カール・ユング
カール・ユング — Carl Jung

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)。スイスの精神科医・心理療法家。心理療法理論として分析心理学 を創始した。アメリカ人のアルコホーリクの患者ローランド・ハザードに対して、アルコホーリクが霊的体験によって回復しうることを伝えた。AAの創始者ビル・Wによれば、1931年頃に行なわれたこの会話が、AA創始の発端となった。ビッグブックの第二章に「高名な医師」として登場する(第二版以降はこの医師がユングであることが明記された)。
1875年スイスのプロテスタント(改革派)牧師の息子として生れた。同名の祖父は、医師であり、バーゼル大学 の学長も務めた人物だった。
ユングは少年の頃から、自分の外側の出来事よりも、内的な体験に関心を向けていた。生涯にわたってそれを研究対象とした。当時の内的体験のなかには神に関する直接的な体験が含まれており、それによって彼は父親や牧師の叔父たちが行なっている宗教に対して疑念と失望を持つようになっていった。1) その結果、彼は牧師の職を継がずに医師として生計を立てる道を選んだ。
ユングは、ゲーテ (1749-1832)やニーチェ (1844-1900)の著作に親しんだ結果として、ロマン主義 の影響を受けた。ロマン主義は理性を重んじた教条的な合理主義(啓蒙主義 )への反発として、人間の主観を大事にし、神秘主義 やオリエンタリズムという題材を好んで取り上げていた。また、父親が東洋学に造詣が深かったことや、母親の家系には有名な霊能者がいたことも、彼に神秘主義を受け入れる素地を作った。2) こうしてユングは、科学への指向と同時に、神秘的なものへの指向を持つようになった。
奨学金を得てバーゼル大学に進み、卒業後すぐにチューリヒのブルクヘルツリ精神病院(Burghölzli)に勤め、オイゲン・ブロイラー (1857-1939)の助手となった。1902年から翌年にかけて、パリに留学しピエール・ジャネ (1859-1947)から無意識について学んだ。同僚がヴィルヘルム・ヴント (1832-1920)から学んできた言語連想法を使い、人間の無意識の中にあるものを突き止めようと実験を重ねた結果、無意識の中に存在するコンプレックス (心的複合体)という概念を作り上げた。
フロイトとの関係
このころすでにジークムント・フロイト (1856-1939)は精神分析 という治療法を確立していた。ブロイラーの勧めで、ユングは自分の論文をフロイトに送るようになり、二人の交流が始まった。1907年にユングがフロイトのもとを初めて訪れたとき、二人は休みなく13時間も話し続けた。1911年には国際精神分析協会 が設立され、その初代会長にユングが就任した(フロイトが会長にならなかったのは、彼がユダヤ人 だったことが支障になったという)。しかし、二人の信頼関係は長く続かず、1914年にユングはフロイトと決別した。
決別の理由の一つは、フロイトの性理論への反発があった。フロイトの考えでは、神経症は患者の幼児期における親への近親相姦的な願望(性欲)によるものと考えた。同時期にフロイトと活動したアルフレッド・アドラー (1870-1937)は、性欲ではなく権力欲を中心に据え、人は常にその場における権力の座につこうとすることが原因と考え、やはりフロイトと決別して個人心理学を創始した。
ユングは、フロイトの性理論にも、アドラーの「権力への意志」にも価値があることを認めながら、独自の分析心理学 (ユング心理学)を作り上げた。フロイト、アドラー、ユングの心理学には、どれも無意識を扱っているという共通点がある。
ユング心理学における意識の構造
ユングの心理学における意識の構造は、フロイトのものよりシンプルな構造になっているが、どちらも人間の精神を意識と無意識に分けている。無意識とは、文字通り「意識することができない領域」であり、意識よりも無意識の領域のほうがずっと大きい(氷山の90%が水面下にあって見えないように)という点もフロイトの考えと共通している。
ユングの概念に特徴的なのは、無意識が個人的無意識と普遍的無意識 (集合的無意識・種族的無意識)の二つに分かれている点である。
個人的無意識は、その人の経験によるもので、コンプレックスはこの領域に存在する。なぜなら、コンプレックスとはその人の過去の経験によって作られる後天的なものだからである。そして、より深いところに他の人間とも共通した普遍的無意識(集合的無意識)が存在している。これは先天的なもの、すなわちすべての人が生れながらに持っているものである。普遍的無意識は、直接意識することはできないものの、その中に存在する元型(archetype・アーキタイプ)は、夢やファンタジーのなかに現れるイメージとして認識される。
そして意識の中心にあるのが自我(Ego)であり、意識と無意識を合わせた精神全体を自己(Selbst)としている。治療は意識と無意識を統合し、全体性を回復することに主眼が置かれる。
ユングとローランドとの会話
ユングとローランド・ハザードとの会話は、ビッグブックの第二章に書かれている(BB, pp.39-42)。それによると、ユングの治療を受けたローランドは、ユングの元を離れてしばらくすると飲酒に戻ってしまった。ユングを信頼し、その治療によって回復したことに自信をもっていただけに、自分が再発したことがローランドには信じられなかった。そこで、ふたたびユングを訪れ、自分はなぜ回復できないのか尋ねた。それに対してユングは、ローランドはいかなる医学的・精神医学的治療によっても回復の見込みがない絶望的状態に至っていること、唯一希望があるとすれば、それは宗教的あるいは霊的な体験(すなわち回心)を得ることだけだと伝えた。ユングの助言を受け入れたローランドは、宗教的環境としてオックスフォード・グループを選び、そこで霊的体験を得て回復した。3) そして、ローランドは1934年の夏に、アルコホーリクの知人エビー・Tの回復を手助けした。11月末はにエビーがビル・Wを訪問し、ユングの話やオックスフォード・グループの教義の一部をビルに伝え、それによってビルが霊的体験を得て回復した。
ユングがローランドに示した「アルコホーリクが霊的体験によって回復しうる」という考えは、エビーを通じてビル・Wへと伝わり、やがてAAの12ステップのステップ2に反映されることになった。
ユングとAA
ユングは、人生には物質的な目標を達成するだけではない、スピリチュアルな目的があると考えていた。彼は自分の心理学を科学と位置づけつつも、宗教の神秘的核心には、彼の主張した個別化(individuation)――それぞれの人が生まれつき持っている秘められた可能性を見つけて実現させること――を行なうプロセスが備わっていると考え、「宗教的な癒やし」を否定せず、一定の敬意を払っていた。4) 5)
ビル・Wはこう書いている:
そのころ、現代精神医学はちょうどその幼少期を過ぎ、素晴らしい進歩をとげつつあるものとして、世界的な注目を浴び始めていた。人間の無意識の内部にある心の神経と動機との探究は、このころすでに最盛期だった。
精神医学のいくつかの学派を代表する探究者たちの間には、この新しい発見の真の意味をめぐって、当然、かなりの意見の相違があった。一方でカール・ユングの弟子たちは宗教的信仰に価値と意味と現実性とを認めていたが、当時の精神医学者の大多数はたいてい、ジークムント・フロイトの説を固守していた。その説とは、宗教は人間の未熟さゆえの苦しみを和らげる空想であり、人が近代学問の光の中で成長したときには、もはやそのような支えは必要としないであろう、というものだった。6)
ユングはローランドに霊的体験という宗教的治癒の可能性を提示したのみで、AAとの直接の接点を持たなかった。唯一、ユングが亡くなる直前の、1961年1月にビル・Wとユングのあいだで書簡の往復があったのみである。ユングは返信で、ビルたちがユングの意図を正しく理解していることに感謝を述べた。7)
参照:
・ビッグブックのスタディ (61) 解決はある 12
・ビッグブックのスタディ (62) 解決はある 13
・ビッグブックのスタディ (63) 解決はある 14
・ビッグブックのスタディ (64) 解決はある 15
・付録C 「ビル・Wとカール・ユング医師との往復書簡」
・ビル・Wに問う (34) カール・ユングの寄与
外部リンク:
・カール・ユング
・日本ユング心理学会 (JAJP)
・一般社団法人日本ユング派分析家協会
・ISAP (International School of Analytical Psychology) ZURICH
・C.G. Jung-Institut Zürich
- ヤッフェ編(河合隼雄他訳)『ユング自伝―思い出・夢・思想― 1』みすず書房, 1972, Ⅰ章・Ⅱ章.[↩]
- 秋山さと子『ユングの心理学』, 講談社, 1982, pp.24-26.[↩]
- Bill W., Bill W.: My first 40 years, Hazelden, 2000, pp.125-126.[↩]
- C・G・ユング(村本詔司訳)『心理学と宗教』, 人文書院, 1989, pp.9-65.[↩]
- C・G・ユング(葛西賢太訳), シンボル的な生 -『ユング研究』第6巻, 日本ユング研究会編・名著刊行会, 1993, p.159.[↩]
- AACA, p.4.[↩]
- AA Grapevine, The Language of the Heart: Bill W.’s Grapevine Writings, AA Grapevine Inc., 1988, pp.276-281 – 付録C 「ビル・Wとカール・ユング医師との往復書簡」.[↩]
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