ビッグブックのスタディ (13) 医師の意見 4
道徳心理学(moral psychology)
「医師の意見」のp.xxxiv (34)に進みます。
私たち医師は長いこと、アルコホーリクには何らかのかたちの道徳心理学が必要で、それが差し迫ったことであるとも認識していたのだが、その実際の適用については、私たちの構想ではどうにもならない困難があった。1)
アルコホーリク(の回復)には何らかのかたちの道徳心理学(moral psychology)が必要なのに、医療の現場では提供できなかったと言っています。この一文を読むと、三つの疑問が湧いてきます。
① 道徳心理学とは何か?
② なぜそれが必要だと認識したのか?
③ なぜそれを提供できなかったのか?
①の道徳心理学については、先を読み進めていくと分かります。知性的な人の文章は、結論が先頭にあり、その後に理由の説明が続くという順番で書かれています。ビジネスシーンでは「結論から先に言え」と言いますし、裁判の判決文も刑の言い渡し(主文)が先頭です。2) ビッグブックも基本的に「結論→理由の説明」の順で書かれています。
②の、なぜ道徳心理学が必要だと考えたのか? シルクワース医師の治療の成功率はかなり低かったようで、AAが始まる以前は、実際に回復したのは「わずか約2%だった」と彼自身が振り返っています。3) 50人に一人しか回復しないのでは「俺たち何やってんだろうな」と虚しさを感じても無理はありません。自分たちの提供している医療だけでは不十分で、何かを付加する必要を認識したのは当然でしょう。これは、彼の仕事に対する実直な姿勢を示していると言えます。
③は、次へ読み進めていくと分かります。
何にでも科学的にアプローチするという超近代的な基準を持つ私たちは、人間の知識を集めたものを超えたところに存在する善の力を使うなどというやり方には、不慣れでついていけない。1)
これが③の疑問の答えです。ではこの「人間の知識を集めたものを超えたところに存在する善の力」は何を指しているのでしょうか? 人間を超えた存在ですから、これはハイヤー・パワー(神)のことです。
ビッグブックでは、力(power)という言葉は、たいてい神(God)を意味します。
さて、医学は自然科学の一分野です。医療はサイエンスに基づいて提供されています。神の存在は科学的に立証することはできませんから、医療は神という概念は使いません。医者が診察室で神を語ることもありません。
ここまで読めば道徳心理学が何を意味するのかお分かりいただけるでしょう。つまり道徳心理学とは「神という概念を使った方法」であり、それには12ステップも含まれます。ドクター・ボブは、自分たちのスピリチュアルな方法を「道徳心理学」と呼んでいました。4)
平たく言うと、シルクワース医師はこう言っているのです。「アルコホーリクの回復には、12ステップのような神を使った方法がどうしても必要だとずいぶん前から分かっていたのだが、しかし医学はサイエンスであるから、医者の立場で神という概念を使って治療を行うわけにはいかないんだよ」と。
ビル・Wが始めたニューヨークのAA
次の段落に進みます:
数年前、この本を作るのに大きな貢献をした一人のアルコホーリクがこの病院にやってきて、治療を受けた。彼は入院中に一つのアイデアを得、それをすぐ実際に適用してみせた。1)
「この本を作るのに大きな貢献をした一人のアルコホーリク」とはビル・Wのこと。彼が得たアイデアとは、エビーから教えてもらった12ステップの原型です。それからビルは、シルクワース医師に頼み込んで病院の患者たちに会わせてもらい、アルコホーリクたちに自分と同じことをするように勧めました。その結果、「多くのアルコホーリクの人たちが感嘆しないではいられない変わり方を示した」と、シルクワース先生は述べています。
アメリカでは1920年から33年まで禁酒法が施行されていました。酒の販売が禁じられた影響は大きく、1930年代初めまでに、アルコホーリクが入院・入所できるような施設はほとんど閉鎖されてしまいました。残った病院も治療費は高額で、大不況で貧しくなったアルコホーリクは、どれほど苦しんでいても行き場がありませんでした。5)
そこで登場してきたのは、怪しい通信販売の治療薬で、毎日服用するだけでアディクションが治ると宣伝していました。もちろん効果はありません。6) シルクワース医師が雇われていた病院も、金持ち相手に効果の薄い治療法を高額で提供するという点では、あまり褒められた商売ではありませんでした。
禁酒法時代とその後しばらくは、困っている人たちに効果の薄い(あるいは効果がまったくない)治療を高額で売りつける商売が横行した時代でもありました。シルクワース医師はそうした商売の片棒を担がされていたわけです。彼は大恐慌 (1929)で自分のクリニックを潰してしまっており、安い賃金で雇われて働くしかない立場でした。そんな彼が仕事に「閉口」していたのは当然でしょう。
対照的に、AAメンバーたちは金銭的利益や名声を求めずに他のアルコホーリクを手助けを始めたので、そんな彼らの活動を見たシルクワース先生は、感じるところがあってAAの支持者になってくれたのでありましょう。
AAメンバーは二つのものを信じている
ところで、p.xxxiv (34)の最後の一文には明らかな誤訳があります。
彼らには自分たち自身を、そしてそれ以上に、別のアルコホーリクを死の門から連れ戻してくれる一つの力があることを私は信じている。1)
They believe in themselves, and still more in the Power which pulls chronic alcoholics back from the gates of death.7)
この訳だと、シルクワース先生が「AAにはアルコホーリクを死の門から連れ戻してくれる力が備わっている」と信じているように受け取れますが、原文の意味は違います。そもそも主語がThey、つまりAAメンバーです。訂正するとすると:
彼ら
には自分たち自身を、そしてそれ以上に、別のアルコホーリクを死の門から連れ戻してくれる一つの力があることを私は信じている。
彼らは自分たち自身を、そしてそれ以上に、アルコホーリクを死の門から連れ戻してくれる一つの力を信じている。
もう一度質問します。この「アルコホーリクを死の門から連れ戻してくれる一つの力」は何を指しているのでしょう? ・・ハイヤー・パワー(神)ですね。先ほど、力=神という話をしました。
平たく言うと、シルクワース先生の一文はこういう意味です。
そして仲間以上にハイヤー・パワー(神)を信じている。
これは大変重要なセンテンスですが、そこに誤訳があるのが残念です。AAはメンバーになにも義務を課しません。ハイヤー・パワーを信じることも強制しません。だから信じていないメンバーはたくさんいます。しかし、12ステップをやった人たちは、基本的に仲間を信じており、そして仲間以上に「人間を超えた何か」を信じているものです。
ジョー・マキューが作ったステップ2の図をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。権利の関係でここに掲載はできませんが、『ビッグブックのスポンサーシップ』のp.64、 『12ステップ・ガイドブック』のp.43に掲載されています。この図の左半分には「仲間との関係」が、右半分には「ハイヤー・パワーとの関係」が描かれています。おそらくこの図はビッグブックのこのセンテンスから着想を得て作られたものでしょう。
p.xxxiv (34)にはハイヤー・パワーを示す言葉が2回出てきました。医師の意見には、問題(ステップ1)だけでなく、解決(ステップ2)の情報も混じっています。ただし、ハイヤー・パワーが何かという情報は、もちろん医師である彼からは語られないのです。
- 力 = 神
- シルクワース医師はアルコホーリクの治療に神という概念を使った手法の必要性を感じていたが、医療がそれを提供することは難しかった。
- そこにビルたちが現れて無償でアルコホーリクの手助けを始めた。
- 彼らは仲間を、そして仲間以上にハイヤー・パワーを信じている。
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- BB, p.xxxiv (34).[↩][↩][↩][↩]
- 死刑判決など聞き手にとって最悪の結論を伝えるときは、心の準備をさせるために、例外的に結論が後回しになる。[↩]
- アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, p.58.[↩]
- DBGO, p.171.[↩]
- ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, p.125 — 依存性薬物の使用が禁止されている現在の日本の状況にも通じる話です。[↩]
- ibid., 第8章.[↩][↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.xxvii.[↩]
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