ビッグブックのスタディ (98) どうやればうまくいくのか 10

今回は三つめの本能である共存本能(social instinct)を扱います。
前回は、旧石器時代 に私たち人間ヒト がどのように進化してきたかをベースに性の本能を説明しました。今回もそれにならいます。結構長くなってしまいました。

動物はなぜ群れを作るのか、ヒトはなぜ社会を作るのか

動物の多くは、繁殖期 以外は単独で暮らしていますが、常に群れ を作っている動物もいます。群れを作ることで、捕食 される危険を減らせるからです。

イワシの群れ, by RERE0204, from photoAC

水族館で群れになって泳ぐイワシを観たことがある人も多いでしょう。群れを作っていれば、捕食者に襲われたときに、不運な一匹が食べられてしまうだけですみますから、単独で暮らしているよりも助かる可能性が高くなります(希釈効果)。鳥類や草食の哺乳類 でも同様の群れが作られます。ですがこのような群れにおいては、構成メンバー間の協力関係はありません。群れの真ん中にいたほうが安全なので、多くの個体が群れの中央を目指すという「利己的な行動」の結果として、弱い個体が周辺部に押し出されるということも起こります。

つまり、動物の群れには構成メンバー間の協力関係があるとは限らないのです。群れるだけでもメリットがあるがために群れができ、結果として群れの中で協力関係が生じていった、というのが社会 の発生順序なのです(協力が必要だから社会が生じたという説明は順序が逆)

しかしながら、動物の群れのなかでの協力関係もたくさん観察されています。

ナミチスイコウモリ
by Uwe Schmidt, from Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

南米に住むチスイコウモリは、哺乳類の血液だけを食料とする吸血コウモリです。洞窟の中に住んでいて、夜になるとそれぞれ食事にでかけていきます。眠っている動物の血を吸うのですが、運が悪いと何日も血液にありつけないこともあり、そのままでは餓死してしまいます。ところがチスイコウモリには、ねぐらに帰ってきたとき、満腹の個体が飢餓状態の個体に口移しで血液を分け与えるという習性があります。この「利他的な行動」は、普段から気前よく血液を分配する個体は、飢餓状態に陥ったときに他から血液を分けてもらいやすい(一方しみったれの個体は、飢餓状態でも拒絶に遭いやすい)ことが観察されたことで、情けは人の為ならず の情理であると説明されます。1)

野生のウマ は、母親とその子供たちが数家族集まって女系の群れを作りますが、外敵に襲われたときに、母ウマたちは子ウマを群れの中央に集め、後ろ足で外敵を蹴り飛ばして撃退しようとします。このとき、自分の子だけでなく、他のウマの子も守ろうとすることが分かっています。

ヒトの近縁のパン属(チンパンジーやボノボ)も群れを作り、協力して外敵を撃退したり、食料を分け合います。ヒト(人類)も旧石器時代にはパン属のように群れを作って狩猟採集生活 をしていました。

旧石器時代の私たちと追放の歴史

旧石器時代の生活を再現したジオラマ
旧石器時代の生活を再現したジオラマ, photo by Cary Todd, from flickr, PD

旧石器時代の人類がどのような暮らしをしていたかを直接知ることはできません。ただ、最近まで狩猟採取生活を行なっていたアフリカのブッシュマンサン人 やオーストラリアのアボリジニ の生活からうかがい知ることはできます(ただし、現在では彼らも定住を強いられ、狩りも禁止されているため、過去の記憶や記録に多くを頼らざるを得ない)

当時の人類は、数家族が集まって30人ぐらいの小集団バンド, band societyを作って暮らしていました。近隣のバンド間には交流があり、いくつかのバンドが集まって上限150人ぐらいの共同体クラン, clanを構成していました。

この150人という数は、人間の認知能力の限界から来るもので、ダンバー数 と呼ばれます。人間が安定的な関係を維持できる上限だとされています。――SNSを使えば何千人、何万人と「友達」になることができますが、個人的なつきあいを継続できるのはどうがんばってもその中の150人が上限だということです。2)

つまりクランのメンバーは――たまにしか会わない場合もあるけれど――お互いに顔見知りであり、それによって自分たち(内集団)ヨソ者(外集団)を区別していました内集団・外集団

バンドのなかでは、男たちは共同して動物を狩りに出かけ(狩猟)、女たちはねぐらの近くで木の実やキノコなどを集めました(採集)。しばらくそれを続けると周辺の食料を取り尽くしてしまうため、飢えないために彼らは定住せずに移動を続けていました(遊動生活)3)

持って運べる物しか所有できませんでしたから、たくさん所有することには意味がありませんでした。食料は保存できなかったので、全員に等しく分配されました。全員が同じ道具を作る技術を持っていたので、専門職 はありませんでした。旧石器時代の私たちは平等主義 で生きていたのです。バンドの方針は話し合いで決め、リーダーは存在してもその権限は弱く、むしろ規範を示すことで皆を導かねばなりませんでした。能力のある者や自慢は嫌われ、大きな獲物を仕留めても周囲から「小さい!」と非難されたというブッシュマンの発言も残されています。4) ――ただしこの平等主義は男たちの間だけのことで、男女が平等だったという証拠はなく、家庭内では鉄拳を振るった父親もいたことでしょう。

全員がプライバシーのない生活を送っているなかで、他の人の生活に口を出したりする横暴なメンバーは嫌われました。そのようなメンバーによって集団の秩序が乱され続けると、集団として機能が失われ、誰も生き残れなくなってしまいます。そこで他のメンバーたちは協力して、わがままだったり粗暴なメンバーをバンドから追放したり(全員が同じ技能を持っていれば誰かを追い出しても困らない)、それが無理なら自分たちが他のバンドに移ってしまうことで問題を解決しました。横暴者は取り残されて困窮するしかありませんでした――このあたりは、別のグループへの移動がしばしば起こる都市部のAAのグループライフにちょっと似ています――横暴者は反省すれば別のバンドに迎え入れられたでしょうが、懲りなければいつまでも追い出され続け、生き残ることはできなかったでしょう。

ところで、当時も感染症 が存在したことが排泄物の化石から分かっています。それはおもに動物を食べることによってヒトへと感染したのですが、それが出血熱 のように人から人へと伝染する致死性の病気だった場合には、集団が全滅してしまいます。そこでやむなく感染者を追放することで、残りのメンバーの命を救ったと考えられます。

追放されたのとは別の共同体(よそのクラン)に迎え入れてもらうことはできたのでしょうか? それも期待できないでしょう。集団から排除された個体は粗暴性や感染症など何らかの原因を抱えており、それを迎え入れることは自集団が全滅するリスクがあります。だからはぐれ者・ヨソ者は極端に警戒されたはずなのです。

どんな動物であれ、集団での生活にいったん順応してしまうと、単独での生活に戻るのは難しくなります。バンドから追い出され、同じクラン内の他のバンドにも受け入れてもらえなければ、生き残ることは難しかったでしょう。

私たちの祖先にとって、追放されることは死を意味したのです。

承認されるということ

では自分が追放されないようにするにはどうしたら良いのでしょうか? まあ感染症は防ぎようがなかったにしても、他のことには対策できました。

私たちの祖先にとっては、「お前は出ていけ」と周りの意見が一致するほどまで自分の評判が悪化してからそれに気づいても、もう挽回不能で手遅れだったでしょう。私たちの祖先は生き残るために、「周りが自分のことをどう思っているか(どう評価しているか)」を常に気にせざるを得なかったはずです。

自分の評判を気にかけない脳天気なタイプは追放されまくって、遺伝子を次世代に残せずに淘汰されてしまい、評判が気になる神経質なタイプだけが生き残って現代社会を構成しているわけです。だから私たちが、自分のことが周りにどう思われているのか、気になって気になって仕方ないのは当然なのです。

では、自分の評判を高く保つにはどうすればいいのでしょうか? シンプルに言うならば、「私はこの集団にふさわしい人間だ」ということを証明することです。それを証明する方法は様々あります。集団のルールと秩序を守ることだったり、皆で共有する目的に向かって努力する姿勢だったり、自分が入手した食料を気前よく分配することだったり・・・本当に様々な方法があります。旧石器時代では、特別な技能や才能をひけらかすことはむしろ妬みを招いてマイナスでしたが、後で述べるように農業が始まると技能や才能の存在は集団にとって好ましいものに変わりましたから、みんなに役立つような技能や才能を示すこともふさわしさを示すことになりました(でも露骨な方法で示すと現代でも嫉まれる)

どんな方法を取るにせよ、それが受け入れられ「この集団にふさわしい」という承認を周囲から受けたとき、私たちは安心すると同時に喜びを得ます。だから私たちは排斥されるという不安(不快の感覚)と、受容されるという喜び(快の感覚)のあいだを一生行ったり来たりしながら生きているのです。

不採用
from illustAC

例を挙げましょう。あなたが就職したいと思って、求人広告を出している会社に履歴書を送ったとします。すると、1~2週間後に郵便受けに厚めの嫌な予感のする封筒が届きます。開けてみると、なかには自分の送った履歴書が入っており、もう一枚「残念ながら採用は見送らせていただきます」という素っ気ない書類が入っています。不採用になったことで、自分が何か損をするわけではないのに、ちょっと悲しい残念な気分になるのはなぜでしょうか。

採用する会社の側では、応募者のなかから自分たちの会社にふさわしい人物を採用します。だから、不採用のお知らせは「あなたは私たちの会社にはふさわしくない人物です」という意味を持っています――必ずしもそういう意味ではありませんが、私たちの脳は勝手にそう解釈するようにできています。

逆に、採用のお知らせをもらうと嬉しいのは、将来の収入の見込みが立った(=安全本能が満たされる)だけではなく、共存本能の承認の欲求が満たされるからです。「あなたは私たちの会社にふさわしい人材です」という承認を得られたという喜び(快)が生じるからなのです。

しかしそれで終わりにはなりません。その会社で働き続けていれば、常に「私はこの会社にふさわしい人材だ」ということを証明し続けなければなりません。正社員 の立場を得ていれば、そんなに簡単にクビにはなりませんが(安全本能は満たされる)、私たちの承認の欲求が「役立たず」の烙印を拒否する以上、ずっとふさわしさを証明し続けなければなりません。

現代では、どこかの集団から排除されることが死に直結することは滅多にありません。しかし、私たちが旧石器時代に(あるいはそれ以前から)身に付けた共存の本能は、いまでも私たちを駆動し続けているのです。

この承認の欲求は、もともとは30人とか150人ぐらいのお互いに顔の見える集団(バンドやクラン)相手に作動するように作られました。ですから、私たちが職場やAAや家族や親戚や近所の人や友人たちを相手に「自分がどう思われているか」を気にするのは、相手との関係を維持するのに役立つという点で、理にかなっています。そして、見ず知らずの赤の他人にどう思われようと気にしないという考えも理にかなっています。なぜなら、自分と関係ない人に拒絶されたからといって、それに自分の人生が左右されることは滅多にないからです。

だが、インターネットやSNSの普及は私たちを、自分と直接関係しない人々と結びつけるようになりました(過度な接触が生じた)。ネットに書いたことをこき下ろすようなクソリプ をもらうと、なんだか妙に凹んでしまいます。作家や芸能人や議員など、評判が職業生活に直結する職業ならばいざしらず、赤の他人にどう思われようが得にも損にもならない立場にいるはずなのに、イイネがたくさんつけば喜び、クソリプが来れば凹んでしまうのです。これは評判を気にする神経質なタイプだけが生き残ってきた(そのような淘汰圧が働いた)ことを考えれば当然なのです。私たちを振り回しているのはネットの向こうにいる他人ではなく、自分自身の共存本能であることに気がつかなければなりません。

自分の殻に閉じこもっている人でも、ちゃんと承認の欲求を持っています。以前、鉄道マニアの人と話をしたとき、車両の型式について30分以上話を聞かされてしまいました。その方は実に楽しそうに話をしていました。多くの知識を備えていることを示せる喜びというのも、承認の一つの形でしょう。

定住と格差の発生

人類は旧石器時代には(完全にではないものの)平等に暮らしてきました。所有の面でも、技能の面でも、権力の面でも、持つ者と持たざる者という違いは生じていませんでした。

狩猟採取生活では、起きている時間のほとんどを食糧の確保のために使っていました。ですから、人類が牧畜 農耕 を始めたのは、余暇時間の最大化のためだったと考えられています。5)

およそ1万年前に最終氷期 が終わって気候が温暖になったことが、世界のあちこちで農業が始まる契機になったのでしょう。農業に先んじて、まず食物を腐らせずに備蓄する技術が作られたはずです。備蓄があれば毎日食料を探しに行かなくて済み、定住することが可能になりした。

弥生時代のジオラマ
弥生時代の農耕を再現したジオラマ, from Aichi Now

遊動生活では所有という概念は希薄でしたが、農業と定住によって、食料や道具を多く持つ者持たざる者が生じました経済格差の発生)。全員が同じ技術を持っている必要がなくなり、分業が行なわれるようになりました職業 の誕生)。特別な技能や才能を持った者は重宝されるようになりました。専門化が進んだことで、人々はこれまで以上に相互に依存するようになりました(専門的な技術を持った者がいなくなると皆が困るという状態が生じた)

『ロビンソン・クルーソー』
『ロビンソン・クルーソー』(中央公論社刊)

旧石器時代でも集団から追放されることは生命の危機を招きましたが、それでも誰もがなんでもこなせる技術を持っていたのですから生き残れる可能性はまだありました。しかし、文明生活に適応した結果として限られた技術しか身に着けなくなった私たちは、自然環境下で単独で生き残れる可能性はほぼなくなりました。ダニエル・デフォー (1660-1731)の小説『ロビンソン・クルーソー 』は、無人島に漂着した船乗りが生き延びるストーリーですが、この話には実在のモデルがあります。アレキサンダー・セルカーク (1676-1721)という人物が南米チリ の沖合の無人島に取り残され4年間単独生活をしたという実話がもとになっています。ただし、セルカークの場合には、銃やナイフを持っていて獲物を仕留めることができたことや、水夫として様々な技術を身に付けていたことが幸いしました。残念ながら私たちの多くはセルカークのように生き残ることはできないでしょう。

農業によって文明化が始まると、私たちは自分の属する集団により強く依存する(追放されることはより確実な死を意味する)ようになり、承認を求める欲求はより強くなりました。


格差
from IllustAC

さて、農業を行なうためには、用水路の整備などの大規模な事業が必要になります。集団が統率の取れた働きをするためにはリーダーが必要になり、リーダーは他の人を従わせるためにより大きな権威 を帯びるようになりました。

ここで一つの疑問が生じます。人類はそれまで長きにわたって平等主義の暮らしを送ってきたのに、なぜ農業と文明化を契機として序列のある格差社会 を受け入れたのか、という疑問です。不自由さが増せばそこに人々の不満が生じて当然なのに、なぜそれを受け入れたのでしょうか。この疑問に対して最近有力視されているのが自己家畜化 です。

牧畜とはウシやウマなどの家畜 を育てることですが、彼らはもとは野生動物 であり、人間に対する攻撃性や警戒心を備えていました。そのままでは家畜として扱いづらいので、扱いやすい個体を人為的に選抜して繁殖させることで、その性質を固定していったと考えられます品種改良 家畜化 。ところで私たちはネコやイヌを飼いますが、彼らも本来は攻撃性や警戒心を備えていたはずなのに、いまはとても人間に従順です。しかしこれは人の手によって家畜化が行なわれたのではありません。人間の備蓄した穀物を狙うネズミをエサにしていた野生のネコや、人間の残飯を食べていたオオカミ のなかで、人間への攻撃性や警戒心の低い個体が環境への適応度が高く、生き残るチャンスが大きかったために(淘汰圧が働いて)、その性質が固定されてイエネコ やイヌが誕生したのです。これを自己家畜化(自ら家畜化したの意)と呼びます。

これが人間自身にも起きたと考えられます。反抗的だったりわがままだったりして、集団の秩序を乱す人間が増えると、農業はうまくいかなくなります。食料の生産が滞れば、たちまち全員が飢えてしまいます。狩猟採集生活の時代には有用だった獰猛どうもうさは、集団を崩壊される性質として嫌われるようになりました。リーダーたちは自分に刃向かう人間を容赦なく殺すか追放するかしたはずです。こうして、格差社会に不満を持ちつつも、それを受け入れる従順な性質を持った個体だけが子孫を残し、現代社会を形作っているのです。人間がウシやウマを従順な家畜に改良したように、ネコやイヌが自らを従順な家畜に変えたように、人間自身も自らを従順な家畜に仕立て上げてきたのです。薄気味の悪い話ですが、これが最も合理的な説明です。6)

上を目指す

このようにして、文明化によって、職業や身分や格差が生じてきました。それは、地位の高い・低いの違いや序列が生じたということです。

古代エジプト社会のヒエラルキー
古代エジプト社会のヒエラルキー, from Ancient Egypt Online

私たちがなぜこの序列ヒエラルキー を受けれたのか、なぜリーダーに喜んで(あるいは渋々と)従うのかについては、上で説明しました。しかし私たちには別の性質もあります。私たちはリーダーの存在を受け入れているだけでなく、自らもリーダーになろうと努力します。家柄が良く裕福な人たちに憧れ、有名人の私生活に興味を持ちます。私たちはあらゆる技術を身に付けることが可能に作られているのに、特定の分野の仕事に特化してそれに秀でようとします。これらは私たちの旧石器時代の有り様とは正反対です。それはなぜでしょうか。

これはシンプルに、序列のより上を目指す欲求が私たちのなかにあるからだ、と説明されます。これが共存の本能のもう一つの側面です順位制 権勢の本能)

前々回に説明したように、私たちには安全の本能があり、より豊かに暮らしたいという欲求があります。文明社会の中では、高い地位を得ることでより物質的に満たされる可能性が高くなります。また前回説明したように、私たちには性の本能があり、性愛の相手を求めます。高い地位を得ることで、性愛を獲得する可能性も高くなります。リーダーとしてふさわしいと認められることは、承認欲求という共存本能そのものも満たしてくれます。上を目指すのは、人間が三つの本能を満たして生き残るためにそれが最も有効だからです。

集団に属していれば生き延びることはできますが、序列の下の方にいたのでは豊かな生活も性愛も獲得できなくなります。上を目指す欲求が薄ければ、自然と下へと追いやられ、子孫を残すことができずに淘汰されてしまいます。結果として、現代社会は上を目指す欲が強い者だけで構成されることになりました。

序列の上の方にいることは良いことばかりではありません。人間には、自分が持っていないものを持つ者をねたむという性質があります。妬みの対象にされるのは、承認という面では好ましくありません。そこで私たちは、自分のほうが上だと相手に認めさせつつ、嫉まれることを避けるという、難しいゲームを続けなければならないのです(皇室は高貴な存在だけれど、国民から嫉まれてはいけないという厳しい職業なのである)

封建社会 では明確な身分制度があったので、序列は明確でした。民主的な社会になって平等が実現すると、序列は不明確になりました。しかし、組織には役職や階級がありますし、軍隊でも序列は明確です。大相撲 には「番付一枚違えば家来同然」という言葉があって、力士たちは上の序列を目指してしのぎを削っています。

そういった明確な序列のない、一見したところフラットな集団でも、人間は自然と序列を作りたがります。例えば学校では子供たちがスクールカースト を作り上げます。(AAにだって、なんとなーく序列があることはあなたも感じるはずだ)。

現代社会は平等なはずなのに、なぜ私たちはわざわざ序列や階級を作り出そうとするのでしょうか? それは平和のため(争いを最小化するため)だと考えられます。序列を決めるためには、何らかの争い(どちらが上かを決める勝負)が必要になります。その時に、極端に実力差がある者同士の争いは無意味です(時間とエネルギーの無駄)。序列があったほうが、争いを同じ階級(近接した序列)の者同士に限定でき、無駄な争いが減って皆にメリットがあるのです。7)

争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!
from 桂正和『神のみぞ知るセカイ』8)

見下されたくない、という気持ち

「自分は平等主義者で、上を目指す気持ちはない」と言っている人でも、人から見下される経験をすれば、傷ついて腹を立てます。上を目指すという欲求を持っている以上、自分より相手が上と感じることは不愉快(不快)な経験であり、相手より自分が上と感じることは愉快(快)な経験となります。私たちは、この不快の感覚と快の感覚を一生行ったり来たりしながら生きているのです。

マウンティング
ニホンザルのマウンティング, from Youtube

群れを作る哺乳類(サルやイヌ)では、マウンティング(mount­ing)という行為が見られます。これはオス同士が交尾と同じ体勢を取り、馬乗りになった方が優位、なられたほうが劣位という序列の確認を行なう行動です。

これを人間に当てはめて、マウンティング女子という言葉が流行ったのは2014年のことでした。これは人間も自分の優位性を誇示する行動を取るという真実をあからさまにした流行語でした。私たちは優位性を誇示できれば愉快で、「マウントされた」と感じれば傷ついてしまう(不快)のです。

ややこしいのは、例え相手に優位を誇る意図がなかったとしても、こちらが「マウントされた」と感じると傷ついてしまうということです。アメリカの大学で、次のような心理学の実験が行なわれました。被験者になった学生は、あなたは人前でスピーチをすることになったと告げられます。アメリカの学生でもスピーチすることはストレスであり緊張します。そこで、同じ立場の学生からアドバイスが与えられます。この時に「こうすると良くなる」というあからさまなアドバイスを与える群と、「私だったらこうする」という婉曲なアドバイスを与えた群を比較すると、あからさまなアドバイスを与えられた群のほうが心理的苦痛がずっと大きかったのです。私たちは人から手助け(支援)を受けると、それを「マウントされた」(見下された)と感じて不愉快になってしまうのです。9) これは困窮している人たちへの支援が難しい理由の一つです。

複雑なのは、上で説明したように、私たちには格差や序列を(時には積極的に、時にはしぶしぶと)受け入れる性質も備わっているということです。別の実験では、実力差が明確な関係ではアドバイス(支援)が有効である事が示されています。学生たちは教授からのアドバイスを「マウント」と感じることはありません。実力も地位も違っていることが明らかなので、相手がわざわざそんなことをするはずがないと解釈するからです。10)

ところが、序列が近接していると、支援は攻撃と受け取られやすくなります。AA(や他の12ステップグループ)でのスポンサーシップに困難があるのはそのためです。AAメンバーはアマチュアとしてビギナーを手助けします。実力差はむしろ見えにくくなるように工夫されています(優位性を誇るのはAAでも不品行だとされている)

ですから、ビギナーにとってみれば、AAメンバーからアドバイスや支援を受けるのは、同じレベルの(序列の近接した)相手からマウントされたように感じられて不愉快ですし、ましてそれが「あからさまなアドバイス」ならば余計に不愉快に感じられるのです。それは、私たち人間は誰もが「上を目指す」という強い欲求を持っているがために、見下される体験(そう感じているだけですが)は不快なのです。

「自分にはスポンサーシップは要らない。自分には、職業的で専門的な支援のほうがずっとふさわしいのだ」という言葉がビギナーの口から発せられるのを、これまで数限りなく聞いてきました(経験的にはこの言葉を発するのは女性のほうが多い)。上を目指す欲求は、しばしば自分の回復すら拒ませるのです。アディクションの苦しみと回復への希望が、不愉快な気持ちを圧倒したときに、ようやくスポンサーシップが成立するのです。それまでに何年もかかる人は珍しくありませんが、それも本能ゆえなのです。(そのことから、AAのスポンサーシップは容易には成立しないようにデザインされているとも言える)。

近代以降の社会と共存の本能

さて、人類が定住して農業を行なうようになると、豊富に得られる食料によって、より多くの人口を養うことが可能になりました。人口が増え、共同体が大きくなっていくと、隣の共同体と接触し、一方がもう一方を吸収することで共同体の規模は大きくなっていきました国家 の発生)

規模が大きくなったことで、社会の複雑さは増していきました。いま私たちは、様々な民族集団が入り混じって住む融和した社会を作り上げています。それは、旧石器時代には考えられないことでした。バンド社会で暮らしていた人たちは、お互いに知り合いかどうかで内集団・外集団を区別しており、見知らぬヨソ者と協力することはありませんでした。いまの私たちは、利害が一致すれば見知らぬ人とも協力します。社会の中に権威(序列)が生じたことで、他者との違いを受け入れ、まったく知らない人間を(基本的には)信用して生きることが可能になったのです。(もし権威が存在しなかったら、この世の中はトマス・ホッブズ(1558-1679)の言う万人の万人に対する闘争 になってしまうのは明らかです。それでは誰も暮らしていけません)。

この世の中は、見知らぬ者同士が協力し合うことで成立しているのですが、実際にそのなかで暮らしている私たちは「協力し合っている」という意識はあまり持っていません。それは貨幣経済の下で、金銭貨幣 を媒介してモノやサービスを交換しているからです。

おにぎり
from いらすとや

僕は朝食にコンビニで買ったおにぎりをよく食べます。このおにぎり一つを作るのに、どれだけの人が関わっているでしょうか。お米は農家の人が作ったものですし、塩を作る人、海苔を養殖する人も必要です。鮭おにぎりならば、鮭を捕まえる漁師さんも必要です。それらを集めてきておにぎりに加工する工場も必要です。そして、おにぎりを輸送するトラックドライバーや、それを売るコンビニの店員さんも必要です。さらに、トラクターや漁船やトラックを作る人たちや、工場やコンビニの経営者も必要です・・・。

僕はわずか百数十円でおにぎりを手に入れることができますが、もし文明社会の一員として生きていなかったら、おにぎりを食べるために、米や海苔や塩や鮭を全部自分で用意しなければなりません。それには膨大な手間がかかり、食べる前に僕は餓死してしまうでしょう。

社会的分業 とは、自分にできないことを誰かにやってもらい、他の誰かにできないことを自分が代わりに行なうという協力関係に他なりません。金銭を媒介させたために協力の実体が見えにくくなっているだけで、バンド社会で顔見知り同士が協力し合っていたのと何ら変わりありません。孤独に生きているつもりでも、実は社会にどっぷり依存している(=社会に支えられている)のです。

社会が複雑になっても、そのなかで生きる私たちの本能は、旧石器時代と根本的には変わっていません。原野に追放することはできなくなりましたが、その代わりに感染者や集団のルールに従わない者を閉じ込めるようになりました。私たちも新型コロナウィルス感染症 で比較的緩やかなロックダウン を経験したばかりですが、出血熱やペスト では本人の同意なく隔離できる法制度になっています。また、刑務所は本人の更正のため、精神病院の閉鎖病棟は本人の治療のためのものと説明されますが、それらに社会防衛の機能が含まれていることは疑いようがありません。

私たちは協力することで生き延びており、その協力関係から追放されないように承認されたいという欲求を持っています。権威を受け入れつつ、序列の中で上を目指すという欲求も獲得しているのです。これが私たちの共存の本能の実質です。

自尊心(self-esteem)

セルフ・エスティーム (self-esteem)という概念があります。自尊心・自尊感情・自己評価・自己肯定感など様々な言葉に翻訳されていますが、これは他者からどう評価(承認)されるかではなく、自分で自分をどう評価しているかです。評価の度合いは直接計測できないので、心理学的な調査や実験では質問票に答えてもらうことで数値化をします。

だいたいどんな調査でも、自尊感情が高い人は社会的・経済的に成功していて、健康で幸福だという傾向が出ます(逆に自尊感情が低い人は、成功できず、不幸で寿命が短い)。そのことから、1970年代のアメリカで、子供の自尊感情を高める子育てや教育を行えば、将来子供が成功して幸福になれる、ということが盛んに主張されるようになりました。これは、それまでベストセラーになっていたスポック博士の育児書 に対する反動として起こったと考えられています。小児科医ベンジャミン・スポック(1903-1998)は、子供の自立心を育てるために、子が泣いてもあやさず、寂しがっても小さな頃から一人部屋で育てるべきだと主張し、これが広く受け入れられていました。発達心理学者たちは、そのような子育ては愛着形成を阻む愛着障害 と主張しました。こうして子供の自尊感情を高めるべきだという主張が日本にも伝わり、私たちも子供は褒めて育てたほうが伸びると信じるようになりました。

ところが、それから数十年経過したのに、子供の自尊感情を高めることが成人後の成功と幸福につながるという統計的な結果がでてこないのです。むしろ影響を与えているのは、遺伝的な知能地頭や親の経済力親ガチャ であることが分かってきました。11)

結局のところ、自尊感情の高さが成功と幸福をもたらすのではなく、成功して幸福になった結果として自尊感情が高まっているだけのことだったのです。

自尊感情(自尊心・自己評価・自己肯定感)という独立した欲求があるのではなく、それは前述の承認と序列の欲求の合成なのです。私たちは、他者からそこそこ評価されていると思い、自分でもそれなりのポジションに到達できていると思えれば、自分で自分のことを誇りに思えるのです。自尊感情が傷ついているときとは、承認や評価が十分に得られないときや、見下されたと感じたときなのです。

アダルトチルドレン (AC)の自尊感情の低さとは、社会的に十分成功できているのに自尊感情が極端に低い(自分への評価が低い)ということです。例えば、有名私大を卒業して一流企業に勤め、良い結婚をして出来の良い子供がいたとしても、自分のことが誇りに思えない。この程度の成功では足りないというのなら、いったい何を成し遂げたら自分は十分良くやっていると思えるのか・・・そのような誇大な目標を背負わされているのが、ACの特異性です。自尊感情が低いから何をやってもうまくいかないという時代遅れの心理学の文脈ではないことに注意が必要です。

人間関係(対人関係)

from いらすとや

さて、私たちは社会の中に身を置ければ生きていくことができ、金銭を媒介にすれば必要なモノやサービスを得ることができます。だがそれだけではなく、バンド社会に暮らしていたときと同じように(金銭を媒介としない)直接の協力関係を私たちは求めます。

それは一緒に生活する家族という形態もありますし、血縁 (親戚)地縁 (近所づきあい)という形態もあります。一緒に遊ぶ友人や、同じ趣味を楽しむサークルという人間関係もあります。AAのなかでも、スポンサーシップや親しいメンバーの間には人間関係が生じます。スポーツジムのインストラクターと世間話をするなら、それも一つの人間関係に含めて良いでしょう。それらの違いは、協力の内容です。何の協力関係もないような関係性でも、少なくとも孤独を避けるという目的は達成できています(孤独は一人では解消できないし、私たちの祖先にとって孤独は死を意味した)

だから私たちには、人とのつながり人間関係・対人関係)を作り、それを良好に保ちたいという欲求が存在するのです。ところが、私たちにとって、その相手は承認を得る対象にもなり得ますし、自分が上である事を示す対象にもなり得るのです。承認を求めすぎて相手の意のままに繰られてしまったり、マウントを取ってしまったがために友情が壊れたり・・・。たしかに、人間関係というものは難しいものなのですが、その難しさは実は私たちが共存の本能を満たそうとすることから生じているのです。

暴走する本能

共存の本能は、承認序列人間関係という三つの欲求で構成されていることを見てきました。これらは、人間だけでなく他の動物にも見られます。ヒトに近縁のパン属(チンパンジーやボノボ)も社会を作りヒトと同じように協力と序列の関係を持ちます。ただ彼らの作る群れがせいぜい数十匹であるのに対し、私たちは80億という巨大な群れを作っている点が大きく違います。

誰だって自分の評判が良ければ嬉しいものです。他の人たちに自分という存在が受け入れられ、認められ、褒められると、私たちに大きな喜び(快の感覚)がもたらされます。だから私たちは名声 や評価を求める承認欲求があるのです。私たちの祖先にとって追放されることは死を意味したので、その性質を受け継いでいる私たちにとってもみんなに嫌われることは不快の感覚と不安をもたらすのです。飲んだくれて落ちぶれ「どこの証券会社へ行っても歓迎されない厄介者」になってしまったビル・Wは、この不快と不安を散々味わったことでしょうBB, p.7)。

サラリーマンにとって昇進は嬉しいものです。それは同時に昇給することも多いので、安全の本能がより満たされるようになるという喜びもありますが、それだけではありません。序列の上へと登り、より大きな権限を手にすることでもあるからです。ビル・Wも第一次大戦で将校に任じられたことでこの喜びを知り、除隊後は大企業のトップになる夢を持ったと第一章で語っています(p.2)。逆に、失敗して降格になれば、不名誉であるだけでなく、序列を下へと降りる屈辱(不快)を味わうわけです。

良好な人間関係は私たちに安心と喜び(快の感覚)を与えてくれます。それは、私たちがバンド社会で暮らしていた頃からお互いに協力して生きてきたからであり、ほとんどのモノやサービスが買える世の中になっても、私たちは金銭を媒介せずに協力する関係を必要としています。ビル・Wもそのような関係を得る喜びについて語っています(p.23)。そのような関係を得られなかったり、失った時に、私たちは寄る辺のなさや淋しさ(不快)を感じるのです。

承認・序列・人間関係のどれであれ、その欲求が満たされたときには私たちには喜び(快の感覚)がもたらされます。つまり、このどれもが脳の報酬系 を活性化させる報酬刺激だということです。他者からの承認を得る体験や、自分の優位性が示せる体験は、脳の側坐核 線条体 の活動を活発化させることがわかっています。12) そして安全本能や性本能で説明したように、共存の本能においても、同じ報酬刺激を得続けていると次第にその喜びが小さくなっていくように私たちはできています馴化 、サリエンスの減少)

褒められたときの喜びや、昇進したときの喜びは長続きしません。それが次第に当たり前に感じられてくるのです。人間の脳はそのようにできているのですから、それは避けようがありません。たとえ、そこそこの評判や地位を獲得して満足できていたとしても、自分と同等か劣っていると見なしている人が自分より評価されたり、上のポジションに登ると私たちは不愉快になり上方比較、自分だってもっと評価されたいと思うようになります。

このように私たちの共存本能はたいへん暴走しやすいものなのです。それは私たち人間が文明社会に移行して巨大な社会を作り上げたにもかかわらず、私たちの脳は(自己家畜化を除けば)旧石器時代とそれほど変わっておらず、自分たちが作り上げた社会に十分適応できていないからです。

共存本能と自己中心性

さて、共存本能を満たすにはどうすれば良いのでしょうか? どうやったら私たちは、人々に好かれ、認められ、受け入れられ、尊敬されるのでしょうか? その方法は子供から大人になる課程で、社会が私たちに教えてくれます。具体的にどうすれば良いかは、世界の場所によって違います。ある場所では高い教育を受けることかもしれず、別の場所ではたくさんの雇用を作り出す経営者になることかもしれません。外見を良くしたり、特殊な技能を身に付けたり、有名になったり、金持ちになったり・・・人によって選ぶ手段も異なってきます。

テレビを見ながらごろ寝をしているだけでは共存本能は満たせません。だから私たちは、教えられたことに従って何らかの目標を定め、それに向かって努力をします。つまり成功を手にするためには、何らかの犠牲が必要なのです。努力し、犠牲を払って、目標を達成したとき、私たちは喜びを得ます。ビル・Wもこの目標を達成したときの喜びを、第一章で「とうとうやったのだ」と表現しています(p.4)。彼はこのとき子供の頃から望んでいた名声を手に入れたのでした。

残念なことに、この喜びは長続きしません。同じ報酬を再び手に入れても、今度は喜びが小さくなっています。そこで私たちは次の目標を定め、自分を犠牲にして、努力して、また目標を達成して喜びを手にし・・・ずっとこれを繰り返していくのです。

このようにして私たちはより大きな成功を願い、努力を続けていくのですが、その願いがいつも叶うとは限りません。普通に努力していただけでは、欲しいだけの成功や賞讃が手に入らないとき、私たちは「あんなに頑張ったのに、これっぽっちか」という不満を感じます。自分と同程度か下だと見なしている人が、自分より大きな賞讃や高い序列を得ると(自分が損をしたわけではないのに)悔しく感じます。

そのような不満が生じてきたときに、私たちは「自分に必要な」(と自分が考える)承認や序列や人間関係を確保するために、安易な方法(shortcut)を取ります。例えば小さな見栄を張るとか、経験を盛るとか、相手を見下すとか、少しだけ他の人の足を引っ張るとか、人を押しのけるとか・・・それは悪意があってのことではありませんし、人を傷つけようとしてやっていることでもありません。ただ、自分の目標を達成しようと努力しているだけなのです。だがその努力が、他の人に苦しみや痛みを与えることになります。するとその人たちは報復をしてきて、私たちに苦しみをもたらします。前回述べたように、実のところ、それは報復ではなく、その人たちも自分を守り、目標を達成しようと努力しているだけである場合がほとんどです。いずれにせよ、私たちは自分の本能が発端となって、他の人とのトラブルに巻き込まれ、感情的な問題を抱えるようになります。13)

本能(欲望)から自由になれるのか?

では、共存の本能が暴走しないように上手にコントロールする方法はないのでしょうか? 残念ながらそのような方法はありません。「どんな人間でも、どんなに立派であっても、その問題からまぬがれることはできない」14)とあるように、自分で自分をコントロールすることができる人はいないのです。

人類は何十万年にもわたって旧石器時代を生きてきました。私たちの共存本能は、その時代の少人数のバンド社会で最もうまく機能するように作られています。温暖な間氷期に移行したことで農業が始まり、文明が興りました。そのなかで私たちは序列を作り出し、見知らぬ人とも協力をするようになりました。産業革命 情報革命 を経て、人類は80億の人口をもった一つの巨大な群れへと移行しつつあります。私たちの脳はそのような変化に対応できておらず、共存本能はすぐに誤動作を起こしてしまいます。アーミッシュ のように文明化を極力拒み、自給自足生活を送ることで、共存本能によるトラブルを減らす選択肢もありますが、多くの人は文明生活を享受する方を選ぶでしょう。

長い時間をかければ、人類は共存の本能に対する効果的なブレーキシステムを進化的に獲得できるかもしれません。しかし社会の変化のスピードはあまりにも速く、その見込みは低いと言わざるを得ません。少なくとも、私たちが生きている間にそのような進化は起きません。

私たちが幸せに人生を生きるためには、共存の本能がある程度適切にコントロールされている必要があります。しかし私たちの共存の本能はたやすく暴走してしまいます。どうやら、神に自己(本能)をコントロールしてもらう以外に私たちが幸せになる方法はなさそうです。

以下次回

次回は、三つの本能と自己(意志と生き方)との関係について、さらに感情的安全(emotional security)について補足します。

今回のまとめ
  • 人間は群れ(社会)から追い出されては生きていけないので、承認の欲求を持つ。
  • また他の本能を満たすために、序列の上を目指すという欲求がある。
  • 旧石器時代のように直接的な協力関係を必要とすることから、人間関係を良好に保つという欲求もある。
  • 共存本能は、この承認・序列・人間関係という三つの欲求からなる(セルフ・エスティームは承認と序列の欲求の合成である)
  • これらの欲求は、旧石器時代の少人数の社会で機能するようにできており、規模も複雑さも増した現代社会には人間はまだ適応できていない。
  • 結果として、人間の共存本能はたいへん暴走しやすくなっている。

  1. 他の個体に血液を分け与えることがなぜ自身の生存確率を上昇させるのかについては 熊谷宜子「チスイコウモリに学ぶ助け合い社会~情けは人のためならず~他人を助けることは自分にとって何かメリットがあるのだろうか?」日鉄総研 (nipponsteel.com), 日鉄総研, 2017[]
  2. 一方、バンドの30人という上限は、食料を分配する上での栄養的な限界から生じていると説明される。[]
  3. マーク・W・モフェット(小野木明恵訳)『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』(上), 早川書房, 2020、8, 9章[]
  4. モフェット, p.173[]
  5. モフェット, 10章[]
  6. リチャード・ランガム(依田卓巳訳)『善と悪のパラドックス―ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』, NTT出版, 2020, 3章[]
  7. さらには序列(≒実力)の近接した者同士の争いは決着がなかなかつかずお互いにエネルギーの無駄になるので、しばしば友好的に資源を分け合う結果になることが観察されている。序列は平和に寄与するのである。[]
  8. 桂正和『神のみぞ知るセカイ』第4巻[sc name=amazon link=3WG2HrB], 小学館, 2009, p.60[]
  9. Niall Bolger et. al., “Effects of social support visibility on adjustment to stress: experimental evidence” — Journal of Personality and Social Psychology, 2007, Vol. 92, No. 3, 458-475. フルテキストはコロンビア大学のサイトで読むことができる。橘玲『バカと無知 人間、この不都合な生きもの』, 新潮社, 2007, pp.154-156 からのまた引き。[]
  10. つまり教育を機能させるためには明確な序列が必要ということ。[]
  11. 安藤寿康『遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である』, 筑摩書房, 2012, 5章[]
  12. D・J・リンデン(岩坂彰訳)『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』, 河出文庫, 2012, pp.219-222[]
  13. Joe McQ. and Charlie P., Joe & Charlie: The Big Book Comes Alive, 2014, pp.88-89[]
  14. 12&12, p.59[]

2024-04-05

Posted by ragi