ドクター・ボブ
ドクター・ボブ ― Dr. Bob
ロバート・ホルブルック・スミス(Robert Holbrook Smith, 1879-1950)。外科医。
AAの共同創始者であり、医師として生涯で5,000人以上のアルコホーリクを診察し1)、全米から患者を受け入れ、無償で「AA治療」を行った。ビル・Wは、ドクター・ボブを「十二番目のステップの第一人者(the Prince of all Twelfth Steppers)」と呼んだ。2)
1879年バーモント州 セント・ジョンズベリーで生まれた。父スミスは判事のほかに、州議会議員、教育長などを務める名士だった。アマンダ(Amanda C. Northrop)という21才年上の里子の姉がいたが、ボブは姉と一緒に暮らしたことはなく事実上の一人っ子として育てられた。
セントジョンズベリーアカデミー 寄宿学校で、後に結婚するアン・リプリー(Anne Ripley Smith, 1881-1949)と出会い、交際するようになった。アンとボブの結婚が、出会いから17年も要したのは、ボブの酒が止まるまでアンがボブの求婚を拒んでいたからだと推測される。
ボブは母方の祖父にならって医者になることを志したが、母親の反対に遭い、ダートマス大学 に進学。卒業後は営業の仕事に就いたが熱意はなく、財布の許す限り酒を飲み続ける生活だった。3年後、彼は家族を説得し、1905年、26才でミシガン大学 医学部(University of Michigan Medicine)に入学した。しかしその頃からアルコホリズムの進行が顕著になり、2年生の時に卒業を諦め大学を離れた。いったんは復学を許されるものの、最終的に退学になり、ラッシュ医学大学(Rush Medical College)に転学した。そこでもボブの飲酒はさらに悪化し、最終試験では手の震えで鉛筆が持てず、少なくとも3科目の解答用紙を白紙で提出した。その結果、さらに2学期大学に残ることになった。
1910年、31才でボブは医学の学位を得て、オハイオ州のアクロン市立病院でインターン実習に入った。その2年間はあまりに多忙で飲酒の問題は起こらなかったという。インターンが終わると、彼はアクロン市内にクリニックを開設した。しかし、酒のせいでしばしば仕事ができなくなり、断酒療養のサナトリウムに12回、病院に1回入院したが効果はなかった。
1914年には父により故郷ヴァーモントに連れ戻され、実家に4ヶ月滞在した。すっかり酒が怖くなった彼は、その後禁酒法が始まるまで約5年禁酒を続けた。この間、1915年に教師をしていたアンと結婚し、アードモア・アベニュー855番地に新居を購入した。1918年には息子ロバート(愛称スミッティ)が誕生した。(1924年にはスーを養女に迎えた)。
1919年には禁酒法が成立した。「これで安心だと思った」とボブは後に述べている。4) なぜなら、合法のうちに酒を買い溜めしても、飲み尽くしてしまえば、もう手に入らないと考えたからだ。だが、禁酒法にはいくつも抜け穴があり、医師は医療用のアルコールをほぼ無制限に手に入れることができ、また酒の密売人も多く出現した。彼はあっというまに飲んだくれに戻り、その後17年間悪夢の飲酒を続けることになった。
1929年には、メイヨー・クリニック とトーマス・ジェファーソン大学 で研修を受け、肛門及び直腸外科の専門医の資格を取得した。
1933年初めに、ボブとアンはオックスフォード・グループと接触し、やがてボブはグループのミーティングに欠かさず出席するようになった。多くの時間を割いてその哲学を探究したが、彼の酒は止まらなかった。1935年の3月か4月のこと、ヘンリエッタ・サイバーリング(==en|Henrietta Buckler Seiberling, 1888-1979)は友人から、知り合いのアン・スミスの夫ボブに深刻な飲酒の問題があることを聞かされた。そこでT・ヘンリーとクラレスのウィリアムズ夫妻(T. Henry and Clarace Williams)に声をかけ、彼らの家を会場に使わせてもらって、ボブの飲酒問題を解決するためのオックスフォード・グループのミーティングを始めた。しかしボブの酒は止まらず、彼らは必要な導きが神から与えられることを祈るしかなかった。
ビル・Wとの出会い
1935年5月11日、仕事でアクロンを訪れていたビル・Wは、自分の再飲酒を防ぐためには、誰かもう一人のアルコホーリクに話をしなくてはならないと考えた。彼は教会の一覧を頼りに電話をかけ、三人の人物5) を介して紹介されたのが、ドクター・ボブだった。翌日の晩、二人は出会い、6時間話し込んだ。
それによって、ボブはいったん酒をやめたが、翌6月アトランティック・シティでのアメリカ医師会(American Medical Association)の総会に行く列車の中で飲み始め、飲んだくれに戻ってしまった。家族とビルは、泥酔状態で帰宅したボブの解毒を行ったが、ボブには6月10日に執刀しなければならない手術があり、その日の朝もまだ離脱で手が震えていた。それを抑えるためにビルが渡したビールが、ボブの最後の酒になった。
ドクター・ボブは、この日、自分が迷惑をかけた人たちに埋め合わせをして周り、夜遅くなって帰宅した。オックスフォード・グループの原理を学んでいながら実行に移せなかったボブにとって、それが初めての実践だった。AAではこの日を創始者たちの日(Founders’ Day)と呼んでAAが事実上創設された人して扱っている。6) 7)
二人はアクロンでアルコホーリクやその家族に働きかけを始めた。
すぐにエディー・R(Eddie R.)という男が見つかったが躁うつ病もありうまくいかなかった。8)
6月末には「AA第三の男」と呼ばれるビル・D(Bill D.)が加わった。彼は「ベッドの上の男」という絵画のモデルである。
7月末にはアーニー・G(Ernie G.)という若者が加わった。10) 11)
ビル・Wがニューヨークに帰った8月末にはフィル・S(Phil S.)という若者が加わった。この3ヶ月間に多くの失敗例もあったものの、こうしてできあがった「アルコホーリク集団(alcoholic squad)」は、ほぼ毎晩誰かの家に集まり、さらに水曜日の晩にはウィリアムズ夫妻の家に家族やオックスフォード・グループのメンバーと共に集まった(オープン・ミーティングの源流である)。
無償でアルコホーリクを治療
ドクター・ボブは、アルコホーリクを自分のクリニックで診察し、またアクロン市立病院(現Summa Health Akron Campus)に入院させたが、自分の診療費は請求しなかった。彼の専門である直腸手術の需要は少なかったため収入は少なく、自宅を抵当に取られそうになった。これを救ったのが、ビル・Wがジョン・D・ロックフェラー2世 (1874-1960)から提供を受けた5,000ドルの献金で、その内3,000ドルがボブの家の抵当権の買い戻しに使われた。
アクロン市立病院の理事会はドクター・ボブがアルコホーリクを入院させることを黙認していたが、1939年にビッグブックが出版され、サタデー・イブニング・ポスト 誌で取り上げられた結果、多くのアルコホーリクがドクター・ボブに助けを求め入院数が増加したため、病院はアルコホーリクの入院を拒むようになった。
その代わりに患者を引き受け始めたのが、シスター・イグナナシア(==en”]Sister Ignatia[/wiki], 1889-1966)が勤めていた聖トーマス病院(St. Thomas Hospital)12)だった。その後これは「AA病棟」と呼ばれるアルコホリズム病棟に発展した。
晩年・子孫
1948年夏、ドクター・ボブは自らの癌に気づき、失明した妻アンと過ごすために病院を辞め、クリニックも閉じた。49年6月にアンが亡くなり、翌50年11月16日にボブも71才で亡くなった。
著作は少なく、AAとしては AA Grapevine 誌に書いた記事があるのみである。ビル・Wの手紙への返信もたいてい一枚の紙に用件が殴り書きされただけだった。自ら「私は12ステップを執筆したわけではない。起草には直接かかわることはなかった」と述べている。
ドクター・ボブの飲酒と回復の体験記は、ビッグブックに「ドクター・ボブの悪夢」という題で収録されている。
息子スミッティ(Robert “Bob” “Smitty” Ripley Smith II, 1918-2004)は、第二次世界大戦ではパイロットとしてアフリカで戦い、戦後は民間パイロットを経て、テキサス州で石油採掘業を営んだ。テキサス州オコナ市に住み、市議を8年間、市長を2年間務めた。最初の妻ベティ(Elizabeth Louise Anderson Smith, 1920-1998)がアルコホーリクになったためにアラノンのメンバーとなった。毎年多くのAA・アラノンのコンベンションに招待されて父らの話をした。妻ベティとは50年以上連れ添い、一男二女をもうけ、孫も複数ある。2002年にモナ・サイド(Mona Lou Lyerla Sides-Smith, 1933-2016)と再婚。継娘が3人。2004年心不全で没したとき「AA創始の最後の目撃者が亡くなった」と報じられた。13)
養女スー(Suzanne Windows, 1918-2002)は再飲酒したアーニーと父の反対を押して1941年に結婚し、息子ミッキー(Mickey)と娘ボンナ(Bonna)をもうけたが、アーニーは何度も再発を繰り返した。1965年に離婚し、スーは最初の婚約者であった同級生のレイ・ウィンドウズ(Ray Windows)と再婚した。1969年、23才になった娘ボンナは6才の娘と銃で心中し、アーニーも2年後に亡くなった。14)
参照:
・無名性(アノニミティ)について
・ビッグブックのスタディ (5) 再版にあたって 2
・ビッグブックのスタディ (6) 再版にあたって 3
外部リンク:
・Dr. Bob’s Home, Akron, OH 44302
・Dr Robert Holbrook “Bob” Smith (findgrave.com)
- BB, p.241.[↩]
- AA, P53 – The Co-Founders of Alocholics Anonymous: Biographical Sketches and their Last Major Talk — Alcohlics Anonymous (aa.org), AAWS, 1978, p.34.[↩]
- DBGO.[↩]
- BB, p.246.[↩]
- ウォルター・タンクス牧師(The Reverent Walter Tunks)、ノーマン・シェパード(Norman Sheppard)、ヘンリエッタ・サイバーリングの3人。ヘンリエッタはタイヤメーカーであるグッドイヤー社の創業者社長サイバーリングの義理の娘である。[↩]
- AAはオックスフォード・グループから次第に分離して始まったので、創始の日付は後から決められたものである。この日に二人が出会ったわけでもないことに注意。[↩]
- アメリカ医師会の記録によると、この年の年次総会は6月10日から14日に開かれており、そのことからドクター・ボブが酒をやめた実際の日付は6月10日よりも数日後、おそらく6月17日であろうと推測される — Glenn Chesnut ed., Names & Events in the A.A. Big Book — From the members of the AA History Lovers, Hindsfoot Foundation, 2014.[↩]
- エディーは14年後の1949年にオハイオ州ヤングスタウンのグループでソブラエティを達成した。また、アクロンでは二人目のエディー・Rも活躍したので、混同しないように注意が必要 ―― People in AA’s History — Silkworth.net, 2017/9/18.[↩]
- Man On the Bed: A.A. Number Three — box 459, Vol. 58, No.1 (aa.org), AAWS, 2012[↩]
- BB, pp.231-232.[↩]
- アーニーは後にボブの娘アンと結婚し、二児をもうけたが、最終的にアルコホリズムで命を落とした。― Silkworth.net, loc. cit.[↩]
- アクロン市立病院と聖トーマス病院は、Summma Healthに統合された。[↩]
- LAST EYEWITNESS OF AA’s ORIGINS DIES IN MEMPHIS — Barefoot’s World (barefootsworld.org).[↩]
- Biography: Ernie G., “The Seventh Month Slip” — Silkworth.net, 2017/9/18.[↩]
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