付録A「アレルギーの徴候としてのアルコホリズム」

今回はビッグブックのスタディの「医師の意見」の補足として、シルクワース医師の論文を紹介します。彼はビッグブックのp.xxxv (35)で、アルコホリズムアレルギーの一種であることを「数年前に指摘した」と述べていますが、それはこの論文だと思われます。あまりこなれた翻訳でないことはお許しください。原文はWikiに載せてあります。

アレルギーの徴候としてのアルコホリズム

W・D・シルクワース、メディカル・レビュー誌 1937年3月17日号

Silkworth, W. D., Alcoholism as a Manifestation of Allergy, MEDICAL RECORD MARCH 17, 1937 (293 CENTRAL PARK WEST, NY)

多くの医師が、アルコホリズムは悲惨な結末に向かって徐々に進行する慢性の病気だと見なしている。彼らはこれが精神によるものと考え、患者に対し習慣化した薬物(摂取)をやめるようにアドバイスするが、それは患者が単に決心すればやめられるはずだ、という前提に立っている。こうした人々の身体的問題も精神的状態も見過ごされている。

アルコホリズムが経済的・社会的な重大事となっているのは、一部はその結果であり、医師が最大限の努力をするに値する真っ向からの挑戦を受けている現状を理解しているのは、医療のこの局面に密に関わっている者だけである。(第一次)大戦後の大衆堕落の時代の結果として、婦人や若い女性たちがバーに押し寄せたこと、また「カクテル・アワー」や「ニュー・フリーダム」という危うい仕組みが、事態をより深刻にした。この問題は、性別を問わず、いかなる世代もかつて経験したことのないものであり、新世代が中年に達するまでその重大性が十分理解されることはないだろう。

であるから、医師には重大な責任がかかっている。これほど広く一般に影響を与える病気は他にない。これほど多くの人を苦しめ、家族や友人たちに不幸をもたらす疾病は他になく、またその損害を最小限に食いとどめようという分別ある言質を(患者から)医師が得られない疾病も他にない。この欺瞞が生じる理由は、先ほど述べたことの影響だけでなく、これまでアルコホリズムが比較的少数の人々がふける悪習と見なされており、その潜行性および有害性の観点から病気だとみなされることがなく、急性期をコントロールするための鎮静剤、下剤、吐剤の処方のみが医師に期待されてきたことによるものだ。

我々の目的は、アルコホリズムの類型のひとつが、明白な症状、一定かつ明確な病理を反映した診断学的症状によって特徴づけられることを示すことである。すなわち、真のアルコホリズムはアレルギーの徴候ということだ。この主題について、伝統的な考え方を覆すために登場した論を示そう。重要なポイントは、これほど深刻ではないがよりシンパシーを感じさせる他の病気に対するのと同程度の関心をもって、この病気の患者の身体および精神に起きた変化の根本原理を分析し、相互関係を示そうとする努力がこれまでなされてこなかったことである。ニューヨーク市タウンズ病院で長期間にわたり数多くの症例を観察した結果として、臨床的に明確な考えを得ることができた。集積されたデータは、この主題が体質的、血清学的観点から検討されるべきであることを示している。

最初に明記すべき基本的な主張として、アルコホリズムは(単なる)習慣ではない。次に、(常習的)酩酊とアルコホリズムは同義語ではない。アルコールによる酩酊は広く見受けられるが、それはうわべの徴候に過ぎず、それ自体に診断上の重要性はない。また多くの人に共通してみられる飲酒欲求についても同じである。アルコールを飲む者の大多数は、明らかに何の害も被っていない。他でもない禁酒法が、いかに多くの人々があらゆる機会を捉えてアルコールを飲みたがるのかを明らかにした。飲酒への欲求、その強さは、慢性アルコホーリクに限ったものではない。判事も、上院議員も、牧師らも、皆が折にふれて酒を飲んでいる。商人や仲介業者は、長年にわたり人々の欲望を満たせるだけの取引を毎日大急ぎでまとめている。クラブの会員や裕福な婦人から日雇い労働者に至るまであらゆる階層の人々が、多かれ少なかれ、人生のほとんどの期間、ありとあらゆる種類の酒を毎日自由に飲んでいる。彼らは酩酊するが、そうしたケースの大多数は薬物の即効性の効果を示しているに過ぎず、その状態からの回復も素早くて容易である。無論、「二日酔い」を終わらせるための頭の冷湿布やシャワーは必要であるにしてもだ。後の比較のために述べておくと、このタイプの飲酒者が、理由はなんであれ「酒を断つ」と決めたときに経験するのは、他の何らかの生活上の習慣を諦めたときに感じる身体的・精神的苦痛以上のものではない。それにはなんの「問題」も、なんの苦闘も、なんの精神的合併症も生じず、通常の生活習慣を中断したときの一時的な不自由を味わうにすぎない。何であろうと、飲酒を続ける誘因よりも、酒を止める誘因が大きかったので決心したのである。彼の考えは100%変わったのであり、それに従って行動するのも100%彼の自由意志による。

そうした人々は自ら進んで飲んでいるのであって、必要に迫られてやむを得ず飲んでいるわけではない。彼らはアルコールから心地良い刺激、不安からの解放、陽気な温もりを得る。それは彼らの生活の支配的な要素にはなっていない。彼らはどこをどう見ても、精神的・身体的に普通の人たちだ。欠陥のある養育あるいはコンプレックスゆえに不品行な行状を見せる人々が、非友好的なあるいは否定的な周囲の人々によって、あるいは身体的欠陥によって屈辱感や劣等意識に悩まされるようになり、それが数杯の酒を飲むことで他のすべての人々と自分が同等あるいはむしろ優れていると感じられるようになったというケースは実に数が多いのだが、彼らがただ単にたびたび大酒を飲むことを理由に慢性アルコホーリクに分類されることはない、という事実を我々は心に留めておかねばならない。彼らにまったく新しいポリシーをもたらすには、環境の変化、新しい精神的態度を身につける、あるいは自分への自信を取り戻すことで十分であろう。この状況において重要なポイントは、もし彼らが酒を止めること望んだならば、何の苦労もなく止められるということだ。そのために他の誰かを頼ったり、他からのサポートを得たりする必要はない。アルコールは彼らには必要ないのだ。

これが一般の人々の飲酒についての偏りのない見方であり、このような馴染みの背景があればこそ、全く異なった像が際立つのだと言える。これまで述べた人々は真のアルコホーリクではないが、やがてそうなる可能性があり、彼らの中から本物のアルコホーリクが現われてくるのだ。

ではこの種の(平均的な)飲酒者とはまったく異なったタイプを描写してみよう。前述のように、このタイプは先ほど説明したような部類(の飲酒者)の中から出現してくるので、過去の彼は平均的な人々とまったく同じであった。だが、やがて変化が現われ、かつての彼にはまったくなかった症状によって、平均的な飲酒者とは明白に別の分類へと移されることになる。以前の彼は楽しむために飲んでいたが、いまや生きるために必要不可欠だから飲むようになっている。かつてのように酒を飲むこともできないし、また飲まないでいることもできなくなった。おおむね一日中酒浸りになっているが、それでも最初は彼の精神はほぼ支障なく機能しており、十分な能率で仕事をこなし、周囲の人々や地域社会への義務も果たせている。だが彼は自分の身に変化が起きたことを発見する。朝から一杯飲まねばならないことに気づく。もう少し時間が経つと、例えば書類にサインをするときに、手が震えていることに気づく。やがて、イライラして集中力を欠くようになっていく。気質の面でかつてとは違った人になる。こうした変化や増大した症状に対応するために、摂取する量を増やさざるを得なくなり、長時間の大酒が短時間の酩酊に取って代わる。

アルコホリズムの身体的症状

この大酒はすべてのケースにおいて疑う余地のない明白な身体的症状によって特徴づけられる。渇望現象が顕著になる。食欲の喪失、不眠、乾燥肌、過度の不随意運動が生じる。彼の感じる不安は、言葉で言い表せない恐怖心に達する。まるで競走を終えたばかりなのに、すぐにまた走り出さねばならない刺激を感じているかのような様相を示す。アルコールそれ自体が平均的人間にこうした症状をもたらすことはないから、アレルギー体質を持っていなければ毎日アルコールを飲んでも慢性アルコホーリクになることはない。このような変化の進行とは著しく対照的に、多くの場合において、彼の周囲にいるが彼と同じ状態にならず渇望現象が起きない人々よりも、彼が平均的に多くの酒を飲んでいるわけではないことは留意すべきである。家族や友人は彼に起きつつある変化に気づく。彼自身もそれに気づき、また他の誰にとっても明白なのは、非常に少量のアルコールでも、その量にまったく不釣り合いな、かつては予期しなかったような効果を彼にもたらすことだ。これは例外的なものではなく、むしろ標準的なものであり、こうした人物は例えばこう言うだろう。「私は20年も酒を飲んできたが、こんな効果はこれまでなかった」 飲酒習慣の形成には20年もの時間は必要ないことを指摘しておきたい。次の言葉が臨床像を良く描き出してくれるだろう。「私はあなたが1年で稼ぐより多くを1日で稼ぐ。それだけの能力があるし、実際に大きな仕事をしている。取引の電話で、デスクの電話が二つも三つも一日中鳴りっぱなしなのだ。だが、そんな私が酒を一杯も飲んでは駄目だと言われる。いったい、私とあなたの違いはどこにあるんだ? 精神科医はその違いは(頭を指して)ここにあるという。だが、私はその現実と向き合えない」 だがこの人物は他でもない、毎日現実の中で、現実に直面して生きているのだ。

こうした変化は真のアルコホリズムの初期のステージを示しており、著しい定常性を持つ症状の連鎖の始まりを示している。この変化は、それ以前に通常の飲酒習慣がおそらく長期にわたって続いたことと比べて、四ヶ月から六ヶ月という比較的短期に進行していく。この時点で、不完全あるいは完全に断酒している時期であっても、彼は漠然とした恐怖や不安を持つようになり、やがて抑うつや集中力の欠如が現われ、かつての関心対象に対する無関心が次第に増し、あるいは完全な無気力を示すようになる。続いて、信頼性の欠如、性格の変化、食欲不振、不眠症、頻脈が生じる。そうした緊張状況の中で、彼は自分をコントロールする努力として、正気を失わないために一杯飲まねばならなくなる。同時に彼らは、これにはいくらか例外も経験したが、酒が嫌になった、むしろ飲むのを恐れている、とあなたに言うようになる。そうした人々を観察してきた者から見ても、その言葉は真実なのである。だが彼は自分が(また)飲むことも分っている。たとえ、一杯の酒が避けられない結果として長期の連続飲酒という状態を彼にもたらことを十分理解していたとしても、である。最初の一杯を飲んだ後、もっぱらその後にだけ、彼は渇望という身体的現象を経験する。

この人物が単なる悪ふざけや自ら望んで連続飲酒を続けているわけでない点は、いくら強調しても強調しすぎることはない。彼はしばしば翌日に大事な予定や約束を抱え、あるいは重要な決定を下さねばならず、それを真剣に考慮している。そうした状況において、私たちが「正常な」あるいはノン・アルコホーリクと呼んでいる飲酒者は彼と同じにはならない。年がら年中、日に数杯の酒を飲む習慣がある人でもそこで連続飲酒には陥らないのだ。

注目に値する特筆すべき事実は、そのような状況に置かれた人は、多かれ少なかれ仕事への関心を保とうとするので、比較的少量の酒しか必要としないことだ。その人が望むのは、ときどき一杯飲むことだけに違いない。だいたいの「飲んだくれ」がボトルを一回で飲んでしまうのとは対照的に、(正常な飲酒者は)わずかの酒で十分のようで、酔った後は通常の生活に戻っていく。この薬物が身体から排出されてしまえば、あとは何も悪影響は残らない。だが真のアルコホーリクの場合には、この少量の酒によって一日中の飲酒へと駆り立てられてしまう。それはやがて自堕落な暴飲に至る悪循環の始まりであり、その後も同じサイクルが繰り返されていくのだ。

真のアレルギー状態としてのアルコホリズム

必然的な結論として、真のアルコホリズムは一つのアレルギー状態であり、ある程度の長期にわたってアルコールへの感作(sensitization, 鋭敏化)が増大した結果なのである。その症状の定常性と進行は、他の説明を許さないほど確固としている。一部の者は生まれながらにしてアレルギー体質を備えているが、通常は後天的にこの疾患を発症する。その発症と経過は、多くの点で花粉症の患者の経過に大いに類似している。ある人は、長年にわたって花粉から何の影響も受けず完全な自由を享受するであろう。だが、その人の中で、年を追うごとに花粉への感受性が増していき、最終的に条件が完全に整ったときに、無期限に持続する花粉症の発作が起きてくる。

また同様に注目すべきことは、そうした患者が長期間――例えば一年以上――にわたって飲酒を禁じられ、一見正常に戻ったとしよう。だが彼らは依然としてアレルギー体質のままであり、一杯の酒がすべての症状を呼び戻すのである。

アレルギー体質には周期性を示すもう一つのタイプがある。ある程度一定の間隔で、ケースによってはちょうどその日を予測できるほどに、数ヶ月から一年おきに酒を欲する患者たちである。彼らは長く連続飲酒を続けるが、その後の休止期には一見したところ正常にしか見えない。このような交代性のサイクルを繰り返すうちに、暴飲と暴飲の間隔が短くなっていく傾向があり、またこうした患者は渇望を否定する。ある決まった日にだけ渇望が起こると考えるのは確かに不条理に思える。むしろ、すべての人に躁うつのサイクルがある事実を考慮に入れるべきだ。普通の人が「気分が落ち込んだ」とき、もし酒が好きならば、元気を出すために一杯あるいは数杯の酒を飲むだろう。すると気分が晴れ、あるいは落ちついた気持ちになり、翌朝冷たいシャワーを浴びて、それでお終いである。ところが、アレルギー体質を持った躁うつタイプはそれによって連続飲酒に陥り、それが一週間あるいはそれ以上にわたって否応なく続くのである。完全に消耗して当面乱用を続けられなくなることで、神経過敏や士気喪失が(飲酒を)停止させるのである。また生まれつきの精神病質者サイコパスがアルコールへのアレルギー体質になったケースもあり、彼らの情緒は不安定かつ不適切である。そうしたケースの予後が最も不良である。

身体的および精神的治療

こうした患者に対する身体的治療はこれまで満足のいくものではなかった。だが私たちは、この状態がアルコールへの感作(鋭敏化)を起こしやすい体質を持った人の中で起きているアナフィラキシーの一種であり、この問題は二つの要素に分解できると認識している。第一は細胞の再生と正常化であり、第二は正常化した細胞が備えている防御機構を活性化することである。1916年というかなり以前に、ライプツィヒ大学のベヒホルト教授が、テキスト Colloids in Biology and Medicine(コロイドの生物学と医学)の中で「将来、慢性アルコホリズムはコロイド体の状態の変化として物理化学的な説明がされるようになるであろう」と述べているのである。さて精神面については、私たちの考えでは、この状況は実際的なものであるから、感情ではなく知性を介して対処しなければならない。ある感情を別の感情に置き換えることでは何も得られない。患者は生理学的な理由によってアルコールを一切使えなくなった。彼は容赦のない自然の法則の作用によってこの状況に置かれたことを理解し、受け止めなければならない。いったんこの事実を完全にかつ知的につかむことができれば、彼はそれに基づいた新しい方針を決めることができるだろう。

もちろん、心理学的な多くの支援がまさしく必要だ。考え方の誤りは修正されなければならない。内向的であるよりも外向的になるよう促すべきだろうが、だが根本的には、社会的・経済的困難、遺伝、その他がどうであろうとも、その人は自立しなければならないのである。

今後の論文にて、このアレルギー体質の事例に適用できる特別な治療学について取り上げ、この病院における一連のアプローチによって得られた傑出した結果を説明し、さらに道徳心理学について、また入院が必要な患者と自宅で治療する患者の識別について述べるつもりだ。満たさなければならない条件や、治療に影響を与える他の要因が数多くあり、この論文にそれらの論考を含めるのは実際的でないからである。