ビッグブックのスタディ (99) どうやればうまくいくのか 11
これまで3回かけて、AAのテキスト『12のステップと12の伝統』(12&12)で述べられている本能について説明してきました。
ビル・Wは、安全・性・共存という三つの本能をすべて欲求として説明していました。欲求とは、何かを欲しがり求めることであり、人間に行動を起こさせ、その行動を続けさせる動機となるものです。
本能(instinct)は古くさい用語であり、最近では学術的に使われることはなくなっています。にもかかわらず、ビル・Wが本能という言葉を使ったことには意味があります。それは、これらの欲求が私たちに生来的に備わっているものだということを示すからです。私たちはこれらの欲求を生まれつき持っているのであり、遺伝的に祖先から受け継いできたものだということを、本能という言葉は明示しています。
したがって、人種 や性別や育った文化の違いにかかわらず、人間は誰もがこの三つの本能を持っています。そして、この本能をコントロールできていない点もすべての人に共通しているのです。
もちろん、どうやってこれらの欲求を満たすかは文化によって違いますし、それは学習によって身に付け、継承されていくものです。しかし欲求そのものは、社会的に構築される(構築主義 )のではありません。それは生物学的な基盤を持った実体あるものなのです。
それを示すために、前3回では、他の動物もこの三つの本能を持っていることを説明しました。もちろん、人間の本能に特有の性質もありますが、それは人類(ヒト )が進化の過程で獲得したものであることを説明してきました。これら三つの本能は、私たちの遺伝子 に組み込まれているのです。
本能と「意志と生き方」との関係
第92回でステップ3の文言にある「意志と生き方」について説明しました。ここで簡単に振り返ってみます。私たちの意志(our will)とは、私たちが心の中で感じたり考えたりすることであり、そのなかでも特に願望や欲求を指します。私たちの生き方(our lives)とはその願望を実現したり、欲求を満たすために取る行動のことです。
私たちの生活(life)は、こうした行動の積み重ねであり、私たちの人生(life)は毎日の生活の積み重ねです。
・私たちの意志――精神、考え、欲求、願望
・私たちの生き方――行動、生活、人生
つまり12ステップにおける「自分の意志」とは、私たちの欲求や願望のことです。すなわち安全・性・共存の本能のことなのです。
そして、私たちの行動のほとんどは、この三つの本能を充足させるためのものです。ところが、私たちはそのことをあまり自覚していません。自分は欲を満たそうとしているのではなく、もっと高尚なことをやっていると信じているのです。
例えば私たちはなぜ学校に通うのでしょうか? 多くの人は小学校・中学校の義務教育 だけでなく、高校へと進みますし、7割以上の人がさらに大学や専門学校へと進学します。教育を受けることが大好きな人もいるでしょうが、むしろ勉強することは苦痛だと感じている人も少なくないでしょう(僕もその一人です)。なのになぜ私たちは、十数年間も教育を受け続けるのでしょうか?
それは、いまの社会においては、高度な教育を受けた方が仕事に就くのに有利であるからです(特定の教育を受けなければ専門的な仕事に必要な資格が得られないという場合もあります)。就職することで、給料をもらえるようになり、安全の本能を満たすことができます。また、無職であるより働いていた方が社会的評価が高く、承認や序列の欲求が満たされます。そして、金銭や社会的立場を獲得することで、性愛も獲得しやすくなります――僕の親族の男性が結婚を約束した女性のご両親に挨拶に行ったとき、先方から「まずは就職してからだね」と言われたそうです。彼はたまたまその時無職だったのです――。このように、私たちが教育を受けるのは安全・性・共存という三つの本能を満たすためなのです。
プロフェッショナル 仕事の流儀 というテレビ番組があります(公式サイト)。各分野の一流とされている人たちを取材し、その仕事ぶりや仕事に取り組む姿勢などを紹介するドキュメンタリー 番組です。なぜこのように仕事に情熱を傾ける人たちがいるのでしょうか?
旧石器時代 のバンド社会では、皆が同じ技術を持っており専門職というものは存在しませんでした(前回)。文明化とともに社会的分業 と職業の専門化が起こり、特定の技術を身に付けることで、人々に自分を必要としてもらえる(承認される)状況が生じました。だから私たちは承認を得るために、仕事を覚え、腕を磨こうとするのです。そしていったん特定の分野に自分の身を置けば、その分野の中で生じている競争のなかで自分を生き残らせるべく上を目指すことになります(序列の欲求)。同じことは、仕事だけでなく、趣味やリクリエーションの分野でも起こります。自己実現 という概念を持ち出さなくても、このような動機付けは本能によって説明できるのです。
自分の家族を大切にし、子育てを情熱を注ぐ人たちもいます。これも、家族も小規模な社会(つまり共存の対象)であることや、子育ては繁殖行為の一環(性本能を充足させる行動)であることを踏まえれば、本能に駆動された行動であることがわかります。せっかく愛情込めて育てた子供が非行 に走ったり、不登校 になってしまったりすると親が戸惑うのは、親の本能が満たされないからです。
もちろん、人間の行動のすべてを三つの本能で説明できるわけではありません。人はなぜ小便をするのかと問われたら、それは生理的欲求 であり、この三つの本能に含まれてはいないと答えざるを得ません。しかし、トイレという場所を作ってそこでおしっこをするのは、住環境を清潔に保つという安全の本能の働きです。つまり、人間がおしっこをすることをビル・Wは三つの本能に含めませんでしたが、私たちがおしっこをするためにトイレに行くのは安全本能を満たす行動なのです。
私たちがアルコホリズム(アディクション)からの回復を望むのも、本能を満たすためです。この病気は私たちの職業生活に影響を与えるので、回復することで安全の本能をより安定的に満たせるようになります(酒をやめて早く仕事に就きたい・戻りたいというのはAAミーティングでビギナーの口からよく発せられる言葉です)。回復して配偶者や子供たちとの関係を取り戻したいと願う人たちは、性の本能や共存の本能を満たすことを狙っているわけです。飲んだくれたままでいるよりも、酒をやめて、仕事や人間関係を取り戻した方が立派であるとみなされることから、承認の欲求をも満たされます。回復するためにAAのミーティングに通うことも、私たちの本能に駆動された行動なのです。
私たちの意志(思考や感情)は、三つの本能から成り立っています。私たちが何を考え、何を感じようとも、それは三つの本能の働きによるものなのです。また、私たちの行動は、私たちが自分の意志の反映なのですから、私たちがどんな行動を取ろうとも、それは三つの本能を満たそうとする行いなのです。
私たちのすべての行動は三つの本能を満たそうとする行いである
本能と自己の関係
さて、第95回ではビッグブックのp.89の、次のような考え方を説明しました(もう忘れている人は、読み返してください)。
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- 私たちの悩みや苦しみの根本原因は、私たち自身の自己中心性にある。
- 自己中心性とは、成功の見込みの薄い考え方や行動に固執してしまうことでもある。
- 自己中心性の大もとには、自己(self)がある。
- この自己が私たちを駆り立て、人の足を踏みつけさせ、衝突と不安を私たちにもたらす。
三つの本能は、どれも、それが満たされたときには喜び(報酬・快の感覚)を私たちにもたらし、思うように満たせない時には不満や不安(不快の感覚)を私たちにもたらします。だから、私たちは喜びや安心を得ようとして、三つの本能を満たす努力を続けており、それが私たちの生活や人生を成り立たせているのです。
だが、その努力がときに他の人に苦しみや痛みを与えることなります。するとその人たちは報復をしてきて、私たちに苦しみをもたらします。実のところ、それは報復ではなく、その人たちも自分を守り、目標を達成しようと努力しているだけである場合がほとんどです。いずれにせよ、私たちは自分の本能が発端となって、他の人とのトラブルに巻き込まれ、感情的な問題を抱えるようになります。
ビッグブックのp.89では、自己(self=自分)の現れ方の例として、恐れ、自己ぎまん、身勝手、自己れんびんの四つを挙げています。そのような自己中心性のおおもとには自己があります。自己中心性には、この他にもたくさんの現れ方がありますが、その現れ方が問題なのではなく、その根底にある自己(自分)こそが私たちの悩み苦しみの根本原因なのです。
では自己とは何でしょうか? それはこれまで見てきたように、本能そのものです。
このように自分を欲望の塊と見なすことに反発する人も少なくありません。人間の精神には欲望以外に、愛とか、思いやりとか、自己実現などの欲望以外のものもあるではないか、と主張する人もいます。しかし、これまで見てきたように、愛や思いやりや自己実現も、本能の働きとして十分説明できるのです。
12ステップは、愛を善とし、自己中心性を悪とするような単純な二元論 ではありません。ストーカー にとってみればストーキング行為は愛の表現ですし、DV夫たちは妻を殴るのは「妻を愛しているからだ」と主張します。愛が本能の働きであることを理解すれば、それがしばしば自己中心的に暴走してしまうことも理解できるでしょう。――もちろん、Back to Basics(バック・トゥ・ベーシックス)などのビギナーズミーティング系のステップワークでは愛を善として扱っていますが、それはそれらが12ステップの入門編であるからです。回復した人たちを見れば、彼らが愛を理想化していないことが見て取れるでしょう。
人間に何かの能力や機能が備わっているのは、神がそれを人間に与えたからです(先行的恩寵 )。ところが私たち人間は、授かった能力や機能をしばしば過剰使用(overuse)したり、本来の用途を越えて誤用(misuse)してしまいます。本能(欲求)もその例外ではありません。きっと神さまは「人間には何を与えてやっても、必ずそれを誤用しやがる」と呆れているに違いありません。
私たちが過剰使用したのはアルコール(や薬物)だけではなかったことを認める必要があります。
さて、これで本能の説明を終えてビッグブックに戻れるのですが、その前にいくつか補足しておく必要があるでしょう。
感情的安全
ここまで安全の本能については、もっぱら物質的安全(material security)として説明してきました。これは生活に必要な衣食住を求める欲求、貨幣経済の下では金銭を求める欲求、より豊かに暮らしたいという欲求です。12&12では経済的安定(financial security)という表現も同じ意味で使われています。――つまり物質的とは金銭的とか経済的という意味です(身体的(physical)という意味ではない)。
それとは別に、感情的安全(emotional security)という言葉が12&12には何度も登場します(pp. 58, 60, 107, 151, 152, 153, 154 — しばしば感情的安定と訳されている)。これは何を意味するのでしょうか?
12&12のp.70では、私たちが感情的不安定(emotional insecurity=感情的安全の逆)になったときの代表的な兆候は不安、怒り、自己れんびん、意気消沈(depression=抑うつ)であるとしています。そして、それが生じてくるのは、人間関係・性関係・経済的な本能が脅かされたとき、つまり三つの本能が思い通りに満たせなかったときであると説明しています。1) だたこれでは、原因と結果について説明しているだけで、感情的安全とは何かという説明にはなっていません。注目すべきは、その次の段落です。
・・・私たちは、他者との真の協力関係(partnership)を築き上げる能力が自分にまったくないという重大な事実に気づかなかった。このような極端な自我(our egomania=私たちの自己中心性)が二つの不幸な落とし穴を掘ることになる。つまり知っている人を支配しようとするか、そうでなければその人に依存し過ぎてしまうことだ。2)
感情的安全の本能が過剰使用されると、私たちは他の人たちを支配しコントロールしようとするか、あるいは過剰に依存するようになります。
人によりかかりすぎると、遅かれ早かれその人は私たちを見捨てることになる。なぜならその人も人間であり、私たちの絶え間のない要求に応じきれなくなるからだ。3)
これは過剰な依存の説明です。
私たちが他の人を常に自分の思い通りにあやつろうとすれば、その人は反感を持ち、激しく抵抗するだろう。すると私たちはますます傷つき、迫害されたと感じ、報復を望むようになる。支配しようという努力を繰り返しては失敗を重ねるので、苦しみは激しく絶え間のないものになる。3)
これは支配とコントロールの説明です。
共存の本能で説明したように、私たち人間は社会的な動物であり、一人では生きていけません。人間が社会を作っているのはお互いに協力するためです。孤独に生きていると思っている人でも、実はこの協力関係の中に埋め込まれていて、社会に依存しているのです――だから自然災害や戦争で社会が機能しなくなると、私たちはとたんに生活に困ってしまいます。
お互いに協力するとは、相互に依存しているということでもあります。ですから、人に依存するのは決して不健康なことではありません。それは人間の自然な在り方です。ただ、他の本能と同じように、この本能もしばしば枠を外れて暴走してしまうのです。
三つの本能はどれも自分一人では満たせません。セックスするには相手が必要です。承認や序列の欲求も他の人が存在してこそです。物質的安全も一人では満たせません(商取引をするためには相手が必要)。私たちは本能を満たすために他の人を必要とします。
私たちの本能には、さらに満たしたくなるという性質があります。だから、私たちは相手との関係によって自分の三つの本能が満たされたとき、相手がもっと自分に都合良く動いてくれれば、本能がもっと満たせると期待します。そのため、相手を自分の思い通りに動かそうと、相手を支配・コントロールしようとするのです。どうやって支配を試みるのかは、第93回と第94回で説明しました。私たちは誰もが「ショー全体を取り仕切りたがる役者」なのです。
さらに支配と依存は一枚の紙の表と裏であることに気づく必要があります。ポン引き は売春婦を暴力と甘言で支配していますが、同時に売春婦に過剰に依存してもいるのです――売春婦に全員去られてしまったらポン引きは生きていけなくなります。支配するということは、相手に依存することでもあるのです(依存するためには相手をコントロールする必要がある)。
このように、感情的安全とは、私たちが他の人を必要とすることであり、それがいきすぎると他の人を支配したり過剰に依存することになるのです。4)
共存の本能の他の要素
共存の本能について補足しておくことがあります。
旧石器時代の私たちの祖先は、30人ほどのバンドと呼ばれる小集団を作り、交流のあるいくつかのバンドが集まってクランという共同体を作って暮らしていました。クランのメンバーはお互いに顔見知りであり、見知らぬ者は基本的には他のクランのメンバー(つまりヨソ者)であり、感染症やトラブルを持ち込む可能性のある危険な存在とみなされました――顔見知りでない人間を信用しないという性質は、現代の日本の田舎にも根強く残っています。
人類が定住と農業を始めると、食料生産によって養える人数が増え、共同体のサイズは大きくなりました。共同体の統合が繰り返されて、社会 が作られていきました。権威 と貨幣経済 の下で、私たちは見知らぬ者どうしでも協力するようになりました。前回、人類は80億の一つの大きな群れになりつつあると述べましたが、実際のところはまだ完全にそうなってはいません。私たちは、民族や宗教や国家などによって分断され、お互いに争っています。集団同士の争いは旧石器時代から現在まで綿々と続く人類の歴史の一部でもあります。
つまり私たちは、相変わらず内集団(俺たち)と外集団(あいつら)を区別する必要に迫られています(内集団・外集団)。しかし旧石器時代のように、顔見知りかどうかで判断することはできません。そこで私たちは集団を区別するための「しるし」を作り出しました。5) そのしるしには国旗や国章や十字架や制服のような有形のものもあれば、国歌や祈りや挨拶の仕方といった無形のものもあります。私たちは、生れた場所や育った場所によって、自分の意志に関わりなくどこかの集団に分類されてしまいます。他の国に移住することはできますが、移住先では当面ヨソ者として扱われることになり、溶け込むのは容易ではありません。
そして私たちには明らかに内集団びいき(in-group bias, 内集団バイアス)があります。自分の子供が社会的に評価されれば、自分も誇らしく感じられますし、スポーツの国際試合では自国の選手を応援し、自国のチームに不利な判定をした審判に野次を飛ばします。出身地や出身校が同じというだけで、初対面の人に親近感を持ちます。つまり、私たちには、自分と自分の属する集団をある程度同一視し、愛着を持つ習性があるのです。僕が日本という国を愛しているのは、この国がわりと平和で安全だからですが、南米やアフリカの治安の悪い国に住んでいる人たちも、僕と同じぐらい自分の国に愛着を持っています。
そして、個人の持つ承認や序列の欲求が集団についても当てはまってしまうため、白人と黒人とどちらが優れた人種かとか、日本と韓国とどちらが優れた国かとか、男と女とどちらが優れているのかとかを巡って、ややこしい対立も生じてきます。こうしたトラブルも、元を辿れば個人の持つ共存の本能に由来しています。
私たちは自分の属する集団のために自分の生命を犠牲にすることすらあります(ウクライナでは、多くの人がウクライナ国家という集団のために自分の生命を危険にさらして戦っている)。このような自己犠牲は、承認や序列の欲求では説明できません。死んでしまったら欲求を満たすことはできないからです。他の動物でも自集団を守るために戦って命を落とす個体があります。なぜそのような行為が生じるのでしょうか?(それを利己的遺伝子 理論で説明することはできない)。
生物学者マーク・W・モフェット(Mark W. Moffett , 1958-)はその著書『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』(2020)のなかで次のような心理学的実験を紹介しています。被験者に幅を持った解釈が可能な映画(例えば、夫が浮気をしているのかもしれないが、それはそう主張する妻の妄想とも受け取れる)を見てもらいながら脳スキャンを実施しました。すると、被験者の脳の状態はそれぞれ異なっていました。しかし、映画を見ながら被験者たちが会話によるコミュニケーションを行なうと、大脳皮質の活動が同調するようになり、統一した解釈にもとづいてストーリーを追い始めると脳の同じ部位が活発に活動するようになりました。6) おそらくこれが、私たちが共感 と呼ぶものの実体なのでしょう。
他の動物にも言語はありますが、「物語を語る」能力を獲得したのは人間だけです。私たちは自分の人生を一種の物語(narrative)に変換し、その語りの視点から自分の生活を解釈しています。そして、人との交流を通してより大きな、集団全体に共有される物語を作り出し、それがその集団の価値観の拠り所になっている、という考えを歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ (1976-)がその著書『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 』(2017)で唱えています。私たちは、この大きな物語の中で、自分が何らかの役を演じていると見なしています。ハラリは神話や伝説だけでなく、私たちが文明を興すなかで構築してきた法制度や、企業、国家、人権、平等なども集団で共有された物語を拠り所としていると説いてます。7) 8)
このような物語を実現可能にしているのが、脳の持つ共感というメカニズムです。人間は言語を獲得したことで、統一した解釈を共同体のメンバーで共有することが(そして脳の活動を同調させることが)可能になりました。つまりこの大きな物語も、国旗や制服や十字架と同じように、内集団と外集団を区別するための「しるし」なのだ、とモフェットは主張しています。ウクライナにはウクライナの大きな物語があり、ロシアにはロシアの大きな物語があり、この二つが相容れない以上、紛争を終わらせることは容易ではありません。
物語は社会的に構築されるにしても、それを支えている共感というメカニズムは共存の本能の一部であり、私たちが生得的に備えているものです。人は集団で共有された物語のためにときには自分の命すら捧げます。共感には内集団を結束させる効果がありますが、それは同時に外集団との分断を作り出します。ウクライナの軍事紛争は愛と共感が引き起こしたものだとも言えるのです。AAメンバーが飲酒の体験を分かち合うことは、アルコホーリク同士に共感をもたらし結束を高めますが、同時に「この気持ちはアルコホーリクでない人にはわからない」という外部との分断を作り出し、AAを閉鎖的な集団にさせてもいるのです。
もちろん、共感を用いることを否定しているわけではありません。それは役に立つメカニズムなのですが、共感は私たちの共存の本能の一部であることを忘れてはいけません。共感もやはり枠を外れて暴走しやすく、戦争を引き起こすことすらあるのです。
ビッグブックでは共感(sympathy や empathy)という言葉は使われていません。第二章には「(AA共同体には)共感がある」(p.26)や「共感がなければ何をしても無駄なのである」(p.28)という表現がありますが、これらはどちらも understanding という言葉で「理解」と訳されるべきです。この「理解」は、p.29の「誤解」やp.31の「無理解」(どちらもmisunderstanding)の対語として用いられているため、共感と訳すのは誤訳と言えるレベルです。
AA共同体に共感が溢れていることは否定しませんが、AAは共感を回復の原理として掲げているわけではありません。共感は私たちの本能の一部にすぎず、霊的な原理とは違うのです。
本能のまとめ
なんだか小難しい話が続きましたが、シンプルにまとめておきたいと思います。
本能とは私たちの持っている欲求のことです。12ステップは欲望は悪だとは言っていません。それは私たちが生きていくために必要なものとして、神から与えられた善いものです。だが、残念なことに、私たちは本能をうまくコントロールすることができません。本能が枠を外れた結果として、私たちは感情的なトラブル、つまり悩みや苦しみを抱えることになります。
本能は、安全、性、共存の三つがあります(この三つの順番はどうでもいい)。
安全の本能は、衣食住を満たそうとすることで、いまの社会では金銭や財産への欲ということになります。私たちが「もっと豊かに暮らしたい」と思う気持ちです。
性の本能は、子孫を残すためのものです。だから私たちは性愛を求めます。また自分の子供を慈しみ、将来的には自立して生きていって欲しいと願います。
共存の本能は、人間が社会を作って暮らさざるを得ないことからくるものです。自分が周りの人たちに認められたいという欲であり、序列の上を目指す欲であり、人間関係を良好に保とうという欲です。
(感情的安全はちょっと分かりにくい欲求で、これら三つの本能を満たすために、他の人たちを自分の思い通りにしようとする欲です)
こうした欲求が満たされたとき、私たちは喜び(快)を得て、幸せな気分になります。そして、もっとそれを満たしたくなります。そうやって喜びと幸せを求めて努力をしているうちに、誰かの足を踏みつけることになり、そのせいで人間同士のトラブルが生じます。また、本能が自分の思い通りに満たせない時には、私たちは傷つき、苛立ち、不安になります。それは本能が枠を外れた結果です。
生きていれば、様々なトラブル(悩みや苦しみ)を抱えることになります。私たちは、そのような悩みや苦しみは自分の外に原因がある(e.g. あの人が悪いのだ。あの人たちのせいで私は苦しんでいるのだ)と考えがちです。しかし実は私たちの苦しみは、私たち自身、私たちの意志、私たちの本能が枠を外れて暴走した結果であり、原因は私たちのなかにあるのです。
私たちは本能をどうすれば良いのか?
ここで私たちは一つのジレンマ(板挟み)に陥ります。私たちの意志(本能)がトラブルの原因であるとしても、意志(本能)は私たちが生きていくのに必要なものです。意志(本能)を取り除いたり、捨て去ってしまうことはできません。一方で、意志(本能)は枠を外れて暴走しがちなものであり、私たちは自分の本能をコントロールできず、むしろそれに振り回されてしまい、そのせいで私たちはトラブル(悩みや苦しみ)を抱えることなります。
意志(本能)を捨てるわけにはいかず、かといってそれを持っていれば必ずトラブルになる。いったい私たちは自分の意志(本能)をどうすればいいのでしょうか?
次回はビッグブックにもどり、ステップ3の核心部へと進みます。
- 安全・性・共存の三つの本能は、どれも欲求である
- 私たちはこれらの欲求を生まれつき持っている
- 「自分の意志」とは、私たちの欲求や願望のこと(意志=本能)
- 私たちの行動のほとんどは、この三つの本能を充足させるためのもの
- 自己(self)とは本能そのものである(自己=本能)
- 自己(自分)こそが私たちの悩みや苦しみの根本原因である
- 意志(本能)を捨てるわけにはいかず、かといってそれを持っていれば必ずトラブルになる。いったい私たちは自分の意志(本能)をどうすればいいのか――それが私たちのディレンマである
- 12&12, pp.70-71[↩]
- 12&12, pp.71-72[↩]
- 12&12, p.72[↩][↩]
- ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『回復の「ステップ」』, 依存症からの回復研究会, 2008, p.43[↩]
- 前回も参照した『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』で著者モフェットは、これを badge(記章)と名付け、それが「しるし」と訳されている — マーク・W・モフェット(小野木明恵訳)『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』(上), 早川書房, 2020.[↩]
- ibid., pp.243-244 — 実験はプリンストン大学の心理学の教授ウリ・ハッソンによるもので、モフェットの参照先は Hasson U., et al. 2012. Brain-to-brain coupling: A mechanism for creating and sharing a social world. Trends Cogn Sci 16:114–121. PMCに収録されている。[↩]
- ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』, 河出書房新社, 2017, 2章[↩]
- 価値観の拠り所として共有された物語(ナラティブ)があるという考えは、フランス人哲学者ジャン=フランソワ・リオタール (1924-1998)が著書『ポストモダンの条件』(1979)で唱えたものである — ジャン=フランソワ・リオタール(小林康夫訳)『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』, 水声社, 1989 — リオタールは、近代(モダン)という大きな時代区分が、その価値観の拠り所を人間の理性(哲学)に求めていたものの、理性に対する不信が広がることで哲学が有効性を失い、理性を拠りどころとした大きな物語とその時代が終わりつつあると説いた。[↩]
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