ビッグブックのスタディ (7) 再版にあたって 4
このプログラムを全世界に届けたい
今回はビッグブックの成り立ちについてです。
p.xxii (22)の1行目から:
一九三七年の末ごろには、アルコホリズムの暗黒の世界に新しい光が差し込んだことを説得するのに十分なほどの、しっかりした断酒歴をもったメンバー数が集まっていた。
この奮闘する一群のグループは、自分たちのメッセージを他に類のない体験として世間に知らせるのはいまだと考えた。この決意は一九三九年春、本書の発刊によって実を結んだ。1)
ルーズベルト大統領のニューディール政策 によってアメリカの景気は多少良くなり、ビル・Wもウォール街 の仕事に戻りましたが、1937年には不景気がぶり返し、その仕事を失ってしまいました。彼は投資関係の仕事を得ようと西部の都市を巡ってみたものの職は見つからず、せっかく西部に来たのだからとアクロンのドクター・ボブ宅を訪ねました。
その時、ビルとボブがこの2年間の回復者の数を数えたところ、合計で40人がまったく飲まずにいました。その数を見て、二人は自分たちのやり方には確かな効果があることを確信しました。2) 二人は考えました、このプログラムを独占せず、全世界でアルコホリズムに苦しむ人たちに届けなくてはならない・・・でもどうやって?
根っからのプロモーター気質だったビル・Wは、派手なことを考えました。当時はアルコホーリクを入院させてくれる病院はとても少なかったので、アルコホーリクの入院治療を行う病院を全米に展開しよう。それは莫大な利益を生むだろうから、それを使って伝道師団をトレーニングし、全米を巡回させよう。さらには、メッセージを正確に伝えるために本を出版しよう・・・。
保守的だったボブは、それは素晴らしいアイデアだと認めたものの、金銭が絡むことには懐疑的でした。金銭はこの原理を台無しにするに違いない、と。
このように、積極派のビル・Wと慎重派のドクター・ボブという組み合わせが良かったのでしょう。ボブはビルと言い争いをすることは一切なかったそうですし3)、ビルはボブの了解なしに物事を進めることはありませんでした。
わきみちもし、ビル・Wだけに任せていたら、今頃AAはハンバーガー・チェーンの様になっていただろう。もし、ドクター・ボブだけに任せていたら、今でもAAはアクロンにしかなかったに違いない。― AAの定番ジョーク
結局アクロンのメンバー18人に集まってもらい、投票で決めることになりました。ビルの意見が僅差で上回り、事業化を行うことになりました。4)
もちろん、私たちはAAが事業化されなかったことを知っています。ビルもボブも破産状態だったので事業化に必要な資金を持っておらず、アル中に投資をしようという人は誰もいなかったので、病院も伝道師団も作れませんでした。ただ、彼らはなんとか出版資金をかき集めました。
ビッグブックの執筆と12ステップの完成
1938年の5月にはビッグブックの執筆が始まりました。執筆はビルの口述を、ノン・アルコホーリクの女性秘書ルース・ホック(Ruth Hook, ?-1986)がタイプすることで行われました。できあがった原稿はミーティングで読み上げられ、さんざん批判されたので、ビルは何度も口述しなおし、ルースはそのたびにタイプしなおしました。実質的に無給でそうした仕事をやってくれた彼女の存在がなければ、ビッグブックもAAも存在しなかったでしょう。5)
写真を見るとルースは美人さんです。若く未婚で美人である彼女の存在は、当然多くのAAメンバー(当時は全員男性)の心を惑わしたわけですが、そうした話はまた別の機会にしましょう。
第五章にある12のステップが書かれたのは1934年の12月のことです。ビルは自宅でその部分を書き上げました。それまでステップの数は6つで、しかも口伝で手渡されていったためにその内容は人によってバラツキがありました。ビルはステップをもう少し細かく分けるべきだと考え、インスピレーションに従って書き上げてみると、数は12個になっていました。当然それは、他のメンバーたちの激しい反発を招きました。6)
わきみち今の私たちにはステップは12個であるのが当たり前に思えますが、当時のメンバーにしてみれば「急に倍に増えた」ことはショックだったことでしょう。もし、あなたが今夜ミーティングに行って、他のメンバーから「今日からステップが倍の24個になったんだ」と言われたら、「そんな、いきなり! 数が多すぎる!」と反発したくなるに違いありません。― AAの定番ジョーク
ともあれビッグブックは書き上がり、1939年4月に出版されました。
これは2014年にビッグブックの出版75周年を記念して作られた復刻版です。内容が1939年の初版を再現しているだけでなく、サイズや紙質、ダストカバー(表紙カバー)に至るまで当時に近づけたものです。まだ在庫があって注文できるようです。
赤と黄色の奇異なデザインのダストカバーがかけられており、大きな文字でアルコホーリクと書かれています。こんな本を持って歩いたら10メートル先からでもアル中だとバレてしまいますね(笑)。(これも定番のジョークです)。
このカバーを剥がすと、中の本は赤い布で装丁されており、普段はその状態で使われたので、この本はビッグ・レッド・ブック(大きな赤い本)と呼ばれました。後に装丁が青い布に変更されたので、単にビッグブック(大きな本)と呼ばれるようになっていきました。7)
本によって伝わり、広がっていったAAと12ステップ
ウィリアム・L・ホワイト(William L. White, 1947-)8) は、ビッグブックの出版は、基本的なメッセージが成文化されたことに意味があると主張しています。9)
プログラムを口伝(述べ伝え)で次の人へと渡していくと、歪曲や希釈が起きる危険があります(しばしば実際に起こる)。しかし印刷物にしたことで固定され、そのおかげで現在の私たちも当時のAAメンバーと同じ情報を学ぶことができるのです。
さらに、口伝で伝えるためには、渡す側と受け取る側が対面しなければなりません。これはメッセージを運ぶ上で大きな制約になります。
ところが印刷物であれば、対面する必要はなく、本を買って読むことで、メッセージを受け取ることができます。実際に、アメリカのAAの初期の発展は、アクロンやニューヨークのメンバーが全米に散ってメッセージを運んだのではなく(伝道団は作られなかった!)、各地でビッグブックを買い求めた人たちが、それを読み、その内容(12ステップ)を実践して、その地方で最初のAAメンバーとなってグループを作っていったことで爆発的な成長が起こりました。もちろん、そのように孤立したメンバーたちに対しては、ニューヨークのオフィスとの文通や商用で旅行するメンバーの訪問というサポートはあったものの、主力はビッグブックによるメッセージ伝達でした。10)
オーストラリアのAAの始まりは象徴的で、これもアメリカ人のAAメンバーがオーストラリアに渡ってメッセージを伝えたのではなく、シドニーの精神科医マイノーグ医師(Dr. Sylvester Minogue)がニューヨークからビッグブックを手に入れ、それを元にミーティングを始めて数人のアルコホーリクをしらふにしたのが始まりです。ビッグブックを使わなかったら、オーストラリアのAAの発展はもっと遅れていたことでしょう。11) 12) 13)
日本においてAAの爆発的発展が起こらなかったのは、対面や「述べ伝え」やミーティングを開くことにこだわりすぎ、本から学ぶことを否定してしまったことが阻害要因となったと考えられます。私たちは始まって40年経った現在でも、AAグループの存在しない県があるという現実14) について、考える必要があります。
近くにミーティングがないとか、ステップを伝えてくれるスポンサーがいないとか、そんなことを気に病む必要はありません。1940年代にビッグブックを買い求めた人たちにとっては、それが当たり前の環境であり、彼らはビッグブックを読み込んで情報を得て、プログラムを実践していったのです。また、ビッグブックを書いたビル・Wは、まさにそういう境遇にいる人たちを読者として想定していたわけです。
また印刷物であることは、時代や地理的距離や言語の壁を越えてメッセージを伝えることができることを意味します。ビッグブックが書かれたのは80年前であり、ビル・Wやドクター・ボブはすでに故人で直接会うことはできませんが、彼らの伝えたかったメッセージは、ビッグブックを読むことで受け取ることができます。太平洋を越えてアメリカに行く必要もありません。英語が分からなくても、日本語に翻訳されたビッグブックを読めば良いのです。
情報不足を解消するために
僕はこの10年ほどの間に、「12ステップを伝える」という目的で北海道から沖縄まで全国あちこちに行く機会がありました。そこで分かったことは、地方在住のAAメンバーは12ステップについての情報不足の状態に置かれているということです(AA以外のグループの人たちについても同様でしょう)。
例えば東京近辺であれば、熱意を持って探せばビッグブックの内容を伝えてくれるスポンサーや勉強会を見つけ出すこともできるでしょう。だが、地方ではそもそもそういった資源が絶対的に少ないのです。ミーティングに参加し、スポンサーを得ることは大事なことですが、それによって12ステップについての情報を得るのが難しいのが地方の現実です。そのことは、つい数年前まで地方在住者だった僕には身に染みています。対面であることにこだわっていては、この状況は打破できません。
80年前のアメリカの地方在住のAAメンバーと同じように、ビッグブックから学ぶことが答えになるのでしょう。ですが、困ったことに、ビッグブックは決して読みやすい本ではなく、読み手に読解力を要求する本です。
よく「12ステップは難しい」と言う人がいますが、12ステップそのものは単純です。ただ、12ステップを学ぼうとビッグブックを開くと、そこにあるのはビル・Wの書いた読み取りづらい文章です。そのせいで、ビッグブックを読んでも「日本語なんだけど意味がわからない」ということになりがちで、嫌になって途中で放り出してしまう、ということがあっちでもこっちでも繰り返されているのではないかと思うのです。
だからこのブログは、ビッグブックの「この部分はこういう意味ですよ」とか「ここが大事なポイントです」という情報を提供し、さらに図や写真を使って、ビッグブックから12ステップを学んで実践するアシストをしようというコンセプトなのです。
とはいえ、講師役を気取るつもりはありません。僕の敬愛するAAメンバーのジョー・マキュー(Joe McQ, 1928-2007)は亡くなるまで45年間ビッグブックから12ステップを学び続けました。僕がビッグブックを学び始めたのは2004年ごろですからまだ15年しか経っていませんが、この先も学び続けていくつもりです。そして(ジョーと同じように)教え手ではなく学び手として(SWT, p.8.))、同じように12ステップを学びたいと思っている人たちと、自分が学んだことを分かち合いたいのです。
- ビル・Wたちは、自分たちの回復プログラムを世界中に届けるためにビッグブックを出版した。
- 多くの人がビッグブックから12ステップを学び、AAを始めたことで、AAは全米や他国に広がった。
- 各地でAAを始めた人たちにとって、ミーティングやスポンサーがないことは当たり前だった。
- このブログは、ビッグブックから12ステップを学んで実践する人のアシストを目的にしている。
次回も「再版にあたって」を続けます。
しかし、あれから4年経過してオンラインでの経験が積まれた結果、情報不足は解消されていないことも明らかになってきました。電子ネットワークはオンライン上でAAメンバー同士を結びつけてくれますが、それによってメンバーの持っている情報が増えるわけではありません(情報を持たない者同士がつながっても情報は増えない)。オンラインの時代でも、回復に必要な情報を得るためには、本から学ぶ必要があることがあらためて確認される結果となりました。そうした学びの手助けとして、このブログの存在意義も失われてはいないのでありましょう。
- BB, p.xxii (22).[↩]
- AACA, p.115.[↩]
- AACA, p.101.[↩]
- AACA, p.220-221.[↩]
- AACA, p.243.[↩]
- AACA, pp.244-247.[↩]
- Wally Paton, Back to Basic-101: An introduction to the Twelve Steps of Recovery, Faith With Works Publishing, 2010.[↩]
- 彼の様々な論文は、彼自身のサイト Selected Papers of William L. White (williamwhitepapers.com) で読むことが出来る。[↩]
- ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, pp.144, 151.[↩]
- アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, 第四章 — ビッグブックの出版後約2年間は新しいグループにメンバーを派遣することができたが、1941年3月にジャック・アレキサンダーの記事がサタデー・イブニング・ポスト に掲載されると急速にAAグループが増え、訪問者ではなくビッグブックがメッセージを伝える主な手段になった。[↩]
- AACA, p.130.[↩]
- History of AA in Australia – Alcoholics Anonymous (aa.org.au), Alcoholics Anonymous Australia.[↩]
- Sydney Medical School, Minogue, Sylvester John – The University of Sydney School of Medicine Online Museum, The University of Sydney.[↩]
- AA日本40周年記念大会におけるプレゼンテーションより。[↩]
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