12ステップのスタディ (25) NAのステップ1 (1) コンパルジョンとオブセッション
スタディ関係のブログ紹介の第5弾は、GAメンバーのイサムさんです。いくつかエントリを紹介します:
『心の家路』のトップページには、スタディ系サイトの更新情報を載せていますので、ぜひ他のブログもご覧になってください。
NAのテキスト
さて、今回からNA(ナルコティクス アノニマス)のステップ1に入ります。NAについては第4回・第5回・第6回で説明しました。NAでステップを解説しているテキストは、第5回で紹介した『ナルコティクス アノニマス』(通称ベーシック・テキスト)です。(『NA ホワイト・ブックレット』も重要なテキストですが、同じ内容がベーシック・テキストにも収録されています)。この連載ではさらにNA版12&12である『なぜ どのように 効果があるのか』も参照することにします。NAの文献はNAのJCOに注文すれば入手することができます。
ベーシック・テキストの原書は2008年に第6版へと改版されましたが、日本語版はまだ第5版のままですので、このブログでは日本語は第5版、英語は第6版を参照することになります。
NAのステップ1
NAのステップ1は:
原文は We admitted that we were powerless over our addiction, that our lives had become unmanageable. で、AAの12ステップで alcohol となっているところが、our addiction(私たちのアディクション)に変わっているだけです。
NAにおいてはアディクションという用語は薬物嗜癖を意味します。アディクト(addict)とはアディクションという病気を持った人のことです。アルコールも薬物に含まれますから、アルコホリズムもアディクションの一種であり、NAはアルコホーリクも対象にしています(現実には、他の薬物の問題を抱えていないアルコホーリクがNAに行くことは少ないですが)。NAがアルコールも薬物に含めるようになった事情については第4回・第5回を参照してください。また、行為の嗜癖(強迫的ギャンブルなど)はアディクションに含めていません。
コンパルジョン+オブセッション
NAではアディクションはコンパルジョンとオブセッションの組み合わせだと説明しています:
まぎれもないアディクションであれば、そこには二つの問題がからんでくる。それはとらわれ(obsession)と強迫的な欲求(compulsion)だ。2)
NAのテキストには、コンパルジョンとオブセッションという用語がセットになって繰り返し登場します3)。テキストをNAミーティングで読んでいれば、必ずそのことに気づくはずです。
ただしAAのテキストで訳語の揺らぎという問題が起きているように(cf. BBS#18)、NAのテキストでも訳語の揺らぎが起きています。概ねにおいて、コンパルジョンは強迫的欲求、オブセッションはとらわれと訳されていますが、『なぜ どのように』ではコンパルジョンを強迫観念と訳しているので注意が必要です:
アディクトである私たちは、とらわれ(obsession)と強迫観念(compulsion)があるのだという見解に最初は納得できず、自分がそうなのだと考えるとゾッとした。自分が無力であることを全面的に認めるつもりなら、私たちにはとらわれと強迫観念があるのだと理解し、認める必要がある。4)
そのような訳語の不統一があるため、日本語のNA文献だけ読んでいる読者は、「とらわれと強迫観念の違い」のような本質的ではないことに頭を悩ませねばならなくなります。このように訳語の揺らぎは深刻な問題ですが、NAメンバーではない僕には手が出せない問題でもあります。そこでこのブログでは、コンパルジョンとオブセッションというカタカナ語を使うことで訳語の問題を回避することにします。
コンパルジョン(強迫的欲求)
では、NAではコンパルジョンをどう説明しているのでしょうか?
強迫的な欲求(compulsion)とは、一回の注射、一錠のクスリ、一杯の飲酒に始まる進行過程にはまり込んだら、自分の意志の力ではやめられなくなることだ。私たちの場合、薬物に対し身体的に敏感であるため、私たちよりはるかに強力な破壊力に完全に取りつかれてしまうのた。5)
コンパルジョンとは、一回薬を使用したら、もっと使いたくなって次の使用をとめられなくなることです。これは第22回で説明したAAの身体的渇望と同じものです。ここでもう一度その説明を繰り返します。アルコホーリクは酒の飲み過ぎはトラブルにつながることを経験から十分学んでいるので、「飲み過ぎないようにしよう」と思っています。つまり、適当なところで飲酒を切り上げて、なるべくしらふの生活をしようと思っているのです。周囲の人たちもアルコホーリクがそのような「心のブレーキ」を働かせることを期待しています。しかし、体内に入ったアルコールが、ブレーキの力を凌駕する強力な身体的渇望を引き起こし、アルコホーリクに次の酒を飲ませてしまうのです。
NAは渇望(craving)という用語を避け、代わりにコンパルジョンという言葉を使うようにしました。それはおそらく渇望という言葉には曖昧さがあり、誤解を招きやすいからでしょう。使う用語は変わっても、説明の内容は変わりありません。
アディクトも薬の使い過ぎはトラブルにつながることを経験から十分学んでいるので、「使い過ぎないようにしよう」と思っています。つまり、適当なところで薬物使用を切り上げて、薬物の影響によって社会生活が破綻しないようにしようと思っているのです。それは、薬物の影響を強く受けたままでは社会生活を続けられず、いつか行き詰まってしまうことを十分理解しているからです。だからトラブルを避けるためにヤク中も必死で心のブレーキを踏んでいます。しかし、体内に取り込まれた薬物が生じさせるコンパルジョン(強迫的な欲求)はそのような自制心を吹っ飛ばすほど強力で、アディクトにさらなる薬を使わせてしまうのです。
ビル・Wの主治医だったシルクワース医師は身体的渇望はアレルギー反応によるものだと解釈しました。AAはその考えを採用しています。NAもアレルギーという考えをAAから受け継ぎましたが、アレルギーという用語はあまり使われておらず、主要な文献のなかではベーシック・テキストの7ページに「私たちは薬物に対してアレルギーがある」という一節で使われているだけです。その他のところでは「薬物に対して身体的に過敏」という表現に変えられています。
要するに、アディクトが薬物を使い過ぎてしまうのは、身体的な薬物への過敏反応によってコンパルジョン(強迫的な欲求)が生じてくるからだ、と説明しているのです。これがアディクションの身体的な側面(physical aspect)です。
『なぜ どのように』でも同じことを言っているのですが、こちらではコンパルジョンが強迫観念と訳されていることに注意が必要です:
身体的には、たとえ結果がどうなろうとも、使い続けなければならないという強迫観念(compulsion=強迫的な欲求)に取り付かれる(develop=増進する)。6)
注射を打つのであれ、鼻から吸うのであれ、飲み込むのであれ、薬物の摂取方法に関係なく、いったん薬物が体内に入るともっと打ちたい・吸いたい・飲みたいという強迫的な欲求(コンパルジョン)が身体的に湧き上がってきて、その欲求が「薬の使い過ぎによるトラブルは防ごう」というブレーキを凌駕し、コントロールの効かない薬物使用に陥らせるのです。
ということから、NAのコンパルジョンという概念は、AAの身体的渇望(クレービング)の対象をアルコールから薬物全体へと広げたものであることがわかります。
違法・合法は関係ない
このように説明していくと、なかには覚醒剤 や麻薬 は法律で使用が規制されているのだから、コントロールできるかできないかに関係なく「そもそも使ってはいけないのではないか」という疑問を持つ人もいるでしょう。
NAは、違法か合法かで薬物を区別しません。NAはアディクションという病気を扱っています。立法府や行政府が特定の薬物の使用を規制し、罰則を設けることがあります。そのような薬物は違法薬物(illicit drug )と呼ばれます。しかし、薬物が違法か合法かによって、アディクションという病気の性質が変化するわけではありません。
酒を飲む人たちはたくさんいますが、アルコホリズムを発症する人の比率はわずかです。大多数の人は飲酒のコントロールを失うことなく適正な飲酒を続けています。薬物の場合も同じで、覚醒剤や大麻を使ってもアディクトにならずに適度な使用を続けている人は少なくありません。僕は回復施設の仕事をしていた6年間の間に、施設の利用者獲得のために様々なところに出入りしましたが、「若い頃は覚醒剤(あるいは大麻)を使っていたが、あるときにキッパリやめた」という経験を語る人たちに何人も出会いました。
薬物の種類によって、その使用者がアディクトになる比率は違います。そのリスクの高い薬物もあれば、リスクの低い薬物もありますが、違法薬物を使えば誰でもたちまちヤク中になるというわけではありません。つまり、アディクションは違法薬物を使ったことの必然の結果ではないのです。
だから、アディクトにとっては、違法薬物を使うことが問題なのではなく(違法・合法を問わず)コンパルジョンを引き起こす薬物を使うことが問題なのです。
オブセッション(とらわれ)
では、もう一方のオブセッションについてはどう説明しているでしょうか? ベーシック・テキストではこう説明しています:
とらわれ(obsession)とは固定観念に縛られることで、ある薬物あるいはその代用品から得た安らぎや快感をもう一度(again)得ようと、何度でも手を伸ばさずにはいられなくなることだ。7)
これは、第23回で説明したAAの強迫観念(obsession)と同じものです。多くのアディクトは、薬物を使い始めてからいきなりアディクトになったのではなく、適度に使用できていた時期があります(これをハネムーン期と呼びます)。アディクトにならない人は、このハネムーン期がずっと続きます。しかしアディクトになる人の場合には、次第にコンパルジョンが増大するようになり、使用量のコントロールが失われていきます。そして薬を使い過ぎた結果として社会生活上のトラブルが生じるようになります。
アディクトはなんとか薬物使用をコントロールしようと努力しますが、失敗が増えるにつれて、「どうやら自分にはコントロールできないようだ」と諦めて、薬物を自らやめます。僕は薬物をやめていた時期がまったくないというNAメンバーには会ったことがありません。アディクトは誰もが自分の意志で薬物をやめてみようとします。アディクトには「やめたい気持ち」があるのです。
そうしてアディクトは、薬物をやめ続けたいという自分の願望に従って、薬を遠ざけ続けています。しかしあるとき、普段とは違った異常な精神状態(オブセッション)が訪れ、「薬を使っても良い」という判断をしてしまうのです。そしてその判断に従って再び薬を使い始めてしまいます。その再使用をスリップと呼びます。
オブセッションは狂気である
僕が会ったNAのメンバーは全員正気でした。ここでいう正気とは「薬物を使わない」という判断をしているという意味です。しかし、スリップするとき、アディクトは正気ではなくなっています。誰かがその人を身動き取れないように拘束して薬を注射したわけではありません。その人が自分で薬を入手して、それを自分の手で体内に入れたのです。つまり、その人自身が「薬を使う」という判断をしたわけです。その判断はどう考えても正気の人のする判断ではありません。
だれかのところへ行って「私に心臓発作か死亡事故を起こしていただきたいのですが」と頼んだとしたら、それは狂気だろうか? 8)
「私に心臓を発作を起こしてください」とか「私を車で轢いてください」と頼むのは明らかに狂気(insanity)です。それと同じで、せっかく薬物をやめているのに、また(again)使い出すのも狂気なのです。
シンプルに表現するならば、アディクトは普段は正気で、薬を使わないでいられるのですが、ある瞬間にオブセッションによって狂ってしまい、その結果また使い出してしまうのです。
だから、違法薬物の使用をどれほど厳罰化しようとも、スリップを防ぐことはできません。それは正気の人間には効果があるでしょうし、アディクトたちも普段は正気ですが、オブセッションがやってきた瞬間には「薬を使っても良い」という判断をしてしまうのです。その時に薬物使用によるデメリットの大きさは意味を持ちません。
狂気という言葉から、薬物を使っているあいだの精神状態を思い浮かべることが多いのですが、そのことではありません。スリップする前の精神の状態を指しているのです。つまり、薬物を使っていないクリーンな状態のときにオブセッションは起こるのです。これがアディクションの精神的側面(mental aspect)です。
「とらわれ」という訳語の問題
オブセッションは、ベーシック・テキストやホワイトブックレットでは「とらわれ」と訳されています。この訳語から、頭の中で薬物を使うことが思い浮かんでしまって、それを振り払うことができない状態を想像する人がいます。あるいは、クリーンの時に薬物を使いたいという強い欲求(いわゆるクレービング)がつきまとって離れないことを思い浮かべる人もいます。
NAのテキストでは、そのような頭から離れない思考や欲求を、オブセッションの一部あるいはオブセッションの前駆症状として捉えています。9) 第21回で取り上げた強迫性障害 から類推するならば、それらもオブセッションの一部と見なして構わないでしょう。しかし、それらが回復途上のアディクトにとって大変悩ましいものであるにしても、狂気ではありません。狂気としてのオブセッションはあくまで「薬物を使う」という考え、すなわち判断のことなのです。
頭の中にこびりついてしまったように取れない薬物へのとらわれや、また薬を使いたいという欲求から解放されると楽になるのは確かです。しかし、それによって問題が解決したわけではありません。問題はクリーンなアディクトの精神のなかに潜んでいる狂気なのです。
コンパルジョン+オブセッション=無力
『なぜ どのように』では、オブセッションとコンパルジョンがあるために、アディクトはアディクションという病気に対して無力なのだと説明しています:
アディクトである私たちは、とらわれと強迫観念があるのだという見解に最初は納得できず、自分がそうなのだと考えるとゾッとした。だが、力が及ばないのは、とらわれ(obsession)と強迫観念(compulsion)のためなのだ。10)
同じページには、「アディクションに対して無力であることを全面的に認めるつもりなら、自分にコンパルジョンとオブセッションがあることを理解し、認めなければならない、とあります。
上の図は第23回の図のアディクト版です(第23回の図と見比べてみてください)。アディクトが薬物を使い始めると、やがてコンパルジョン(強迫的な欲求)が発現してきます。このコンパルジョンによって薬物使用のコントロールが失われ、薬を使い過ぎる状態に戻ってしまいます。
コンパルジョンは、薬物使用をコントロールできる薬物ユーザーには起きず、アディクトだけに起こります。アディクトにもかつては薬物使用をコントロールできていた時期があったのかもしれません。しかし、ある時期から身体が薬物に対して特異反応を起こすように変化してしまったのです。そして、その変化は元には戻せない(不可逆な)ものなのです。
コンパルジョンによってしょっちゅう薬物を使い過ぎてしまうと、社会生活上のトラブルが生じてきます。そこでアディクトは薬をやめる決意をします。断薬中(クリーン)のアディクトは概ね普通の人と変わらない生活を送っています。ところが、あるとき、その人の精神の中でオブセッションが生じてきて、最終的に「自分は薬を使ってもオーケーなのだ」という狂った判断を下してしまうのです。
こうしてアディクトは再び薬物使用へと戻っていきます。そして、使い過ぎてトラブルを起こして薬をやめることを決意し、またオブセッションによってスリップし・・・というサイクルを繰り返していきます。使っているアディクトはこの循環図の左側のオレンジ色のところに、薬をやめているアディクトは右側のブルーのところにいるのですが、どちら側にいたとしても、このサイクルの中に閉じ込められているのです。
アディクトは自分の力ではこの悪循環から抜け出すことができません。アディクションという病気は自分より強力で、自分はその病気に勝つことができない、という「完全な敗北」を認めることが、ステップ1の「アディクションに対する無力を認める」ことなのです。11)
第23回で取り上げた、やめる気のあるなし、一次性と二次性というトピックも、当然アディクトにもそっくりそのまま当てはまりますが、ここでもう一度取り上げることはしないので、そちらに目を通してください。
次回は「生きていくことがどうにもならない」の部分です。当然、またライフがアンマネージャブルという話になります。
- NAではアディクションはコンパルジョン(強迫的欲求)とオブセッション(とらわれ・強迫観念)の組み合わせだと説明している
- アディクトは使い過ぎないようにしよう」と思っているが、体内に取り込まれた薬物が生じさせるコンパルジョン(強迫的な欲求)はそのような自制心よりはるかに強力で、アディクトにさらなる薬を使わせてしまう
- アディクトは、薬物をやめ続けたいという自分の願望に従って、薬を遠ざけ続けているが、あるとき、普段とは違った異常な精神状態(オブセッション)が訪れ、「薬を使っても良い」という狂った判断をしてしまい、再び薬物使用に戻っていく
- アディクションに対して無力であることを認めるつもりなら、自分にコンパルジョンとオブセッションがあることを理解し、認めなければならない
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コメント一覧
遅ればせながら、私のnoteを紹介していただき、ありがとうございます。ゆっくりペースですが、思いついたことを忘れないように書いていきます。”,1″