ビッグブックのスタディ (78) 私たち不可知論者は 5
前回は話がステップ2の範囲を超えて広がってしまったので、今回はステップ2に話を戻します。
その力が私たちを健康な心に戻してくれる
アルコホーリクが回復するためには、自分を超えた力を見つける必要があります。なぜなら、その力がアルコールの問題を解決してくれるからです。解決を手伝ってくれるのではなく、解決する能力をあなたに与えてくれるのでもなく、その力があなたに代わって問題を解決してくれるのです。12ステップに取り組むと、ハイヤー・パワーが私たちの精神の中にある強迫観念を取り除いてくれるのです。
もしあなたが、あくまで自分で問題を解決したいと望むのなら、12ステップ以外の回復手段を探すべきです。なぜなら、12ステップはハイヤー・パワーに助けてもらうためのプログラムだからです。
ステップ2は「自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じる」ことを要求しています。「自分を超えた力」を信じるのではなく、その力が私たちを「健康な心に戻してくれる(restore us to sanity)」ことを信じるのです。私たちの持っている強迫観念という狂気(insanity)が取り除かれた状態を健康な心(sanity=正気)と表現しています。
では、ハイヤー・パワーを見つけるためには、まず最初に何をする必要があるのでしょうか?
存在を信じる
69ページの続きです:
一つだけ自分に尋ねる必要はあった。「私はいま自分より偉大な力があることを信じているか。あるいは信じてみようという気はあるか」。1)
We needed to ask ourselves but one short question. “Do I now believe, or am I even willing to believe, that there is a Power greater than myself?”2)
この文を注意深く読んだ方は、問いかけが「偉大な力を信じているか」ではなく「偉大な力があることを信じているか」になっていることに気がついたでしょう。偉大な力(神)が存在していることを信じますか?という問いになっています。
無神論者は神は存在しないと信じています。不可知論者は、神の存在は否定しませんが、神は不可知である(存在しているかどうかは人間には分からない)と考えています。
ですが、ステップ2は無神論者や不可知論者に対して「神が存在することを信じてみたらどうだろうか?」と問いかけているのです。なぜ存在を信じなければならないのでしょうか? それは、何かを見つけようとする時には、それが存在していると信じることが必要だからです。
私たちが日常の中で何かを「見つける」場面を例にとりましょう。例えば、コートをクローゼットの中にしまっている人は、コートを着て出かけよう思ったときにクローゼットを開けて、その中からコートを見つけようとするでしょう。なぜならその人はコートがそこに「ある」と知っているからです。コートを持っていない人は、コートを見つけようとはしません(存在しないことを知っているから)。
本棚の中から本を見つけようとする人は、お目当ての本が本棚の中にあると考えています。パソコンのなかにファイルがたくさん保存してあって、そのなかからファイルを見つけようとしている人も、そのパソコンの中にお目当てのファイルが存在していると思っています。
つまり、人が何かを見つけようとするときには、それが存在すると信じているのです。存在が信じられなければ、見つけようとはしないものです。例えば、徳川埋蔵金 を見つければ金持ちになれるかもしれませんが、僕はそれが存在するとは思えません。だから、僕は埋蔵金探索には出かけないのです。
同じように、ハイヤー・パワー(神)の存在を信じられない人は、それを見つけようとは思わず、見つけるための行動もとらないでしょう。
というわけで、神を見つけるためには、まず最初に神の存在を信じる(あるいは信じてみようという気になる)ことから始めるのです。
ジョー・マキューもこう述べています:
つまり、こういうことだ、まず解決策(an answer)があると信じよう。そして、その次に、解決策(the answer)はきっと見つかると信じることだ。3)
ここでは answer を解決策と訳していますが、この answer はハイヤー・パワーを指しています――解決策である12ステップはビッグブックの中にあるので見つける必要はありません。つまり意味としては、まずハイヤー・パワーが存在すると信じること。その次に、自分はハイヤー・パワーときっと出会うことができると信じることです――童貞君は自分の赤い糸が誰かにつながっていると信じなければなりません。
信じてみようという気になる
とはいうものの、不可知論者にとって、信じることはそうたやすいことではありません。だからこそ、先ほどの問いは「信じるか?」だけではなく、「信じてみようという気はあるか?」も加えられているのです。信じることはできなくても、信じる気になる(be willing to believe)ことは不可知論者にもできるはずなのです。
ジョー・マキューもこう説明しています:
スポンシーには、ステップ2の「大きな力がとらわれから解放してくれること」を信じてみようと提案しよう。スポンシーは、この時点ではまだ信じていなくてもいい。たんに、信じてみようという気になるだけでいいのだ。信じてみようという気持ちにさえなれば、信じることはその後についてくるだろう。ここで、信じることと、わかることの違いをスポンシーに説明しよう。信じるというのは何かを行う前の心の状態のことをいい、わかるというのは実際にそれを行った後で得るもの、真実を認識することである。スポンシーには、自分を超えた大きな力が健康な心に戻してくれると信じる意欲がありさえすればよいと伝えよう。4)
信じること(believing)とわかること(knowing)の違い
ジョーは信じること(believing)と、わかること(knowing)の違いをスポンシーに説明しろと言っていますが、その違いについては短い説明しかしていません。ただし、ジョーは、この違いについて他で繰り返し説明しています。5) (ジョーは他ではわかることを確信(faith)と表現しています)。
ジョーは車の修理やコロンブスを例えに使っていますから、僕も別の例え話を持ち出すとしましょう。
僕がどこかの町へ出かけて、誰かと会う用事があるとしましょう。その用事を済ませた後で、僕はラーメンを食べようと思い立ちます。しかし、初めての町なので、どこにラーメン屋があるのかも、どこのラーメン屋が美味しいのかも知りません。そこで、僕は「この近くに美味しいラーメン屋はありませんか?」と尋ね、相手は「○○軒が美味しいですよ」と教えてくれたとします。
僕はこの時点では、「○○軒のラーメンは美味しい」という100%の確信を持つことはできません。なぜならどんなラーメンを美味しいと感じるかは人それぞれだからです。相手が太鼓判を押してくれても、自分の好みとはぜんぜん違っていることもあります。それでも、僕はその情報を信じてみようという気になります。それは先ほど述べたように100%の確信ではなく、「自分には美味しくないかもしれない」という不安や疑いが混じっています。この段階で、疑いや不安な気持ちを完全に消すことはできません。できるのは推測にもとづいた期待程度です。これが何かを行なう前の信じる(believe)という心の状態です。
そこで僕は、そのラーメン屋へと足を運び、ラーメンを食べるという行動をとります。その結果、そのラーメンが美味しかったとすると、僕は「○○軒のラーメンは美味しい」ということが経験によってわかる(know)のです。食べる前にあった「美味しくないかも」という不安や疑いはすでに消えてなくなり、「○○軒は美味しい」という真実を認識しています。これが確信(faith)という心の状態です。――第44回では歯医者を使った例え話をしました。
これは、ジョーの説明をもとに作った図です。この図で、信じるがステップ2、決心がステップ3、行動がステップ4から11に相当します。6)
何らかの行動の前には、信じるという心の状態がなければなりません。信じることが行動をもたらし、行動が結果を生みます。その結果を得た私たちは、ようやく確信という心の状態に到達することができます。多くの人は、信じることと確信の区別が付いていません。だから、ステップ2で信じることを要求されると、確信が必要だと勘違いしてしまうのです。つまり、疑いがあってはならないと思ってしまうのです。
いきなり確信を得ることはできず、信じることから始めるしかありません。ステップ2でできることも信じることだけです。神が存在するなんて疑わしい気がするし、自分がそれを見つけられるかも分からないし、不安だらけだけれど、ともかく存在すると信じてみるしかないか・・・というのがステップ2に取り組む不可知論者の一般的な心情でありましょう。
- 12ステップは、自分では解決できない問題を、ハイヤー・パワー(神)に解決してもらうためのプログラムである。
- 解決してもらうために、私たちはハイヤー・パワーを見つけなければならない。
- 何かを見つけようとするときには、その前にまずそれが「存在する」と信じなければならない。
- 信じてみようという気持ちになることは不可知論者にもできる。
- 信じることとわかること(確信)は違う。最初から確信を持つことはできない。
- 疑いや不安を持ちながらも、信じてみることが始まりである。
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