雑感 (12) なぜ施設で働こうと思ったのか?

このエントリは「ひいらぎさんは、どうして施設で働こうと思ったのですか?」という質問に対するお答えです。

どうして施設の仕事を辞めたのか、についてはこちらに書きましたが、今回はそもそもその仕事を選んだ理由についてです。このブログはそうしたリクエストに応じることにしているので、時々12ステップとは関係ないエントリが入ります(例えば「政治について」とか)。

なぜ、順調だった仕事をわざわざ辞めて、依存症の回復施設の仕事に就いたのか。というか、AAメンバーというアマチュアの立場を脱して、依存症回復の支援で金を稼ぐプロフェッショナル(職業人)をやってみた理由についてです。それは僕の出自に関係しています。

父について

僕は長野県の田舎の農家の次男として生まれました。僕の父は大正時代の生まれで、地元の農学校 に進学しました。当時の農学校の多くは、現在は県立の農業高校になっており、偏差値も低めになっていますが、日本が農業国 だった戦前の農学校は、田舎では憧れの存在でした。

南安曇農学校水稲消毒作業
南安曇農学校水稲消毒作業, from 信州戦争資料センター・倉庫

農学校で首席を保っていた父は、県の農業試験場 (当時は農事試験場)への採用が決まっていました。父はそこで作物の品種改良に携わるという夢があったそうです。ところが、その進路が父親(僕にとっては祖父)の大反対にあいました。戦前の農家は、地主 小作人 に別れていました。これは江戸時代の本百姓 水呑百姓 の関係が残ったもので、両者の間には明らかな身分差がありました。父は地主の家の長男であり、家業を継ぐのが当然と考えられていましたし、家父長制 のもとでは家長の意見は絶対ですから、父は泣く泣く就職を諦めて、家を継ぎました。ただその時点では、それはある程度の裕福な生活が見越せた選択でもありました。

戦後になり、GHQ の指導によって農地改革 が行われました。それにより地主から小作人たちに実質無償で農地が手渡されました。地方の地主階級はこれによって没落しましたが、この改革によって自作農が増え、中間所得層ができあがったことが戦後の日本の経済成長を支えました。このような荒っぽい手段を使ってでも貧富の差を解消した方が、全体の効用 を増すには得策なのです。父も祖父も、農地解放(農地改革)そのものは時代の流れとしてやむを得ないと考えていたようで、そのことの不満を聞かされた憶えはありません。ただ、運が悪かったのは、戦前に圃場整備 (ほじょうせいび)を自己負担で行っていたことでした。

圃場整備
from アグリ・ネクスト・ジャパン

現在の日本の水田はたいてい四角形になっています。しかし、自然発生的にできあがった昔の田んぼは、曲がりくねった水路や道路に合わせて自由な形をしていました。しかし、それでは耕作の効率が悪すぎます。そこで、生産性向上のために、区画整備を行いました。これを農地改善とか、土地改良とか、圃場整備と呼びました。ほとんどの圃場整備は、戦後に税金を投入して行われましたが、一部には戦前に地主たちが自己負担で行ったものもありました。祖父もその選択をしましたが、予想外だったのは、その後、農地改革によって整備した農地は小作人たちの手に渡り、年貢という収入がなくなったのにもかかわらず、圃場整備の分割払いは地主の負担が続いたことでした。

祖母は、嫁に来たときは裕福な家に来られて良かったと喜んでいたが、農地改善の年賦払いは本当にきつかったとこぼしていました。父にしてみれば、裕福な生活に慣れた祖父の労働意欲が薄かったのも堪えたようでした。「親父は本当に働くのが嫌いだった」とよく僕に言っていました。

そんなわけで、父は職業的にも経済的にも不本意な人生を歩んだ人でした。家を継がなかった弟たち(僕にとっては叔父たち)は、戦後にそれぞれ公務員になったり、民間企業に勤めたりで、それなりの職業生活をしており、それと比較して、「本当だったら自分は公務員だった」という愚痴をこぼしていました。それでも、それが恨み言にまで募らなかったのは、弟たちもそれぞれに不本意な人生を歩んだことが分かっていたからでしょう。戦後になって家父長制は解体されたとはいえ、誰もが自由に自分の人生を選べるようになるのは、もっと後のことです。

父は、そうした自分の経験と、僕も家の経済的な事情で進学先を変えざるを得なかったこともあってか、僕の職業選択に口をだすことはせず、「やりたいことをやれ」と常々言っていました。

僕は大して深く考えもせず、エンジニアの道を選びました。若い頃にアルコホリズムの影響を受けたので、学歴もキャリアも手に入りませんでしたが、エンジニアリングの分野は、学歴や資格よりも実力重視であることが幸いして、この仕事を長く続けることができました。もちろん、仕事で悩んだときなど、「なんでこんな職業を選んでしまったのか」と後悔したこともしばしばでしたが、人に強いられて選んだわけではない以上、誰かを恨むこともせずにすんでいました。

自分はリタイアするまでこの仕事を続けるだろうと考えていました。それがなぜ、施設に転職することになったのか?

父親的存在だった最初のスポンサー

きっかけの一つは、父の死でした。父は僕がAAで酒をやめる前年に亡くなりました。僕は成人してからは、父と話したことはあまりありませんでした。僕がAAで得た最初のスポンサーは随分年上で、父を亡くした時期とスポンサーを得た時期が重なったために、彼が父親的存在になりました。

スポンサーは、ホームグループのミーティングの片付けが終わった後で、教会の前の駐車場にうんこ座りをしてタバコを吸いながら、僕に様々なことを話してくれました。その多くは、成人男性としてこの世の中を生きて行くにはなにが必要か(言い換えれば、この社会は成人男性にどのような役割ロールを望んでいるか)ということでした。それは本来なら、僕が父親から学ぶべきことだったのでしょうが、スポンサーが代役を果たしてくれたと言って良いでしょう。

僕のように若くしてアルコホリズムになったり、あるいは発症は中年以降だったとしても、それまでの間に社会的役割を果たせていない人の場合には、同性の年上のスポンサーからそれを伝えてもらというのも、スポンサーシップの意味の一つなのでしょう。だからこそ、スポンサーシップは同性が基本になっているのだと思われます。なぜなら、いかに時代が変わろうとも、男性と女性との間には、社会の側が求めてくる役割に差があるからです。(もちろん、スポンサーシップに必ずそのような社会的役割の伝達機能が必要だというわけではないでしょうけれど)。

順調では無かったキャリア

世の中には長く同じ仕事を続けられる人もいますが、僕はあまり長続きしないタイプです(最長でも10年)。転職するたびに、新しい職場で定年まで勤めたいと思うものの、いろんな事情がそれを許してくれません。それはアルコホリズムとかメランコリー型うつ病を患ったことや、自分の未熟さが原因だったこともありますし、勤めていた会社が倒産したこともありました。

もし僕のキャリアが順調だったならば・・・例えば、普通に大学を卒業し大手企業に入り、アルコホリズムがあっても勤め続けられていたとしたら、施設の仕事に転職するという選択はしなかったでしょう。なぜなら、それによる経済的損失があまりにも大きすぎるからです。

もし施設の仕事(あるいは施設とは限らず対人援助職)に転職を考えているのなら、いまのキャリアを捨てることについて、少なくとも家族の納得は得ておくべきでしょう。対人援助の仕事をしている人のなかにはそこそこの収入を得ている人もいますが、基本的には、経済的動機で選ぶ職業ではありません

施設への転職で減収は余儀なくされましたが、それが極端な差で無かったのは、それまでの僕のキャリアが順調でなかったからにほかなりません(まあ自慢できることではありませんが)。

意外だったのは、転職のために会社に退職を告げたときに、引き留めにあったことです。本社からわざわざ取締役がやってきて慰留を受けました。「僕がいなくても会社はびくともしないでしょう」と言うと、「もちろんそうだ、だが、人材を確保するのが経営者の仕事の一つなんだ」と言われたときには、そんなものかなと思った程度でしたが、転職後はそのことを実感することになりました。「大晦日(退職日)の午後5時までに電話をくれたら、退職届けはなかったことにするから」という言葉を聞いたときには、職業人としてそこまで言われるのはありがたいことだと思い、それでも退職をするという自分に対して複雑な思いを持ちました。

人生あと◯年

亡くなったとき父は69歳でした。祖父は61歳で亡くなりました。死因はそれぞれ心臓病とガンでした。叔父たちはもっと長生きしているので、必ずしも我が家が短命な家系とは言えませんが、自分が長生きする自信はありません。若い頃に酒で内臓を痛めつけているのも影響するでしょう。

40代後半になると、「仮に70歳まで生きたとしても、人生あと20年か」と思うようになりました。20年なんて「あっという間」に過ぎるでしょう。(実際、そう考えたときから10年経って僕もアラカンになりましたが、確かにこの10年はあっという間でした。あと10年もあっという間に過ぎるでしょう)。

そうなると、この世にあるうちに何をするか、ということを考えるようになりました。

定年までエンジニアの仕事を続けたとして、定年後に健康と体力が維持できているか分かりません。どこかで独立して一人親方 的起業をする可能性はあっても、ずっとエンジニアリングの仕事を続けていくと思っていたのが、別にそれにこだらわらなくても、他の職種にチャレンジする機会が与えられたら、やってみても良いかと思うようになりました。

施設の手伝いをしながら

そんな頃、ひょんなことから、施設の手伝いを頼まれました。12ステップのノウハウが必要だというのがその理由でした。それから約二年間、ほぼ週末ごとに長野から東京に出てきて、施設で利用者さん相手のプログラム提供を行いました。「大変でしたね」と言われましたが、ボランティアではなく、子供の学費の足しにするためのアルバイトという経済的動機もあったのです。

ちょうど、AAのサービスの役割に就いたときでもあり、土曜日は施設で働いた後は、施設の寮に泊めてもらい、日曜日はAAの会議や打ち合わせをやって長野に帰るというパターンも多かったです。寮にはたいへん世話になりました。

そうやって、平日は本業のサラリーマン、土曜は施設のアルバイト、日曜はAAの会議と、異なった環境を行き来しながら暮らすうちに、いろいろなことに気づかされました。特にAAと施設の違いも意識されました。どちらもアルコホーリクの集団であるのに、違いがありました。それは社会的地位と社会的役割についてのことです。

社会学で扱う社会的地位 は、もっぱら職業階級のことです。だから、僕の父の社会的地位は「農夫」だったわけですし、時代が時代ならば「地主」だったかもしれません。僕は「サラリーマン」とか「エンジニア」という社会的地位を得ているわけです。解釈を拡大すれば(社会学的な観点から離れれば)、僕と父は「父親」とか「夫」とか「成人男性」というような共通した地位を持っていたと言えます。

社会的地位は、その地位を持つ者に一定の役割行動を果たすように要求します(社会的役割 )。その役割を果たしていかなければ、地位を保つことは難しくなります。例えば婚姻届を出せば「夫」という地位は手に入りますが、夫としての社会的な役割を果たしていかなければ、夫という地位を保つことはできなくなります。

つまり、他者あるいは社会は、社会的な地位を持つ者に、その地位に伴った役割を果たすように要求します。社会構造がどう変化しようとも、人間が社会を作っていいる限り、個々人に課された役割がなくなることはないでしょう。人間はどこまでも社会的な動物です。

現に職業人なり、家庭人として一定の社会的地位を保っている人は、その役割を果たしているわけです。何かの社会的地位を欲するならば、それに伴う役割を理解し、それを果たすだけの覚悟と能力が求められます。

僕はAAにやってきて、スポンサーからそれらを学べたのは幸運だったと思いますし、それがまるで身についていなかった20代の自分を本当に恥ずかしく思い起こします(あの頃に比べれば今のほうが身についているという設定)。

僕のスポンサーが社会的役割をしっかり果たせていた立派な人物だった、と言いたいわけではありません。むしろ、役割が果たせないことに悩み苦しみ、そんな自分のふがいなさを彼がミーティングで分かち合っていたことが、あの時の僕のホームグループの魅力でした。無自覚的に役割を果たせてしまう人よりも、役割を果たすことに苦労している人のほうが、役割の存在を意識し、それを上手に教えられるものです。

AAのサービスの役割に就いて、せっかくの日曜日をつまらない会議で潰している人たちは、社会的役割をそれなりに果たしているか、あるいは自分の限られた能力を自覚しつつ得た社会的地位に納得している人たちでした。なぜなら、AAのサービスの役割も、社会的地位の一つであり、それにともなう役割を果たす覚悟と能力が備わっていなければできないことだからです(何にでも例外はあるけど)。

12ステップは、正直とか、愛とか、謙虚などというものに価値を置きますが、そうした抽象的な概念についてミーティングで分かち合っていても12ステップをやったことにはなりません。そうした抽象的な概念を、社会的役割を果たす具体的な行為に分解し、実現できなくてはなりません。

ところで、社会的地位というのは成人男性(あるいは女性)といったゼネラルなものから、特定の職位のような局所的なものまで、たくさんの種類があり、それぞれに求められている役割行動も違います。自分が何らかの社会的地位を得て、さらに他の人の立場をおもんぱかるためには、そうした様々な地位や役割についての(概略的な)知識を身に付ける必要があります。それは、手間のかかることです。なぜならそれらは明文化されているわけでも、記述されているわけでもなく、学問とは違った知識体系なので、効率的に学ぶことができないことだからです。多くの人は、人生を生きていきながら、次第にこの種の知識を世間知として身に付けていきます。だからこそ、私たちは困ったときに経験の豊富そうな人に相談するのでしょう。

ところが、20代の頃の僕のような、社会的役割を理解しないがために社会の中で通用せず、生きるのに苦労しているタイプの人間は、「上手に生きるための秘訣があるに違いない」という幻想を持ってしまいがちです。自分以外の人が世の中に通用しているのは、きっと彼らがその秘訣が身についているからで、自分はそれを身に付けていない。だったら、それを手に入れれば、自分も通用するに違いない。いや、ひょっとしたら人並み以上の成功が手に入るかも・・・という人生一発逆転の妄想に取りつかれがちなのです。(僕自身もそうでした。あー、恥ずかしい)。

そのような「どんなドアでも開けられるマスターキー」だとか「魔法の杖」みたいなものを求める気持ちを持つ人たちにとって、12ステップは「これがその秘訣なのでは!」という期待の対象になりがちなのです。(ましてそれがリカバリー・ダイナミクスみたいなパッケージになっていればなおさらです)。

実のところ、12ステップはそのような魔法の杖ではなく、期待されている社会的役割を少しずつ学んでいくためのツールに過ぎません。それによって得られるのは地道な前進であって、周回遅れになった人たちを先頭集団にワープさせるような魔法の力はありません。けれど、なお人びとは12ステップに魔法を期待します。

週末に手伝いに行っていた施設から、フルタイムで働いてくれないかと誘われたとき、施設は利用者で溢れていました。収益的には素晴らしいのですが、それは長続きしないだろうと予想しました。なぜなら、その時その施設に集まっていたクライアントは、12ステップに魔法的な力を期待して、それがお手軽に手に入ると信じてきていた人たちばかりだったからです。

遠からず幻想の霧は晴れ、皆が失望するだろうことは明らかでした。施設が潰れる可能性もありました。それはやむを得ないとしても、それによる失望が、12ステップに対する失望、あるいは、当時日本での導入が始まったばかりのリカバリー・ダイナミクスへの失望となって広がってしまうことは十分考えられました。いや、たぶんそうなるに違いない、と予想しました。

そういったことを防くための軌道修正をしていくのは、その施設を立ち上げて初代所長になったSさんがやるべき役割だったのでしょう。ですが、彼を知る人はご存じだと思いますが、Sさんは、物事を始めるのは得意でも、長期的展望に立って物事を進めて行くのはとことん苦手という人物です。だから、彼が始めた諸々は、巻き込まれた誰かが自らの意思とは関係なくそのお守りを引き受けるか、あるいは引き受け手がなかったものは跡形もなく消え去る運命でした。彼は後がどうなろうと、あまり気にせずに「次」へと関心を移していってしまいます。良くも悪くも、それが神が彼に与えた役割なのでしょう。

僕は、彼のそのパターンに巻き込まれないように気をつけていたつもりだったのですが、この時は完全に巻き込まれていました。僕に与えられたオプション(選択肢)は、その役割を引き受けて施設を長期的に存続できるように仕立てるか、あるいはケツをまくって逃げるかでした。

風が吹くとき

それが自分の引き受けるべき仕事かどうかは分かりませんでした。正直なところ、やりたくない役割でした。

転職は、家族にも影響を及ぼします。僕が転職に併せて引っ越しをすれば、家族の生活も大きく変えることになります。施設の仕事をしてみたいという人で、経済的事情がなんとかなっても、家族の事情がそれを許さない、という人も何人かいました。そこで無理して転職して、結果が良いわけがありません。

そんなわけなので、自分の場合も無理だろうと考えていたのですが、不思議なことに、転職前の数ヶ月で、転職できる条件が整っていきました。自分の意志とは関係ないところで、物事が動いており、何かの風に背中を押されている気がしました。

神の意志というのは、およそそんなものなのだと思います。自分がそれをやりたいかどうかに関わりなく、やるように道筋がつけられてしまうわけです。(おそらくSさんが新しいことを始めるときも、同じようなものなんでしょう)。

そんなわけですから、その後いろいろと嫌なことが起きても、それほど後悔はしませんでした。自分の意志で選んだのではなく、神の意志に従っているのなら、これはこれで仕方がないのだと納得できるわけです。

そうやって施設の仕事に就いてみると、外から見ていたのではわからなかった課題が幾つかあり、なるほど自分がここに呼ばれたのは、これらの解決のためでもあったのかと得心がいきました。

そして、数年後にはまた別の風が吹いて、またITの業界に戻ってきているというわけです。だから、なぜ施設で働こうと思ったか、という質問に対する答は、風が吹いたからということになります。施設の仕事を辞めた理由も同じです。進歩の激しいITの業界に戻っても、6年もブランクがある人間が必要とされるか不安もありましたが、新しい職場でもそれなりに自分の役割があるようです。

近代社会は人に職業選択の自由を与えました。しかし、選べる自由があれば幸せかと言えば、必ずしもそうではありません。社会的地位は社会的役割を伴うという話をしてきました。人は地位に関心を持ちがちですが、関心を持つべき先は役割のほうなのかもしれません。父が悔やんでいたのは、公務員という地位が得られなかったことではなく、自分に期待された役割を果たせなかったことに違いない、と思うようになりました。それが証拠に、彼は農作物の品種改良に対する関心を生涯保ち続けました。

私たちがこの世に生を受けたのは、この世で果たすべき役割があるからだと思います。そして、その役割は一人ひとり違っているし、人生の時期においても違うのでしょう。ジョー・マキューの言葉です。

 私が思うに、私たちがこの地上に置かれたのは、神に目的があったからだろう。そして思うに、私たちがいちばん幸せで、もっとも効率よくあるときとは、神から望まれていることを行っているときだろう。では、神は私たち一人ひとりに何を望むだろうか。それは私たちをここに置いた神だけが知っている。そして、私たちが自我を使い果たすまでは、神はその望みのために私たちを使うことができない。しかし、私たちに神の導きがわかれば、神から望まれたことを実践することができ、そのことで私たちは幸せになる。他人の幸せに必要なものが自分の幸せに必要だということはない。自分に必要なのは、神の導きとそれを成し遂げる力であることを、私たちは知るようになる。1)

施設の仕事をするために必要なことがあるとするならば、「いつでもその仕事を辞めるという覚悟」ではないかと思います。ジョー・マキューは亡くなるまで、自分が作った施設の仕事を続けましたが、彼の死後数年で施設は潰れてしまいました。それは残念なことなのでしょうか?

ジョー・マキューもSさんも、神が望まれたことを実践する生き方(つまり12ステップの生き方)をしてきたのでしょうし、僕もそうありたいと願っています。金曜日の晩の居酒屋談義みたいな話に最後まで付き合っていただいて、ありがとうございました。


  1. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『回復の「ステップ」』, 依存症からの回復研究会, 2008, p.154[]

2020-12-16その他,日々雑記

Posted by ragi