12ステップのスタディ (5) NAの始まり 2

『心の家路』ではRSS フィードにエントリの全文を配信していました。それはRSSリーダーで全文を読めた方が便利だろうという意図でした。しかしこのブログの文章は長めで、しかもWordPressの処理が重いためにしばしばタイムアウトエラーが起きていました。そこで、全文ではなく抜粋だけ配信するという設定に変更しました。RSSリーダーを使って読んでくださっていた方には不便になる変更ですが、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

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前回の振り返り

前回は、現在のNAが始まるまでの歴史を追いました。

  • AAが始まってすぐにAAで薬物嗜癖者(アディクト)たちが回復し始め、そのことがアディクトのためのグループを作る動機となりました。
  • AAメンバーのヒューストン・Sは1947年にレキシントンの連邦麻薬ファームでアディクツ・アノニマスのミーティングを始めました。ただこのミーティングは施設の中にしか存在せず、入所者たちが地域に戻った後のサポートはAAに頼っていました。
  • ヒューストン・Sの手助けを受けて霊的体験をしたダニー・カールトン(ダニー・C)は1950年にニューヨークで地域版のアディクツ・アノニマスのグループを始め、それをナルコティクス アノニマス(NA)と名付けました。このNAはその後20年以上活動を続けましたが、グループ間のサービス機構を持たなかったために大きく発展しませんでした。
  • ロサンゼルスのベティ・Tは、ヒューストンやダニーの影響を受け、1951年にハビット・フォーミング・ドラッグスHFDという薬物嗜癖に焦点を当てたAAの特別ミーティングを始めました。

そして1953年6月に、ロサンゼルスでもNA(まだそう名付けられていませんでしたが)のミーティングが始まりました。その参加者の中に、後にこのグループのリーダーを引受け、現在のNAの創始者とみなされるジミー・Kがいました。

NAの創始

前回・今回に登場する団体間の関係を図にしてみました。実線の矢印と人名は、ある共同体で回復した人たちが別の共同体の設立に関わったことを示します。破線の矢印は何らかの協力や影響があったことを示します。

今回も、特に示さない限り、出典は『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』1)、およびその第二版2)(未訳)

ジミー・K

Jimmy Kinnon
from Every Addict’s Friend: Jimmy K.3)

ジミー・KJimmy Kinnon, 1911-1985)は、1911年にスコットランド で生まれましたが、一家は典型的なアイルランド人のカトリックで、酒を飲み、歌い、踊り、物語を語ることが日常に織込まれているなかで育ちました。ジミーは酔っ払いのクルックシャンク(Mr. Crookshank)という人物と親しくなりました。その後、その人物が精神病院に収容されたと聞いて会いに行き、心身ともに荒廃してしまったその姿を見て、大人になったらクルックシャンクのような人々を助けるようになる、と母親に語りました。

ジミーの父親は1921年にアメリカに移住し、2年後にジミーの母と5人の子どもたちが合流しました。ジミーは子どもの頃からカンフルチンキや祭壇のワインを盗み飲むようになりました。大人になった彼は屋根と塗装の職人となり、最初の妻と結婚し、5人の子どもをもうけましたが、その頃になるとコデイン とアルコールと丸薬のせいで「肉体的にも、精神的にも、霊的にも破綻し」「男としても、夫としても、父親としても、惨めな落伍者になっていた」といいます。

彼は1950年2月2日にAAに加わり、アルコールとすべての薬物をやめました。そして、前述のベティが始めたHFDのミーティングに出席し、ニューヨークのダニーとも連絡を取るようになりました。当時の記録や後年のインタビューから、ロサンゼルスのNAを作る努力が、ニューヨークのNAの影響のもとで行われたことははっきりしています。

ジミーは、ヒューストン・Sや、ダニー・Cや、ベティ・Tのように、人の回復を手助けすることに熱心でした。ジミーの娘キャシー(Cathie Linder)は、家の前に駐車していた彼女の自動車に飲酒運転の車が突っ込んできた事件のことを語っています。ジミーはその酔っぱらいの男を家に連れ込み、コーヒーを一杯ごちそうし、警察に連行される間、その男に助けを求めるように勧め、援助を申し出ました。また、あるNAメンバーは後にジミーについてこう語りました。「ジミーのメッセージの伝え方には、摩訶不思議なところがありました。人々が彼に近づくと、自然に回復したいという気持ちへと傾くのです」と。

現在のNAの設立とNAの12ステップ

1953年の8月、6人が参加して新しくできたグループの第一回の organizational meeting(設立準備会議?)が開かれました。そして9月の会議でジミー・Kが代表に選ばれました。AAの名前を使うべきではないことは分かっていたので、ジミーがニューヨークのNAの知識にもとづいてナルコティクス アノニマス(Narcotics Anonymous, NA)と名付けました。そして「ナルコティクス アノニマスの12のステップと12の伝統に従ういかなるグループもこの名称を使用することができる」と定められました。そして継続してミーティングを開くことが決定され、1953年10月5日、カリフォルニア州サンバレーSun Valleyのダッズ・クラブ(Dad’s Club)と呼ばれる場所で最初のミーティングが開かれました。初期のミーティングの出席者は10~35人でした。

ダニー・カールトンが1950年に作ったニューヨークのNAと、3年後にロサンゼルスで始まったNAは、同じ名前を共有していたものの、その活動のモデルには違いがありました。ニューヨークのNAのメンバーはモルヒネやヘロインの「純粋なアディクト」で、アルコールには関心が無く、AAともほとんど接触しませんでした。また、12のステップは採用したものの、12の伝統は採用していませんでした。例えば、積極的にメディアに露出することでNAの存在を世間に知らせましたが、その際にダニーはフルネームを使用していました。

それとは対照的に、ロサンゼルスのNAは創始者のうち3人がアルコールと薬物の両方の嗜癖を持ち、AAで回復した経験から12のステップと12の伝統を厳格に守ることを強調していました。NAグループがこうした原則から逸れると、このようなブリッジメンバー(bridge member)たちはNAを去ってAAに戻りました。したがって、ロサンゼルスのNAがニューヨークの影響で始まったにしても、ニューヨークのNAを祖とするとは言えないだけの相違がありました。

もう一つ、ロサンゼルスが現在のNAの始まりだとされる理由は、翌54年にNAの12ステップが作られたことです。

AAの12ステップを他の分野に適用させるのは、実はそれほど単純なことではありません。AAのステップ1には「アルコールに対して無力」、ステップ12には「このメッセージをアルコホーリクに伝え」とあります。このアルコールアルコホーリクという言葉をどのような言葉に置き換えるかが、他の分野に12ステップを適用する場合にまず検討が必要になる部分です。

アディクツ・アノニマスで使われた12ステップは、その初期には、ステップ1が「アルコールと薬物(alcohol and drugs)に対し無力」、ステップ12が「このメッセージをアルコホーリクやアディクト(alcoholics and addicts)に伝え」となっていました。やがてアルコールが除去され、それぞれ「薬物に対して無力」と「このメッセージをアディクトに伝え」になりました(下線は筆者)

ニューヨークのNAは、アディクツ・アノニマスのステップを採用し、「薬物に対して無力」と「このメッセージをアディクトに伝え」を使っていました。このNAは中央サービス機構を持たなかったため、グループによっては違うステップを使っていたところもありました。

ロサンゼルスのNAでも、文言をどうするかの議論があり、「アルコールと薬物」や「麻薬(narcotic drugs)」や「薬物」が候補に挙がるなかでジミー・Kが議論に勝ち「私たちのアディクション(our addiction, 私たちの嗜癖)」が採用されました。AAではほとんど使われなかったアディクションという言葉を選んだことは注目に値します。

これには三つの効果があった、とホワイトは『列伝』で述べています:

    • 一つは、アルコールを含むすべての薬物の放棄を受け入れることによって、アディクトに起こりがちな薬物移行の問題に対処できたことです。つまり、ヘロインをやめた人が酒を飲むようになったり、コカインを使うようになる、という問題を避けることができました。
    • 二つ目は、初期のメンバーはほぼ麻薬使用者に限られていたものの、麻薬以外の薬物を選んだ人たちがNAメンバーになる道を開いたことです。
    • そして三つ目は、アディクション(薬物嗜癖)を疾患と定義し、アディクトたちを「病んだ」人と定義したことです。

AAにしても、ニューヨークのNAにしても、その後に誕生したいくつかの12ステップ共同体にしても、どれも「単一の物質」の使用に焦点を当てました。それに対してロサンゼルスのNAは、特定の薬物の使用にではなく、アディクションのプロセスに焦点を当てました。そのプロセスとは、「精神的な強迫観念と身体的なアレルギー」というAAの概念を援用したものですから、アディクションのプロセスという概念が新たに作り出されたわけではありません。しかし、それまでは、薬物の種類ごとに生じてくる障害も違えば、その治療や回復の過程も異なっているはずだと考えられていたものが、特定の物質(初期のメンバーはほぼ麻薬)の使用経験に着目するのではなく、物質使用によって引き起こされるアディクションのサイクルを識別の対象としたことによって、概念的なブレークスルーを引き起こしました。それについて後にNAの理事がニューズレターにこう書いています:

Drugs are a varied group of substances, the use of any of which is but a symptom of our addiction. When addicts gather and focus on drugs, they are usually focusing on their differences, because each of us used a different drug or combination of drugs. The one thing we all share is the disease of addiction. It [defining N.A.’s First Step in terms of addiction] was a masterful stroke. With that single turn of a phrase the foundation of the Narcotics Anonymous Fellowship was laid.4)


ドラッグは多様な種類の薬物の群であり、そのどれを用いたとしても、それは単に私たちのアディクションの症候なのである。アディクトが集まってドラッグに焦点を当てるとき、たいてい彼らはその違いに注目してしまう。なぜなら皆が違うドラッグ、あるいは違うドラッグの組み合わせを使っていたからだ。私たちに共通しているのはアディクションという病気だ。NAのステップ1をアディクションという観点から定義したことは見事な一撃だった。この一言によって、ナルコティクス アノニマスの共同体の礎が築かれたのだった。(拙訳)

使用する物質が違っても、アディクションのサイクルは皆に共通しており、そこに皆の注意を向けることで、薬物の種類という垣根を越えたアイデンティフィケーションの成立を可能にしたのでした。

崩壊と再生

1953年に始まったロサンゼルスのNAはミーティングを続けましたが、それは良く言って「断続的あるいは散発的(periodic or sporadic)」なものでした。ミーティングの場所の確保に苦労して、しばしば個人の家で開かれ、コーヒーポットとカップのセットが場所から場所へと移動していきました。

このNAが崩壊してしまったのにはいくつか理由がありますが、大きな理由の一つが、1954年9月にリーダーを引受けたサイ・M(Cy M.)の強引なリーダーシップでした。サイはAAメンバーでもあり、戦時中の戦闘で負傷した後に鎮痛剤の中毒になっていました。サイはNAの強引なプロモーションを展開した結果としてサン・クエンティン州立刑務所 にまでNAが作られるという拡大をもたらした一方で、その支配的なスタイルはメンバー間の対立を引き起こし、創立メンバーたちは運営委員会から身を引いていきました。

1959年までにミーティング会場は一ヶ所だけに縮小し、12の伝統への意識も薄れたために、ジミーはミーティングへの参加をやめました。決定的だったのは1959年秋にサイがテレビに出演したことで、対立が決定的なものとなり、サイもリーダーを降りざるを得なくなって、同時にミーティングも開かれなくなりました。

その時に、ジミーを含む3人のメンバーが集まり「逆境の建築家(the Architects of Adversity)」という名の新しいNAグループを始めました。これが後にNA内部で「マザーグループ(Mother Group)」と呼ばれることになるグループです。

この1959年の臨死体験を通じて、NAは一人の支配的メンバーに頼ることや12の伝統から逸脱することの危険性を学びました。この崩壊によってNAの歴史がその「前」と「後」で分割され、「現在のNA(N.A. as we know it today)」という言葉は1959年末に灰の中から再生した新しいNAをさして使われるようになりました。

新しいNAが発展を遂げることができたのは、ミーティングの開き方をそれまでとは変えたことでした。それまでのNAは、定期的(regularly)にミーティングを開いていませんでした。ミーティングの場所を確保する苦労もありましたが、定期的に開催することでアディクトたちが集まっている場所が世間に知れれば、麻薬の密売人が入り込んで取引を試み、麻薬の秘密捜査官も潜入してくることが心配されたからでした。いきおいNAのミーティングは内密なものにならざるを得ず、世間のアディクトたちはNAを見つけるのに苦労しました。ジミーはミーティングが同じ場所で定期的に開かれるように粘り強い努力を続けました。彼はそのことについて、「私たちは必ず回復するWe do recover」というNA文書の中で触れています:

 アディクトたちでさえ、私たちが考えたやり方ではできないと言ったものだった。だが私たちはミーティングのスケジュールはおおっぴらにすべきだと信じていた――どこかの集まりがやってみたように、人に隠れてこそこそ集まるのはやめた。またこの方法は、ほかで試みられたあらゆる方法、つまり、できるだけ長期間、アディクトをこの社会から隔離させることを主唱する人たちが試みた方法とは一線を画すものだと思った。アディクトが日常生活のなかで出合う問題にできるだけ早く直面できるようになれば、それだけ早く本当に生産的な市民になれると感じていた。私たちもいずれは自分の足で立ち、自分で人生に向き合わなければならない。だとしたら、最初からそうすべきではないだろうか。5)

予想されたとおりのトラブルも起きたようですが、それを乗り越えてNAは成長を続けました。1964年にはミーティングは五つ、71年には38へと増加しました。

NAの文献の成立とAAからの独立

現在のAAの最も最初の文献は、1954年から56年にかけて、ジャック・P、サイ・M、ジミー・Kによって書かれたパンフレットです。その中には現在も愛読されている『今日だけ(Just for Today)』という一節があります。

NAホワイトブックレット
『NAホワイトブックレット』

再生したNAではジミー・Kたちがさっそく新しい文献作りを行い、「アディクトとは?Who Is an Addict?」「自分に何ができるのか?What Can I Do?」「ナルコティクス アノニマスのプログラムとは?What Is the NA Program?」「なぜ、私たちはここにいるのか?Why Are We Here?」「回復とリラプスRecovery and Relapse」が1960年に書かれ、「私たちは必ず回復するWe Do Recover」が1961年にできあがりました。この一連の文書にステップと伝統をを加えて、1961年に『NA ホワイト・ブックレット』Little White Booklet、別名 White Bookが出版されました。1966年にはこれに個人のストーリーが追加されました。この小冊子は、その後約20年間NAの唯一の主要文献として貢献し、現在の日本のNAミーティングでも広く使われています。

NAの12のステップ
  1. 私たちは、アディクション(our addiction)に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
  2. 私たちは、自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちは、私たちの意志といのちを、自分で理解している神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 私たちは、徹底して、恐れることなく、自分自身のモラルの棚卸表を作った。
  5. 私たちは、神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
  6. 私たちは、これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
  7. 私たちは、自分の短所を取り除いて下さい、と謙虚に神に求めた。
  8. 私たちは、私たちが傷つけたすべての人のリストを作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
  9. 私たちは、その人たち、または他の人々を傷つけないかぎり、機会あるたびに直接埋め合わせをした。
  10. 私たちは、自分の生き方の棚卸を実行し続け、誤ったときは直ちに認めた。
  11. 私たちは、自分で理解している神との意識的ふれあいを深めるために、私たちに向けられた神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
  12. これらのステップを経た結果、スピリチュアルに目覚め、この話をアディクトに伝え、また自分のあらゆることにこの原理を実践するように努力した。6)

1970年代になると、NAにもAAのビッグブックに相当する基本テキストが必要だという意見が出されましたが、その後10年近く進展がありませんでした。しかし1979年に第1回世界文献会議が開かれ、それから三年間をかけて共同体全体から草の根的に意見が集約されて執筆が進み、1982年に全体承認を経て、83年に『ベーシック・テキスト』が出版されました。

NAはその歴史の大部分を通じてAAの大きな影の中に「有名な親の連れ子」として存在していました。現在のNAは、AAの「ブリッッジメンバー」たちによって設立され、彼らはAAの12のステップと12の伝統を元にNAプログラムを作り、自分の回復のためにはAAを利用していました。NAメンバーが回復するためには、AAのミーティングに出て、AAのスポンサーを得て、AAの文献を読むことが必要だとされていました。当時のNAメンバーが次のように語っています。

… everybody went to AA. Nobody would have even attempted—it would have been viewed as foolhardy and half-stepping-to try to stay clean solely on NA meetings. NA members simply didn’t have the clean time.7)


・・・みんなAAに行った。NAのミーティングだけでクリーンを保とうとするのは、無謀で中途半端だと見なされていたと思う。NAのメンバーたちは単純にクリーンタイムを持っていなかった。(拙訳)

『NAベーシックテキスト』
『NAベーシックテキスト』

だが、AAでビッグブックの出版が共同体の成長の起爆剤になったように、苦労して作られたNAのベーシックテキストはホワイトブックレットだけに頼っていた時代にはあり得なかったNAミーティングの急激な増加をもたらしました。それが結果として、NAの純粋主義運動(purist movement)を出現させました。AAはアルコールという一つの物質に焦点を当てた言葉遣いをしているのに対し、NAはむしろ特定の薬物から焦点をずらす必要性から別の用語を使いました。アディクトがAAとNAの両方に行った結果として、「アルコホーリクでアディクト」と名乗ったり、「クリーンでソーバー」を目指すという表現を使うと、それはアルコホリズムとアディクションは別の病気であり、アルコールだけは他の薬物とは別物で、アルコールについて語るときにだけは別の用語セットが必要であるという意味が生じてきます。その違いは社会がこの二つを別の規制対象として扱った結果なのですが、NA共同体においてはAA用語とNA用語の混用がNAメッセージのインパクトを損なっているとみなされるようになりました。NAミーティングの増加は、アディクトがNAだけに行き、NAだけでサービス活動を行い、NAプログラムへの理解を深めることで回復できる時代をもたらし、NAのAAからの独立を実現しました。

これによってAAも、クローズドミーティングに入ってくるアディクトたちや、アルコール以外の薬物を使った経験の分かち合いに悩まされることがなくなりました。

NAミーティング数の推移
NAのミーティング数の推移, from White (2014) and na.org

まとめ

AAが始まってすぐにアルコール以外の薬物への嗜癖を持った人たちがAAに参加するようになりました。そして、その人たちはアルコールの問題を持たない「純粋なるアディクト」たちの回復のために、AAとは別の集まりを作る努力を始めました。

その努力はなかなか実を結びませんでしたが、1950年代から60年代にかけて、二つの大きなブレークスルーが起こりました。一つは、薬物の種類にかかわらず(アルコールを含めて)すべての薬物を放棄の対象としたことでした。これによって、特定の薬物の使用体験にではなく、アディクションのプロセス(強迫観念と強迫的摂取)に焦点を当てるNA独自の文化が生まれました。もう一つは、それまでミーティングを内密に行っていたものを、その場所とスケジュールを公開したことでした。一見したところアディクトたちを危険にさらすそのやり方が、実際には共同体の安定的な存続をもたらしました。

1980年代初頭にNA共同体の基本テキストが完成すると、NAミーティング数の爆発的な増加が始まりました。このことは、共同体の発展のためには十分に作り込まれた基本テキストとその利用が欠かせないことを示していると思われます。NAの12ステップの解釈や疾病概念は、AAの「引き写し(レプリカ)」とまで言われるほどにそっくりそのままですが、唯一の決定的な違いは、前述のとおりすべての薬物を包括的に扱い、特定の薬物使用体験ではなくアディクションそのものに着目している点であり、NAはそのためにAAとは異なった用語セットを採用しました。

AAで回復した「ブリッジメンバー」たちの努力がかたちを成すのには、およそ40年の時間が必要でしたが、いまやNAは「アディクトたちに回復のメッセージを運ぶ」という役割を自分たちでこなせるようになっています。

次回はNAの創始についてのQ&Aです。

今回のまとめ
  • NAの12ステップの解釈はAAの引き写しであるが、単一の物質の使用体験にではなく、アディクションのプロセスに焦点を当てたことで、NA独自の文化が育った。
  • NAの場合にも、回復のプログラムを詳述した基本テキストを作成したことが、ミーティングの急激な増加とAAからの独立をもたらした。

  1. ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007.[]
  2. William L. White, Slaying the Dragon: The History of Addiction Treatment and Recovery in America 2nd ed., Chestnut Health Systems, 2014.[]
  3. Cathie Kinnon Lindner, et.al., Every Addict’s Friend Jimmy K. : Reflections of a Daughter, Lindner & Roehm, 2020.[]
  4. From the Trustees: Some thoughts on our relationship with A.A. (1985). Newsline. via White, 2014, pp.338-339.[]
  5. NAWB, pp.16-17, 一部原文に合わせて訳を変更した.[]
  6. NAWB, pp.4-5.[]
  7. Interview with Dave F., The NA Way Magazine, 15(3). via White, 2014, pp.338-339.[]

2024-04-2112ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi