不可知論者
不可知論者 — agnostic
不可知論 (agnosticism)、すなわち神などの超自然的な存在は人間には認識不可能だとする立場を取る人。
古代キリスト教にグノーシス派(Gnosticism)という異端があった。1~3世紀頃にギリシャ・ローマで盛んだった思想で、人間は霊的知識(Gnosis, グノーシス, ギリシャ語で知識の意)を得ることで神の本体を直接知ることができ、霊魂は不死を与えられ天上界に住むことができると説いた。
この「人は神を知ることができる」という思想を否定するのが不可知論である(否定の意味を持つ接頭辞 a + gnosticism)。
近世になると、人間は有限な存在であり、人間の認識可能な範囲は限られているという前提にもとづいた議論が展開されるようになった。認識の限界の外にある(=超経験的な)もの――神のような超越的存在や、究極の実在、死後の世界などを人間は知ることができないという主張も不可知論と呼ぶ。
つまり、神は不可知であるとする神学上の不可知論と、人間の認識の外は不可知であるとする哲学上の不可知論が存在するが、どちらも神は不可知であるとする点は共通している。
霊的体験とは神の臨在が示されることであり、それによって人は神の存在を知る(経験する)ことになる。人は神を知ることはできないと考える不可知論者にとっては、それは起こり得ない(=impossible, BB, p.65)1)ことである。神を知った人たちは証しとしてその体験を証言するが、不可知論者はその証言を信じることができず、「信心深いと自分で言っている多くの人を、不信感いっぱいの目で見る」(p.67)ことになる。
人は神の存在を経験することによって、その存在を確信(faith)するようになる。その経験無しに確信(信仰)を持つことはできない。すなわち、人は霊的体験を得る前は、誰もが部分的には不可知論者なのだと言える。
だからこそ、ステップ2は確信(信仰)を持つことを要求しない。神が何であるか分らないまま、ともかくそれが存在し、かつそれが自分の問題を解決してくれることを信じる(believe)ことを要求するのみである。この「信じる」は、まだ部分的には不可知論者である状態を示している。
逆に、霊的体験(あるいは霊的目覚め)を経て回復した人が不可知論者のままでいることはあり得ない。なぜならばその人はすでに神の存在を経験しているからである。
参照:
・無神論者
・ビッグブックのスタディ (41) ビルの物語 12
・ビッグブックのスタディ (74) 私たち不可知論者は 1
・ビッグブックのスタディ (78) 私たち不可知論者は 5
- 「我慢ができない」と訳されている。[↩]
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