AAはナラティブなのか

AA の文献は訳語の揺らぎが激しいという話を書いてきました第14回第18回。これは日本のAAの出版物の大きな欠点です。ただし、AA日本出版局の名誉のために申し添えますと、近年では訳語一覧表が作られています。ある程度の範囲の単語がカバーされているので、今後訳出されるものについては訳語の統一が進むと期待しています。

なぜ日本のAAが訳語の揺らぎに対してそんなに無頓着だったのか(少なくとも過去において)、という疑問を持たれる方もいらっしゃるでしょう。まず、日本のAAの45年の歴史の中で、文献の訳出には複数の翻訳者・編集者が関わってきたために、意思統一ができなかったという理由が挙げられます。ただ、それでも前述のような訳語一覧表を作れば統一できたのにしなかったのは、「あえてしなかった」あるいは「する必要を感じなかった」からではないかと考えられます。では、なぜ必要を感じなかったのか、それが今回の話題です。

ナラティブセラピー

ナラティブセラピー と呼ばれる心理療法があります(社会福祉の分野ではナラティブ・アプローチと呼ばれる)。心理あるいは社会福祉を学んでいれば必ず出てくるトピックの一つです。そして社会学や社会福祉を研究している人たちの中に、AAを始めとした自助グループをナラティブの共同体と見なす人たちがいます。

ナラティブというのは「物語ること」です。具体的には、時系列に沿って、自分に起きた出来事を、他者に向かって話すことです。これは僕らが普段AAミーティングでやっていることでもあります。大事なことは、この物語には意味があり、その意味は繰り返し語るうちに変わり得る、ということです。

例えば「俺は精神病院には入りたくなかったのに、無理矢理入れられたんだ」と家族を恨んでいた人が、「家族が見捨てないでくれたおかげで俺は回復できた。感謝しているし、迷惑をかけたことを悔やんでいる」といったかたちに、自分の経験の意味が変わっていきます。この場合では被害者的立場にいた人が、加害者性を意識するようになったことで、よりバランスが取れたパーソナリティに変わったとも解釈できます。

過去に起こった出来事は変えられませんが、人は自分の経験に物語を通して意味を与えているので、その物語を自ら書き換えることで、経験の意味も変えられるのです。このことは、回復にハンディキャップを抱えている人にとって大きな意味を持ちます。

例えば、幼少時に親から身体的あるいは性的虐待を受け、大人になっても働けない状態の人たちは、そんな自分が無価値な人間だと感じており、自分を大事にできなかったりします。虐待を受けたのは自分に責任がある(無価値な人間だから虐待された)、あるいは虐待されたことで無価値な人間になってしまった、というを解くために、例えば、父も虐待されて育った人であり、自分は父の混乱した人生に巻き込まれただけだ(自分の価値は虐待とは無関係)というように過去の事象を読み替えていきます。そうすることで、自分の幸福を追求しながら生きることが可能になります。思い込まれていた物語(あるいは刷り込まれた物語)ドミナント・ストーリー、新しく作られた物語をオルタナティブ・ストーリーと呼びます。

ドミナント・ストーリーにおいては悲劇の主人公であった人が、オルタナティブ・ストーリーにおいては自らその座を降り、人生を主体的に生きるようになる、というのがナラティブの特徴であろうと僕は見なしています。

ナラティブセラピーは職業的プロが行う心理療法ですが、AAをナラティブの共同体と見なす人びとは、同じ現象がAAのミーティングでも起きていると考えます。

AAはナラティブなのか

起きる変化の大小を問わなければ、AAの中でそうした変化はいつでも起きています。ただ、虐待された人が人生を主体的に生きるようになるというような大きな変化は、参加人数が多くて人の入れ替わりも激しい都会のミーティングよりも、毎週同じメンツが集まって聞き飽きた話を聞かせ合う田舎のミーティングの方が起きやすい気がします。1)

しかし、AAがナラティブの場なのかと問われれば、否と答えるしかありません。ナラティブであれば、オルタナティブ・ストーリーは一人ひとりが自由に作っていくわけですが、AAは「このように語られるべき」という暗黙の一つの型があるので、その点でナラティブとは区別されるべきです。

また、ナラティブセラピーはポストモダン の影響を受けてできたものです。ポストモダンという言葉を流行らせたリオタール (Jean-François Lyotard, 1924-1998)は「ポストモダンは大きな物語の終焉」だと説いたのですが、この「大きな物語」とは人間の理性に信頼を置いた近代の様々な理念(啓蒙主義・マルクス主義など)のことです。しかるにAAは、大きな物語よりさらに古い存在である宗教に端を発しているわけですから、AAをナラティブとして捉えるのは文脈的に無理があるのじゃないか、と思うわけです。

そもそもAAを外部の人が研究するのには困難があります。オープンミーティングに参加してメンバーの話を聞くことはできますが、ミーティングはAAを駆動する両輪の片方に過ぎません。もう一つの車輪である一対一のスポンサーシップは、外部の人間には直接知ることのできない部分です。だからAAを始めとした自助グループをナラティブ(物語)の場と捉えた人たちは、窓から家の中を覗き込んで、見える部分だけ見て論じているようなものです。それは、客間だけ見て、奧の寝室で何が起きているのかを知らずにその家族を語ろうとするようなものではないでしょうか。

AAに限らず自助グループ全般をナラティブの場として捉えようと動きが、どこから始まってきたのか僕は知りません。ただ、日本でAAが広がった20世紀終盤は、ちょうどポストモダン(ポスト構築主義)が隆盛した時期と重なります。「大きな物語」に代わる「小さな物語」の実例を探している人たちにとって、AAというアマチュア集団の中で起こっているパーソナリティの変化は格好の材料だったに違いありません。また、なぜ自助グループに効果があるのかを解き明かそうとする人たちが(12ステップ以外のグループもあるなかで)語りという共通点に着目したのは自然なことでしょう。結果として、自助グループ=ナラティブという言説が支持を広げていった・・というのは僕の想像に過ぎませんが、そこそこの説得力はあろうかと想います。やがてそれは、自助グループとは何かという定義の中にも織り込まれるようになり、現実の自助グループに影響を与えることになったのでしょう。

AAプログラムとナラティブの違い

AAにとってみれば、外部の人たちがAAをナラティブと見なすのは「外部の問題」であって、AAが関与すべきことではありません伝統10。しかし、AAは外部の人たちの協力によって広がってきた面もあります。協力者たちは「AAはかくあるべき」という助言もしてくれたわけですが、その中にはAAの本来のプログラムとは相容れないアドバイスもあったのは確かです。

ナラティブでは「語り」が大事にされれますが、「学び」はそれほど重要視されません。ましてや単語の意味にこだわる姿勢は持ちません。人生の事象に新しい意味を与えるのがナラティブですから、変化しない単一の物語を伝えることには関心は持ちません。むしろより多くの物語を提供することの方に価値を置くでしょう。「本なんか読んだって回復しない」という言葉は、こうした価値観に基づいて、おそらくはAAの外から与えられたもの(本来のAAのものではない)ではないかと思っています。

本来のAAの12ステップ は「学び」を大事にしています。またミーティングでは語ることより聞くことの大切さが説かれます。2)「語り」も重要視はされますが、それは新しい人たちを助けるために情報を伝える手段として重視されており、語ることそのものに価値を置いているわけではありません。

このように考えてみれば、過去にAAの文献を翻訳した人たちが訳語の統一をする必要を感じなかった理由が理解できると思います。彼らは12ステップは「教える/教わる」ものだとは考えなかったし、ビッグブックが教科書であるから教科書のように訳さなければならないとも考えなかったのでしょう。

将来的にもAAからナラティブ的要素が消えてなくなることなないでしょう。なぜなら、ミーティングが自分の体験を語るという形式を取っている限り、大なり小なり過去の経験の捉え直しは起き続けるでしょうから。しかしそれが「アルコホリズムからの回復をもたらすに十分なほどの人格の変化」BB, p.266/570)を私たちにもたらしてくれる、と期待するのは12ステップではありません。

動機の違いは意識されるべき

AAメンバーである私たちの目的は「飲まないで生きていくことであり、ほかのアルコホーリクも飲まない生き方を達成するように手助けすること」3)です。この目的を私たちの動機と言い換えても良いでしょう。AAを応援してくれる人たちや、AAを研究対象とする人たちは、このAAの目的を応援してくれるわけで、大変ありがたい存在です。だが彼らがAAに関わるのには彼らなりの動機があり、それは私たちとは違う動機なのです。例えば、AAを研究対象とする研究者の場合には、自分の学説を補強するためにAAを材料として利用したいというのが動機でしょう。

僕はAAがそのように利用されても構わないと思っています。人と人が協力するとき、それぞれの動機が違っていることはしばしばあります。その関係がWin-Win で双方に利益がもたらされるのなら、動機の違いは問題ではありません(だいたい、アルコホーリクでない外部の人たちが私たちと同じ動機が持てるわけがありません。それでも私たちには外部との協力関係が必要です)。ただ、お互い違った動機を持っていることは、意識されているべきです。

大切なことは、外部の人たちの動機にAAが左右されないようにすることです。ハッキリしていることは、12ステップのプログラムを維持するのは、私たちの責任であること。外部の誰かを頼りにしすぎると、むしろ12ステップの文化が損なわれてしまう可能性があるということです。

ジョー・マキュー(Joe McQ, 1928-2007)はその著書のなかで、AAが外部の影響を受けて効果が失われたと主張しています。4) 彼は1960年代以降のアメリカについて述べているわけですが、僕は日本のAAにも当てはまると思っています(時期はすこし後ろにずれているけれど)。文献の訳語の問題は、その一つの表れにすぎません。

今回のまとめ
  • ナラティブセラピーという心理療法がある。
  • AAを始めとした自助グループを「ナラティブの場」と捉える外部の人たちがいる。
  • AAにはナラティブ的要素が含まれているが、それはAAの一つの要素にすぎない。しかし、自助グループをナラティブの場として捉える考えは、AAに影響を与えている。
  • 外部の人たちは私たちとは違った動機を持っている。
  • 12ステップのプログラムを維持していくのは私たち自身の責任である。

  1. とはいえ、あまり参加人数が少ないと、やはりこの現象は起きない。[]
  2. これを説明するのに「口は一つ、耳は二つ」というユダヤの格言がよく使われる。[]
  3. 序文[]
  4. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『ビッグブックのスポンサーシップ』, 依存症からの回復研究会, 2007, pp.9-15[]

2020-03-05その他,日々雑記

Posted by ragi