ビッグブックのスタディ (36) ビルの物語 7

11月21日(土)~22日(日)に岐阜の長良川スポーツプラザで「Big Book Comes Alive!」を行います。新型コロナ対策のために座席の間隔を空けるため、人数に制限があります。参加ご希望の方はこちらをご覧ください。難しい状況の中で開催に踏み切ったホスト委員会の皆さんに感謝します。

医者だらけ

ビル・Wの血縁には医者が多くいました。まず、妻ロイスの父クラーク・バーナム(Clark Burnham, 1855-1936)はブルックリンの外科医でした。1) アメリカの医師には、M.D.(医学博士)D.O.オステオパシー 医学の博士)の二種類があり、どちらも正規の医師であり、ドクターと呼ばれます。ビルの母親エミリー(Emily, 1871-1961)は、離婚後は幼いビルたちを両親に託してボストンで学び医師(D.O.)の資格を得ました。彼女は1923年にストローベル医師(Dr. Charles Strobel, 1870-1936)と結婚しました。2) ビルはオートバイでの1年余りの調査旅行の際に、フロリダに滞在していた母親夫妻を訪ねています。さらには、ビルの妹ドロシー(Dorothy, 1898-1994)は、レオナード・ストロング二世(Leonard V. Strong Jr., 1899-1989)という医師(D.O.)と結婚し、ニューヨークに住んでいました。この他にもビルとロイスの両方の家系に医者が多かったというのもAAが始まった偶然の一致(coincidence)の一つだとされています。3)

レオナード・Ⅴ・ストロング二世
ビル・Wの義弟ストロング医師, from PIO, p182

こうした医者たちの中でも最も重要な役割を果たしたのは、ビルの義弟ストロング医師でした。1933年から34年にかけては、困窮したビル夫妻に代わってビルの入院費を毎回負担し、ビルが酒をやめた後は心の支えになり、AAがロックフェラー財団 から寄付を得られるように橋渡しを行い、AAの財団成立後はその初代理事を務めました。

ビルがチャールズ・B・タウンズ病院に入院する手はずを整えてくれたのは、義弟ストロング医師でした。ビルは母エミリーもその件に関わってくれたと書いていますBB, p.10)。タウンズ病院は有名なセントラル・パーク の西側、ハドソン川 との間の街中にありました。短期間の入院でも高額な費用のかかる病院でした。

禁酒法

前回ビルが「自家製」のジンを作っているBB, p.7)ことから、禁酒法に言及しました。

アメリカには、19世紀の初頭に大量飲酒の時代がありました。1792年には一人当たりのアルコール消費量が年間2.5ガロン(9.5リットル)だったものが、1830年には7.1ガロン(27リットル)まで増えていました。4)

アメリカへの植民は東海岸から始まり、やがて中部平原が開拓されて穀物生産が増えていったのですが、当時は交通手段が未発達だったため、中部の穀倉地帯から東海岸都市部の消費地に輸送する途中で穀物が傷んでしまいました。そこで、穀物を醸造・蒸留してウィスキーにしてから運ふという手段が考案されました。これによって安価な酒が大量に供給されたために、全国で飲酒量が増大しました。現在の日本の消費量は純アルコール換算で6.9リットル5)ですから、当時のアメリカ人はその4倍近くの酒を飲んでいたわけです。この時に、アメリカに酒の醸造・蒸留技術を持ち込んできたのは、ドイツからの移民でした。結果として、アメリカの酒造産業はドイツ系移民の手に握られることになりました。これが後で響いてきます。

アルコール消費量の増大は様々な社会問題を引き起こし、飲酒に反対する運動が始まりました。それが禁酒運動 (temperance movement)です。テンパランス(temperance)というのは節制という意味で、最初は国民の飲酒を運動をしていたのですが、なかなか効果があがらなかったために1825年頃までには完全禁酒を目指す方向に転換し、さらに1850年頃までには自発的断酒の普及ではなく法的禁酒措置を目指すようになりました。6) 禁酒運動を支えていた勢力の中には、宗教家も多く含まれていました。なので、アメリカの禁酒法が宗教的動機に基づいて作られたと捉えている人もいるのですが、それは動機の一部分に過ぎません。とまれ、国全体で酒を禁止しようという運動は、なかなか国民の支持を得られませんでしたが、19世紀のうちから州や郡の単位では法律で酒を禁じたところがありました。

20世紀になると状況が変わりました。まず工業化が進んで工場労働者が増えたのですが、飲酒が原因の怠業が目立つようになりました。そこで資本家たちは、生産性の向上のために(いわば自分たちの利益のために)酒の全面禁止に賛成するようになりました。また、都市部では路上で酒を飲む習慣が広がり、女性が安心して町を歩けないほどに治安が悪化していました。

決定的だったのはアメリカの第一次世界大戦 への参戦でした。戦争を遂行するためには戦地に食料を供給しなければなりません兵站 。ところが、前述のように穀物の多くがアルコールの醸造に使われていました。しかも、その産業が敵国ドイツ系の移民の手に握られていたわけです。それまで禁酒に反対する運動は酒造産業の提供する資金に支えられていたのですが、戦争勃発によって彼らは発言力を失ってしまいました。その結果、アメリカの国民感情は禁酒に傾き、1917年に禁酒法を行うための憲法修正案が連邦議会を通過しました。アメリカの憲法修正は、各州の議会による批准を必要とします。その手続きに時間がかかり、禁酒法が施行されたのは1920年になってから、その時にはもう戦争は終わっていました。

Alcohol consumption in the US
Alcohol consumption in the US, from The Conversation, CC-BY-ND

禁酒法は実際にはかなりのざる法 で、酒の密売・密造が横行しました。それでも公式に酒を禁じた効果は大きかったようです。禁酒法下ではアルコール消費の公式統計は存在しないのですが、肝硬変の死亡者数などから推定したアルコールの消費量は、施行直後には施行前の3分の1まで減少し、その後徐々に増加して3分の2程度にまで達したと見積もられています。この増加には理由があり、狂騒の20年代 と呼ばれるように、1920年代は好景気の時代で、人びとが高価な密造酒を消費するだけの経済的余裕があったからだと説明されます。7) ですから、もし禁酒法が施行されていなかったなら、この時期のアルコール消費は、ずっと多かったことでしょう。禁酒法廃止後に消費量が1910年の水準に戻るのは1970年代になってからです。

Al Capone in 1929
Al Capone in 1929, from Wikimedia Commons, PD

ではなぜ、禁酒法が廃止されたのでしょうか。酒税 というのは国にとっては貴重な収入源です。現在の日本でも酒税の税収は1.3兆円にのぼります(1990年代には2兆円に達したものが、ここまで減少したのは、酒税の低減とアルコール消費の減少による8)。酒を禁じてしまうと、酒税を徴収することができなくなります。アメリカ政府の代わりに儲けていたのはアル・カポネ (右図)のようなギャング でした。彼らは密造酒の闇市場を牛耳り、そこから大きな利益を得ていました。ギャングは映画で描かれるような銀行強盗で儲けていたのではなく、酒の密売で儲けていたのでした。1930年代になるとヨーロッパで緊張が高まり、各国が再軍備を進めていました。アメリカも戦争(第二次世界大戦)に備えなくてはなりませんでしたし、1929年から始まった大恐慌への対策を行うためにも税収が必要でした。ギャングたちに儲けさせておくよりはと、禁酒法は徐々に緩められ、1933年に廃止されました。

Alcohol control in the United States
Alcohol control in the United States, from Wikimedia Commons, PD

このように、禁酒法は戦争のために始まり、戦争と不景気のために廃止された法律だと言えます。しかし連邦レベルで禁酒法が廃止されても、その影響は残りました。19世紀から州や郡のレベルで禁酒を行っていたところは多く、1933年以降もそれらは残りました。さすがに州レベルで禁酒法を施行しているところは1966年を最後になくなりましたが、現在でも禁酒郡dry countyは多数存在します。上の図の赤いところが禁酒郡、黄色は一部が禁酒になっている郡です。こうした郡では酒の販売が禁止されているので、飲みたい人は郡外まで買い出しに行かねばなりません。また、公衆酩酊罪public intoxicationも多くのところで残っています。これは、公共の場所で酒を飲むことを禁じるものです。これがある州では、道路や公園で酒を飲むことはできません。アメリカの映画やテレビ番組で、アル中が酒瓶を紙袋に入れて隠して飲んでいる描写があるのは、酒を飲んでいるのを警官から隠すためです。

アメリカ全体で酒を禁じるという禁酒法は「高貴なる実験」と呼ばれました。当然それは社会の多方面に影響を与えたので、ここに書いたのはそのほんの一部分にすぎません。そして、その影響は当然AAにも及んでいます。

禁酒法および時代背景については下記の資料を参考にしました。

  • 岡本勝『禁酒法 「酒のない社会」の実験』, 講談社, 1996
  • 板倉聖宣『禁酒法と民主主義 道徳と政治と社会』第4版, 仮説社, 2009
  • 斉藤孝『戦間期国際政治史』, 岩波書店, 1978

禁酒法のAAへの影響

ホワイトの『米国アディクション列伝』では禁酒法の影響をこう記述しています:

アルコール症者が入所できた昔からの施設は1930年代の初めにほとんど閉鎖されだため、アメリ力圏内のアルコール症者たちはたとえどれほど苦しんでいても行き場がなかった。1920年代の終盤になると、20世紀初頭にできた「禁断療法」の施設のほぼすべてが閉鎖され、かろうじて存続できた施設はどこも、良いコネに恵まれた金持ちのアルコール症者しか受け入れなかっだ。そのため、1930年代前半のこの時期には、あらゆる市立病院や州立精神科病院がすし詰め状態になり、アルコール症者が新たに入院することはますます困難になっていた。残されたアルコール症者たちはやむなく、「家庭で治す方法」にすがったのの、そんな「治療法」は当然、まがい物か詐欺だつだことがあとで判明した。AAは、アルコール症という難題に対応できる、信頼できる施設はもはや存在しない、という状況のなかで生まれたのだ。9)

禁酒法はざる法でしたが、実際にアルコール消費量の大幅な減少をもたらし、それによって多くの人がアルコホリズムになる運命から逃れることができました。そのことは、禁酒法以前からアルコホーリクを治療してきた機関にとっては、顧客の減少を意味しました。経営が成り立たなくなった病院や施設は廃業あるいは商売替えし、残ったのは金持ちのアルコホーリクを相手にする少数の病院と、患者がすし詰めになった公立病院だけでした。

Charles B. Towns Hospital, New York, circa 1940
Charles B. Towns Hospital circa 1940.
from Modernism/modernity

ビルが入院したチャールズ・B・タウンズ病院は、金持ち相手の病院の一つでした。破産状態で貧しかった彼が富裕層向けの病院に入院できたのは、冒頭に述べたように「親族が医者ばかり」という家系だった、という事情によるものです。(そして、この入院がなければAAは誕生しなかった可能性が高いわけで、ビルが医者の親族をたくさん持っていたという事情が間接的にはAAの始まりに大きく作用しているわけです)。

チャールズ・B・タウンズという人物

Charles B. Towns
チャールズ・B・タウンズ, from Daytonian in Manhattan, originally appeared on The New York Times, February 9, 1913, PD

AA成立の立役者をもう一人紹介しておきましょう。タウンズ病院の経営者であるチャールズ・B・タウンズCharles Barnes Towns, 1862-1947)は、ジョージア州で生まれ、保険の販売で成功した後、1901年にニューヨークに自分の名前を冠したアディクションの専門病院を開設しました。彼は医師の資格を持っていませんでしたが、バーで会った見知らぬ男からある田舎の医者が発見したという治療法――ベラドンナ (セイヨウハシリドコロ)という植物から抽出した薬剤を使ったベラドンナ療法(belladonna cure)を教えられたと主張していました。だが、この療法には医学的な裏付けがない、という大きな難点がありました。

それを補ってくれたのが、アレクサンダー・ランバート医師Alexander Lambert, 1863-1929)でした。ランバートはコーネル大学 医科大学院の教授であり、第26代大統領セオドア・ルーズベルト の専任医師もしていました。彼はニューヨークのベルビュー病院Bellevue Hospitalのアルコール病棟で治療にあたっていましたが、有効な治療手段を見つけられずにいました。ランバートはタウンズのベラドンナ療法に目を付け、それをベルビュー病院で採用しました。高名なランバートのお墨付きを得たタウンズは、この療法をタウンズ・ランバート治療法(Towns-Lambert Treatment)と名付けて病院の集客に大いに利用しました。

ランバートについて一つ付け加えておきます。彼の研究によると、高級なアルコールを消費した人に比べて、安酒あるいは密造されたアルコールを消費した人は、発作、震せん譫妄、脳損傷を起こしがちであるという明確な健康リスクがありました。10) ビッグブックでアルコホリズムの帰結を「死あるいは狂気」と表現しているのは、当時は禁酒法の影響で粗悪な酒を飲んでいたアルコホーリクが多かったために、とりわけ予後が良くなかったからなのかもしれません。

タウンズは体格に恵まれた精力的な人物で、「動物的な生命力を放射し、それが人びとに1トンの衝撃を与えた。彼は体育の信奉者で、毎日2時間をニューヨークのアスレチッククラブで過ごした」とビルは表現しています。11) 彼は他の治療法を攻撃し、特に長期型の治療は搾取の一種にすぎないとして、自分の病院での短期型の治療の優位性を主張しました。

Atropa Bella-donna
薬草ベラドンナ(セイヨウハシリドコロ)
Atropa Bella-donna, by, Tom Oates, from Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0

タウンズ病院は、もっぱら金持ちのアルコホーリクや大酒飲みに対してドライアウト(酒抜き)を行う5日間程度の入院治療を提供していました。アルコールの解毒時に患者に投与されていたのがベラドンナでした。このベラドンナ療法がそれ以前の魔術的治療薬と違っていたのは、薬液の成分や、治療の手順がランバートを通じて医学誌に公開されていたことです。まずベラドンナとヒヨス サンショウ Zanthoxylum americanumの抽出混合液を約50時間にわたって1時間おきに飲ませ、最後に瀉下薬 ヒマシ油 を使ってそれらを排出させて、強壮剤を与えて体力を回復させるというものでした。どれも体に悪そうなものばかりですが、これを途中寝ていても起こされ1時間おきに飲まされるという過酷な治療でした。

で、その効果ですが、ランバート博士は最終的にはベラドンナの有効性を否定しました。解毒には有効でも、毒性が強く、幻覚を誘発する性質があり、ベルビュー病院で彼が治療した患者の多くが再発したからです。しかしながら、タウンズはランバートがベラドンナ療法を見限った後も、自分の病院でこの療法を提供し続けました。そして、ビル・Wにとっては(そしてAAにとっても)1930年代にタウンズ病院でまだベラドンナ療法が行われていたことが意味を持ちます。その話はもう少し先に出てきます。

タウンズの病院は禁酒法の時代には競争相手が少なく儲かっていましたが、禁酒法の廃止によってライバルが増えてくることが予想されました。そこでタウンズはビルに病院のスタッフにならないかと誘いました。ビルたちの活動(後のAA)を囲い込んで病院の集客に利用する意図があったと思われます。この時のビルは酒はやめたもののまだ無職で、家計は相変わらずロイスが百貨店で売り子として働いて支えていました。ビルにとっては渡りに船の話だったのですが、他のメンバーの反対に遭い、タウンズのオファーを断っています。ビルはこのエピソードを12&12と『成年に達する』の伝統2の部分で使っています。12) 13)

こんなエピソードばかり追っかけていると、チャーリー・タウンズという人物が、自分の利益にしか関心のない人物に見えてしまいますが、彼がいなければAAが始まらなかっただろう、というエピソードもあります。ビル・Wとヘンリー・Pがビッグブックの出版資金を集めた時に、タウンズは2,500ドルの出資をしてくれました。それだけでなく、出版直前に資金がショートしたときに、追加の資金を提供してくれました。さらに、出版されたビッグブックが全く売れなかった時期に『リバティ』という雑誌にAAの記事が載るように手配してくれたのもタウンズでした。14) そのようなタウンズの協力がなければ、AAも雲集霧散した多くの活動と同じ運命を辿ったことでしょう。

病院はタウンズの息子に受け継がれましたが、それも20世紀半ばには閉じてしまいました。いまでも建物は残っています。というわけで、ビルが入院したのは、ニューヨークの真ん中、セントラルパークを見下ろせる場所にある、富裕層向けにアルコールあるいはアヘンの解毒をしてくれる病院だったわけです。

チャールズ・B・タウンズと彼の病院については、以下の資料を参考にしました。

  • ウィリアム・L・ホワイト『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』ジャパンマック, 2007, pp.82-86
  • Howard Markel, An Alcoholic’s Savior: God, Belladonna or Both?New York Times, April 19, 2010

次回はビルがタウンズ病院に入院するところからです。


  1. ロイスの末弟 Lyman Burnham も医者になった。 []
  2. ストローベル医師はラトランド時代のエミリーの主治医だった — PIO, p.75 []
  3. PIO, p.324 []
  4. ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, p.4 []
  5. 2015-17年の平均 — WHO, Global status report on alcohol and health 2018, World Health Organization, 2018, p.7 []
  6. ホワイト, p.5 []
  7. Jay L. Zagorsky, How Prohibition changed the way Americans drink, 100 years agoThe conversation (theconversation.com), The Conversation Media Group, 2020-1-15 []
  8. 酒税に関する資料 – 国税庁 (mof.go.jp), 2020-10-1 []
  9. ホワイト, p.125 []
  10. Markel []
  11. PIO, p.101 []
  12. 12&12, AAWS, 2001, p.182-185 []
  13. AACA, AAWS, 2001, pp.151-155 []
  14. AACA, pp. 243, 260, 269 []