ビッグブックのスタディ (61) 解決はある 12

今回は「カール・ユング (1875-1961)なくしてAAは始まらず、12ステップも存在しなかった」という話ですが、それを説明するためには、ユングその人と、彼の心理学について語らねばなりません。しかしそれは浅学菲才の僕の身に余る大役です。そこで説明をAAと関わりの深い部分だけに絞り込むことにしました。ジークムント・フロイト (1856-1939)と対比させながら話を進めて行くことにしましょう。

日本で精神分析 というと、フロイトの学説だけでなく、アルフレッド・アドラー (1870-1937)やユングの学説まで含めることが多いのですが、海外ではもっぱらフロイトの学説のみを指します。アドラーもユングも、ユングとともに活動した時期がありましたが、後に決別し、アドラーは個人心理学 (アドラー心理学)、ユングは分析心理学 (ユング心理学)を創始しました。この三人の学説には、どれも人間の無意識 を扱っているという共通点があります。1) 三人とも、現代の心理療法 やパーソナリティ理論の基礎を作った偉人とされています。

フロイト――精神分析の創始者

Sigmund Freud, by Max Halberstadt
ジークムント・フロイト(1921年頃) by Max Halberstadt, from Wikimedia Commons, PD

フロイトは、1856年にユダヤ商人の息子として生れました。一家は彼が幼い頃にウィーン に引っ越しました。18世紀後半にイギリスで始まった産業革命 は、19世紀にはヨーロッパ各国に波及しました。オーストリア・ハンガリー帝国 の首都であったウィーンでも急速な近代化と人口集中が始まっていました。

フロイトは学校での優秀な成績を認められ、17才の若さで名門ウィーン大学 に入学を許されました。在学中から生理学の分野で研究業績をあげ、兵役で1年中断されたものの、1881年に医学博士を取得して卒業しました。

彼は大学に残ることを希望しましたが、教授の「ユダヤ人 では研究者にはなれない」という忠告によって研究者への道を諦め(経済的理由という説もある)、翌年からウィーン総合病院で医師として働き始めました。当時のヨーロッパにおける反ユダヤ感情反ユダヤ主義 は、その後もフロイトの人生に影響を与え続けました。

わきみち1860年にコカイン の単離が行われ(コカの葉ではない)薬品としてのコカインが入手可能になっていました。フロイトは自分でもコカインを試してみて、その薬理効果を絶賛し、うつ病や喘息など様々な病気の治療に使えると主張しました。さらにモルヒネ依存の友人に治療薬としてコカインを試してみたところ、その友人はモルヒネの使用量は減ったものの、コカインの使用量が増えてしまい、やがて皮膚の下に蛇が這うという感覚(蟻走感というコカイン依存に特有の症状)を訴えるようになりました。他にも同様の患者がいたため、フロイトのコカイン推奨は批判にさらされ、彼はアディクション治療を諦めて別の分野を目指すことにしました。2) 3)

1885年、彼は奨学金を得てパリに留学しました。ヒステリー の治療で有名だったジャン=マルタン・シャルコー (1825-1893)のもとで催眠療法 を学び、帰国後にはその実践者として個人開業をしました。その後、先輩であるヨーゼフ・ブロイアー (1842-1925)自由連想 という手法を取り入れて精神分析 という治療法を作り上げました。

フロイトの関心は、人間の意識的なコントロールの及ばない、知覚もできない無意識という心の深層に向けられていました。しかし、彼の科学観はあくまで唯物論的でした。当時の機械論的唯物論 にもとづいて、物理学のエネルギー保存則 を生理学や精神医学にあてはめ、解放されない性のエネルギーが精神の中に形を変えて存在することが神経症の原因だと考えました。

フロイトにとっては、精神分析学は科学であり、その理論の中に神秘主義の入りこむ余地はまったくありませんでした。また、彼は終生にわたって無神論者でした。神は幼児的な幻想にすぎないと見なし、宗教あるいは宗教的なものに対する拒否の姿勢も一貫していました。バイオリズム という占星術 的な理論を提唱したという理由で長年文通を続けた親友ウィルヘルム・フリースWilhelm Fliess, 1858-1923)との関係を断つほどでした。

そんなフロイトの考えと裏腹に、当時の保守的なドイツ中心の医学界は、フロイトの理論を非科学的と見なして受け入れず、発表の場も与えませんでした。それはフロイトがユダヤ人だったことも関係していたのかもしれません。そんな事情もあって、彼の精神分析の信奉者は、ほぼユダヤ人だけに限られていました。

1900年にフロイトは『夢判断 』という現代でも有名な著作を出版しましたが、初版の600部を完売するのに8年を要しました。フロイトは、自分の創始した精神分析学が、科学として評価を得ず、このままユダヤ人だけのもので終わってしまうことを危惧せざるを得ない状況に置かれていました。

ユングの体験

Carl Gustav Jung's Portrait
カール・グスタフ・ユング,  from Wikimedia Commons, PD

一方の、ユングは1875年にスイスで牧師の息子として生れました(フロイトより19才年下である)。同名の祖父は医師であり、バーゼル大学 の学長も務めた人物でした。ですから、ユングは家は貧しいながらも知識階級に属していました。

ユングの自伝4)には、彼が見た夢や非現実的な空想ヴィジョンの内容がたくさん書かれています。彼にとっては、自分の外側の出来事よりも、そのような内的体験が第一の関心事であり、また後の研究の対象となりました。

12才のとき、その後の彼の人生を左右する重要な出来事がいくつか起こりました。一つは、神経症的な不登校のエピソードです。

学校からの帰り道で、別の少年がユングを突き飛ばし、彼は石の角に頭を打ち付けて失神寸前になりました。それ以来、彼は学校へ行こうとしたり、宿題をやろうとすると、発作を起こすようになりました。しかし、この発作は彼が好きなところへ行くときには起きないのでした。こうして彼は世間から離れて不登校の日々を過ごしたのですが、半年以上過ぎたとき、父親が「医者は息子がてんかんかもしれないと言う。この子は将来自分で生計を立てられないかもしれない」と心配しているのを聞き、自ら発作を乗り越える努力をして学校に戻りました。この一件から彼は、発作が自分の「悪魔的な筋書き」によって起きていることを理解し、そこから「神経症とは何かを教わった」と述べています。5)

同じ年に彼が見たヴィジョンは、その後の彼の人生を決定づける経験となりました。そのときの彼は、自分の思索そのものに苦しんでいました。自分自身の道徳も宗教の戒律も破って、永遠に破滅するような何かをするように、神が彼に命じることはあるのだろうか。そして、自分はその神の意志に従って破滅を選ぶことができるのか、神は見ようとしているのではないだろうか。そんなことがあるのだろうかと思い悩んでいました。そして、「神は私に勇気を示すように望んでおられる」という結論に達して、考えが浮かぶのに任せていました。そのとき・・・:

私は自分の前に大聖堂と青空があるのをみた。神は地球の上のずっと高い所で、黄金の玉座に坐っており、玉座の下からはおびただしい量の排泄物が、きらめいている新しい屋根の上にしたたり落ち、屋根を粉みじんにこわし、大聖堂の壁をばらばらにこわすのである。6)

神のために建てられた大聖堂を神が滅ぼすのを見て、ユングは破滅がやって来るのを予想しましたが、代わりにやってきたのは神の恩寵と救いでした。神の容赦のない命令に屈服できたことを知った彼は、幸福感と感謝で満たされていました。

彼はこの経験を83才で自伝に書くまで人に話しませんでした(自伝は死後に出版された)。彼はこの経験を回心とも霊的体験とも表現していませんが、後年になって宗教と心理学を論じるとき、この種の体験を「直接体験」と呼んでいます。

この体験が彼を宗教に熱心にさせたわけではなく、むしろ逆の結果となりました。彼の父親は牧師であり、父方にも母方にも多くの牧師がいて、彼らの説教や神学的議論を聞く機会はたくさんありました。しかし、彼らは神の直接の体験を持たず、恩寵の秘密を知らないがゆえに、彼らの言葉はユングにとって空疎なものでした。とは言え、彼らは善良で信心深い人々なのでした。宗教書でその秘密を調べてもみつからず、期待していた堅信礼 も日常的な儀式として過ぎてしまったとき、彼は宗教に対して疑念と失望を持つようになっていました。

1989年に出版された『心理学と宗教』は、ユング全集の第11巻「東西の宗教の心理学」から何編かを抜き出したものですが、その翻訳者でユング心理学者の村本詔司 (1947-)が「訳者あとがき」でこう書いています:

牧師の息子として生まれ育ったユングにとって、キリスト教は、父親を通じて耐えがたい幻滅の源泉であったにもかかわらず、あるいはそれゆえに、一生かかってその意味を追求しなければならない、いわば宿命のようなものであった。はじめにユング心理学があってそれがキリスト教に当てはめられたものではなく、反対に、はじめにキリスト教があってその謎を解明するためにユング心理学が生まれ、展開したといっても必ずしも言い過ぎではない。いわば、彼の心理学は、キリスト教に対する彼なりの応答なのである。7)

ユングはその頃の自分にあった二つの指向について述べています。一つは、事実を知るための自然科学への関心。もう一つは、人文科学、そのなかでも比較宗教学に関係するあらゆることがら(考古学、エジプトやローマなどの古代史、哲学、霊的なこと・・・)。結局彼は、自然科学を選び、生計を立てるために医師になる道を選んで、奨学金を得てバーゼル大学に進学しました。

彼はゲーテ (1749-1832)の『ファウスト』を読んだり、またニーチェ (1844-1900)の『ツァラトゥストラはかく語りき』を愛読したりした8)結果として、ロマン主義 の影響を受けました。ロマン主義が全盛だったのはユングが生きた時代より一世紀ほど前ですが、それは理性を重んじた教条的な合理主義啓蒙主義 への反発として、人間の主観を大事にし、神秘主義 やオリエンタリズムという題材を好んで取り上げました。

彼の父親が東洋学に造詣が深かったことや、また母親の家系には有名な霊能者がいたことも、彼に神秘主義を受け入れる素地を作ったのでしょう。9) 後年彼は、霊媒や錬金術といったオカルト や、ヘレニズム グノーシス主義 、アジアの文化マンダラ 、アフリカやアメリカの原住民の文化に関心を向けるようになるのですが、その素地は、彼の父母の養育と血筋のなかに見て取れます。

このようにして彼は、一つは科学への、もう一つは神秘的なものへ、という二つの指向を内面に抱えることになりました。ですから、彼が科学と主観的な自分自身との一致点として精神医学を選んだのはごく自然なことだったと思われます。大学に入って1年後に父親が亡くなったことで経済的苦境に陥りましたが、父方の親戚から借金をして学業を続け、なんとか卒業することができました。

ブルクヘルツリ時代

Klinik Burghölzli um 1890
ブルクヘルツリ精神病院 1890年, from Wikimedia Commons, PD

彼が大学に残らずに、卒業後すぐにチューリヒ大学のブルクヘルツリ精神病院Burghölzliに勤めたのは、経済的自立と借金を返済する必要があったからでした。ここで彼は、オイゲン・ブロイラー (1857-1939)の助手になりました。ブロイラーは、それまで早発性痴呆と呼ばれていた病気に、スキゾフィレニア統合失調症 という名前を与え、病気の概念を変え、患者に人道的な治療を行った業績で知られています。

ブロイラーの薫陶を受けたユングは、精神病患者の妄想に耳を傾け、その意味を理解しようとしました。ここで主に統合失調症の患者を相手にしたことが、主に上流階級の女性の神経症患者を診ていたフロイトとの方向性の違いを作り出したのでしょう。

1902年から03年、彼はパリに留学し、ピエール・ジャネ (1859-1947)から無意識の概念を学びました。(これはフロイトのパリ留学の17年後のことで、ジャネはフロイトが学んだシャルコーの弟子でした)。ヴィルヘルム・ヴント (1832-1920)のもとに留学していた同僚が、言語連想という手法を持って帰ってきたので、ユングはこの言語連想法を使えば、無意識の中にあるものを突き止められるのではないかと考え、実験に熱中しました。

その結果、彼は無意識の中のコンプレックス (心的複合体)という概念を作り上げました。その業績が認められ、ユングは若くしてチューリヒ大学の講師や、ブルクヘルツリ病院の医局長という地位を得ることになりました。

ユングは、ブロイラーの勧めでフロイトの『夢判断』を読み、夢は無意識の動きの表れであり、それを分析することで無意識を探求できるというフロイトの意図を理解しました。こうしてユングはフロイトに私淑し、自分の論文をユングに送ることで、二人の交流が始まっていきました。

蜜月と決別

Sigmund Freud, Stanley Hall, Carl Gustav Jung, Abraham Arden
クラーク大学にて、前列左から、フロイト、ホール、ユング, from wellcome collection, through Wikimedia Commons

1907年にユングがフロイトのもとを初めて訪れたとき、二人は休みなく13時間も話し続けました。しかし、二人の蜜月は長くは続きませんでした。1909年には、アメリカの心理学者スタンレー・ホール (1846-1924)からの招待を受けて、クラーク大学Clark Universityでの講演に一緒にでかけていますが、すでにこの頃から二人の間には亀裂が生じていました。10)(ちなみに、この講演時に、二人はウィリアム・ジェームズ と交流している)。

1911年には国際精神分析協会 が設立され、その初代会長にユングが就任しました。フロイト自身が会長にならなかったのは、彼がユダヤ人であったことが支障になったのだそうです。フロイトにとっては、プロテスタントという出自を持ち(つまり非ユダヤ人で)、若くして業績を上げているユングの存在は、頼もしく感じられたことでしょう。しかし、そこまで篤い信頼を受けていたユングも、1914年にはフロイトと決別することになりました。ちなみに、一時期フロイトとともに活動したアドラーも、1911年に決別して去っています。

なぜ、アドラーとユングはフロイトから別れたのか? 一つには、フロイトの性理論への反発がありました。フロイトの考えでは、神経症は患者の幼児期における親への近親相姦的な願望(性欲)によるものと考えました。これに承服できないアドラーは、性欲ではなく権力欲を中心に据え、人は常にその場における権力の座につこうとすることが原因と考えました。

ユングは、フロイトの性理論にも、アドラーの「権力への意思」にも価値があることを認めながら、彼自身は別の方向へ向かいました。

神話研究

あるとき、ブルクヘルツリ病院の患者が、太陽を見上げながら、太陽にしっぽ11)があると言いました。太陽を見ながら首を振ると、そのしっぽが動き、それが風が起こる原因だと言うのです。これを妄想といって片付けるのは簡単です。ところが、この報告がユングの元に届いたとき、彼はたまたまミトラ教についての文献を読んでいました。

ミトラ教 は古代ローマ時代に栄えた秘密儀式を行う宗教です。ユングの読んでいたその文献には、その儀式の説明がありました。儀式の参加者は太陽を見るように促され、太陽にはしっぽがあって、それが右に振れれば東風が、左に振れれば西風が吹くことが分かるだろうとありました。この文献はギリシャ語で書かれており、患者がその内容を知るはずがありませんでした。12)

これを偶然の一致と考えることもできますが、ユングはそう考えませんでした。無意識の中にあるコンプレックスは、その人の過去の経験が作ったものです。しかし、太陽のしっぽについて述べた患者がミトラス教のことを知るはずがありません。彼は、神話や古代の伝承には、人類に共通した無意識が反映されているに違いないと考え、神話を研究し、古墳やミイラなどの考古学的なものへの関心を強めていきました。唯物論的価値観を持つフロイトには、ユングのこの古代指向は受け入れられないものでした。

ユングがフロイトと最後に会ったのは1913年、翌14年には国際精神分析協会もやめてしまいました。

危機の時代

フロイトと別れたユングは孤独になりました。チューリヒ大学の講師も、ブルクヘルツリ病院もやめてしまい、開業した自分を頼ってくる患者を診るだけになっていました。彼の支持者は身内だけになり、精神的な危機に陥りました(ユング自身の言葉によれば「創造的な病」であった)。その危機は、第一次世界大戦 と重なって数年間続きました。その間に彼が得たイメージを書き付けたノートが7冊できました。後年それを赤の大判のノートにカリグラフ で清書し、極彩色の絵を添えたのが、あの有名な『赤の書 』です。

The Red Book (Liber Novus) by C. G. Jung, resting on Jung office desk.
赤の書, by Lance S. Owens, from Wikimeda Commons, CC BY-SA 3.0
Illustration called Centering Mandala in The Red Book at the Jung center in Brunswick
赤の書のマンダラ, by John Patriquin, from gettyimages

そして、1921年には、『元型論 』を出版しました。

ユング心理学における意識の構造

ユングによる意識の階層上は、ユング心理学における意識の構造の図です。フロイトの図よりもシンプルな構造になっています。どちらも、人間の精神を意識無意識に分けています。無意識とは、文字通り「意識することができない領域」です。そして、意識よりも無意識の領域のほうがずっと大きい(氷山の90%が水面下にあって見えないように)という点も共通しています。

ユングの概念に特徴的なのは、無意識が個人的無意識と普遍的無意識 (集合的無意識・種族的無意識)の二つに分かれているところです。

個人的無意識は、その人の経験によるものです。コンプレックスはこの領域に存在することになります。なぜなら、コンプレックスとはその人の過去の経験によって作られるものだからです。つまり後天的なものです。

しかし、前述の太陽のしっぽのように、経験も知識も無いものはコンプレックスにはなり得ません。そこで、より深いところに、他の人間とも共通した普遍的無意識(集合的無意識)が存在しているとユングは考えました。これは先天的に、すなわちすべての人が生れながらに持っているものです。普遍的無意識は、直接意識することはできないものの、その中に存在する元型(archetype・アーキタイプ)は、夢やファンタジーのなかに現れるイメージとして認識されます。このイメージを原始心像(primordial image)と呼びます。世界中の様々な民族の祖先が、さまざまな時代に産みだした神話は、たいていは自然現象を人格を持った超自然的な存在が引き起こしていると考えますが、それも原始心像でしょう。

そして意識の中心にあるのが自我(Ego)であり、意識と無意識を合わせた精神全体を自己(Selbst)としています。治療は意識と無意識を統合し、全体性を回復することに主眼が置かれます。

ユングとAA

ユングは、人生には物質的な目標を達成するだけではない、スピリチュアルな目的があると考えていました。彼の主張した個別化(individuation)は、それぞれの人が生まれつき持っている秘められた可能性を見つけて実現させることですが、そのためには、自我や経験や元型が一つに統合されなければなりません。

彼は宗教の研究を通して、すべての宗教の神秘的核心に、この個別化のプロセスが備わっていると考えました。13) 彼は自分の分析心理学を科学と位置づけつつも、「宗教的な癒やし」を否定せず、一定の敬意を払っていました。(だからこそ、ローランドに宗教的回心という最後の希望を提示することができたのでしょう)。

ビル・Wはこう書いています:

そのころ、現代精神医学はちょうどその幼少期を過ぎ、素晴らしい進歩をとげつつあるものとして、世界的な注目を浴び始めていた。人間の無意識の内部にある心の神経と動機との探究は、このころすでに最盛期だった。
 精神医学のいくつかの学派を代表する探究者たちの間には、この新しい発見の真の意味をめぐって、当然、かなりの意見の相違があった。一方でカール・ユングの弟子たちは宗教的信仰に価値と意味と現実性とを認めていたが、当時の精神医学者の大多数はたいてい、ジークムント・フロイトの説を固守していた。その説とは、宗教は人間の未熟さゆえの苦しみを和らげる空想であり、人が近代学問の光の中で成長したときには、もはやそのような支えは必要としないであろう、というものだった。14)

AAにでは、ローランドがユングの治療を受ける前に、フロイトやアドラーを頼ったという伝承も存在します(どちらも忙しすぎてローランドの治療を引き受けなかったというオチがつく)。ジョー・アンド・チャーリーにもこの話が取り上げられています15)が、実際にはローランドはまっすぐユングの所へ行きました(次回取り上げる予定)。だが、もしローランドがフロイトのもとへ行っていたら、今ごろAAは素人精神分析家の集まりだったろうし、もしローランドがアドラーのところへ行っていっていたら、今ごろ私たちはアドラー心理学サークルのアディクション部門だったろう・・というジョークは成り立つかもしれません。

ビッグブックは、それぞれの人の精神の一番深いところに、その人の意思とは別の「神の意志」が生れつき存在していてBB, p.80-81)、自分の意志を神の意志に一致させていくことで、それぞれの人に与えられた(個別の)生きる目的を達成していけると説いています(pp.124-126)

ビッグブックを書いたビル・Wが、「内なる神」という概念をどこから得てきたのかは明らかではありません。ユング以外のソースがあった可能性は十分にあります。(ビッグブックの出版以前にドクター・ボブたちアクロンのメンバーが使っていた書籍の一つがエメット・フォックスEmmet Fox, 1886-1951)の The Sermon on the Mount: The Key to Success in Life. (1934) だった。16) フォックスは「神性は各人の内に宿る(divinity dwells within each person)」という教義を持ったニュー・ソート の創始者だった)。

ユングはローランドに霊的体験という宗教的治癒の可能性を提示したのみで、AAとの直接の接点を持ちませんでした。唯一、ユングが亡くなる直前の、1961年1月にビル・Wとユングのあいだで書簡の往復があったのみです。ビル・Wはその手紙の中で、AAメンバーたちがユングの Modern Man in Search of a Soul (1933) を読んだと述べています。彼は、ビッグブックと『成年に達する』を同封しました。ユングは返信で、ビルたちがユングの意図を正しく理解していることに感謝を述べました。17)

こうしてみると、ユングがAAに幅広く影響を与えたとは言いにくいものがあります。しかし、やはりそれはユングでなければならず、彼以外ではAAは始まらなかったでしょう。なぜなら、霊的体験という希望を提示できるのはユング学派の人々のみ、そのなかでも彼以外にはいなかったであろうからです。

しかし、ユングがローランドに対して絶望的という見立てをし、最後の希望として霊的体験を提示したというストーリーからは、いくつもの疑問が浮かんできます。ユングはすべてのアルコホーリクを絶望的とみなしていたのか。だとしたらその理由は何か。それともローランドのような一部の者だけを絶望的と見なしていたのか。その場合にはどうやってそれを判断していたのか・・・。そもそも、ローランドがユングの治療を受けたことにも疑問をなげかける歴史家もいます。次回は、そのあたりを取り上げます。

今回のまとめ
  • 精神分析を創始したフロイトは、無神論者であり、宗教的なものを拒否していた。
  • ユングも科学者として人間の精神の解明に取り組んだが、生まれ育った環境や少年時代の経験から、宗教に関心を寄せ、その意味を明らかにしようとしていた。
  • 回復の見込みのないアルコホーリクに対して、宗教的体験による回復の可能性を示すことができた精神科医は、ユングだけであっただろう。


  1. 河合隼雄『ユング心理学入門』, 培風館, 1967, p.19 []
  2. ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, pp.108-109 []
  3. 佐藤光源他編『薬物依存』, 世界保健通信社, 1993, pp.201-202 []
  4. ヤッフェ編(河合隼雄他訳)『ユング自伝―思い出・夢・思想― 1』, みすず書房, 1972 []
  5. ibid., pp. 53-56. []
  6. ibid., p.66 []
  7. C・G・ユング(村本詔司訳)『心理学と宗教』, 人文書院, 1989, p.457 []
  8. ヤッフェ, pp.133-135 []
  9. 秋山さと子『ユングの心理学』, 講談社, 1982, pp.24-26. []
  10. ibid., pp.54-56 []
  11. 河合は「ペニス」と訳している(p.94)。ペニスにしろ、しっぽにしろ、何か細長いものがぶらさがっているのであろう。 []
  12. 秋山, pp.41-42 []
  13. ユング, pp.9-65 []
  14. AACA, p.4 []
  15. Joe McQ. and Charlie P., Joe & Charlie: The Big Book Comes Alive, 2014, p.59 []
  16. DBGO, p.220 []
  17. Bill W., The Language of the Heart: Bill W.’s Grapevine writings, AA Grapevine, 1988, pp.276-281 []