ビッグブックのスタディ (105) どうやればうまくいくのか 17

今回は恨みの棚卸しの最終回です。ビッグブックのp.98です。

三度目の見直し作業

もう一度、一覧表に戻ろう。1)

ビッグブックは、ステップ4で棚卸し表を書くだけでなく、それを見直すことで、物事に対する自分の考え方を修正しなさいと言っています。

最初の見直し作業(p.96)では、まず棚卸し表の第一列に挙げた人たちがひどく間違ったことばかりしている、ということが見えてきました。この世の中はそういうひどい人たちばかりであり、そうした連中の行為によって私たちは傷ついているのだ、というのが私たちの精一杯の結論でした。

つまり、棚卸し表を書いただけでは、まだ私たちは「自分にも幾らかはまずい点があったかもしれないが、それ以上に人のせいにする」(p.88)という状態を抜け出せていないのです。

だが、そのような「あいつらが悪い」と結論づけて、腹を立てたり、恨んだり、自己憐憫に浸ったりしながら生きるのは、実は自己中心的な生き方であり、それによって私たちは神の手助けを拒絶していた、ということに気づかされました。

そこで、私たちは二回目の見直し作業(p.97)を行いました。すると、私たちは恨むことによって、相手に自分を支配させているという現実が見えてきました。恨みは私たちから「生きるに値する人生」(p.96)を奪い去ってしまいます。恨んだ理由(第二列)が真実であるか、それとも単なる自分の思い込みであるかは関係がありません。恨みは私たちにとっては人生を終わらせかねない危険なものなのです。

「真実であっても、なくても」というのは重要なポイントです。恨みがましい人間は、無から有を産み出す錬金術 師のように何もないところから恨みを産み出すという得意技を持っています。それによって、「なんでそんなことで腹を立てているのか」と周りの人間を呆れさせるのですが、それでも棚卸し作業によって自分のやっていることのバカバカしさに気がついて深く恥じ入ることもあります。しかし、アルコホーリクにとって危険なのは、そのような妄想的な恨みばかりではありません。第二列に書かれた理由が事実であり、周りからは同情してもらえることであったとしても、やはり恨みはアルコホーリクの人生を台無しにしかねない危険なものなのです。

しかし、恨みを取り除くのは簡単なことではありません。自分の力ではそれができるとは限りません。そこで私たちは、「自分にできないことは、神様にお願いする」というやり方を始めました。つまり祈りです。祈りを続けていくうちに、私たちは自分の願いが叶えられていることに気づき、神の作ったこの世の中を次第に受け入れられるようになっていきます。ここまでが前回の振り返りです。

そして、ここでさらに三度目の見直しをしなさいというのです。

結果が早く欲しいせっかちな人は、一度目と二度目の見直し作業を省略して、いきなりこの作業に取り掛かろうとします。そういった人たちの多くは、自分で自分の欠点を見つけ、その欠点を自分で直していこうとします。残念ながらそのやり方はうまくいきません。なぜならば、そういう努力をしているとき、その人の中心にあるのは「自分」だからです。その人は相変わらず古い考えを手放せずにいるのです(古い考えとは「自分の問題は自分で解決できる」(p.77)、言い換えれば「自分で解決しなければならない」です)。ジョー・マキューの「現在のAAにおける大きな間違いの一つは、人々が自分で自分を良くしようとしていることだ」という指摘に耳を傾けるべきでしょう第100回

ステップに取り組んでいる私たちは古い考えを捨て、新しい考え(=神を頼ればうまくいく)を身に付けていくプロセスのなかにいるのです。

人の過ちはさておいて、私たちは自分自身の誤りだけを断固として厳しく見つめた(looked for)。自分がどこで利己的で、不正直で、身勝手だったのか。何を恐れていたのか。何もかもが自分だけのせいでそうなったのではないにしても、他人をまったく抜きにして考えてみようとした。1)

ここには「他の人たちの過ち」と「自分の誤り」という言葉が出てきます。恨みを抱えた人は、「自分と相手と、どっちが間違っているのか?」という白黒思考に陥っている場合が多いのですが、たいていの場合はどちらも間違っているのです。つまり、相手には相手の誤りがあり、自分には自分の誤りがあるのです。お互いに誤りがあるからこそ、事態がこじれてしまうのです。(より正確に言えば、お互いに誤りがあり、お互いに相手の誤りに対して不寛容であるからこそ、事態はこじれてしまうのです)。

前回、祈りによって寛容さを身に付けるというやり方を学びました。まだ祈りを始めたばかりで、寛容さは十分に身についていないかもしれませんが、それでも寛容さが(相手のためではなく)自分自身のために必要だということを学んだはずです。人は誰でも誤りを犯します。つまり、人は誰でも不完全なのです。

自分にも誤りがある、ということに我慢がならない人は、自分の不完全さを受け入れておらず、神のように完全な存在であろうとしているのです。そんなことはできっこありません。私たちは神の役を演じるのをやめなければならないのです(p.90、第100回

自分の誤り(欠点)を探す

三回目の見直し作業では、自分の誤りを探します(look for)。それはつまり、自分の側に誤りが必ずある、ということを示しています。ジョー・マキューの文章を読んでみましょう:

私たちの誰もが、物質面、そして感情面での安全を求める基本的欲求を持っている。そして誰もが、この本能に手こずっている。安全の本能があるために、私たちは身勝手になり、不正直になり、利己的になり、恐れを持ち、あるいは配慮に欠けた(in­con­sider­ate)ふるまいをする。同じことが私たちの性的本能についてもいえる。2)

もちろん共存本能につても同じことが言えます。私たちには生き残るために本能(欲望)が与えられています第96回。そして本能を持っている以上、それが暴走して私たちを利己的にさせたり、不正直にさせたりする、ということは当然起きてしまうことです。だから、自分の側に必ず誤りがあるということを胆に命じておきましょう。

だが私たちは、相手の過ちはいくつも挙げることができても、自分の過ちはなかなか見つけられません。だからそれを探しなさいとビッグブックは言っているのです。自分に(も)間違いがあることは明白なのに、なぜ私たちにはそれが見えないのでしょうか? ジョーの文章の続きを読んでみましょう:

私たちの誰もが基本的本能を持っている。だから、誰にでも性格上の欠点はある。しかし、私たちはなかなか自分の過ちを認めることができない。過ちを他人のせいにして、その人を恨むほうが簡単だからだ。責任をその人にすっかり転嫁して、恨み続ける。そして、自尊心(self-esteem)を守るために、自分がしたことにふたをする。恨みは防御のメカニズムである。自分ではなく他の人が間違っているのだと自分を納得させるために、私たちは心のなかで繰り返し人を裁く。そうすることで、自分を正当化しようとするのである。3)

セルフ・エスティーム(自己評価・自尊感情)も私たちの本能の一つであることを忘れてはいけません。それは共存の本能の一部です。金銭欲や性欲と同じように、私たちは自尊感情が満たされれば気持ちよいし、それが妨げられれば(自己評価が傷つけば)不快になるのです。そしてセルフ・エスティームというのは、人間の本能の中で最も不安定で、最も暴走しやすい欲望の一つです。

自分が過ちを犯したとか、自分に欠点があるという真実は、自己中心的な人間の自尊感情を傷つけます(なぜなら、その人の自尊感情の本能は暴走しやすいからです)。

恨みにつながる出来事(第二列に書かれたこと)が起きたとき、最初はたいてい自分にも誤りがあることを認識できているものです。ブラウンが浮気のことを妻にバラしたことに腹を立てたとしても、そもそも自分が浮気という後ろ暗い行いをしていなければブラウンが暴露すべきことは何もなかったはずだ、と分かっているものです。しかし、私たちは恨みを持ち続けているうちに、相手をより悪人へと、そして自分は無実の被害者へと仕立て上げてしまうのです第103回(それを繰り返すとその技が研ぎ澄まされ、瞬時のうちに自分を無実化できる自己正当化人間ができあがってしまう)。

つまり私たちは、自分のしたことにふたをして、虚偽の情報で自尊心を守っているのです。だから自分の誤りは簡単には見つかりません。私たちは自分の誤りという真実を探し求めなければなりません。

他の人が何をしたか、あるいは、他の人がどれほど病んでいるかということは重要ではない。そのことについて、私たちにできることはない。しかし、もし自分の欠点に気づけば、それをなんとかすることはできる。原因をつねに自分の側の「欠点」のなかに探す理由はそこにある。4)

他の人が何か問題を抱えていたとしても、私たちにはできることはありません。もちろんそれは、他の人の迷惑行為に文句を言うなとか、善意の助言もするべきではないという意味ではありません。それをやっても相手が変わらなかったときに、私たちは恨みという形で反応することが良くないというのです。自己中心的な人間は「相手が変わるべきだ」ということしか考えず、「相手を変えるために自分にできることはもはや何もない」という現実に目を向けられません。

実際には相手の抱える問題がトラブルを引き起こしていて、その解決のために何かをしなければならないこともあります。しかしそれには、たいへんな手間や、時間や、お金などがかかることが多いものです。相手が考えを変えてくれれば、すぐにもトラブルが解決して、自分がそんなエネルギーを費やす必要がないのに、相手が変わらないせいで自分が苦労させられている・・・。そんな恨みにはまり込んでいるとき、私たちは「相手が変わるべきだ」ということしか考えられなくなっていて、自分がやる羽目になったことが、神から与えられた自分の役割であるとは考えもしません。

ところで、ビッグブックのこのページでは過ち(wrong)という言葉を使っていますが、ジョーは欠点(defect)という言葉を使っています。この違いは何でしょうか?

ステップ5には過ち(wrong)、ステップ6では欠点(defect)、そしてステップ7では短所(short-comings)という言葉が使われてます(pp.85-86)この三つの言葉はすべて同じものを指しています。第48回で説明したように、これはビッグブックの事実上の著者であるビル・Wが好んで使った修辞技法であり、彼の文章の特徴の一つです。ですから、欠点と短所の違いを議論しても意味がありません。私たちがステップ4と5で探し求める自分の過ちが、すなわち欠点であり、短所であり、ステップ6から先で取り組む対象なのです。

つまり、私たちは、相手の過ちや欠点を見つけてもそれには何もできないが、自分の過ちや欠点を見つければ、それを何とかするための道具12ステップを持っています。だから、常に自分の欠点を探せば良いのです。

サンプル

では、pp.94-95の棚卸しを見返して、自分の側の間違いを探してみましょう。


まず、先ほども書きましたが、ブラウンが浮気を妻にバラしてしまったことについては、そもそも自分が浮気という後ろ暗い行為をしていなかったら、ブラウンには妻に話すべきことは何もなかったはずです。そのような隠し事をしていること自体が不正直と言えるのではないでしょうか? (だからと言って、堂々と浮気すれば良いってもんでもありませんが)

また、ブラウンに固く口止めしたわけでもなく、ブラウンが「他には言わない」と約束してくれたわけでもないのに、彼が秘密を漏らさないでいてくれるという勝手な期待をして、彼がその期待に応じてくれなかったことを恨んでいるというのも、相当に自分勝手なことです。

ブラウンが仕事を奪おうとしている件も、実は彼にはそんな意図はまったくないのかもしれません。私(この表を書いた人物)が酒を飲んで仕事をサボっている間に、彼は彼自身の仕事を進めるために、やむなく私が放置していた仕事を代わりにやってくれたのかもしれません。それを、後になって職場に現れた私が、自分の仕事が片付いているのを見て、彼が仕事を奪おうとしているに違いない、と解釈して恨んでいるならば、それはまさに「逆恨み」です。これは自分の思い込み(p.97)による妄想的な恨みです。ブラウンにはむしろこちらが迷惑をかけたのですから、埋め合わせをするべきでしょう。ブラウンに迷惑をかけているという事実から目を逸らし不正直、相手を悪者扱いするなんて、なんとも自分勝手な考え方だと言えます。


ジョーンズ夫人に対しては、「私を冷たくあしらった」という理由で恨んでいます。アル中の私が一人で飲むのは淋しいからと、友人のジョーンズをしょっちゅう飲みに誘いだしていたのです。それだけでも迷惑なことなのに、ジョーンズは酒の飲み過ぎが原因で内臓を悪くし、入院することになりました。彼の奥さんからしてみれば、飲みに誘ってくるアル中(つまり私)こそが悪の根源なのですから、顔を合わせたときに冷たいあしらいを受けるのは当然です。当然の報いを受けただけなのに、それが気に入らないと恨んでいるのですから、これも逆恨みではないでしょうか。


雇い主に対してはどうでしょうか? 経費を水増し請求したぐらいの小さなことで、いきなり解雇すると脅すのはひどい話ですが、その裏にはどんな事情があるのでしょうか? この表を書いた人物(私)には愛人がいることを忘れてはなりません。経験者はご存じだと思いますが、浮気には金がかかるのです。自由に使えるお金をたくさん持っている人なら良いでしょうが、この人物は酒を飲んでいるせいで収入が不安定で、妻からいつも「生活が苦しい」と言われていることでしょう。だから当然、浮気に使う金にも苦労しているのです(もちろん酒を飲む金にも苦労しているけど)。浮気に使う金をどこかから手に入れたらよいのでしょうか?

そこで経費の水増し請求という手段を思いついたわけです。一度やってうまくいったからと、何度も繰り返しやっていれば、当然そうした不正はいつか発覚します。雇い主が最初にそのことに気がついたときは、単なる請求ミスだと思って簡単な注意だけで済ませたとしても、やがては「お前、いい加減にしないとクビにするぞ!」と警告せざるをえなくなるでしょう。そういう事情ならば、雇い主をひどい悪人と決めつけるわけにもいきません。むしろ、自分勝手悪事を働いて、雇い主を傷つけているのはこちら(私)なのですから。


ではに対してはどうでしょうか? 仕事で嫌な思いをし、疲れて帰ってきても、せめて家庭が温かい雰囲気なら救われるのですが、妻は理解がなくて口うるさいのです。どうして妻はいつも不機嫌なのでしょうか? こういう場合は、自分の振る舞いが妻にそういう態度を取らせているという可能性について考えてみなければなりません。酒を飲んでいるせいで、収入が不安定で生活が苦しいのに、その問題を解決しようともしない。そんな状態で、妻に明るい気分でいることを期待しても無理なことです。

そんな妻から安らぎが得られない(=感情的安全が満たせない)からと、外に愛人を作ってそちらで欲求を満たそうとしているのですから、なんとも自分勝手な話です。感情的安全が得たいなら、酒をやめ、収入を安定させ、夫婦で協力して生活を再建させることで信頼関係を取り戻すのが最も良い方法でしょうが、愛人を作るという安易な方法に流れてしまっているのです。


もちろん、こうした裏側のストーリーはビッグブックに書かれているのではなく、僕の創作したものです。ですが、棚卸しの裏にあるストーリーとは大半がこんなものだと思っていただいてかまいません。相手が悪いことをしていると思っていても、実はこちらが相手に迷惑をかけていて、相手の行動(第二列に書かれたこと)は相手が身を守るために行ったことにすぎない、ということが少なくないのです。

当然相手も人間であり、間違いもあるでしょう。だが、そこに目を向けず、あくまで自分の側の間違いを探していくということが大切です。

ジョーたちの表を使う

ジョー・マキューらの棚卸し表
ジョー・マキューらの棚卸し表

第103回で、ジョー・マキューらが作った棚卸し表を紹介しました。この表をもう一度取り上げましょう。

ビッグブックのpp.94-95の表は第三列までしかありませんが、この表には、第四列があります。そこには「利己的」「不正直」「身勝手、恐れ」「配慮・関心の欠如」という四つの項目が並んでいます。このうち、最初の三つは先ほどのp.98の段落にある言葉ですが、当然次の二つの疑問が浮かんでくるでしょう。

    • 利己的(selfish)と身勝手(self-seeking)は意味が似ているが、この二つをどう区別するのか? また、なぜ身勝手は恐れ(frightened)とセットになっているのか?
    • 配慮・関心の欠如という言葉はp.98には見当たらないが、どこから現れたのか?

利己的と身勝手

まず、利己的と身勝手の違いについてですが、辞書を引いてもこの二つの単語に大きな意味の違いはありません。どちらも自分勝手という意味です。また、ビッグブックや他のAAの文献の中にもこの二つの違いを説明しているところは見当たりません。だから、利己的と身勝手は同じものだと考える人たちもいます。

他方で、ビル・Wがp.98でわざわざこの二つを列挙したのだから、二つの間には違いがあるはずだと考えた人たちが、その違いについて様々なことを述べています(つまり、「利己的は○○、身勝手は××」という説明を試みている)。議論百出とまでは言いませんが、諸説ある中でそのどれが正しいのか僕には判断できません。しかし、ここで何も説明しないのでは不親切すぎるので、広く支持されている(であろう)説を一つ紹介しましょう。

自己中心性

ステップ3で、人は誰でも他の人を操作し、コントロールするために二つの戦略を使い分けている、と説明しました第93回第94回。戦略②は単純に自分の意志を他者に押しつけようとするやり方です。そして、戦略①は自己犠牲を通じて他者をコントロールしようとする方略です。そして、戦略①を採るのは、戦略②を採ることに恐れがあるからだと説明されていました。それを踏まえて、

    • 戦略①=身勝手
    • 戦略②=利己的

だと解釈します。つまり、どちらも似たように自分勝手なのですが、採用している戦略によって利己的であるか身勝手であるかを判断するのです。これは身勝手と恐れがセットになっていることの説明にもなっています。戦略②を採ると相手との間に対立や衝突を招きかねません。そのことに対する恐れが強いので、対立を回避しつつ自分の意志を押し通すために戦略②を採るというわけです。つまり、戦略①に常に恐れが伴っているということになります。この説明に従って第四列を記入していくと、自分がどのように他者をコントロールしようとしているか(どのように自分の意志を押し通そうとしているか)について理解が深まります。

思慮の欠如

では「配慮・関心の欠如」はどこからやってきたのでしょうか? これはp.101の

私たちはどこで自分勝手であり、不正直であり、思慮を欠いていたか。5)

という文からきています。これは性の棚卸しについて説明している部分ですが、ここでも自分の側の過ちを探すように述べています。

そして、p.98とp.101で述べられている自分の誤り(欠点)を並べてみると、

p.98 利己的
selfish
不正直
dishonest
身勝手 self-seeking
+恐れ frightened
p.100 自分勝手
selfish
不正直
dishonest
思慮の欠如
inconsiderate

となります。このうち、最初の二つは共通しているので、残りの「身勝手+恐れ」と「思慮の欠如」を加えて、全部で4項目にしたのがジョーたちの表の第四列なのです。

利己的
selfish
不正直
dishonest
身勝手 self-seeking
+恐れ frightened
思慮の欠如
inconsiderate

ですから、本来であれば、ジョーたちの表の第四列の4番目の項目は「思慮の欠如」と書かれているべきなのです。そうであったならば、思慮の欠如がp.98に見当たらないことに疑問を持った人たちは、p.101でその言葉を見つけて、第四列の成り立ちについて理解することができたでしょう。ところが、ジョーの本を翻訳した人たち(主にSさん)が、思慮の欠如という言葉が難しすぎると考えて、それを「配慮・関心の欠如」という言葉に変更してしまいました。そのおかげで人々が持たなくてもよいはずの疑問に頭を悩ませているのです。この変更そのものが inconsiderate な行いだったと言えるでしょう。

では、思慮の欠如とはどんな意味なのでしょうか? considerという動詞は、行動や決定をする前に良く考えることです(熟考する)。そこに反対の接頭語 in がついているので、in­con­sider­ate は「考えが浅い」という意味です。つまり思慮の欠如(inconsiderate)とは、深く考えることをせずに、軽率に何かを判断したり、行動してしまうことを言うのです(これが一番目の意味になる)。不注意、無分別、軽率、浅はか、といった意味です。6) ――この言葉が性の棚卸しのなかにあったことは意味があるのでしょう。性的な逸脱は、たいていは無分別で浅はかな判断から始まるからです。

そして、思慮の中身として、相手の気持ちを慮ることを含めると、相手の事情を考えない、思いやりのない、という意味も含むことになります(これが二番目の意味になる)

これを、「配慮・関心の欠如」と訳してしまうと、比較的マイナーな二番目の意味だけを指すと解釈されがちです。その結果、実はこれは「考えの足りないお馬鹿さん」という意味なのに、喜んでここにチェックを付ける人が増えるという笑えない事態を招いてしまっているのです。

まとめるとジョーたちの表は、人間の持っている自己中心性を、

    • 二種類の自分勝手さ――利己的(戦略②)と身勝手(戦略①)
    • 不正直さ――何らかの嘘やごまかし
    • 考えの浅はかさ――思慮の欠如

に大別しているのです。

どうやって自分の過ちを探すのか

さて、第四列を記入するにあたって、自分の誤りを見つけるのに苦労する人は少なくありません。いい加減に記入しておくと、ステップ5のときに、例えばスポンサーから「どうしてここで不正直にチェックを付けたのですか?」と理由を聞かれても答えられずにしどろもどろ、という事態を招いてしまいます。棚卸しは表を完成させるのが目的ではなく、自分の誤り(欠点)を探すことが目的なのですから、それではステップ4が済んだことにはなりません。

まず前回説明したように、第四列を記入する前に、第三列までの表全体を見直す作業をするべきでしょう。恨みが自分の人生に何をもたらしてきたかを知ることが大切です。さらに、だからとて恨みを自分の力で取り除くことも十分にはできない、という現実も知ることも必要です。そこで私たちは、自分ではできないことを神にお願いするという方法(つまり祈り)を始めました。ステップ3から先は、私たちは神の力を借りながら進んでいくのです。

とは言うものの、もう少し具体的な技法も必要でしょうから、ここで二つ紹介することにします。

私は何をしたか

ジョー・マキューとチャーリー・Pという二人のAAメンバーによる Big Book Comes Alive というAAセミナーは、1970年代後半に始まり、00年代半ばまで30年近くにわたって続けられました(ジョーたちが亡くなった後も他の人たちが続けていますが往事の勢いはないようです)。この30年間の終わり頃は、彼らは上に示した列が四つある表を使っていました。しかしそれ以前には、彼らは列が五つある表を使っていたことが分かっています。現在の第三列(本能)と第四列(欠点)のあいだに、「私は何をしたか」という列が設けられていました。7)

ジョーたちの列が五つある表の第四列の部分8)

2行目の説明を訳しておきます:

WHAT DID I DO?
Putting out of our minds the wrongs others had done, we resolutely looked for our own mistakes. What did I do, if anything, to set in motion trains of circumstances, which in turn caused people or institutions to hurt me and eventually led to may resentment of them for doing so?


私は何をしたか?
人の過ちはさておいて、私たちは自分自身の誤りだけを断固として厳しく見つめた。私は連鎖反応を始動させる何をしたか? それが誰かや人々に私を傷つけさせ、結果として私が彼らを恨むことにつながったのではないか?

ステップ3で、人々を操作しコントロールしようとする者は報復を受けることになる、という説明がありました(pp.88, 89, 第95回。私たちが相手の行為に腹を立てていたとしても、そういう態度を相手に取らせた原因は、こちら側の行いにあったのではないか? と問いかけています。

ジョーンズ夫人が自分を冷たくあしらったのは「相手の迷惑も考えずに旦那さんをしょっちゅう飲みに誘った」からであり、雇い主が解雇すると脅してきたのは「警告されたのに、その後も不正請求を続けた」からであり、妻が無理解で不機嫌であったとしてもそれは自分が「妻の言葉に耳を貸さなかった」からである・・・この列にそのようなことを書けば、そこから自分の過ち(利己的・不正直・身勝手+恐れ・思慮の欠如)を見つけ出すことは難しくないでしょう。

列が四つの表を使っている場合には、それを書く欄はありませんが、第三列に書き添えるか、表の余白に書けば良いでしょう。

第三列(本能)に着目する

もう一つの方法は、第三列に着目するものです。棚卸し表は、自分の過ち(欠点)を見つけるためのものですから、最も重要なのは第四列です。しかし、僕がジョー・マキューの後継者のラリー氏から教えられたのは、最も注目すべきは第三列である、ということです。

第三列は私たちの本能への影響を書く欄です。私たちは、第三列を「傷つけられた」という観点で記入してきましたが、それらは実は「満たすことを妨げられた欲望のリスト」なのです(p.94, 第103回。相手(第一列)の行為(第二列)によって、思い通りに欲を満たすことが邪魔されたからこそ、私たちは恨んでいるのです。

つまり、第三列は私たちの持っている理想と現実のギャップを示していると言えます。私たちは、自分ではあまり意識していませんが「このように欲を満たしたい」という自分なりの理想を持っています。その理想が実現していたなら、私たちは何も傷つかず、第三列には何も記入されなかったはずです(その場合には、そもそも恨みは生じなかったでしょうが)。しかし現実は私たちの理想通りにはならなかったので、私たちは腹を立てたのでした。

私たちは現実に起きたことを第二列に書きました。書いたことは現実そのものではないかもしれませんが(単なる自分の思い込みかもしれない)、少なくとも私たちが現実をどう捉えているかを表しています。それに対して、棚卸し表には「このように欲を満たしたい」という自分の理想を書く欄はありません。それでもあえてそれを意識して言語化してみるのです。

例えば、ブラウンに対しては「特に口止めしなくても、私の秘密(愛人の存在)は口外しない」という理想を持っています。また、ジョーンズ夫人には、「自分が相手に迷惑をかけても、いつも自分には温かく接してくれる」という理想を持っています。雇い主に対しても「何度不正請求をしても何も言わずに見逃してくれる」という理想を持っていて、妻に対しては「生活苦を強い、外に愛人を作っても、そんな私をいつも理解し、優しく接してくれる」という理想を持っています。

理想という言葉を使いましたが、相手に対する期待と言い換えても良いでしょう。このようにして言語化してみると、非現実的な理想、自己中心的な期待を相手に押し付けていることがわかります。自分の本能が暴走している様子が見て取れ、第四列を記入する材料が手に入るでしょう。

自分には全く落ち度がないように見えても

自分には全く落ち度がない、と言い切りたくなる場合もあるでしょう。それでも、恨みの表に載った以上は、自分の側にも間違いは必ずあるのです。

しかし子供の頃に親から虐待されたという場合はどうなのでしょうか? こういうケースでは、子供時代の自分に誤りがあったから虐待された、というような分析をしてしまうのは良いやり方とは言えません。なぜなら、どんな理由があれ子供は虐待されべきではないからです。

であっても、第四列には何も記入しなくて良いということにはなりません。なぜなら、表を書いているのはすでに大人になった自分だからです。虐待があったのは子供の頃のことなのに、なぜ今の自分がそれを恨んでいるのか、それについて検討する必要があります。

このような「自分の側には落ち度がない」というケースについて、上に名前を挙げたラリー氏がこんな話をしてくれたことがありました。それは、セントラル・パーク・ジョガー事件Central Park jogger caseの被害者についての話です。

ニューヨーク市にはセントラル・パーク という大きな公園があります。かつてビル・Wが入院したタウンズ病院もこの公園のすぐ隣りにありました。1989年4月19日の夜、この公園をジョギングしていた若い白人女性が暴行を受け、レイプされるという事件が起きました。4時間後にこの女性が発見されたとき、彼女は全裸で、猿ぐつわをかませられ、縛られ、上から土を被せられていました。石で殴られたせいで頭蓋骨は複雑に骨折し、左目は眼窩から飛び出し、大量の失血と内出血で瀕死の状態で当然意識もありませんでした。

報道では彼女の名前は伏せられ、セントラル・パーク・ジョガーと呼ばれていたために、それが彼女とこの事件の代名詞として使われるようになりました。彼女の生命は助からないとみなされ、終油の秘跡(臨死の人に油を塗るカトリックの儀式)が行われました。

であるものの、彼女は12日後に奇跡的に意識を取り戻しました。しかしあまりにも重大な暴行を受けたために、しゃべることも、歩くこともできなくなっていました。また、事件の前後の記憶を失っていました。それでも彼女は懸命なリハビリの結果、3か月後には歩けるようになり、なんと事件の8か月後には仕事に復帰したのでした(彼女はイェール大学 を卒業し、ソロモン・ブラザーズ 銀行に勤める投資家でした)。だが、暴行を受けたことによる心身の後遺症は長く残りました。

この事件が日本でも知られているのは、これがたいへんな冤罪 事件に発展したからです。この事件が起きた1時間ほど前に、ティーンエイジャーのグループがこの公園でジョギングしていた人たちを暴行して金品を奪うという事件が複数発生していました。警察は黒人とヒスパニック のティーンエイジャー5人を逮捕し、セントラル・パーク・ジョガー事件の犯人も彼らであると断定しました。5人は裁判で有罪を宣告され服役しました。だが、2002年に事件は予想外の展開を見せるのです。

別の殺人とレイプの罪で終身刑を受けていた服役囚が、セントラル・パーク・ジョガー事件の犯人は自分であると自供したのでした。DNA鑑定もそれを裏付け、5人は無実だったことが明らかになりました。なぜそのような冤罪事件が起きてしまったのかというと、直接にはジョガー事件のころはDNA型鑑定 が採用されておらず、もっぱら少年たちの自供に頼った有罪立証が行われたことが大きいのでしょう。セントラル・パークは、成功した白人が住むアッパー地区と、ヒスパニックや黒人が多く住むハーレム地区を結んでおり、犯人は貧しい有色人種に違いないという決めつけがありました。この一件は、アメリカの警察・司法制度における人種差別を象徴する事件として人々の記憶に残り、その後も映画が作られたりしています。

I Am the Central Park Jogger
I Am the Central Park Jogger

ただ、ここで取り上げたいのは冤罪のことでも、人種差別のことでもありません。被害者の女性のことです。彼女はトリシア・メイリPatricia Ellen Meili, 1960-)といい、2003年に自らがこの事件の被害者であることを明かして I Am the Central Park Jogger: A Story of Hope and Possibility (私はセントラルパーク・ジョガー――希望と可能性のストーリー)という回想録を出版しました。9) 当然彼女は冤罪事件や犯人についての質問を受けることになったのですが、それに対して彼女は「誰が犯人かは関心がありません。私はただ人生の障害(それが何であろうと)を克服して、人生の道を再び歩くことができることを人々に伝えたいのです」と述べました。そして、性被害を受けた人たちの社会復帰を助ける団体を立ち上げて活動しています。

そう、恨みは克服可能なのです。そして、自分の経験をもとに同じ境遇にいる人たちを手助けしたり、社会を変えていくのに恨みのパワーは必要ありません。

アルコールが手放せない人は、アルコールがもたらす利益をまだ手放す気になれないでいる人たちです。恨みについても同じことが言えます。子供を虐待しない親に育てられていれば、無用な苦労を背負い込まなくても済んだとしても、自分には子を虐待する親しか与えられなかった――それは変えようのない現実であり、受け入れるほかないことです。人生にはときに理不尽なことが起きるものです。その理不尽さを受け入れることができないところに私たちの過ちがあるのです。

もちろん、私たちのこのプログラムは完全に実行できるものではないことも忘れてはいけません(pp.86-87)。私たちが成長するにつれて恨みが克服されていくとしても、成長はひと晩で起きるものではありません。長い取り組みが必要なこともあるでしょう。ただ、自分一人だけの力で恨みを克服しようとしなくても良いのです。私たちは、他の人たちを、そして何よりも神を頼るという手段を身に付けつつあるのですから。

過去を正す気持ちになる

正直に自分の誤りを認め、それをきちんと正そうという気になった。1)

「過ちを正す」とは、埋め合わせ、すなわちステップ8・9のことです。埋め合わせとは何か、具体的に何をすれば良いのかはステップ8・9のところで説明しますが、十分に棚卸しができているのであれば、すでにステップ4の時点で埋め合わせをする意欲を持つようになっているはずです。積極的に埋め合わせしたい気持ちにはなれないかもしれませんが、「自分の過ちをそのままにしておくべきではない」という思いを持つようにはなっているでしょう。

そのことが重要です。ステップ4のような、具体的な作業を伴うステップでは、棚卸表の書き方や、表が完璧に書けているかどうかに関心が向いてしまいがちです。しかし大事なことは、そのステップに取り組んだ結果として私たちに起きる変化です。ビッグブックには、各ステップでどのような変化が私たちに起きるかが書かれています。恨みの棚卸しでは、恨みを持ち続けることで相手に支配されてしまうことへの気づき、恨みを取り除くために神を頼るやり方を始めること。そして、自分の過ち(欠点)を見つけ、相手に埋め合わせをする意欲が生じてくるという変化が述べられています。

次回は恐れの棚卸しに入ります。

今回のまとめ
  • もう一度棚卸表を見直して、自分の誤りを探す
  • 私たちは、相手の過ちはいくつも挙げることができても、自分の過ちはなかなか見つけられない
  • それは私たちが責任を相手に転嫁し、自分のしたことにふたをして、虚偽の情報で自尊感情を守っているからである
  • 恨みは克服可能である(それはときに容易ではないが)
  • 十分に棚卸しができていれば、埋め合わせへの意欲が生じてくる

  1. BB, p.98[][][]
  2. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『ビッグブックのスポンサーシップ』, 依存症からの回復研究会, 2007, p.99[]
  3. ジョー・マキュー, pp.99-100[]
  4. ジョー・マキュー, p.100[]
  5. BB, p.101[]
  6. Merriam-Webster, Merriam-Webster Dictionary (m-w.com), 2023[]
  7. 現在ネット上で見つけることができる彼らのビッグブック・スタディ(Big Book Comes Alive)の音声データは、たいてい列が五つあった時代の録音である。当然、それらの録音(およびそれを文字起こししたもの e.g. Joe McQ. and Charlie P., Joe & Charlie: The Big Book Comes Alive, 2014)では、ジョーたちは棚卸し表は五列あるものとして説明している。だが一緒に配布されている棚卸し表は四列のものであることが多く、説明と齟齬が生じている。[]
  8. ジョーたちの配付資料を誰かがワープロに打ち直したものだと思われる。配布していたサイトはすでに消失している。[]
  9. Trisha Meili, I Am the Central Park Jogger: A Story of Hope and Possibility, 2003, Scribner[]

2024-08-21

Posted by ragi