浸透しないのは無理のないことです。英語を話しカトリック教徒が多いフィリピンでAAは盛んではありませんし、イギリスの旧植民地であってもAAが発展していない国もあります。また、モンゴロイド は遺伝的にアルコールを分解する酵素を持たない人が多いため、あまり酒を飲まないのです。香港で大酒を飲んでいるのはたいてい欧米の企業の駐在員で、広東人はあまり酒を飲みません。そのことが香港のAAの人種比に影響しています。アジアのAAが欧米並みにならないのには、様々な理由があり、アジアでAAが「うまくいっていない」とは言えないのです。
回復には開かれた心が必要
意欲と、正直さと、開かれた心とが、回復に必要な核心である。これらなしに、回復はありえない。12)
あの時のニュージーランドの女性の言葉が、僕の心を開いてくれました。つまり、障壁は自分の中にある抵抗感や警戒心なのであり、自分からそれを乗り越えていくしかない、ということを分からせてくれたのです。
日本語で「開かれた心」や「心を開く」というと(どちらもopen mindの訳ですが)、自分をさらけ出し、同じようにさらけ出した他者を受け入れる、という意味で使われている場合があるようです。しかし、元の open mind という言葉は、偏見のない心という意味です。偏見というところに重きが置かれていて、自分と違った(気に入らない)考え方や意見を受け入れることです。
回復には開かれた心が必要だというのは、ミーティングで自分をさらけ出す正直な話をしなければならない、という意味ではなく、12ステッププログラムのなかに登場する神や信仰という宗教臭い事柄に対して、気に入らないと拒否せずに、少しずつでも受け入れてみようという姿勢が必要だと説いているのです。
すなわち、無神論者や不可知論者は、神や信仰に対して偏見を持っているのだ、とビッグブックは遠回しに言っているわけです。僕も確かに偏見を持っていました。そのことを棚に上げて、自分が霊的な原理をつかみ取れないのは、文化的障壁があるから、などという奇妙な理屈を言い訳に使っていたのです。それでは笑われるのも仕方ないことでした。
回復前のアルコホーリクは神様が嫌いなのが普通です。その点では僕も普通のアルコホーリクで、霊的な原理をつかみ取るということにおいては、特に不利な立場に置かれていたわけではありませんでした。おそらく、日本でAA(や他の12ステップグループ)につながった人たちも同様でありましょう。
- ステップ2の主要な情報は第三章までに述べられており、第四章は補足。
- 世の中にはアディクションの問題を神に解決してもらった人たちがいる。
- 不可知論者は偏見を持っているために、その事実を信じることができない。
- 偏見を乗り越えていくには、その人自身が開かれた心を持つことが必要。
- 第四章は不可知論者が開かれた心を持つことを助けてくれる。
- 12&12, p.35.[↩]
- BB, p.65.[↩][↩][↩][↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.44.[↩]
- BB, pp.65-66.[↩]
- Merriam-Webster, Merriam-Webster Dictionary (m-w.com), 2022.[↩]
- グノーシス主義 のグノーシスも同じ語源。[↩]
- 「ピンクの雲に乗る」とは回復初期に(いまだ問題山積なのに)すべてが解決したかのような錯覚に陥ることを指して使われる表現。[↩]
- Asia Oceania Service Meeting of Alcoholics Anonymous, 全世界の四つに分けた地域帯(zone)ごとに開かれる Zonal Service Meeting の一つ。西暦の奇数年に会議が開催される。会場は各国持ち回り。[↩]
- AA, A.A. around the World – Alcoholics Anonymous (aa.org).[↩]
- World Service Meeting of Alcoholics Anonymous, 西暦の偶数年に開催される。[↩]
- ヨーロッパのAAでは国ごとではなく、言語ごとにAAのサービス組織が作られているので、各言語圏ということになる。[↩]
- BB, p.268/572.[↩]
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