ビッグブックのスタディ (41) ビルの物語 12
二人が話したキッチンテーブル
上は、エビー・Tがビル・Wに話をしたキッチンテーブルの写真です。
ビルとロイスが住んでいたブルックリン のクリントン通り182番地のアパートは、ビルの破産によって競売にかけられ、二人は住まいを失いました。その後の二人はAAメンバーの家を転々とし、AAクラブハウスの二階に住んだ時期もありましたが、1941年にニューヨーク郊外のベッドフォード・ヒルズ(Bedford Hills)に終の棲家を得ました。二人がステッピング・ストーンズ(踏み石)と名付けたこの家は、AAおよびアラノンの創始者の家として財団によって保存され公開されています(Stepping Stones Foundation)。エビーとビルが話したキッチンテーブルもステッピング・ストーンのキッチンに置かれています。このテーブルがAAが始まった場所(の一つ)なのです。
ビルは無神論者ではなかった
さて、ビッグブックのp.15の4行目から続けます。
祖父は、神々だけに聞こえて、人間には聞こえないという、いわゆる天球の音楽というものがあるのだと主張して譲らなかった……。でもその音楽を自分がどういうふうに聞こうと、牧師に何か言われる筋合いはないのだと言い張った。亡くなる前に、祖父はそういったことを歯に衣を着せずに大胆に語ったのだった。1)
エビーの話を聞いたビルは、子供の頃を思い出しました。第31回で紹介したように、ビルは子供の頃に両親が離婚して母に引き取られました。その母も医者になる勉学をするためにボストンに行ってしまい、ビルと妹は母方の祖父母に育てられました。ですから、ここに登場する祖父は、母の父であるファイエット・グリフィス(Gardner Fayette Grifith, 1841-1924)です。2)
ビルが生まれ育ったイースト・ドーセットの村にも当然教会がありました。ファイエットおじいちゃんは、神の存在は信じていましたが、神の声――おじいちゃんが天球 の音楽と表現したもの――を解釈する権利は牧師にはない、という考えを堂々と述べていました。つまり、おじいちゃんは、神の存在を信じていながらも、反宗教的な考えを持ち、しかもそれを率直に言うだけの豪胆さを備えた人物だったようです。(ファイエット・グリフィスはビル夫妻がオートバイでの調査旅行に出かけた1925年の前年に亡くなった)。
ビルはこれに続けて、神の存在は否定しないが宗教は拒否する、という考えを述べますが、その考え方は育ての親であるおじいちゃん譲りであったことが分かります。
アーネスト・カーツ(Ernest Kurtz, 1935-2015)は、ファイエットが超絶主義 者だったことが、ビルに影響を与え、それがAAのプログラムと共同体のなかに深く浸透している「宗教に対する自覚的な慎重さ」をもたらした、と述べています。3)
またビルは、第一次世界大戦でヨーロッパに渡ったときにイギリスのウィンチェスター大聖堂の敷地で見た墓石のことを思い出しました(第32回)。あの時、ビルにも天球の音楽が聞こえていたのかも知れません。
12ステップに接するまでは、神や信仰というテーマを「うまく避け、あるいは完全に無視して」(BB, p.67)生きてきた、というアルコホーリクは珍しくありません。それもそのはずで、アルコホーリクにとっては、いるのか、いないのかよく分からない神様よりも、アルコールのほうがずっと確実に自分を救ってくれる(=気分を変えてくれる)存在だからです。だから神をではなく、酒を探し求めて生きてきたのがアルコホーリクなのです。
多くの日本人は無神論者ではない
ぼくはずっと、自分を超えたところにある偉大な力を信じていて、よく考えたものだった。ぼくは無神論者ではなかった。根っからの無神論者というのは実はいないのではないか。4)
ビルはエビーの話を聞かされて、神という主題について改めて考えるようになりました。そして、自分が無神論者ではないことに気づかされています。それに続いて、彼なりに持っている神の概念について述べています(pp.15-16)。
無神論 (atheism)とは、神の存在を否定する思想です。「いるんだか、いないんだか分からない」とするのではなく、「いない」ということを信じるわけですから、無神論者は無神論という宗教を信じているとも言えます。
日本人で無神論者というのはかなり珍しい存在でありましょう。日本のAAが始まった頃、ある人が、日本を訪れたアメリカのAAメンバーに向かって「日本人は無神論者が多いから、神が含まれた12ステップは日本人には向かない」と言ったところ、そのアメリカ人はこんな返事をしたそうです。東京にはたくさんの神社や仏閣があり、お稲荷さんのような小さなものまで含めると無数の宗教施設がある。人びとがそうした宗教施設に囲まれ、時にそれに手を合わせながら生きているのを見ると、とても無神論者が多いとは思えない。日本人は誰もが信心深いと思う、と。
多くの日本人は、子供が生まれればお宮参り や七五三 で神社にお参りし、結婚式は神社や教会で挙げ、人が死ねば僧侶を呼んでお経を上げてもらいます。それらを省くことをあまり良しとはしません(特に葬式を完全に省くことは好まれません)。人はなぜそのような行いをするのでしょうか? 医療が発達していない時代には子供が無事に成人する確率は低いものでした(特に乳幼児の死亡率が高かった)。親がどう気を付けて育ててても、途中で病気や事故で多くの子供たちが死んでいきました。そこで人びとは、人智を越えた存在(=神)に子供の無事の成長を願いました。現代でも人々は子供の無事を願ってお参りを続けています。また、結婚においても、二人が良い夫婦になろうと努力しても、それだけで幸せが続くとは限らず、どんな不幸が降りかかってくるか分かりません。だから結婚するときに神に二人の幸せを願うのです。人が死んだときに、あの世のことにはこの世の人間は関われません。だから、死んだ後にその人が安らかであるように仏様に頼んでいるのでありましょう。
正月の初詣に行くときも、私たちは新しい年が良い年になることを「何か」にお願いしています。たしかに、私たち日本人の多くは宗教のブランドにはこだわらずに、神社へも、仏閣へも、キリスト教会にも出入りしますが、人智を越えた「何か」が存在していることを否定しません。積極的にその存在を否定するならば、何かに手を合わせることも一切しないはずなのです。お守りを身に付け、お神籤で神意を知ろうとするのは、「何か」の存在を前提にしてのことです。
だから、多くの日本人は、ビル・Wの考え方に共感するでしょう。つまり、人間を越えた力の存在を敢えて否定はしないけれど、では宗教が好きかと言えば、なるべく宗教との関わりは少なくしておきたい、という考え方です。
信仰というものに対する疑念
16ページでは、ビルは宗教に対して疑いの目を向けています。
宗教の名によって戦われた戦争の数々、宗教論争が火付け役になって起こった火あぶりの刑、ずるい言い抜けなどに、ぼくはうんざりしていた。公平に見て、果たして人間にとって宗教というものが何かよいことをもたらしただろうかと、ぼくはまじめに疑っていた。5)
実際のところ、宗教が戦争の原因の一つになっていることは珍しくありません。ビルの時代以降のものを思いつくままに挙げてみても、ユーゴスラビア紛争、第一次から第四次までの中東戦争、イラン・イラク戦争、レバノン侵攻、印パ戦争、スリランカ内戦、スーダン内戦などなど、きりがありません。古来より宗教が人の心に救いと慰めをもたらしてきたにしても、同時に人と人との争いも作り出してきたことは否定しようのない事実です。また圧政というものは、宗教の有無に関わりなく生じますが、宗教が圧政の道具に使われたこともあります。だから、宗教にしても神にしても、人類にとって無益どころか有害な存在なのではないか、とビルは冷笑的な態度を取っています。
「人間界での神の力は取るに足りないもの」に過ぎない・・・つまり、神が存在したとしても、その力は人間には及んでいない、というのがビルの考えでした。
エビーはビルができないことを実現していた
しかし、ビルの前に座っているエビーは、ビルには不可能なこと(断酒)を成し遂げていました。エビーは酒をやめており、しらふでビルの前に現れました。ビルもそれまでに何度も断酒に挑みましたが、そのたびに再飲酒して元の飲んだくれに戻っていました。エビーの断酒期間はわずか二ヶ月でしたが、その姿は自信と落ち着きに満ちており、ビルの経験した自分の意志に頼った断酒とはまったく違ったもののように見えました。
けれどもぼくの前に座っている友人は、彼が自分にできなかったことを、神が彼のためにしてくれたのだと、単純明快に宣言したのだ。彼は意志の力では、どうにもできなかった。医者はこの友人を見込みなしと宣告した。世間は彼を精神病院に閉じこめるところだった。ぼくと同じように、彼も完全な敗北を認めたのだった。それから突然、彼は捨てられたゴミの中から救い上げられ、経験したことがなかった素晴らしい人生を与えられた。死者がよみがえったのだ!6)
エビーは、自分が酒をやめられているのは自分の力ではない、と率直に認めました。「彼が自分にできなかったこと」とは断酒を続けること(=再飲酒を防ぐこと)であり、それを神が実現してくれたというのです。エビーもビルと同じように、自分の意志の力による断酒には失敗していました。しかし、信仰はエビーに断酒をもたらし、かつて彼が経験した最高の人生よりもっと優れた水準へと彼を引き上げたのでした。
そうなる力はもともと彼に備わっていたのだろうか。そうでないことははっきりしている。彼自身の力はいまのぼくが持っているほどのものでしかなかった。つまり全く無力だったのである。6)
ビルは、エビーを自分と同じだと見なしています(アイデンティフィケーション)。ビルは、自分が酒をやめられないのと同じように、エビーも酒がやめられなかったことをエビー自身から聞かされました。自分に酒をやめる力が無いように、エビーにも酒をやめる力は無かったことがよく分かりました。これがアル中同士を結びつけるアイデンティフィケーション(同一であると見なすこと)です。
これは僕の印象ですが、ビルは友人のエビーを自分よりダメな人間として少々見下していたように思われます。落ちぶれたにしても、法学の学位を持ち、株式ブローカーとして成功を得た過去を持つビルは、自分を能力がある人間だと考えていました(p.11)。それに比べてエビーは、高校中退で、裕福な親のすねをかじってまともに働いたこともない人物でしたから、自分より情けないヤツだとビルは見なしていたのかも知れません。
ですが、それがむしろ幸いしました。もしエビーがビルより明らかに有能な人間だったならば、ビルはこう反論したかもしれません。「有能な君だからこそできるんだろう、だけどぼくみたいな力の足りない人間には無理だ」と。
しかし、ビルはエビーを自分と同程度あるいは自分以下に見ていたので、こう考えざるを得ませんでした。「俺の力でできない断酒が、エビーの力でできるはずがない。だからエビーが断酒できているのは、彼の力であるはずがない。・・ってことは彼の言うとおり、神の力によるのものなのか!」
実際には、アルコールに対して無力であるならば、能力があろうがなかろうが関係ないのですが、それでも人はAAのメッセージに触れるときに、運び手の力量を無意識のうちに推し量っているものなのです。
この「私たちが自分のためにできないことを、神が私たちのためにやってくれた」(God had done for us what we couldn’t do for ourselves)というのは、AAのメッセージの根幹を成す要素の一つです。ビッグブックでもこの考えは繰り返し述べられています(pp. 38, 66-67, 73-74, 103)。12ステップは、自分の力で酒をやめるのではなく、ハイヤー・パワーが酒をやめさせてくれるプログラムなのです。そんな話を聞かされても信じなかったビルですが、目の前に証拠となるエビーが座っているのでした。
これには閉口してしまった。どうも、信心深い人たちが正しいように見え始めた。人間の心には、不可能を可能にする何かが働いている。奇跡(miracle)と呼ばれるものに対する考えを、ぼくはそこで、大もとから変えることになった。かび臭い過去なんかどうでもいい。台所のテーブルをはさんで、奇跡(a miracle)が目の前に座っているではないか。彼は素晴らしい福音を持ってきたのだった。6)
何かの力がエビーの心に働きかけて、不可能(断酒)を可能にしているという事実を、ビルは認めざるを得なくなりました。ビルはそれを奇跡(miracle)と呼んでいます。奇跡という言葉を国語辞典でひくと「ありそうもないほど ふしぎな できごと」7)とあり、不思議で珍しい出来事という意味で使われていることが多いのでしょう。
しかし、元の英語の miracle を辞書で引くと、このように書かれています:
an extraordinary event manifesting divine intervention in human affairs8)
人間の事柄に神が介入する特別な出来事(拙訳)
ビルがエビーを奇跡と呼んでいるのは、神がエビーの深いところに働きかけて不可能な断酒を実現させたことを指しています。キッチンテーブルを挟んだ目の前に、奇跡が座っているのでした。
私たちがAAのメッセージを運ぶとき、私たちは自分自身を奇跡として、すなわち人間を越えた何かの力が人間に働きかけていることの証拠品として相手に提示しているのです。
友人の内面だけではなく、立っている足場が違っていることがわかった。彼の根は新しい土をつかみ取っていたのだ。9)
エビーがより深いところから変化したことに、ビルは気づかされました。
このようにして、ビルはステップ2の解決を受け取りました。「自分でできないこと(断酒)を、神が実現してくれる」というエビーのメッセージを受け入れて、それを信じるようになったのです。しかし、ビルの反宗教的な考えがまだ邪魔をしていました。
だが、拭い去れない嫌悪感
エビーが属していたオックスフォード・グループは、宗教そのものではなかったものの、そのプログラムの中身は実質的にキリスト教の教義でした。そのことは、創始者であるブックマンがオックスフォード・グループの母体となった運動に「第一世紀キリスト者共同体(First Century Christian Fellowship)」という名前をつけていたことから分かります。彼は、始まった頃の原始キリスト教の教えに立ち戻ることを目指していました。(ブックマンは戦後になって他の宗教も受容するようになった)。
ビルはキリスト教の神の概念に、強い嫌悪感を持っていました。エビーが「自分に関心を持ってくれる神(a God personal to me)」10) という概念について話したとき、嫌悪感はもっと強くなりました(p.18)。神は存在してもいいけれど、それが自分に関心を持って関わってくるなんてすごく嫌だ、というのは、まるで親に反発する第二反抗期のティーンエイジャーみたいな言い分ですが、しかしこれは、アルコホーリクとしては珍しい態度ではありません。ビルも「ぼくと同じように感じている何人もの人間に出会っている」と書いています。
エビーはビルのために「何時間も」話し込みました(p.15)が、ビルがキリスト教の神の概念を受け入れる様子はありませんでした。ジンのパイナップルジュース割りなどという変な飲み物を飲んでいるアル中相手に、何時間も話をするなんて! エビーの熱意には恐れ入ります。だが、その熱意をもってしても、ビルの神への嫌悪感を打ち破ることはできませんでした。
エビーもついに根負けして、変なことを言い出しました。・・・クライマックスにさしかかっていますが、次回に続きます。
- エビーの話を聞いて、ビルは自分が無神論者ではないことに気づかされた。
- ビルには宗教に対する疑念があり、神の力は現実の人間には及んでこないと考えていた。
- だが、エビーは自分にできないこと(断酒)を実現していた。何かの力がエビーの心に働きかけて、不可能を可能にしたとしか考えられなかった。
- それでもビルは宗教に対する嫌悪感を打ち破ることはできなかった。
- BB, p.15.[↩]
- 父方の祖父、ウィリアム・カーチス・ウィルソン(William Curtis Wilson)は1885年に亡くなっている。[↩]
- アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, pp.50.[↩]
- BB, p.15.[↩]
- BB, p.16.[↩]
- BB, p.17.[↩][↩][↩]
- BIGLOBE『三省堂国語辞典 第六版 公式アプリ』, BIGLOBE Inc.[↩]
- Merriam-Webster, Merriam-Webster Dictionary (m-w.com), 2020.[↩]
- BB, p.18.[↩]
- a God personal to me が「ぼくにとっての、僕だけの神」と誤訳されている。[↩]
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