12ステップのスタディ (2) AAの始まり 2

AAの始まりの話の続きです。1935年5月12日、オハイオ州アクロンのヘンリエッタ・セイバーリングの自宅で、ビル・Wドクター・ボブが出会いました。

アクロンでのドクター・ボブとの出会い(続き)

ドクター・ボブ
from DBGO

ドクター・ボブは将来を嘱望された医師だったにもかかわらず、アルコホーリクになり、禁酒法 の時代も飲み続けていました。なんとか自分のクリニックを維持し、病院にも職はまだあったものの、経済的には完全に破綻していました。

ビルと話をしたことでドクター・ボブは即座に酒をやめました。しかし彼が安定した断酒を得るためには、もう一度酒を飲む必要がありました。ボブは2年前からオックスフォード・グループに加わっており、そのプログラムについてはビルよりも詳しかったのですが、それを実践できずにいました。プログラムは「傷つけた相手に償いをすること」を要求していました。だが、それを行うことで彼のアルコホリズムが誰かに知られてしまえば、医師という仕事を失うことになりかねないという心配がありました。それが現実になれば、妻や子ども二人を養うことができなくなります。とてもそんなことはできない、とドクター・ボブは考えました。

ヘンリエッタはドクター・ボブのために、ビルをアクロンの街に留めておきたいと考えましたが、ビルは金を持っていませんでした。そこで、ボブの妻アンの提案で、ビルはドクター・ボブの家に滞在することになりました。

6月になるとドクター・ボブは、毎年出席しているアメリカ医師会の総会に今年も出かけると言い出しました。妻のアンは反対したのですが、ビルは「アルコホーリクは酒をやめたあとも、誘惑や危険に満ちた俗世間でずっと生きていかなければならないのだから」と言ってボブを送り出しました。案の定、ボブは旅の途中で飲み始めてしまい、数日後に戻ってきたときには泥酔して前後不覚の状態でした。悪いことにさらに数日後にはドクター・ボブでないとできない手術が控えていました。

ビルとアンは、なんとかドクター・ボブの体から酒を抜く努力をしましたが、手術の日の朝ボブの手はまだ離脱で震えていました。ボブはビルに「これをやりぬく」と宣言しました。ビルは手術のことだと思ったのですが、そうではなく、オックスフォード・グループのプログラムを実践するという意味でした。そのとおりに、ボブは手術を終えた後、これまで迷惑をかけた人々に償いをして回り(四つの実践の三番目)、夜遅くに幸せな気持ちで帰宅しました。1) それ以来、彼も亡くなるまで酒を飲みませんでした。彼は仕事を失うどころか、多くの人から尊敬を集める医師になりました――この一連の話は、ビッグブックの第十一章の223~227ページと、「再版にあたって」のxx~xxiページに載っています。また「ドクター・ボブの悪夢」の251~253ページにもボブ自身の言葉で語られています。

それぞれの自己放棄

ビル・Wの場合にも、ドクター・ボブの場合にも、回復するためには自己放棄(self-surrender)が必要でした。

ビルは、人間を他の動物と区別しているもの――人間を人間たらしめているもの――は「探究的で合理的な精神(inquiring, rational mind)」だと信じていました。ビルは、自分の能力と可能性を信じ、努力を続けてきた人物でした。バーモント州の田舎の村に生まれ、都会から避暑に来た女性と恋に落ち、自分を結婚相手として選んでくれた上流階級出身の妻にふさわしい生活を得ようと励んだ結果として、一度は成功を手にしました。だがそれは大恐慌 とアルコホリズムで粉々に砕け散ってしまいました。

エビー・Tは1934年11月末の最初の訪問の後、オックスフォード・グループの友人シェップ・C(Francis Shepard Cornell, 1899-1985)を伴って再びビル宅を訪れました。二人はビルが最も頼りにしている「合理的精神」の放棄を迫りました。なぜならそれがビルのアルコホリズムの解決の役に立っていないからでした。しかしそれはビルにとっては「弱さ」を認めることでしかなく、到底受けいれられるものではありませんでした。ビルは結局10日間ほど酒を飲みながら孤独に葛藤し、最終的に入院中に病室で神に懇願するというかたちで「降伏(surrender)」を表明しました。2)

ドクター・ボブにとっては、医師という立場を失うことになってもオックスフォード・グループのプログラムに従ってみるとビルに告げた言葉が自己放棄の表明でした。飲酒によって社会的信用を失い、経済的にも困窮に追い込まれた彼は、医師という社会的地位に(例えそれがどんなにボロボロの残骸であったとしても)必死でしがみつくことで自分自身を支えるしかありませんでした。プログラムを実践して傷つけた人たちに償いを行うことは、その過程で彼自身の問題(アルコホリズム)の告白を伴い、それが非難の対象となれば仕事を失う可能性がありました。しかし彼は自らの再飲酒という結果に後押しされてそれを実行したのでした。3)

ビル・Wは合理的な精神の放棄というかたちで、ドクター・ボブは自分の職業的地位だけは何としても守らねばという執着を人々への告白によって打ち破るというかたちで、それぞれに「自己の放棄」を行いました。

ビルが読んだ『宗教的経験の諸相』のなかで、ウィリアム・ジェームズは宗教心理学者スターバックEdwin Diller Starbuck, 1866-1947)の言葉を引用して、自己放棄を

自己放棄(self-surrender)「個人的意志は放棄されなければならない。多くの場合において、人間が反抗することをやめるまでは、すなわち、人間が行こうと望んでいる方向に向かって努力することをやめるまでは、救いは頑として来ることを拒むのである」4)

と説明しています。

この「自己意志の放棄(give up)」とは、自分で考えることをやめて指示されるままに動くロボットになることを意味するのではありません。12ステップにおいては「自己中心性の放棄」と表現されるものです。ただしこの「自己中心」も誤解を生みやすい言葉です。それは利己性(selfishness=自分の利益しか考えないこと)だと解釈されることが多いのですが、それだけに限りません。ビッグブックの第五章に登場する「ショー全体を取り仕切りたがる役者」は自己中心的な人物を描きだすために使われるモチーフ ですが、この役者は他の皆のためにもショーを成功させようと最善を尽くしている「善意の人」なのです。なのに、周囲との間には軋轢が、本人には悩みと苦しみが生じてしまうのです。そうなってしまう理由は――AAの理事を務めたハリー・ティーボーHarry Tiebout, 1896-1966)の言葉を借りれば――その人が「自らの運命の支配者」という立場を守るために闘っているからなのです。5) だから、自己意志の放棄とは、この自らの運命の支配者という立場から降りることを意味するのです。

さらに、そうした結果が生まれる道筋として、意識的で随意的な方法と、無意識的で不随意的な方法の二つがある、とジェームズは説明しています。6) そして、意識的な方法は概して漸進的に変化を引き起こします。ビルの場合には霊的変化(回心)は葛藤の中で不随意に起きました。一方、ドクター・ボブはビルのような霊的体験をすぐに得ることはなかったものの(彼が霊的体験を得たのは最晩年)7)、プログラムへの意識的な取り組みが彼のパーソナリティに変化をもたらしました。

霊的体験=自己放棄だと考えるのは単純すぎる理解でしょうが、自己放棄は回心の重要な要素であり、二人の回復の核心とも言えるものです。12ステップではこれを「自分の意志と人生を神にゆだねる」と表現しています。[BBS#101]

オックスフォード・グループからの分離

ビル・Wは仕事の都合で1935年の夏の終わりまでドクター・ボブの家に滞在しました。二人は自分たちの得たものを他のアルコホーリクに伝えようと奮闘しました。成功率は非常に低かったものの、ビルがニューヨークに戻るまでには回復した数人のアルコホーリクの集団ができあがっていました。さらにビルがニューヨークに帰った後も同様の活動を続けたことで、二つ目のグループができあがりました。

このようにして、ビル・Wはニューヨークで、ドクター・ボブはアクロンで、それぞれアルコホーリクを助ける活動を始めました。この時点では、どちらのグループもオックスフォード・グループの一部として活動していました。また、アルコホーリクではないオックスフォード・グループのメンバーが、アルコホーリクを指導するという形式ができあがっていました。

この後オックスフォード・グループからアルコホーリクたちが分離独立してAAができあがりました。その分離は数年かけて段階的に進行したので、いつ起きたのかを特定することはできません。(だから、後になって周年行事開催のためにAAが創始された日を決める必要が生じたときに、1935年6月10日にドクター・ボブが最後の酒を飲んだ日を選んだのですが、その日には明らかにまだAAは存在していませんでした――だからこの日はAA創始の日ではなく「創始者たちの日(founders’ day)」と呼ばれます)。

オックスフォード・グループから分離した理由は複数ありますが、そのなかでおそらく最も大きな理由であり、その後のAAに最も大きな影響を与えたのは宗派対立の問題でした。オックスフォード・グループは自分たちは宗教ではないと主張していましたが、その教義は明らかにプロテスタント の一教派のものでした。そのため、カトリックなど他の宗派の教会は、信徒がオックスフォード・グループの集会に参加することを禁じました。

このことは、ビル・Wたちがオックスフォード・グループの一部として活動している限り、カトリック など他の教派のアルコホーリクは助けられないことを意味しました。それは「まったく神を信じるつもりのない人たち」よりもはるかに厄介な問題でした。オックスフォード・グループからの分離を決意したことで、特定の宗派の教えに縛られることはなくなりました。さらに、元無神論者のAAメンバーたちの主張も取り入れて、特定の神概念を受け入れる必要も取り除かれ、プログラムが非宗教化していきました。そのおかげで、無神論者や不可知論者の人たちにも受け入れやすいものになりました。

しかしながら、超越的な存在(ハイヤー・パワー)を信じる必要性そのものは、プログラムに不可欠な要素として残されました。なぜなら、先ほど述べた自己放棄が引き起こされるためには、自分を超えた偉大な力の存在を受け入れることが欠かせないからです。

ビッグブックの出版

1937年11月、ビル・Wは職探しのためにアメリカ西部を巡りました。仕事は得られませんでしたが、せっかく西部に来たのでアクロンのドクター・ボブの家に立ち寄りました。再会した二人がそれぞれのグループで断酒しているアルコホーリクを数えてみると、その数は約40人でした。彼らはこの成果から、アルコホーリクが助かるための手段を自分たちが手に入れたことを意識しました(それまではこれに本当に効果があるのか不安に思いながら続けてきたわけです)。8)

二人は、回復の手段を自分たちだけのものにせず、全世界に伝えていかねばならないと考えました。それを行うために彼らは三つの計画を立てました。それは、アルコホーリクを治療する病院の全国チェーンを作ること、プログラムを伝える伝道師団を巡回させること、プログラムを伝えるための本を出版することです。だが、最初の二つにはあまりにも多くの資金が必要で、それに投資してくれる人がいなかったので実現しませんでした。唯一、本を出版する計画だけが進められました。

1939年4月に『アルコホーリクス・アノニマス』というタイトルの本が出版されました。ビル・Wがこの本を執筆する過程で、それまでメンバー間で口伝えで手渡されてきたプログラムが「12のステップ」としてまとめられました。その本質はエビー・Tがビル・Wに伝えた内容とまったく変わっていません。9) この本は厚い本だったので、その大きさから「ビッグブック」という愛称が与えられました。また、この団体もこの本と同じアルコホーリクス・アノニマス(AA)と呼ばれるようになりました。

AAの12のステップ
  1. 私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
  2. 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
  5. 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
  6. こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
  7. 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
  8. 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
  9. その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
  10. 自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
  11. 祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
  12. これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。10)

ビッグブックによって12ステップとAAが広がる

ビルたちがビッグブックを書いたのには目的がありました。一つはプログラムを「本に固定する」ことによって、人から人へ口伝えで伝えられていく途中で内容が歪められたり、薄められたりすることを避けることができます。もう一つは、書籍という媒体を使うことによって、直接人と人が対面しなくてもプログラムを受け渡すことができるようになります。そうやって、遠くに住んでいて直接接触することができないアルコホーリクにも回復のプログラムを伝えることを狙ったのです。

だがビッグブックが出版されても、すぐには彼らの思惑通りにはなりませんでした。むしろ、新しくできたグループに既存のグループからメンバーが出かけていったり、また新しいグループのメンバーがニューヨークやアクロンを訪問するなど、お互いの直接の交流がプログラムの伝達に役に立っていました。

Saturday Evening Post March 1941
『サタデーイブニングポスト』1941年3月号の表紙とAAの記事 from The Saturday Evening Post

しかし、1941年3月にジャック・アレキサンダー(Jack Alexander, -1975)がAAについて好意的に書いた記事が週刊誌『サタデー・イブニング・ポスト 』に掲載されたことで事態は一変しました。この記事の反響は大きく、ニューヨークのAAオフィスに多くの問い合わせやビッグブックの注文が寄せられ、全米各地にAAグループが誕生していきました。急速な成長の結果として、既存のグループと新しいグループが交流することでプログラムを伝達する仕組みが間に合わなくなり、新しいグループのメンバーたちはビッグブックから回復のプログラムを受け取って回復せざるを得なくなりました。初期メンバーの思惑通り、本によってメッセージを伝えることがようやく実現したのでした。11)

口伝えでプログラムを伝えようとすれば、人は自分が不要と思った部分を省き、必要と思った他の何かを付け加えてしまうものです。そうやって伝言ゲーム のように内容が次第に改変されてしまいます。書籍に記録されたことによって、同じ内容と有効性を維持することができます。また、書籍を使うことで言語や距離や時代を超えて同じメッセージを伝えることができます。それゆえ現在でもAAのスポンサーシップは、スポンサーとスポンシーでビッグブックの読み合わせを行うことで、プログラムを受け渡しているのです。

変わったもの、変わっていないもの

AAメンバー数(推定)

その後もAAは成長を続け、現在では北米でのメンバー数が約140万人、その他の国々に約70万人、合計で約210万人という大規模な団体になりました。

メンバー数グラフについて上のグラフは、ニューヨークのAA GSOが毎年発表しているものを元に作成しました。2018年までは毎年ニューズレター Box 4-5-9 の夏号にアメリカ・カナダ・その他の国のグループ数・メンバー数の推計が掲載されていましたが、2019年以降は世界のメンバー数のみが Estimated Worldwide A.A. Individual and Group Membership に掲載されるようになりました。AAは会員名簿を作らないのでメンバー数はあくまで推計にすぎません。毎年グループからの報告を元に、オフィスに登録しないグループの数も勘案して推算されています。北米以外については各国のGSOからの報告を合計したものです。従って正確な数字ではありませんが、大まかなメンバー増減の傾向と直近の動向をつかむには役に立ちます。2021年に197万人にまで減少したのはCOVID-19の影響なのかもしれません。

メンバー数の拡大の中で重要な変化が起きたことを書き添えておかなければなりません。AAが始まった頃には、AAに加わって12ステップに取り組まないという選択はあり得ませんでした。メンバーは誰もがある程度強制されて12ステップに取り組んでいました。12)

しかし、AA共同体が規模を拡げるなかで、そのような強制が行われることは少なくなり、「酒をやめたい」という意欲さえあれば、誰でもAAに加わることができるようになりました。現在は、12ステップに取り組むかどうかは、メンバー各自が自主的に決めるべきことだとされています。

その結果として、AAメンバーでありながらも12ステップに取り組まない人も増えました。また12ステップに取り組んでいても霊的体験や霊的目覚め得るところまで達していない人もたくさんいます。そのおかげで、新しいAAメンバーにとって、12ステップがどのようなものかを理解することが難しくなっています。

個人個人が12ステップに取り組むのとは別に、AAのグループではミーティングを開催しています。集会を開き、経験を分かち合うのはAAがオックスフォード・グループから受け継いだ宗教的手法の一つです。ただ、当初はアクロンでもニューヨークでも、ミーティングは週に一回しか開かれていませんでした。その代わりアルコホーリクたちはミーティング以外でも毎日のように会って、お互いを支え合っていました。そのようなサポートが断酒の継続に効果があることはAAの当初から知られていました。

だがAAの規模の拡大に伴って、そのようなメンバー間の交流の密度は下がらざるを得なくなりました。それに代わってミーティングでの分かち合いと支え合いが重視されるようになり、AA活動におけるミーティングの重要性が増していきました。外からAAを観察する人たちは、このミーティングで行われる相互サポートがAAの本質だと見なすようにもなってきています。

そのような共同体の変化を経ても、AAの回復プログラムの本質はエビー・Tがビル・Wに一対一で話をしたときとまったく変わっていません(one alcoholic talks with another)。ローランドがユングから聞かされた話と、オックスフォード・グループから受け継いだ霊的な実践がメッセージの中身であり、「自分では実現できなかった回復を、ハイヤー・パワー(神)が与えてくれた」というメッセージをAAメンバーはいまも伝え続けているのです。

次回はAAと12ステップの始まりについてのQ&A編です。

今回のまとめ
  • ビル・Wと体験を語りあうことでは、ドクター・ボブの酒はとまらなかった
  • ビルの場合も、ボブの場合も、酒をやめるためにはプログラムに従った結果として「自己の放棄」が生じる必要があった
  • 彼らはやがてオックスフォード・グループから分離してAAを作った
  • その分離の過程でAAは非宗教化されたが、ハイヤー・パワーを信じる必要性は、プログラムに不可欠な要素として残された
  • ビッグブックの出版は、プログラムを本に固定し、直接会うことができない人にもプログラムを伝えることを目的にしていた
  • AAは12ステップに取り組むようにメンバーを強制することはなくなった
  • 急成長によってミーティングでの分かち合いと支え合いの比重が増した
  • だが、そのような変化を経ても、AAの回復プログラムの本質は、エビー・Tがビル・Wに伝えたものと本質的に変わっていない

  1. DBGO, pp.104-107.[]
  2. アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, pp.52-55.[]
  3. カーツ, pp.115-116.[]
  4. ウィリアム・ジェイムズ(桝田啓三郎訳)『宗教的経験の諸相』/, 岩波書店, 1969/1970, 上巻 p.314.[]
  5. AACA, p.471.[]
  6. ジェイムズ, 上巻 p.310.[]
  7. DBGO, 第26章.[]
  8. AAではこの出来事があった時期をビル・Wの記述に従って1937年11月としているが、ロイス・ウィルソンの日記によれば7月下旬だったはずだとカーツは主張している — カーツ、第二章註57。[]
  9. AACA, 244-246.[]
  10. BB, pp.85-86.[]
  11. カーツ, pp.173-176.[]
  12. DBGO, 第21章.[]

2024-05-2612ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi