ウィリアム・D・シルクワース
ウィリアム・D・シルクワース — William D. Silkworth
William Duncan Silkworth(1873-1951)、アメリカの医師。
1930年代にニューヨークのチャールズ・B・タウンズ病院に勤務し、AAの共同創始者ビル・Wを治療した。シルクワースがビルに教えたアルコホリズムの疾病概念が、後のAAの12ステップのステップ1の基礎となった。医療関係者としては最初のAAの支持者であり、その発展を支えた人物である。
1896年にプリンストン大学 で学士を取得、1899年にはニューヨーク大学 のベルビュー医科大学院(New York University School of Medicine)を卒業、ベルビュー病院(Bellevue Hospital)でインターンシップを過ごした。
1919年から29年まで、マンハッタンの長老派病院の神経学研究所(Neurological Institute of Presbyterian Hospital)で次席医師として働いていた。
1920年代にはクリニックを開業し、さらに新しく設立される病院の株式の予約に資金をつぎこんだ。その投資は彼にその病院での地位を約束してくれるはずだったが、1929年の大暴落で投資は無駄になり、自分のクリニックも失ってしまった。2)
タウンズ病院
シルクワースがチャールズ・B・タウンズ病院で働き出した時期については資料により違いがある。タウンズ病院は1901年に設立された病院で、金持ちのための「酒抜き病院」として知られていた。アメリカの富裕層、ヨーロッパの王族、中東の石油王などが利用していた。だが週給で働くシルクワースの「賃金は気の毒なほど安く、週に40ドル、食事付きだった」とビル・Wは述べている。2) それはデパートに勤めていたロイス(ビルの妻)の賃金の倍にすぎなかった。シルクワースは、ビルが現れる以前は、自分の治療によって実際に回復したアルコホーリクは約2パーセントにすぎなかったと評価した。3)
ビル・Wの治療
1933年秋にタウンズ病院に入院したビル・Wは、シルクワースからアルコホリズムの疾病概念を学んだ。それは後にAAの12のステップのステップ1の基礎となった。
ビルは1934年12月に4回目の入院した数日後に、病室の中で white light あるいは hot flash と彼が表現する宗教的体験をした。シルクワースにしてみれば、それは薬物療法が引き起こした幻覚あるいは精神錯乱だと説明した方が楽だったであろう。なぜなら、タウンズ病院でアルコール解毒に使われていたベラドンナ は一部の患者に幻覚とせん妄を引き起こすことが知られていたからだ。だが彼はそう説明せずにビルの話を聞き、それが回心の体験であり、そうした体験によってアルコホリズムからの解放が起こりうると本で読んだことがあると説明してビルを安心させた。なぜなら彼の目から見てビルに明確な変化が起きていたからであった(そしてビルの妻ロイスの目から見てもその変化は明らかだった)。5) 6)
ビルは他のアルコホーリクを助ける活動を始めたが、オックスフォード・グループの教義とホット・フラッシュの話ばかりするために人びとから敬遠され、失敗を繰り返していた。シルクワースは、アルコホーリクに説教をするのではなく、シルクワースのアルコホリズムについての学説である身体のアレルギーと精神の強迫観念という説明を使うことでアルコリズムという病気の絶望的な面を伝えるようにビルにアドバイスをした。それに従ったビルが、最初に成功した相手がドクター・ボブだった。7)
AAの支援者として
シルクワースは職業上のリスクを冒しても、AAメンバーがタウンズ病院の入院患者に接触できるように計らった。また、ビッグブックに寄稿した文章が「医師の意見」として掲載された。さらに彼は、ビッグブックの出版資金を貸し付けるように病院の経営者のチャールズ・B・タウンズ(Charles B. Towns, 1862-1947)を説得すなど、初期のAAの発展に協力した。
1945年には、シルクワースはアッパー・マンハッタンのニッカーボッカー病院(Knickerbocker Hospital)にアルコール病棟を作り、6年後に亡くなるまでその責任者を務めた。タウンズ病院よりも安価な治療を提供することが目的だった。彼はそこで、AAメンバーの看護師ティディー・R(Teddy R.)を助手として、約7千人のアルコホーリクを治療し、その多くが回復した。
ビル・Wはシルクワースの退職後の生活を支えるために、ニューハンプシャー州ダブリン近くの回復施設ビーチヒル(Beech Hill)での仕事を用意した。だがシルクワースはその職に就く前の1951年3月に心臓発作で亡くなった。77歳あるいは78歳だった。ビルは未亡人の生活のために25,000ドルの基金を募った。
ビルを初めて治療し、ビルのタウンズ病院での体験の間、ずっと彼とともにいた。“シルキー”は、最初のころの私たち自身よりも、もっと私たちの集まりを信頼してくれた。まだ世に知られていなかったころに、博士は私たちを勇気づけ、世間に推奨してくれた。また、この病気の本質である「身体的アレルギーと精神的強迫」という知識を与えてくれた。AAの回復のプログラムの発展に無くてはならない貢献をした人である。この“優しい小柄な先生”は、その生涯に四万人のアルコホ-リクの治療をした。— AACA8)
論文:
・”Alcoholism as a Manifestation of Allergy,” Medical Record, March 17, 1937 ― 「アレルギーの徴候としてのアルコホリズム」
・”Psychological Rehabilitation Of Alcoholics”, Medical Record, July 19, 1939
・”A New Approach to Psychotherapy in Chronic Alcoholism,” The Jurnal-Lancet9) Vol 46, July, 1939 —「慢性アルコホリズムの精神療法への新しいアプローチ」AACA, p.456.
外部リンク:
・William Duncan Silkworth
・Dr William Duncan Silkworth (findgrave.com)
- Mike O., The Roundtable of AA History – Silkworth.net, Silkworth.net, 2001.[↩]
- PIO, p.101.[↩][↩]
- アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, p.58.[↩]
- Horward Markel, An Alcoholic’s Savior: God, Belladonna or Both? – New York Times, New York Times, 2010-4-19.[↩]
- PIO, pp.121-124.[↩]
- ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, pp.127-128.[↩]
- AACA, pp.101-103.[↩]
- AACA, 「草創期の人と場所」ページ[↩]
- 有名な医学雑誌のThe Lancet(出版社はオランダのElsevier)とは別の雑誌(出版社はミネアポリスのLancet Publications)である。[↩]
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