エビー・T
エビー・T — Ebby T.
エドウィン・スロックモートン・サッチャー(Edwin Throckmorton Thacher, 1896-1966)。AAの共同創始者ビル・Wの学友で、後のスポンサー。エビー・サッチャー(Ebby Thacher)とも。
ビッグブックの第一章にビルの「学生時代の友人」として登場する。若くしてアルコホーリクになったが、オックスフォード・グループの人たちの手助けを受けて回復した。ビルに、カール・ユング医師とローランド・ハザードの会話の内容、およびオックスフォード・グループの原理を伝えたことで、AAの創始に重要な役割を果たした。
1896年ニューヨーク州 オールバニで六男一女の末子として生まれた。本名は Edwin であるからEddieと呼ばれるべきところを、なぜEbbyと呼ばれるようになったのかは不明である。
祖父・伯父・兄がニューヨーク州都オールバニの市長を務め、父は鉄道の車輪を鋳造する会社を経営するなど、一族は名家として知られていた。
サッチャー家は、リゾート地であるバーモント州 マンチェスター(Manchester)に別荘を持ち、エビーら一家は毎年夏の長い期間をそこで過ごした。彼は小学校から地元の名門オールバニ・アカデミー(The Albany Academy)で学んだが、高校時代の1年間はマンチェスターのバー・アンド・バートン校(Burr and Burton Academy)で過ごし、その時にビル・Wと学友になった。
兄たちは学業・スポーツともに優秀で、プリンストン大学 や法学校に進み、事業を興していったのに比べ、末子のエビーは落ちこぼれだった。1915年に高校を中退したエビーは父の会社に購買係として雇われたが、すでに飲酒の問題が顕在化していた。
1922年には父の会社が解散し、その後のエビーは職を転々とした。1929年には父が亡くなり、少なくとも15万ドル(現在の日本円に換算して2億円以上)の遺産を相続したが、5年後にオックスフォード・グループのメンバーに助けられる頃には、その遺産をほぼ使い果たしていた。
1932年には、兄ジャック(John Boyd Thacher II, 1882-1957)がニューヨーク州知事選挙の民主党候補の一人になっため、醜聞を防ぐためにエビーはマンチェスターに追いやられた。
オックスフォード・グループとの出会い
1934年夏、オックスフォード・グループのメンバーたちが、バーモント州アーリントンに集まっていた。実業家で富豪のローランド・ハザード、弁護士のセブラ・グレーブス(Cebra Q. Graves, 1898-1979)、株式ブローカーのシェップ・コーネル(Francis Shepard Cornell, 1899-1985)は、三人とも酒によるトラブルのエピソードがあったが、今日のAA的な意味でアルコホーリクと言えるのは、カール・ユングの治療を受けたローランドのみだった。ローランドの別荘で伝道活動について話し合う中で、セブラは知人のエビーが近くのマンチェスターで酒を飲み続けていることを思いだし、シェフを誘ってエビーを訪れた。だが、エビーは良い反応を示さなかった。
しばらく後、エビーは別荘のペンキを塗り直した。それが完成したところへ鳩がやってきたので、彼は塗り立てのペンキを汚させまいと、泥酔状態のままショットガンを乱射して追い払おうとした。私有地内とはいえ、別荘地域で銃を乱射したことが通報され、公衆酩酊(public intoxication)の罪で逮捕された。彼が逮捕されるのは三回目で、州法で三回逮捕された者は最低でも半年間刑務所に収監されることになっていた。週末だったため、判事はエビーに月曜にしらふで来るようにと言い渡して、彼を家に返した。
エビーの自宅の地下室には4本のビールが冷えていた。彼は離脱の苦しみを和らげるために、それを飲みたいと思ったが、飲むのはフェアではないと考えると飲むことができなかった。近くの友人にビールを譲り渡すと、彼は解放された感覚を味わい、何年かぶりに神に祈った。
月曜日にエビーが裁判所に戻ると、そこにローランドがいた。ローランドが身元を引き受けると申し出て、判事がそれを許可したため、エビーは収監を免れた。
エビーは一週間ほどローランドの世話になり、オックスフォード・グループの教義やカール・ユングの話を伝えられた。それからエビーはニューヨークのシェップのアパートに移り、さらにサミュエル・シューメイカーが開設したカルバリー伝道所という救貧伝道所に移った。
ビル・Wとの再会
エビーはカルバリー伝道所のスタッフとして過ごすうちに、高校時代の学友ビル・Wが酒を飲み続けて困難に陥っていることを知った。
11月下旬、エビーはビルの家を訪問した。これをきっかけとして、ビルは4回目の入院をし、霊的体験を経て酒をやめ、エビーと協力して他のアルコホーリクが酒をやめる手助けを始めた。ビルがもう一人のAA共同創始者ドクター・ボブと出会うのは、翌35年の5月である。
エビーはカルバリー伝道所を出て、ビルやロイスと同居し、時にはローランドらの伝道活動に加わった。1936年にはオールバニに戻って仕事に就いたが、37年4月にニューヨークに旅をし、女性とのデート中に飲酒を始めてしまった。この時までの彼の断酒期間は2年半だった。
その後のエビー
その後のエビーは、ビル・Wや他のAAメンバーの世話になりながら酒をやめるものの、仕事に就いてしばらくすると再飲酒して飲んだくれに戻る、というパターンを何度も繰り返した。ビルやエビーの兄たちは経済的援助や入院や施設を手配したが効果はなかった。それでも、酒をやめているときのエビーは他のアルコホーリクの手助けがうまく、彼のおかげで回復できたアルコホーリクも多かったという。度重なる再発にもかかわらず、ビルは生涯エビーをスポンサーと呼び続けた。
1950年頃には、ニューヨークでホームレス状態になり、AAのオフィスに現れてはメンバーに金をせびる生活が続いた。1953年にはテキサス州 のAAメンバーの手配でダラス に移り、その地で一度再飲酒があったものの、以後は安定して酒をやめた。AAの集りに招かれて話をし、コンベンションではビル・Wとも再会した。エビーの話の録音が残っているのはこの前後のものである。AAメンバーの経営する印刷会社に雇われ、これがエビーにとって最も長く続いた仕事になった。
1961年には、長年の喫煙から肺の状態が悪くなり、交際していた女性が亡くなったショックを乗り越えられずに再飲酒した。この時の断酒期間は7年だった。
晩年・評価
ニューヨークに戻ったエビーは、兄の家、ビルとロイスの家、施設に滞在したが、飲酒は繰り返され、健康状態は次第に悪化していった。最終的にはビルの手配でマーガレット・マクパイク(Margaret McPike, -1982)が運営していたマクパイクファーム(McPike Farm)に預けられ、そこでマーガレットやスタッフの世話を受けながら、1966年3月に心筋梗塞で亡くなった。最後の2年間は断酒が続いていた。
結婚歴はなく、子はいない。兄の一人ケン(Kenelm Roland Thacher, 1892-1966)もアルコホーリクだった。
ビル・Wは AA Grapevine の1966年6月号にエビーの追悼文を寄稿した。その中で「すべてのAAメンバーはエビーが開けたその偉大なる門をくぐって神のもとの自由を見つけた」と述べた。
エビーの伝記を書いたメル・B(Mel B.)は、その本の中で、エビーが最初にオックスフォード・グループと接触してから亡くなるまでの32年間のうち、通算して15年間の断酒を得たことを指摘し、「長い期間にわたるソブラエティを賞賛することはかまわないが、私たちはトラブルを抱えながらも、ソブラエティの世界に生還してくる人たちに特別な賞賛を送るべきではないか」と問いかけた。
参照:
・無名性(アノニミティ)について
外部リンク:
・Edwin Throckmorton “Ebby T” Thacher (findgrave.com)
- Mel B., Ebby: The Man Who Sponsored Bill W., Hazelden, 1998.[↩]
- Bob S., Ebby in Exile – A Vital AA Link, 2016.[↩]
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