ビッグブックのスタディ (84) 私たち不可知論者は 11

「個人の物語」の重要性

第81回で取り上げましたが、ビッグブックの後半には「個人の物語パーソナル・ストーリー」と呼ばれるセクションがあって、回復の体験記が掲載されています。英語版のビッグブックではそれが全ページ数の3分の2を占めています。そのぶん本が厚くなり持ち運びに便利とは言えません(ソフトカバー版でも厚さが3cmほどある)。それでも必要があるからこそ、42編もの体験記が掲載されているのでしょう。

一方、ビッグブックの日本語版――その中でも多く使われているポケット版・文庫版――は、前半部(第十一章まで)は英語版と共通ですが、後半の体験記は「ドクター・ボブの悪夢」が収録されてのみで、それ以降は省かれています。ミーティングで使うために持ち運ぶことを考えれば、ビッグブックはある程度小さく軽い本でなければなりません。しかしそのために字を小さくすれば読みにくいと言われ、紙を薄くすればめくりにくいと苦情が来てしまいます。しかも、求めやすい価格にすることも必要なのですが、大量に部数がはける英語版と違って、日本語版の販売部数は少なく、量産効果によって価格を下げることもできません。そのようないくつかの条件を勘案した結果、体験記の大半を割愛することでバランスを取らざるを得なかったのです。

そんな事情を知っていたので、日本語版に「個人の物語」が収録されていないのは、やむを得ないことだと思っていました。しかし、それによる弊害もあると気づきました。

ビッグブックは当事者が当事者に語りかける内容になっています第10回。前半部の第一章から第十一章もそうですし、後半部の体験記もそうです。

それは、かつて酒を飲んでいたけれど今はもう飲んでいないアルコホーリクAAメンバー)が、まだ酒をやめ切れていないアルコホーリクに対して、かつての私たちはこのようであった、と語ることによって、読者がAAメンバーと同じように飲酒の問題を抱えていることに気づき、自分も同じように酒がやめられると希望を持てるような内容になっています。いわばそれは、ステップ1について伝えるための話法です。

そのような「自分がかつて飲んでいた頃について語る」のは、日本のAAメンバーも得意とするところです。しかし、あらためて「個人の物語」を読み直してみると、もう一つのことが語られていることに気づかされます。

それは、かつては不可知論者だったが今はもう神の存在を確信しているアルコホーリク(AAメンバー)が、まだ不可知論者のままでいるアルコホーリクに対して、かつて不可知論者だった頃の自分はこうであったと語っていることです。それによって読者は、自分もかつてのAAメンバーと同じように不可知論者であることに気づき、そんな自分でも偏見を捨てて信仰を持てるようになれると希望を持てるような内容になっています。つまり、ステップ2について伝えているのです。

『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語』

ステップ1を伝える話法と、ステップ2を伝える話法は、基本的に同じです。1) このように、かつて不可知論者だった頃の経験を話す――同時に今は何らかの信仰を持つようになったことも示す――ことによって、解決(ステップ2)とは何かを伝えていくのがAAのやり方であるはずです。であるのに、私たちがそのことに気づきにくいのは、使っているビッグブックから「個人の物語」の大半が除外されているおかげで、私たちが先人たちの表現法に触れる機会が少なくなっているからではないでしょうか。

これまで分冊で出版されてきた「個人の物語」が、一冊の本にまとめられて、多くの人に読まれるようになることを強く願っています。

論理は良いものだ

さて、ビッグブックの第四章の続きです:

 論理というのは良いものだ。私たちはそれが好きだった。いまも好きだ。2)

ビル・Wたちは、論理(logic)が好きだ、と述べています。71ページからのここまでの議論は、読者を論理的に説得しようと試みるものでした。不可知論者は自分の知能(intelligence)を拠り所にして生きているわけですが第80回、それは自分の論理的思考を頼りにしているということでもあります。ビル・Wは、不可知論者に対しては情に訴えるのではなく、論理を用いて説くしかないことを分かっていたのでしょう。

ビル・Wたちもかつては不可知論者でしたから、論理を好んでいました。そして、彼らは神を信じるようになっても、以前と同じように論理的な思考に頼り、論理的であることを好んでいるわけです。

ビルは、論理とは、

    • 推論する
    • 感覚がもたらした証拠を吟味する
    • 結論を導き出す

という力であると説明しています。そして、人間がそのような能力を持っているのは偶然ではないと主張しています――「偶然ではない」とは、神によるもの、という意味です。つまり、私たち人間に論理的に考える能力が備わっているのは、神がそれを人間に与えたからだ、という思想が背景にあります。

神が与えたもの

私たち人間は、性欲や承認欲求のような欲望を持っていますし、恨んだり、恐れたり、罪悪感を持ったり、人を疑ったり、愛したりする能力も持っています。人間がそのような能力や機能を備えているのは、神がそれらを私たちに与えたからだ、とする考え方があります先行的恩寵 。そして、神が人間に与えるものは、どれも素晴らしいものばかりです(だって恩寵なんだもん)。――恨みや恐れですら、素晴らしいものだというのは不思議に思うかもしれません。神が人間に与えた能力には、すべて本来の用途があるのです。その本来の用途に使われる限りにおいて、恨みや恐れですら善いものなのです。ですが私たちは神から与えられた能力や機能をしばしば過剰使用(overuse)したり、本来の用途を越えて誤用(misuse)してしまうのです。するとそれらは私たちに害をもたらすようになり、私たちトラブルに巻き込まれることになります。このような考え方が12ステップ全体を貫いています。3) ここから先のステップで、そうした考えが出てくるたびに説明を加える予定ですので、ここではこれ以上の説明は控えます。

このような考え方に従えば、論理(論理的思考)は神が人間に与えた素晴らしいものであり、私たちはその能力を大いに鍛え、その機能を大いに活用すべきなのです。同時に、論理が通用する範囲は限られており、それを越えたものに論理を適用しようとすれば、それは論理を濫用・誤用することになり、良い結果は得られなくなります。

論理の限界

ビルたちと不可知論者たる読者の間には――神を信じるようになっているかどうかという違いはあっても――論理を好んでいるという共通点があります。だからこそ、合理的(reasonable)な解釈に適さない提言(神の存在を信じろという提言)には納得できない、という読者の気持ちに理解を示しています。

それでもビルたちは、神を信じるべき理由を何とかして論理的に説明しようと、71ページからこの77ページまで努力を重ねてきました。しかし、ここで率直に、

    • 自分がいま持っている信仰がなぜ合理的(reasonable)なのか
    • どうして信じないより信じることのほうがずっとまともで論理的(logical)だと考えるようになったのか
    • 疑問が解けないで「どうしてもわからない」と投げ出した時の自分の考え方が、あまくて中途半端なものだったとなぜ平気で言えるようになったのか

という3点について、合理的な説明をするのに苦労している、と告白しています。

つまり、彼らは自分が持っている信仰が「合理的だ」と考えているわけですが、ではなぜ合理的なのかを論理的に説明しようとしても、それができずに苦労しているのです。

人間の持っている能力や機能がそれぞれの限界を備えているように、論理(的思考)にも限界があります。神の存在はその限界を超えるものなのです。だからこそ、論理を用いて信仰を説明しようとすることも、論理を用いて信仰をつかみ取ろうとすることも、できないのです。無理にそうしようとすれば、論理の過用・誤用にしかなりません。

悠長なことをいつまでも言ってはいられない

 アルコホーリクになり、あとまわしにすることも、避けることもできない、自分で招いた危機に打ちのめされた私たちは、神がすべてか無か、という命題に正面から向き合わなくてはならなかった。神が存在するかしないか。私たちはどちらを選ぶのか。4)

つまり「理屈じゃねーんだよ」ということなのです。ビルは論理をかなぐり捨てて、神の存在を信じるか、信じないか、あんたどっちにするんだよ? と読者に迫っています。これはとんだちゃぶ台返し ではありませんか。ここまで7ページも使って展開してきたあのライト兄弟やら何やらの理屈っぽい話は何だったのか! この連載だって4回も費やしちゃったではありませんか。どうしてくれるんだ!

だがビルがそうするには理由があります。アルコホーリクでない人にとっては、神が存在するか、しないかなんて、どちらでも構わないことなのでしょう。いや、どっちでも良いなどと言ったら怒られるかもしれませんが、少なくとも喫緊の課題ではないはずです。だから納得いくまで考えたり議論を続けることもできるのです。しかし、アルコホーリクにはそんな余裕はありません。ステップ1を済ませたアルコホーリクにとっては、神が存在するかしないかは、自分が酒を飲むか飲まないか、生きるか死ぬかに関わる切実な問題なのです。いつまでも「納得できないよ」などと悠長なことをぐだぐだ言っていられない事情が私たちにはあるのです。

実のところ、ビルは論理を捨ててはいません。12ステップは、論理を否定しているのではなく、論理に頼りながらも、同時に論理の限界を強く意識することを要求するのです。だから、この先の話は再び理屈っぽくなります。

ビルは、なぜ論理を用いて信仰をつかみ取ることはできなのかの説明を始めます。

信仰という向こう岸へ渡る

 私たちのある者は、信仰という希望のある向こう岸に向かって、すでに「理性の橘」をかなりのところまで渡りかけていた。・・・だがなぜか、対岸に上陸するための一歩を踏み出すことができなかった。4)

信仰を得るということを、川のこちら側の岸から向こう岸に渡るという例え話を使って説明しています。自分はまだ川のこちら側の岸にいるわけですが、川の向こう側にある信仰という新天地には希望があふれているように見えます。そこにいる信仰を持った人たちが、早くこちらにおいでよと手招きしているのも見えます。だから自分もぜひ向こう岸に渡りたいと思うわけです。

サン・ベネゼ橋
サン・ベネゼ橋――by William R Coakley, from billcoa

さて、どうやってこの川を渡ったものか、と考えながら見渡すと、近くに一本の橋が架かっているではありませんか。その橋には「理性の橋」と書かれてあります。この橋を通っていけば、向こう岸に渡れそうな気がします。

そこでその橋を渡っていくと、かなり向こう岸に近いところまで進めたのですが、残念ながらその橋は途中で途切れていて、向こう岸まで届いていません。「理性の橋」では信仰へと到達できないのです。

この例え話は、理性を用いて信仰を得ることはできないことを説明しています。言い換えれば、理性によって霊的目覚めを得ることはできないのです。どうしてなのでしょうか?

また、ビルはこれまで論理(logic)という言葉を使ってきたのに、いきなり理性(reason)という別の言葉を持ち出してきたのは、なぜでしょうか?

日常用語としての理性

理性とは、一般的には、ものごとを正しく判断する力であり、善と悪を区別する力です。人間を他の動物と区別し、人間を人間たらしめているもの、という古典的な説明もあります。

では、知性とは何でしょうか? 一般的には、人間の知的な能力全般を示す言葉として使われています。

もう一つ、感性とはなんでしょうか? 感覚や、それによって呼び起こされる感情や欲望を指します。

これらの、理性・知性・感性という言葉は、明治時代に日本に輸入された西洋哲学 の用語を訳したものです。訳語を選ぶ際にすでに日本にあった仏教の言葉などを借りました。その後、それぞれの言葉は意味するところを広げながら、日常的に使われるようになりました。このため、これらの言葉には、元の西洋哲学における意味、仏教における意味、私たちが日常で使う意味という、三つの意味があります。

ビルがここで使っている理性(reason)という言葉は、もちろん哲学用語としての理性です。ですから、理性を用いて信仰を得ることはできないという彼の主張を理解するためには、哲学用語としての理性とは何かを知る必要があります。

理性の説明は長くなりそうなので、次回に回します。

今回のまとめ
  • 人間に与えられた論理(論理的思考)という能力は素晴らしいものだ。
  • しかし論理にも限界があり、神の存在はその限界の向こうにある。
  • 論理的に納得できなくても、納得できるまで時間をかけている余裕はアルコホーリクにはない。
  • 理性を用いて信仰に達することはできない。

  1. 酒を飲みながらステップ1を伝えようとしても、聞き手は納得しないでしょう。同じように、霊的目覚めを得ていない人がステップ2を伝えるのも無理なことなのです。[]
  2. BB, p.77.[]
  3. ジョー・マキューも本来の用途についてたびたび説明している。cf. SWT, pp.67-68, 122; PFY, p.87.[]
  4. BB, p.78.[][]

2024-08-21

Posted by ragi