12ステップのスタディ (4) NAの始まり 1

Narcotics Anonymous logo
NAロゴ, by, Jimmy Kinnon, from WikiMedia Commons, PD

今回は薬物嗜癖者のグループ、ナルコティクス アノニマス(Narcotics Anonymous, NA1)の創始の物語です。

アルコホーリクの家族たちは、最初は本人たちと一緒にAAの中で活動していましたが、1951年に独立してアラノン(Al-Anon)という家族の共同体を作りました。同じようにNAも、AAを母胎として始まり、やがてゆっくりそこから分離独立することで今日のNAができあがっていきました。

AAがアルコホーリクたちが飲まないで生きていく(stay sober)ことを目的にした共同体(fellow­ship)であるのと同様に、NAは薬物嗜癖者(addict, アディクト)たちがクリーンでいる(stay clean)ことを目的とした共同体(fellowship or society)です。2)

こうして並べてみると、AAとNAという二つの共同体は――使っている用語の違いを除けば――そっくりです。12のステップ12の伝統を採用しているところも同じです。それだけ似ていながら、なぜこの二つは別の共同体となったのか? そして、用語の違いは何を意味するのか? それを知ることがNAを理解する鍵になるでしょう。

結論から言ってしまうと、アルコホリズム(アルコール以外の)薬物のアディクションは「別の病気」と見なされており、薬物について論じるときにはアルコールについて論じるときとは別の用語セットが必要だと考えられたからです。それゆえに、NA創始の歴史は、AAの中で回復していたアディクトたちが、アルコホリズムと相似であるものの一つの点で決定的に異なった疾病概念を確立し、AAによる長い庇護の期間を経ながら、社会の中に存在する偏見と蔑視という逆風を乗り越えて、自分たちの回復共同体を作り上げていく苦闘の物語になっています。

今回と次回にわたってその歴史を辿っていきますが、記述は必ずしも時系列順に並んでいるわけではありませんので、その点をご留意いただきながらお読みいただきたいです。

習慣と嗜癖

アルコホリズムと薬物のアディクションが「別の病気」だという考えには、納得できない人もいるでしょう。現在日本で使われているICDという疾病分類では、アルコールは精神作用物質(つまり薬物)の一種として扱われており、アルコール依存(症)と薬物依存(症)には共通の診断基準が使われています。そのことから両者は同じ病気で、依存の対象となる薬物の種類が違うだけ、と捉えている人が多いと思われます。

しかし、両者は違う病気とみなされていた時代も長く、規制の強さも異なっています。なぜ違うと見なされていたのか。そして、なぜその後に同じカテゴリに入れられたのか、その変遷を辿ってみましょう。

その変遷の中で、かつてのアルコール中毒(アル中)や薬物中毒(ヤク中)という病名が、アルコール依存症や薬物依存症へと変更されました。そのことを知っている人は少なくありませんが、なぜそのような名称変更が行われたかという理由はあまり知られていません。これらの病気に対する偏見を取り除くためだと説明されることが多いのですが、そうではありません。2002年に精神分裂病から統合失調症 へ変更が行われたのは、全国精神障害者家族会連合会 からの病名変更の要望があってのことでした(これは国内で使われる訳語の変更だった)。それに対して、中毒→依存症の変更は世界保健機関 (WHO)による変更であり、別の事情がありました。

推理の科学
薬物を使うホームズの挿絵, from コンプリート・シャーロック・ホームズ ― 初出『ストランド・マガジン』

ビッグブックのスタディ」の第22回でアディクション(嗜癖)の歴史を説明しましたBBS#22。20世紀初めまでには、アヘンから精製されたモルヒネ ヘロイン 、南米のコカノキを原料にしたコカイン という主要な薬物が出そろっており、嗜癖(アディクション)の存在もよく知られるようになっていました。コナン・ドイル(1859-1930)が書いた探偵小説のベストセラーシャーロック・ホームズシリーズ (1887-1927)には、主人公ホームズがヘロインやコカインを使ってなかなか止められなくなるシーンが描かれています。20世紀は、こうした薬物の規制が徐々に強められてきた時期でした。

ところで、使い出したらやめられなくなるのはヘロインなどの「強い薬」に限りません。身近な例では、禁煙の難しさは日本社会でも広く知られています。これはタバコに含まれるニコチン には強い依存性があるためです。となると、ヘロインを規制するならば、タバコだって規制すべきではないか? という意見が出てきて当然です。しかし現実にはヘロインは厳しく規制され、タバコの規制はせいぜい未成年の禁止に留まっています。それはヘロインとタバコでは公衆衛生 に与える影響が大きく違うからです。

第二次世界大戦後、WHOは薬物を二種類に分類することを試みました。その一つは習慣(habit­uation)形成薬物で、これはニコチンやカフェイン などの、健康上の害も、公衆衛生上の問題も少ない薬物です。もう一つの嗜癖(addiction)形成薬物は、モルヒネやヘロインや大麻 など、健康に害が大きく、蔓延すれば深刻な公衆衛生上の問題をもたらす薬物が想定されました。このようにして「良い」薬物と「悪い」薬物を区別しようとしたのです。そして、世界的に嗜癖形成薬物は厳しく取り締まり、習慣形成薬物の規制は緩くしようと目論みました。

そのためには、使うとクセになるすべての薬物をこの二つのどちらかに分類しなければなりません。しかし、それは容易なことではありませんでした。現在の日本でも大麻の規制レベルをどうするかという議論はなかなか決着が付きません。一つの国の中で、一つの薬物を分類するだけでも大変なのに、文化や習慣が違う様々な国の規制を統一しようというのですから、議論はなかなか進みませんでした。しかもその間に次々と新しい薬物が登場し、対象となる薬物はどんどん増えていくのでした。

結局WHOは1964年にこの分類を諦め、嗜癖と習慣を一つにまとめて扱うことにし、それを依存(dependence)と呼ぶことにしました。依存という用語は薬理学 の用語を転用したものです。やがてこの用語が病名にも使われるようになり、日本国内でも病名が変更されるに至りました。このWHOにおける議論の経緯についてはウィキの嗜癖と依存 にまとめてあります。

薬物の人にとって重要なのは、1950年代がこの議論が盛んに行われていた時期だったということです。モルヒネやヘロインといった麻薬は嗜癖形成薬物に分類され、規制が強められていった時期でした。3) 禁酒法(1920-1933)がアルコホーリクを治療できる病院を廃業させたことがAAを誕生させたように、1950年代に薬物嗜癖者たちが過酷な環境に置かれたことがNAを誕生させたのでした。

『米国アディクション列伝』というテキスト

『米国アディクション列伝』
『米国アディクション列伝』

今回の情報の多くは、ウィリアム・ホワイトWilliam L. White , 1947-)『米国アディクション列伝』に拠っています。この本は副題「アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史」が示すとおり、アメリカのアディクションおよびその治療と回復の歴史を綴ったものです。1998年に初版が出版され、2007年にジャパンマックから邦訳が出版されました。

アディクションからの回復というジャンルに何らかの進歩をもたらしたいと思う人は、歴史から教訓を学んでおかねばなりません。そうすれば先人たちの過ちを繰り返さずに済みますし、なによりも車輪の再発明 に時間を費やさなくて済みます。この本はそのための重要なテキストですが、知名度が低いのは残念なことです。一般書店やAmazonで注文することができないのもその一因なのでしょう。ジャパンマックのネットショップで注文できるようになっています(ジャパンマックの書籍販売ページ。残部が残り少なくなりつつあり、しかも品切れになっても重版する予定はないそうなので、必要な人は早めに入手されることをお薦めします。

今回と次回はこの『列伝』と、その大幅に拡充された第二版(未訳)、およびNAの文献を頼りに進めていきます。

特に示さない限り、以下の出典は『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』4)、およびその第二版5)(未訳)

連邦麻薬ファーム

薬物嗜癖者たちのグループの始まりには連邦麻薬ファームFederal Narcotic Farmが重要な役割を果たしました。その名の通り、アメリカ連邦政府によって1935年5月にケンタッキー州レキシントンに、1938年に二番目の施設がテキサス州フォートワース に作られました。レキシントンは1936年に公衆衛生局麻薬病院(U.S. Public Health Service Narcotics Hos­pi­tal)と改称されましたが、その後もこの二つの施設は数十年にわたって麻薬ファームと呼ばれ続けました。

Narcotic Farm. Lexington
Narcotic Farm. Lexington, from University of Kentucky

連邦政府が麻薬ファームを作ったのは、薬物嗜癖者(アディクト)の増加によって州立精神病院も刑務所も過大な負担を強いられており、その過密状態を緩和する必要があったからでした。ファームは治療施設であると同時に、麻薬の蔓延を防ぐためにアディクトを社会から隔離するという思想で作られた施設でもありました。ともあれこの二つのファームは、その後数十年にわたってアメリカの薬物嗜癖対策の中心施設として機能することになります。

ファームには二種類の入所者がいました。他の刑務所から移送されてきた麻薬嗜癖の囚人たちと、任意で入院して治療を受けている人たちでした。任意とは言っても地元の警察や家族からの圧力があってのことでした。厳重なセキュリティは囚人の逃亡を防ぐためというより、外から麻薬が持ち込まれるのを避けるためでした。

Entrance to Narcotic Farm
Entrance to Narcotic Farm, from Slaying the Dragon 2nd ed.

ファームという名前の通り、非常に広い農場の中に各種施設が点在していました。入所者たちは一週間の解毒治療が終わると、治療時間の大部分を農作や酪農に従事して過ごしました。

追跡調査によると、90%以上の人たちが退所後半年以内に活発な薬物嗜癖に戻っていました。そのように効果が低かった理由の一つは、入所期間の長さが適切ではなかったからだと評価されています。強制的に長期間入所している受刑者たちは動機づけが難しく、一方任意で入っている人たちは推奨される期間よりずっと早く退所していきました。もう一つの理由は、広いアメリカに二ヶ所しかファームがなかったため、距離の問題から家族が治療に参加することがなく、退所後の家族環境・地域環境へのフォローが欠けていたことです。

このように国の機関で治療してもアディクトのほとんどが再発するという結果は、アディクションが本人の道徳的弱さによる選択の結果だという見方に疑問を突きつけることになりました。また、アディクション治療において入院治療が果たせる役割が限定されていることが明確になり、結果として、メサドン 置換療法や、地域型(community-based)の支援システムが生み出されました。6)

そのような新しい治療システムができあがると、二つのファームは時代遅れとなりました。フォートワースは1971年に、レキシントンは1974年に薬物のプログラムを終え、両施設は連邦刑務所局 に引き渡されました。二つのファームが存続した三十数年間で、およそ6万人が治療を受け、退所した人たちのなかにはAAに加わって薬をやめ続けた人たちが少ないながらも存在しました。7)

ポイント二つの連邦麻薬ファームは治療という点ではほとんど役に立たず、地域コミュニティベースの支援システムが必要であることを明らかにした。

AAのなかの薬物嗜癖

いよいよここからは、現在のNAにつながる活動について説明していきますが、『列伝』の初版はNAの始まりと発展についてわずか2ページしか割いていません。これはAAに対して四つの章を割いているのと比較すると、明らかにNAの扱いが小さすぎます。第二版ではNAに独立した一章が与えられ、23ページ余りを使ってより詳しく論じられています。

AAの回復プログラムをアルコール以外の薬物に適用するというアイデアは、AAが始まってすぐ実践されました。

1939年にドクター・トム・M(Dr. Tom M.)という医師がレキシントンの麻薬ファームに入院しました。彼はアルコホーリクになる以前に21年間モルヒネに嗜癖していました。彼はレキシントンにいる間に新しく出版された『アルコホーリクス・アノニマス』という本を知りました。そして、その年の秋にノース・カロライナ州のシェルビーに帰ったトムは、他の三人の男性と一緒にノースカロライナ州初のAAミーティングを始めました。トムはAAによってモルヒネ嗜癖から回復した最初の例として知られ、シェルビー・グループの存在はAA本部(Head Quarter, 後のGSO)にとって薬物嗜癖についての問い合わせに答えるための資源となりました。

AAの月刊誌 AA Grapevine は1944に創刊されましたが、その年の8月号に「薬物コーナー」を設けるべきだというN医師(Dr. N.)による提言が掲載され、その後薬物の記事が掲載され続けました。1945年にはビル・Wによる睡眠薬の危険性を訴える記事が掲載されました。というのも彼自身が抱水クロラール という鎮静剤によって死にかけた経験があったからです。こうした AA Grapevine の記事によって、AA共同体のなかに薬物嗜癖を持つ人がいることがAA内部に知れ渡りました。

ポイントすでに1940年代からAAに薬物嗜癖を持つ人たちが加わっていることが知れ渡っていた。

もうひとつのAA「アディクツ・アノニマス」

ヒューストン・S(Houston S.)は1910年にバージニア州立軍事学校Virginia Military Instituteに入学・1918年にアメリカ海兵隊 に入隊しましたが、軍事学校時代からすでに深刻な飲酒問題を抱えていました。1944年にようやくアラバマ州モンゴメリーのAAで酒をやめ、精力的に他のアルコホーリクの手助けを始めました(彼には薬物の問題はありませんでした)。モンゴメリーにいるあいだに手助けした相手の中に、アルコールとモルヒネの両方に嗜癖している男がいました。この男はAAで酒をやめることはできたものの、レキシントンの麻薬ファームに入院してもモルヒネをやめることができませんでした。そのことで、ヒューストンは、薬物嗜癖に関心を持つようになりました。

ヒューストンは1946年9月にケンタッキー州のレキシントンから20マイルほど離れたフランクフォートという街に異動になりました。彼はさっそく麻薬ファームの診療部長ヴォーゲル博士(Dr. Victor Vogel)に電話をかけ、アディクトたちのためにAAのようなグループを始めれば役に立つのではと提案しました。彼は博士の許可を得て、レキシントンの施設の中でグループを始めました。

最初のミーティングは1947年2月16日に開かれ、アディクツ・アノニマス(Addicts Anony­mous)と名付けられました。このミーティングは自発的な参加者によって1966年まで続き、ヒューストンは健康が衰えた1963年まで出席を続けました。ミーティングのフォーマットはAAを模したもので、12ステップも転用されました。また近くのAAグループのメンバーたちがこのアディクツ・アノニマスのミーティングでスピーカーを務めました。ヒューストンが最初に助けることに失敗したモルヒネ・アディクトも最終的にこのグループに加わって回復しました。

アディクツ・アノニマスはAAの本部に手紙を出し、AA Grapevine の1948年2月号にはアディクツ・アノニマスが1年を迎えたことを紹介する記事が掲載されました。この時期のAA本部スタッフからの手紙は好意的だったのに対し、ビル・Wからの手紙はアルコホーリクとアディクトの違いについて述べた(つまり釘を刺した)冷静なものでした。

レキシントンを退所したアディクツ・アノニマスのメンバーは、地元のAAアルコホーリクス・アノニマスのサポートを得ることができました。また、The Key というニューズレターがレキシントンから定期的に発行されました。アディクツ・アノニマスはフォートワースでも始められ、他の連邦刑務所にも広がりました。

ポイントアディクツ・アノニマスはAAの12ステップとミーティングを薬物嗜癖に適用した初のグループだったが、施設内にしか存在せず、退所後の地域コミュニティベースの支援はAAに頼っていた。

最初のNA(ニューヨーク)

Daniel L. Carlsen
from Relative Storyboard – originally Listen: A Journal of Better Living magazine

ダニー・C(Danny C.)ことダニエル・カールセン(Danny C., Daniel L. Carlsen, 1907-1956)は1907年にプエルトリコ で生まれ、幼くして両親を亡くし、ある医師に引き取られてミズーリ州へと引っ越しました。それ以外は彼の人生は平穏なものでしたが、16才の時、養父の看護師として働いていた養母が、彼の耳の腫瘍の痛みを緩和するためにモルヒネを与えてくれたことが、その後25年間にわたるモルヒネとヘロインの嗜癖のきっかけとなりました。養母はそれ以上モルヒネを与えることを拒んだのですが、彼はそれが家の中のどこに保管されているか知っていたのでした。

ダニーはその後の20年間のうち9年を薬物関係の罪状で刑務所で過ごすことになりました。1935年にレキシントンの麻薬ファームが開設されたときには、その最初の患者の一人となりましたが、その後13年にわたって合計8回入所することになります。その最後の1948年の入所のときに、アディクツ・アノニマスに加わり、それによって深遠な霊的体験を得て、ようやく継続的なクリーンを得ることができました。ダニーはヒューストン・Sから「希望と信仰を持つことを教えられた」と語っています。

ダニーは1949年4月にレキシントンを退所してニューヨークに戻ると、そこでアディクツ・アノニマスのミーティングを始めました。彼は二つのAAがあることによる混乱を避けるために、それをナルコティクス・アノニマス(Narcotics Anonymous, N.A.)と名付けました。ナルコティクスは麻薬中毒者という意味です。

最初のミーティングはニューヨーク女性拘置所New York Women’s House of Detentionで開かれましたが、彼はそこで救世軍 のドロシー・べリー少佐(Major Dorothy Berry, 1901-1983)と出会い、彼女の援助により会場をヘルズ・キッチン にある救世軍のローレンシュタイン・カフェテリア(Lowenstein’s Cafeteria)に移しました。ちなみにヘルズ・キッチンは20世紀には「アメリカ大陸で最も治安の悪い場所」と呼ばれたところでした。それまでアディクツ・アノニマスは施設の中にしか存在しませんでしたが、これによって1950年1月に初めての地域ベースのミーティングが始められました。

NAは会場の確保に苦労しました。それはミーティングがアディクトたちの薬物売買の場所になるとか、連邦の捜査官や密告者が潜入してくるとみなされたために、会場を貸してくれる施設がなかったからです。救世軍の食堂が閉鎖されると、ミーティングはあちこち転々とせざるを得ず、最終的にYMCA の支部に腰を落ち着けました。それでもミーティングには25人以上が参加し、1年後には6人が1年間の継続的な回復を成し遂げていました。さらに3年後の1954年には90人が安定した回復を続けてるという記事が『サタデーイブニングポスト 』誌に掲載されました。ダニーは1956年に亡くなるまで継続的にリーダーを努めました。

ダニーの死後、リーダーシップはメンバーのレイ・L(Rae L.)とノン・アディクトのダン・イーガン神父(Father Dan Egan)に引き継がれました。イーガン神父はジャンキー神父(Junkie Priest)のニックネームで知られた人で、1945年に叙任され、2000年に84才で亡くなるまで薬物嗜癖やAIDS の人たちの支援に取り組みました。

ニューヨークのNAはそれほど成長せず、1963年でも週に4回のミーティングが開かれていただけでした。他の地域では、シカゴ、ロサンゼルス、クリーブランド、フィラデルフィア、トロントなどでもグループが始まりましたが、その多くは長続きしませんでした。例外はクリーブランドで、1970年に後の現在のNAに吸収されるまで続きました。

結局この「最初のNA」は、創始者ダニーの死後活動が弱まり、70年代に成立した厳しい反薬物法の影響と、72年にレイが亡くなったことで消散してしまいました。ホワイトは『列伝』のなかで、ニューヨーク発祥のNAが存続できなかった原因を、各グループをまとめて全体を一つの団体として活動させる中央サービス機構がなかったからだと説明しています。このため各グループが孤立し、他のグループとの交流を欠いていました。

サービス機構がなかったので、この「最初のNA」の正確な広がりを把握するのは困難です。またグループは必ずしもNAの名前を使わずドラック・アディクツ・アノニマスのような別の名前を使っていました。しかも、前述のようにたいてい短期間しか存続しませんでした。しかし、そうしたグループの存在が、現在のNAが形づくられる材料を各地に残していきました。

ポイントダニー・Cが1950年に始めたニューヨークのNAは、アディクツ・アノニマスの地域版だった。また、AAとの混同を避けるためにNAという名を用いた最初のグループだった。だが、サービス機構を欠いていたためにグループ間の交流がなく、多くのグループは短期間しか存続しなかった。

AAと薬物嗜癖者

さて、前述のようにすでに1940年代には薬物嗜癖者アディクトたちがAAに加わって回復していました。しかし、そこには一つの問題が残りました。つまり、アディクトたちをAAメンバーとして受け入れるか否かです。

AAがオックスフォード・グループから分離する以前から、彼らは自分たちが「アルコホーリクの集まり」であると認識していました。だから、アルコホーリクがメンバーになれるのは明らかですが、しかし「アルコホーリクではない人はAAメンバーになれるのか?」という問題は残りました。

この点について、ビル・Wは A.A. Grapevine の1958年2月号に “Problems Other Than Alcohol: What Can Be Done About Them?” という記事を掲載して、一つの見解を示しました。この記事は『アルコール以外の問題』というパンフレットとなって配布されています。そのなかで彼は、AAはソブラエティ(アルコールからの解放)という一つの目的を堅持すべきだと訴えています。その根拠として、アラノンがAAから分離していったことを挙げました:

例として、代表的な経験を振り返ってみたい。何年か前わたしたちは、AAのメンバーに家族や大いに援助してくれたノン・アルコホーリクの友人まで加えようとしだことがあった。彼らも、問題を抱えていた。だからわたしたちの集まりに加わってほしいと思った。だが残念ながらそれは不可能だった。彼らはAAメンバーと同じ話ができなかった(They couldn’t make straight A.A. talks)。だからほとんどの人の場合、新しくつながったAAメンバーと一体感をもつ(identify with)ことができず、そのために、12番めのステップ活動(メッセージ活動)を続けることができなかった。そこで家族や友人としてどれほど親しくても、メンバーになることはお断わりした。ただし、オープン・ミーティングでは歓迎した。8)

identify が「一体感を持つ」と訳されていますが、「自分もこの人たちと同じアルコホーリクである」という同一視が起こることが、アルコホーリクの回復のためにも、グループが維持されていくためにも必要なことです。そのために行われているのが、酒を飲んでいた体験を分かち合うミーティングです。ところが家族はそういった体験を持っていないために、アルコホーリクたちと自分を identify することができません。そこで、本人たち(AA)と家族たち(アラノン)は別々に集まることにしたのでした。BBS#10

だから、アルコホーリクではないアディクトをAAメンバーにする方法はないことは明らかでした。たとえアルコホーリクとドラッグ・ユーザーが「従兄弟のように」近似のものであったとしてもです。それでもなお彼らをAAメンバーにとこだわるとき、むしろ薬物の人たちに対して厳しい仕打ちとなる、とビル・Wは警告しています。

アルコホーリクでもあり薬物嗜癖者でもある、という人がAAメンバーになれることは明らかです(その人はアルコホーリクなのだから)。しかし、アルコホーリクではない薬物嗜癖者は「オープン・ミーティングには参加できるものの」AAメンバーにはなれないことが明確化されました。AAは1940年代に「12の伝統」を確立しましたが、そのなかにもAAメンバーになれるのはアルコホーリクだけだという考えが示されています伝統3

しかし、いかに共同創始者ビル・Wがそう訴えようとも、そして12の伝統に規定されていようとも、すべてのAAグループが右にならえでそうならないのもAAの面白いところです。クローズド・ミーティングに参加したアディクトを追い出すAAグループもあれば、そうしないAAグループもあり、結局のところ、現在のNAグループの数が増加してアディクトたちがAAを頼らなくて済むようになる1980年代まで、およそ40年間に渡ってアディクトたちはAAに参加し、AAメンバーたちは彼らのスポンサーを引受け続けました。この間、AAはずっと「AAのなかのアディクト問題」を引きずることになりました。

またその間、アディクトたちにとってAAは、親身になってくれる人も一部にいるけれど、薬物使用の経験を話せば嫌がられ、全体的に見れば「歓迎されない居候扱い」を受ける居心地の良くない場所であり続けました。

ポイント1940年代から50年代にかけて、AAはアルコールの問題を持たないアディクトはAAメンバーにはなれないことを明確にした。それでもアディクトたちはその後も約40年間に渡ってAAに参加し続けざるを得なかった。

ロサンゼルスでの始まり

ロサンゼルスのベティ・T(Betty T.)は、麻薬とアルコールの両方のアディクションを持つ人物で、1949年12月にAAに加わって回復を始めました。1950年に麻薬ファームでの治療を終えて帰ってくると、彼女はヒューストン・S、ダニー・C、そしてビル・Wと手紙のやりとりを始めました。彼女がアディクトのためのグループを始めたいと思ったのは、一つには彼女自身が薬物の問題を抱えていたためであり、もう一つはAAの中にアルコール以外の薬物の問題を抱えた人たちが増加していたからでした。

結果として彼女は、1951年2月11日に自宅でハビット・フォーミング・ドラッグス(Habit Forming Drugs, HFD, 習慣形成薬物)ミーティングを始めました。これはAAの特別ミーティングで、しばらくは毎週、その後毎月、さらにその後は新しい人が来たときだけ開かれるミーティングとして続けられました。

やがて彼女は、これをAAの特別ミーティングとして続けていくべきか、それともAAとは別のグループが必要なのか悩むようになりました。というのも、前述のように(アルコールの問題を持たない)「純粋なアディクト(pure addicts)」のためのグループの必要性が残されていたからです。

このHFDは、レキシントンのアディクツ・アノニマスの地域版として始まったニューヨークのNAのロサンゼルス版であり、現在のNAがロサンゼルスで始まる下地を作ったとみなされています。

1952年7月、ロサンゼルスのAAの委員会メンバーであるジャック・P(Jack P.)がビル・Wに手紙を出しました。その内容は、ロサンゼルス保安官事務所からAAに対して「ナルコティクス アノニマスのグループを作るのを手伝ってほしい」という依頼があったというものでした――このことから、ロサンゼルスのNAは矯正行政主導で始まったことが分かります。翌53年6月中旬に、ヴァンナイスVan Nuysのムーアパーク通りにあるユニティ教会で初めてのミーティングが開かれました。その中に、後にこのグループのリーダーシップを引き継ぎ、現在のAAの創始者の一人と見なされるジミー・KJimmy Kinnon, 1911-1985)がいました。

ビル・Wは、AAメンバーがアディクトたちをどう助けられるかと聞かれたときに、「ブリッジメンバー」がそのような支援を発展させるきっかけを提供できるだろうと返事していました。ブリッジメンバーとはアルコールと薬物の両方のアディクションを抱え、その両方から回復したAAメンバーのことです。そして、現在につながるNAの創始を行ったのもブリッジ・メンバーであるジミー・Kたちでした。

ポイントロサンゼルスのAAでアルコールと薬物の両方から回復した「ブリッジ・メンバー」たちが、新たなNAを1953年に始めた。

ジミー・Kの活躍と、現在につながるNAの成長については次回。


  1. 「ナルコティクス」と「アノニマス」の間は空白を入れるのが正しい日本語表記であるようだ。[]
  2. AA『序文(プレアンブル)』およびNAWB, p.2.[]
  3. 1951年にBoggs Act of 1951、1956年にNarcotic Control Act of 1956が成立した。その後もNarcotic Control Act (1961)など規制は強められ続けた。[]
  4. ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007.[]
  5. William L. White, Slaying the Dragon: The History of Addiction Treatment and Recovery in America 2nd ed., Chestnut Health Systems, 2014.[]
  6. ホワイト, 第14章.[]
  7. ホワイト, 第25章.[]
  8. AA, 『アルコール以外の問題』, AA日本ゼネラルサービスオフィス.[]

2024-04-1812ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi