ビッグブックのスタディ (96) どうやればうまくいくのか 8
さてここまでのステップ3での学びを箇条書きにしてみましょう。
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- 人は例外なく誰もが自己中心的である
- この自己中心性が、私たちの悩みや苦しみの根本原因である
- 自己中心性の大もとには自己(self)がある
この自己が、恐れ、自己ぎまん、身勝手、自己れんびん、その他の様々なかたち(form)をとります(BB, p.89)。
今回以降しばらくビッグブックを離れて、AAの二冊目のテキスト『12のステップと12の伝統』(通称12&12)を読んでいくことにします。そこから、ステップ3に取り組むのに必要ないくつかの情報を得ていくことにしましょう。それは具体的には:
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- なぜ私たち人間はかくも自己中心的なのか
- そもそも自己とは何か
- 私たちは自己をどう扱ったら良いのか
といったことです。
前回触れましたが、12&12では本能(instincts)という言葉を自己という意味で使っています。
つまり、本能について知ることで、私たちは自分自身や他の人たち(つまり人間)を理解する手がかりを得ることができます。それは人間が作っている社会を理解する手がかりにもなりますし、さらには人間にも社会にも限界があること――すなわち不完全さ――を理解することにもつながります。
ステップ4で私たちは自分自身の棚卸し表を作ることを要求されます。表を作るだけでなく、その表を自分で分析することも求められます。自己や本能について知っておくことは、ステップ4で大いに役に立つでしょう。
三つの本能
本能という用語は12&12のいたるところで使われていますが、本能そのものについては、ステップ4(以下12&12, pp.58-59, 68)、ステップ6(p.86)、ステップ7(p.94)、ステップ12(pp.151-153)に説明があります。
ここでは、ジョー・マキューらに従って、ステップ4の章の先頭のところ(pp.58-59)を取り上げることにします:
創造主は、ある目的のために本能を与えた。本能なくして完全な人間とはいえない。1)
神が人間に本能を与えたのは、目的があってのことだと言っています。だから、人間から本能を取り除くことを神は望んでいません。2)
では、本能と何なのか。そして、神は何のために人間に本能を与えたのか・・・続きを読んでいきましょう。
安全の本能
もしも人間が、自分の安全を守ろう(be secure)としなかったり、食物の収穫や住まい造りに努力しなかったら、生き残ること(survival)はできなかったろう。1)
最初に挙げられているのは、人間が生き残る(survival)ための本能です。これが安全(security)の本能です。食べ物がなければ人は飢えて死んでしまいますし、衣服や住まいも必要です。現代社会に生きる私たちは貨幣経済 のもとで暮らしていますから、衣食住を手に入れるために金銭 を必要とします。
性の本能
もしも子孫をつくらなかったら、地球は無人の境地となっていたろう。1)
私たち人間はいつかは必ず死ぬ運命にあります。だから人間が再生産 (reproduction)されなかったら、地球上から人間が一人もいなくなり人類が滅亡してしまいます。人間の再生産のためには生殖 (reproduction)が欠かせません。これが性(sex)の本能です。男も女も性愛 を求めるのは自然なことです。
共存の本能
もしも人間に共存の本能(social instinct)がなく、人との交流に注意を払わなかったら、社会(society)というものは存在しなかったろう。1)
動物の中には生殖と子育ての期間以外は単独で生活するものがいます(e.g. クマやトラなど肉食唐物 に多い)。他方で群れ を作って暮らす動物もいます。人間は脆弱な動物であり、山で遭難すれば何日もしないうちに死んでしまうことから分かるように、自然環境下では単独で生きるのは難しいのです。ですから人間は文明化する以前から群れ(社会 )を作って生活してきました(群居本能)。つまり人間には、社会を作り、その社会の中に自分の身を置こうとする社会的な本能(social instinct)が備わっているのです。――これは以前の翻訳では社会的本能と訳されていたのですが、現在の12&12の訳では共存の本能と訳されています。ここでも共存の本能という訳語を使うことにします。
こうして、安全(security)・性(sex)・共存(social)という三つの本能が手短かに紹介されました。
これらの欲求――性的な関係、物質的感情的な安定(security)、そして仲間作りへの欲求は、本当に必要で正当なものであり、それはまぎれもなく神から与えられたものである。1)
これまで本能という用語を使っていたのに、それをいきなり欲求(desire)と言い換えています。つまり本能とは欲求のことです。
そして、
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- 安全本能 — 物質的感情的な安定(security)
- 性本能 — 性的な関係
- 共存本能 — 仲間作り(companionship=交際)
この三つの本能は、人間が生きていくのに欠かせない欲求であり、正しいものであると断言しています。人間が欲求(本能)を持っているのは、神がそれを人間に与えたからだとも言っています。
本能が枠を外れると私たちに悩みや苦しみがもたらされる
次の段落に進みます:
しかし、それほどまでに私たちの存在にとって必要な本能も、本来のはたらき(proper functions)をはるかに超えることがよくある。それらは強力に、盲目的に、時には巧妙に私たちをあやつり、威圧し、そして生命(lives)まで支配しようとする。1)
私たち人間が持っているこの三つの本能の本来的な機能(proper functions)は、上に説明があったように、私たちを生存させること、子孫を残すこと、社会を作って他の人たちと共存していくことです。この三つによって、私たちは個体 として生き残り、またヒト という種として生き残っていきます。つまり欲求は人が生きるためのものです。ところが、本能(欲求)はしばしば私たちを生存させるという本来の機能以上の働きをしてしまうのです。
そうなってしまうと、私たちは本能(欲求)に駆り立てられるようになります。生きるために必要な金銭・性愛・社会的地位だけでなく、それ以上の金銭・性愛・社会的地位を追い求めて、自分の生活や人生を本能の充足に捧げてしまうのです。――lifeを12&12では生命と訳していますが、ここでは生活や人生という意味です。
セックスヘの、物質的感情的安定への、また社会的地位への欲望が、しばしば私たちに猛威(tyrannize=暴政)をふるう。そのように枠をはずれると、人間の持つ自然の欲求は、実にありとあらゆる大きな問題(trouble)を引き起こす。3)
ここでも性本能・安全本能・共存本能の三つが挙げられています。これら三つの本能がしばしば私たちの支配者になってしまうのです。そうなったときに、本能は私たちに大きな問題(trouble)を引き起こします。
このトラブルとは、前回・前々回で取り上げたように、私たちが生きる上で味わう悩みや苦しみのことです。裏を返せば、私たちの悩みや苦しみは、実は本能(欲望)が本来の機能から外れて暴走することから生じてくるのです。
どんな人間でも、どんなに立派であっても、その問題からまぬがれることはできない。重大な感情的問題のほとんどは、本能が誤った指示を受けた場合に見られるといっていい。4)
本能の暴走に苦しめられているのはアルコホーリク(アディクト)だけではありません。どんな人間でも、例え善人であっても、このトラブルから逃れることはできません。悩みの大きい小さいの違いはあっても、すべての人がこのトラブルに悩まされているのです。――アルコホーリクだけでなく、すべての人を対象として説明しているのは、前回・前々回に登場したショー全体を取り仕切りたがる役者さんの話と共通しています。
そして、私たちの感情的な問題のほとんどすべては、本能が誤った指示を受けた(misdirected)結果であると言っています。つまり、本能が枠を外れて暴走するのは、それが正しく導かれていないからだというのです。
その時、持って生まれたすばらしい資産であるはずの本能が、肉体的にも精神的にも負債に変わる。4)
ステップ4で私たちは棚卸しという作業を行ないます。これは商売で行なう棚卸しを模した表現です。商売の棚卸しの場合には、棚卸しの結果として見つかった資産を(負債とともに)帳簿に記載します。私たちがステップ4で行なう棚卸しでも、資産である本能を棚卸し表の第三列に、負債である欠点を第四列に書き込んでいくことになります。5)
簡単な振り返り
本能 とは、動物が生得的 に持っている行動のメカニズムのことです(本能)。学習 して得るものではなく、先天的に備わっているものです。本能という用語が指す範囲は広く曖昧なので、近年では学術的には使われなくなっていますが、ビル・Wはここでは人間の持っている欲求 ・欲望(desire)という意味で使っています。
つまりこの本能の説明は、一つの欲求論なのです。心理学を学んだ人ならアブラハム・マズロー (1908-1970)の欲求5段階説をご存じでしょう。また、第61回で取り上げたジクムント・フロイト (1856-1939)の理論の中で扱われている性欲は、近代へ移行しつつあった当時において、自由に生きたいという願望を象徴していると考えられます。第85回で取り上げた古代ギリシャの哲学者アリストテレス (384BC-322BC)も人間の欲求について論じています(『霊魂論 』)。つまり、古今東西、心の問題を扱う人々は、人間の持っている欲求を論じてきたわけです。である以上、12ステップでも欲求を論じるのは当然と言えるでしょう。
12ステップは、欲求に限らず人間が生得的に持っているものは、何であれ人間に必要だから与えられた善いものである、という考えで貫かれています。私たち人間には恨んだり、不安になったり、罪悪感を持ったり、人を疑ったり、愛したりする能力が備わっていますが、第84回では、人間がそのような能力や機能を備えているのは、神がそれらを私たちに与えたから(先行的恩寵 )だと説明しました。
ところが私たち人間は、授かった能力や機能をしばしば過剰使用(overuse)したり、本来の用途を越えて誤用(misuse)してしまうのです。するとそれらは私たちに害をもたらすようになり、私たちはトラブルに巻き込まれることになります。
例えば、ビッグブック第四章では、人間には論理(論理的思考能力)が与えられているけれど(p.77, 第84回)、私たちは人間に与えられた論理には限界があることを忘れてしまい、「人間の英知は完璧である」と見なしてハイヤー・パワーを頼ることを拒否するようになってしまう(p.72, 第80回)と説いていました。
また、私たちには理性 が与えられていますが、信仰という向こう岸に渡るためには、理性には限界があることを認め、その限界を超えたことに対して理性を使うのをやめる必要があります。なのに、私たちは理性にしがみついてしまう、という説明がありました(p.78, 第84回・第85回)。これも理性の過剰使用・誤用と言えます。
そして私たちは、生きていくという目的のために神が与えてくれた本能を、やはり過剰使用したり、誤用したりしてしまうのです。
とは言え、本能そのものが悪いわけではありません。12&12のステップ6には「創造主である神は、私たちがこの世にいる限り、本能の働きを消し去ることを期待していない。神が人間から自然の本能を完全に取り除いてしまうというようなことは、聞いたことがない」6)とあります。本来的には本能は善なるものなのです。
だから、12ステップは人間から欲望を取り去ることは意図していませんし、欲は小さければ小さいほど良いとも考えません。性欲や承認欲求を悪と決めつけることはしていないのです。
安全本能
では、この三つの本能について少し掘り下げて説明することにしましょう。まずは安全の本能から。
先ほど述べたように、人間は食物を食べなければ飢えて死んでしまいます。だから食事をしてから数時間経過すると空腹を感じる仕組みになっています。空腹感は不快な感覚であり、私たちはそれを消し去るためにまた食事をします。そして胃が満たされると今度は満腹感がもたらされます。満腹感は心地良い快の感覚で、私たちに喜びや幸福感をもたらしてくれます。
空腹感を感じるのは、脳の部位の一つである視床下部 がオレキシン というホルモン を分泌するからであることが分かっています。食事によって胃が満たされると、食物に由来する栄養分と胃の膨張を内臓が感じ取り、それが迷走神経 を通して視床下部に伝えられます。すると、オレキシンの放出が抑制されて空腹感がなくなり、代わりにCRHというホルモンが分泌されて満腹感を感じるようになります。そしてそれが、報酬系 と呼ばれる神経系に伝わって喜びとして感じられるのです。
このようにして、私たちの脳は空腹という不快を避け、満腹という快を求めて行動するようにプログラムされているのです。人間は一生を通じてこの空腹と満腹(不快と快)のあいだを行ったり来たりしながら生きていきます。安全本能の中で食欲は私たちの生命を保つ最も基本的な欲求の一つです。
同様に、人間は環境が暑すぎても寒すぎても死んでしまいます。だから私たちの脳は、夏の暑さや冬の寒さを不快に感じ、涼しい部屋や暖かいコタツを心地良く感じるようにプログラムされています。7) また人間は体毛をほとんど失ったので、身を守るためには衣服が必要です。つまり私たちは食料だけでなく、住居や衣服を必要とします。
さらには、十分な睡眠は疲労を癒やして生存の確率を高めますし、風呂やシャワーで体を清潔にすれば感染症のリスクを減らせます。だから私たちはお風呂や柔らかい布団を心地良く感じるのです。
このように、安全本能は不快なるものを避け、快なるもの(報酬)を求めることで、人間を生存させるメカニズムであり、それは脳の報酬系によって駆動されていると考えられます。
では金銭を手に入れたとき、私たちは喜びを感じているのでしょうか? 答えはイエスです。私たちが金銭を手に入れたとき、脳の報酬系(具体的には腹側被蓋野 と側坐核 )が活発に活動し、喜びを感じていることが分かっています。8)
このことは経験的にも理解できるはずです。これを読んでいる皆さんは、子供から大人になるなかで、初めて働いてお金を稼いだときのことを憶えていらっしゃるでしょう。お金を手にしたとき、大変嬉しかったのではないでしょうか(それは金銭欲が満たされたからです)。そのお金を使って自分の欲しいものを買えたことも嬉しかったでしょう(それは所有欲 が満たされたからです)。
今でも給料日は嬉しいでしょう。しかし、その嬉しさは、初めて働いて給料を得たときの喜びにくらべれば、ずいぶん小さくなっているはずです。あの時はあんなに嬉しかったのに、現在の給料日の喜びは(決して嬉しくないわけではないけれど)そんなに大きくはありません。
喜びは小さくなってしまう
脳科学では、快感をもたらす刺激のことを報酬と呼びます。人間の脳は、同じ報酬を得続けていると、次第に感じる喜びが小さくなっていく(つまり、以前ほど嬉しくなくなる)ようにできているのです。それはお金に関することだけではありません。
僕の子供たちが小学生だったころ、当時の妻が具合が悪くなり、僕が子供たちの食事を用意していた時期がありました。それを始めたとき、僕は少しでも手間を省こうと、卵と鶏肉を用意すれば簡単に調理できる「親子丼の素」を使いました。すると子供たちが目を輝かせて「美味しい」と言いながら食べてくれたので、僕も気を良くして、翌日も、翌々日も同じように親子丼を作りました。ところが三日目には「飽きた」と文句を言われ、ご飯を残されてしまいました。
また、子供たちのご機嫌を取ろうと、スーパーなどでお菓子を買っていたのですが、金銭的には苦しかったので、安いお菓子ばかり選んで買っていました。その中の一つが「しみチョココーン」でした。これはコーンスナックにチョコを染みこませたもので、美味しいのですが、欠点はすぐに飽きることです。久しぶりに買っていくと子供たちは喜ぶのですが、安いからとまとめ買いしておやつ箱に入れておくと、子供たちはため息をつきながらそれを食べているのでした。
旅館に泊まって刺身料理を食べれば美味しいけれど、それを何日も続けると飽きてきて、カレーライスが食べたくなります。夏の暑い日に戸外から26℃に冷やされた部屋に入ると涼しくて嬉しいですが、しばらくするとエアコンの設定温度をもう少し下げたくなります。
このような喜びの減衰は、心理学では馴化 (じゅんか)、神経学ではサリエンス(Salience、サリエンシー saliencyとも、顕著性)の減弱と呼ばれる現象です。人間の脳は感覚器官から来る大量の情報を処理していますが、すべての情報を処理するだけの能力はありません。そこで限られた認知 リソースを生存のために重要な情報に集中させる必要があります。そのための注意選択のメカニズムがサリエンス(顕著性)です。9) 快感は大きな顕著性を持つはずですが、それが次第に失われてしまうのです。
馴化にしても、サリエンスやその減少にしても、そのメカニズムは十分に解明されていません。だがこれらは人間以外の動物にも見られることから、生存のために必要な機能であることはほぼ確実です。雑食 動物であるヒト は、同じ食べ物を食べ続けるよりも、様々な食物を食べ分けたほうが、栄養のバランスにおいても、食物の入手性や捕食される危険を避ける点でも、生存に有利であったと考えられるのです。
喜びの減少が生物学的なメカニズムの一部だとするなら、「飽きた」と不満を言う子供たちをわがままだと非難するわけにもいきません。
いずれにせよ、私たちの本能は、それが充足されると私たちに喜び(快)をもたらすものの、同じ報酬刺激を得続けていると次第にその喜びが小さくなっていくようにできているのです。
暴走する本能
喜びが小さくなってくると、私たちは何かの手段で減少を補おうとします。ただし、量を増やすという手段はあまりうまくいきません。もっとたくさん食べると満腹になってそれ以上食べられなくなります。エアコンの設定温度を下げすぎると寒くなってむしろ不快になります。人間の体には、ネガティブフィードバック機構 が備わっていて、過剰を防ぎ、体内を一定の状態に保つようになっています(ホメオスタシス )。前述のようにこの機能は間脳 の視床下部が主に担っています。
つまり、より基本的な欲求にはブレーキ、すなわち暴走を防ぐ仕組みが備わっているのです。進化の中でそのような仕組みを獲得してきたのだと考えられます。10)
ところがこのブレーキシステムは、金銭欲には働いてくれません。人間が貨幣を使うようになったのは、せいぜいここ数千年のことであり、本格的な貨幣経済に限ればここ数百年にすぎません。その時間が短すぎて、自動的なブレーキシステムを進化的に獲得することがまだできずにいるのです。
私たちの金銭欲には報酬刺激というアクセルはあっても、ブレーキがありません。だから私たちの金銭欲はすぐに枠を外れて暴走します。生きるに足るだけの質素な衣食住があれば満足できる人はほとんどいません。できるだけ贅沢な、豊かな生活をしたいと誰もが望んでいます。たとえ、そこそこ豊かな生活に満足できていたとしても、自分より豊かな生活をしている人たちに接すると、自分とその人たちを比べて(上方比較)なんだか悔しく感じ、自分ももうちょっと豊かな生活をしたいと思うようになります。
なお悪いことは、いったん豊かな生活を手にすると、それを手放したくなくなることです。最低限の衣食住すらままならないほど貧しいのであれば苦しさを感じて当然ですが、そこまで困窮しなくても、今より貧しくなる未来が予測できただけで、私たちは不安や不満を募らせてしまいます。
このように私たちの安全本能は満足させるのが難しく、簡単に枠を外れて暴走しがちなのです。それは私たち人間が文明(貨幣経済)を獲得したがゆえです。
安全本能と自己中心性
さて、安全本能を満たすにはどうすれば良いのでしょうか? それは子供から大人になる課程で、社会が私たちに教えてくれます。具体的に何をどうやって手に入れれば良いかは世界のなかの場所によって違います。中央アジアの遊牧民 であれば牧畜をすることでしょうし、焼畑農業 をしているところであれば土地を獲得することでしょう。そして、先進国 とされる日本においては、それは(雇用されるにしろ、自営業者になるにしろ、投資をするにしろ)金銭を獲得することです。
テレビを見ながらごろ寝をしているだけでは安全本能は満たせません。だから私たちは、教えられたことに従って何らかの目標を定め、それに向かって努力をします。アルバイトをすれば金を稼げることは中高生でも知っています。だから友達と遊びたくても、その時間を減らしてバイトに振り向け、労働を提供して金を稼ぎます。私たちは努力して技能や資格を身に付け、それを使って仕事をしていきます。つまり、安全本能を満たすためには、何らかの犠牲が必要なのです。もし、金銭という報酬が得られなければ、この犠牲を払う人はいません――給料の払われない会社で働く人がいないのはこのためです。努力し、犠牲を払って、目標を達成したとき、私たちは喜びを得ます。ビル・Wもこの目標を達成したときの喜びを、第一章で「とうとうやったのだ」と表現しています(BB, p.4)。
残念なことに、この喜びは長続きしません。同じ報酬を再び手に入れても、今度は喜びが小さくなっています。そこで私たちは次の目標を定め、自分を犠牲にして、努力して、また目標を達成して喜びを手にし・・・ずっとこれを繰り返していくのです。
こうして私たちは少しでも豊かに暮らしたいと願い、努力を続けていくのですが、その願いがいつも叶うとは限りません。普通に努力していただけでは、欲しいだけのお金やモノが手に入らないというときには、私たちは「あんなに頑張ったのに、これっぽっちか」という不満を感じます。また、収入が不安定になり、今より貧しくなる未来が予見されると私たちは不安になります。
そのようにして不満や不安が起きてきたとき、私たちは「自分に必要な」(と自分が考える)お金やモノを確保するために、安易な方法(shortcut)を取ります。例えば小さな嘘をつくとか、ちょっとしたズルをするとか、少しだけ他の人を操るとか、人の足を踏んづけるとか、人を押しのけるとか・・・それは悪意があってのことではありませんし、人を傷つけようとしてやっていることでもありません。ただ、自分の目標を達成しようと努力しているだけなのです。だがその努力が、他の人に苦しみや痛みを与えることになります。するとその人たちは報復をしてきて、私たちに苦しみをもたらします。前回述べたように、実のところ、それは報復ではなく、その人たちも自分を守り、目標を達成しようと努力しているだけである場合がほとんどです。いずれにせよ、私たちは自分の本能が発端となって、他の人とのトラブルに巻き込まれ、感情的な問題を抱えるようになります。11) 12)
前回、私たちがトラブルに巻き込まれるのは、自己にもとづいた判断(decisions based on self)を下したからだと説明がありました。自己=本能なのですから、つまり本能にもとづいた判断をすることが、私たちのトラブルの原因なのです。
本能(欲望)から自由になれるのか?
かといって、本能を私たちから取り除くことはできません。本能(欲求)は私たちを生かす強力な力であり、それなしでは私たちは生きていけないのですから。
では、本能が暴走しないように上手にコントロールする方法はないのでしょうか? 残念ながらそのような方法はありません。「どんな人間でも、どんなに立派であっても、その問題からまぬがれることはできない」とあるように、自分で自分をコントロールすることができる人はいないのです。
確かに、平穏な日々が続いているときには、一見したところバランスが取れて、欲求をコントロールできているように見えることもあります。しかし、大きな外乱を受けると(それは不幸なできごとであることが多いのですが)、私たちのバランスはたちまち崩れ、コントロールは失われ、不満や不安による行動から感情的問題を抱えることになってしまうのです。人によって外乱に多少強かったり弱かったりという違いがあるにしても、人は自分の本能をコントロールできない、というのが真実なのです。
もし自分で自分をコントロールできるのなら、自分自身を神にゆだねる必要はありませんし、12ステップも要らなくなってしまいます。ステップ3から12は、自分を神にゆだねていくためのステップです。私たちは自分自身(自分の本能・欲求)をコントロールできないからこそ、神にそれをゆだね、導いてもらうのです(directionを受け取って生きていく、第81回)。
私たちが幸せに人生を生きるためには、本能がある程度適切にコントロールされている必要があります。しかし、12ステップは本能を自分でコントロールするための手段ではありません。自己と内なる神との間の障害物を取り除くことで、神に自己(本能)をコントロールしてもらうための手段なのです(第87回)。
もし、自分で自分をコントロールするために12ステップをやっている人がいるとするなら、その人はきっとステップ3をすっ飛ばしてしまったのでしょう。
以下次回
本能の説明の途中ですが、長くなってしまったので、以下は次回に回します。次回は性の本能と共存の本能について説明します。また、今回はもっぱら物質的安全(material security)について説明しましたが、安全本能にはもう一つ感情的安全(emotional security)という項目もあります。それについても説明が必要でしょう。
- 本能について学ぶことで、私たちは自分自身や他の人たちを理解する手がかりを得る
- 神は人間が生きていくために本能(欲求)を与えた
- しかし本能が枠を外れて暴走すると、私たちに悩みや苦しみがもたらされる
- 人間は本能を暴走させないようにコントロールすることはできない
- 12&12, p.58[↩][↩][↩][↩][↩][↩]
- 原文の主語は Creation 創造だが、キリスト教的な世界観では世界は神が創造したものとされているので、主語を創造主と訳すのも間違いとは言えない。[↩]
- 12&12, pp.58-59[↩]
- 12&12, p.59[↩][↩]
- ジョー・マキューらが提唱した棚卸し表――ビッグブックのpp.94-95の表を元にしている――では、第3列に私たちの資産である本能を、第4列に負債である欠点を書き入れていく。[↩]
- 12&12, p.86[↩]
- 自律神経 によって不随意に行なわれる体温調整(自律性体温調節)とは別に、随意的に行なわれるものを行動性体温調節というが、そのメカニズムはまだよく分かっていない。だが報酬系がもたらす快・不快に駆動されているのはほぼ間違いないだろう。[↩]
- D・J・リンデン(岩坂彰訳)『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』, 河出文庫, 2012, pp.184-185[↩]
- この注意選択の機能が異常をきたし、重要でない情報に関心が集中してしまうのが統合失調症の症状の原因だと考えるのが異常サリエンス仮説である。統合失調症には、そうでない人にとってみれば気にしなくてもよさそうなことを気にする症状がある。[↩]
- ただし、このメカニズムが常に期待通りに動くとは限らない。ストレスを受けると食欲がなくなり空腹感が感じられなくなるし、逆に過食になることもある。[↩]
- 無名(A Program for You翻訳チーム訳)『プログラム フォー ユー』, 萌文社(ジャパンマック), 2011, pp.86-90[↩]
- Joe McQ. and Charlie P., Joe & Charlie: The Big Book Comes Alive, 2014, p.88-90[↩]
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