ビッグブックのスタディ (6) 再版にあたって 3
ドクター・ボブが知らなかったこと
「再版にあたって」の続き、p.xx (20)の後ろから4行目から:
ブローカーは商用でアクロンに向かったが、商取引は見事に失敗に終わり、もしかするとまた飲んでしまうのではという恐れを抱くことになる。その時彼は、いま自分を救うためにこそ自分のメッセージを他のアルコホーリクに伝えなくてはならないと悟った。その相手のアルコホーリクがアクロンの医者だったのだ。1)
前回は、ビル・W(ブローカー)が仕事でアクロンに向かったこと。企業買収が失敗に終わり、ビルは文無しに近い状態でアクロンのホテルに取り残され、酒を飲みそうになったこと。彼はそれまでの5ヶ月間、他のアルコホーリクを助けることで自分が酒をやめ続けてきたことを思い出し、「もう一人のアルコホーリク」を探したことをお伝えしました。
このあたりの話は、ビッグブックの第十一章のp.223以降に書かれています。また、ドクター・ボブ(アクロンの医者)との出会いのシーンは「ドクター・ボブの悪夢」にもあります。
ビルからの電話を受けたヘンリエッタ・サイバーリングは、ドクター・ボブの妻アンに電話をかけました。だがこの日(1935年5月11日)のボブは泥酔していて、とても人と会って話せる状態ではありませんでした(BB, p.251)。そこで翌日の夕方、ヘンリエッタの家で会うことになりました。次のp.xxi (21)の先頭から:
この医者は、飲酒問題の窮地から逃れるために、何度も霊的な手段を試しては失敗していた。2)
ボブと妻のアンは2年前からオックスフォード・グループに参加していました。ですから、問題・解決・行動という三要素のうち、ボブは解決と行動の二つについての情報をすでに知っていました。欠けていたのは問題についての情報でした。
二人はどんな話をしたのか
ボブは前日までの酒の離脱で非常に体調が悪かったので、ビルとの話は「15分だけ」と言って始めたのですが、実際には5時間以上話し込むことになりました。二人はいったいどんな話をしていたのでしょうか?
ドクター・ボブは、ビルが自分が助けられるとは思っていませんでした。ボブは「私はそれまでアルコホリズムに関するありとあらゆる文献を読み、それに精通しており、あるいは精通していると思われたあらゆる人々と話をしてきた」(BB, p.252)と述べています。医者である自分が、専門的知識を使っても自分を助けられないのに、素人のビルが自分を助けられるわけがないだろう・・・。
だがビルは「私はあなたを助けに来た」とは言わず、逆に「私には助けが必要なのです」と言いました。同じ飲酒の問題を抱えたドクター・ボブから助けが得られるとビルは期待したのです。3) 「誰かを助けることで、自分が助けられる」という根本原理がここでも働いていました。
ビルは、ドクター・ボブが医学的には全く絶望的(hopeless)である点を特に強調しました。具体的には、私たちが「医師の意見」の章で学ぶ「アレルギー+強迫観念」というシルクワース医師の考えのことです。この時初めて、ドクター・ボブは問題についての情報を知ったのです。
ビルはこれまでの5ヶ月間の失敗から得た教訓と、シルクワース医師からのアドバイスを活かし、霊的な話はしませんでした。その代わりに「シルクワース先生の説明」を話しました。それが「ボブをその最奥の部分で動かしたのだ」4) とビルは後に述べています。
その日プログラムが手渡された
アンの勧めもあり、この後、ビルはドクター・ボブの家に滞在しました。ゴム機器の会社の買収には僅かながら逆転勝利の可能性が残っており、ニューヨークの仕事仲間が資金を少し送ってくれたおかげで、ビルは8月末まで滞在を続けることができたのです。
ボブはビルと会った日から酒をやめましたが、3週間後の6月3日、アメリカ医師会(American Medical Association)の総会に出席するためにニュージャージーに向かう途中で酒を飲み始めてしまい、5日後に泥酔状態で戻ってきました。その3日後には、ドクター・ボブでないとできない手術が待っていたため、ビルとアンは懸命に彼を介抱しました。
・・・医者は、前には決して奮い起こせなかった意欲をもって、自分の問題についての霊的な処方箋を実践し始めたのだ。彼は一九五〇年に没するまで、二度とアルコールを口にすることはなかった。2)
6月10日の朝、ボブはビルに、
「これをやりとおすよ」
“I am going to go through with it.”
と言いました。5) ボブは飲まないで生きるために必要な行動を「やり通す」という決意を固めました。彼はすでに2年以上前からオックスフォード・グループのミーティングに参加しており、解決と行動についての知識を得ていながら、その行動をやり通す「意欲」を欠いたために結果を出せずにいました。それは彼が怠惰な人間だったわけではなく、この段階のアルコホーリクとしては普通の状態です。
そしてビルから問題についての情報(現在の私たちのステップ1)を知らされ、さらにその情報通りのことが自分の身に再飲酒というかたちで起きたことで、やっと彼は意欲を持つことができました。これもアルコホーリクとしては、ありがちなことです。彼はその意欲を「やり通す」という言葉で表現したのです。
まだ離脱で手が震えているボブに、ビルは一本のビールを手渡し、それがボブの最後の酒になりました。そして、決意の通り、手術を終えたボブは、これまで迷惑をかけた人びとの家を尋ねて埋め合わせをして周り、夜遅くなって帰宅しました。
このように、ドクター・ボブが解決を得るための行動を取った1935年6月10日がAAの始まった日とされているのです。
それまでのドクター・ボブは、霊的な体験が必要だということは分かっていても、それを得るために自分がアルコホーリクであることが誰かに知られてしまったら、専門家として食べていけなくなると心配していました。そのために埋め合わせや他の人を助けるという行動に踏み切れずにいたのです。しかし、この後の彼は「多くのアルコホーリクを助ける男」として同業者たちの厚い信頼を得ていくのです。
最初のAAグループの誕生
ビルは8月の終わりまでボブ宅に滞在し、二人で他のアルコホーリクを助ける活動を続けました。p.xxi (21)の後ろから5行目には、こういう文があります:
ブローカーが一九三五年の秋にニューヨークに戻ると、最初のAAグループが事実上出来上がっていた。2)
When the broker returned to New York in the fall of 1935, the first A.A. group had actually been formed 6)
少し翻訳を手直しするならば、
続きです:
もちろん当時は誰一人、それがAAグループだとは思っていなかったのだが。2)
ビルが8月終わりにニューヨークに帰る頃には、アクロンには「アルコホーリク分隊(alcoholic squad)」ができあがっていました。そして、ニューヨークに戻ったビルもアルコホーリクの手助けを行って「アルコホーリクの集まり(bunch of alcoholics)」と呼ばれるグループを作りました。
この二つはあくまでオックスフォード・グループの一部でした。ただし、アルコホーリクがオックスフォード・グループの中に均質に混じっていたわけではなく、グループ・イン・グループと呼ばれるように、オックスフォード・グループの中にアルコホーリクだけの集団ができたと見なすべきでしょう。
オックスフォード・グループのメンバーの中には、アルコホーリクとの付き合いを避ける人もいましたし、アルコホーリク側は自分たちだけで集まることを好みました。オックスフォード・グループの関心が世界を変えることに向いていたのに対し、アルコホーリクたちの関心はアルコホーリクだけに向いていました。教義の中にはアルコホーリクが受け入れられないものも多く、アル中たちがオックスフォード・グループから分離するのは必然だったと言えるでしょう(オックスフォード・グループからの分離については、また稿を改めて書こうと思います)。
- オックスフォード・グループに加わっていたボブは、解決と行動についてはすでに知っていた。
- ビルがボブに会ったのは「誰かを助けることで、自分が助けられる」という根本原理に従ってのことだった。
- ビルがもたらした問題についての情報が、ボブに行動への意欲をもたらした。
- ビルからボブにプログラムが手渡された日がAAの創始の日とされている。
次回はビッグブックの出版について、になります。
- BB, p.xx (20).[↩]
- BB, p.xxi (21).[↩][↩][↩][↩][↩]
- Susan Cheever, My Name is Bill, Bill Wilson — His Life and the Creation of Alcoholics Anonymous, Washington Square Press, 2004, p.136.[↩]
- AACA, pp.104-105.[↩]
- DBGO, p.106.[↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.xxvii.[↩]
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