ビッグブックのスタディ (62) 解決はある 13

1931年の会話

スイスのチューリッヒで行われた、ローランド・ハザードカール・ユング医師との会話BB, pp.40-41)がAAの発端となりました。そこから、様々な出来事が連鎖して起こり、最終的にAAという団体ができあがりました。

二人の会話はビッグブックの第二章に書かれているにも関わらず)AAの初期にはあまり注目されていなかったようです。当時のAAは、オックスフォード・グループとの関係やエビーのスポンサーの存在など、自らの出自を曖昧にする戦略を採っていました。

方針が明らかに変更されたのは1955年でした。この年に出版されたビッグブックの第二版で、この精神科医がカール・ユングであることが明記されました(p.39, 第60回。また、この年に行われたAA20周年記念のコンベンションでのビル・Wの講演をまとめた書籍『AA成年に達する』でも、ユングの名が挙げられています。ただし、ローランドの名はどちらにもなく、エビーの友人と表現されています。

ビル・Wは自伝のなかで、ローランドがユングの治療を受けたのはおそらく1930年のことで、このときローランドはユングのもとに一年間滞在し、治療を終えてこの医師のもとを離れて数週間後再発し、ユングのところに戻った時にこの会話が行なわれたとしています。1)

1961年1月に、ビル・Wとユングのあいだで書簡の往復がありました。(この時に出した手紙では、ビルは会話があった時期を1931年ごろとしています)。ユングはビルからの手紙への返信のなかで、この会話があったことを認めました。この往復書簡がAAの月刊誌 AA Grapevine の1963年1月号に掲載されたことで、ローランドとユングの会話は歴史的事実とみなされるようになりました。

『AA成年に達する』では、会話があった時期を1930年としています。

一九六一年 ビル、カール・ユング博士と手紙を交換。一九三〇年のユング博士のあるアルコホーリクへの援助が、後日、AA形成の第一投階と見られるようになる2)


1961 Bill’s exchange of letters with Dr. Carl Jung. In 1930, Dr. Jung’s help to an alcoholic later seen as first step in the formation of A.A.3)

AA歴史家の多くは、この会話があった時期を1931年とみなしています。アーネスト・カーツ(Ernest Kurtz, 1935-2015)も著書『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』で、このエピソードの時期を1931年とし、ユングの返信を一次資料として挙げています。4)(なので、カーツの書籍をもとに作成したこの図も、1931年としました)。

疑念

20世紀末になると、AAの歴史のミッシングリンク を埋めようとするAA歴史家たちの活動が活発になりました。そのなかで、ローランド・ハザードに関心を持って調べたのがワリー・P(Wally P.)でした。彼はAA初期のビギナーズ・ミーティングを復刻した『バック・トゥ・ベーシックス』の著者として知られていますが、それも彼のAA歴史家としての活動の産物でした。

The Rhode Island Historical Society Mary Elizabeth Robinson Research Center
ロードアイランド歴史協会のリサーチセンター from The Rhode Island Historical Society

ワリーは、ロードアイランド歴史協会Rhode Island Historical Societyが収蔵しているハザード家の文書(Hazard Family Papers)を調査しました。そしてその調査は協会の学芸員だったリック・スタットラー(Rick Stattler)に引き継がれました。スタットラーは、調査の結果、ローランドがユングの治療を受けたという確証を得ることはできず、1930年から34年の間に治療を受けたのだとしたら、それは数週間という短い期間だったはずだ、と結論づけました。さらに、ローランドが1933年以降に回復者セラピストのコートニー・ベイラー(Courtenay F. Baylor, 1870-1947)による治療を受けたことも指摘しました。この情報はウィリアム・ホワイトWilliam L. White, 1947-)が1998年に出版した『米国アディクション列伝』に記載したことで広く共有されました。5)

The Road to Fellowship
The Road to Fellowship

2004年には、ウィスコンシン大学 のコミュニケーション学の教授リチャード・デュビエル(Richard M. Dubiel)がその著書 The Road to Fellowship のなかで、さらに詳しい報告を行いました。この本は、その副題The Role of the Emmanuel Movement and the Jacoby Club in the Development of Alcoholics Anonymousにあるとおり、エマニュエル運動とジャゴビー・クラブがAAの創始に与えた影響についての研究書です。

エマニュエル運動Emmanuel Movementは、エルウッド・ウォーセスター(Elwood Worcester, 1862-1940)とサミュエル・マッコーム(Samuel McComb, 1866-1930)という二人の聖公会 の牧師(二人とも博士)が1908年にボストンのエマニュエル教会Emmanuel Episcopal Church, Bostonで始めた運動です。彼らは教会にクリニックを併設し、困窮者の肺結核の治療を行ないました。やがてその中にアルコール問題を抱えた人が多いことがわかり、アルコホーリクのために、医療と宗教と心理カウンセリングを統合した治療を提供するようになりました。

コートニー・ベイラー from Emmanuel Church

エマニュエル運動では素人レイセラピスト(lay therapist)たちが心理カウンセラーとして活躍しました。素人(lay)とは医師や心理師としての資格を持たない人々を意味しています。彼らのなかで最も有名なのが、前出のコートニー・ベイラーです。ウォーセスターが1931年に引退すると、事業はベイラーが引き継ぎました。また、運動の最初の頃からクリニックの地下室を使ってジャコビークラブ(Jacoby Club)というアルコホーリクたちのクラブが活動していました。このクラブは別名を「他の人を救うことで自分自身を救う人たちのクラブ」として、相互援助の活動を行っていました。

デュビエルはコートニー・ベイラーの活動について述べるなかで、彼がローランド・ハザードを治療したことを扱っています。デュビエルも、リック・スタットラーの協力を得てロードアイランド歴史協会のコレクションを調査しました。それによると、ハザード家の文書のなかにローランド自身の手紙はほとんど残されておらず、他の家族メンバーの間の手紙でも、彼の飲酒の問題は遠回しに語られているのみなのだそうです。これは、一家がローランドの個人的な事柄を(一家の恥として)手紙でも言及することを控えていたからだ、とデュビエルは推測しています。6) これはユングによる治療も含めてローランドの飲酒に関する情報が、意図的にこのコレクションから外されている可能性を示唆します。

しかし少なくとも、1930年から33年初頭までの間のローランドの所在は十分文書に残されており、彼が長期間チューリッヒに滞在できたはずがないのは明らかでした。また、1933年後半から34年までは、事業を親族に任せ、彼自身では小切手の振り出しができないようにして(実質的に禁治産状態で)、バーモント州に滞在していたことが分かっています(この時期にベイラーの治療を受け、エビー・Tを助けていた)

彼がこの期間にヨーロッパに出かけたのはただ一回だけ、1931年の6月から9月にかけての2カ月あまりですが、これは夫妻が子供たちを連れての家族旅行だったことが分かっています。しかもその間にローランドの所在が分からないのは2週間だけであることから、スタットラーは「彼がチューリッヒで2週間以上過ごせたとは考えにくい」としています。

デュビエルは、ローランドとユングの接触があったことを否定するものではない、としながらも、接触があったとしても、それはごく短いものであったはずで、AAのなかでは接触の長さも密度も誇張されて伝わっていると主張しました。7)

ワリー・P、スタットラー、デュビエルの調査によって、ローランドがユングの治療を受けたことについては、かなりの疑念が生じました。

もし、ユングとの会話がなかったとするならば、ローランドはなぜオックスフォード・グループに加わったのでしょうか。デュビエルは、1933年時点でローランドが滞在していたバーモント州は、エマニュエル運動の本拠地であるボストンから距離が離れていたため、ベイラーはその代替案としてローランドにオックスフォード・グループを勧めたという可能性を挙げています。8)

1926年だった

2006年に History of Psychology という学術誌に、エイミー・コルウェル・ブルーム(Amy Colwell Bluhm)の論文が掲載されました。9) (この論文でブルームは肩書きを Independent Practice(独立開業)としています――これはサイコロジストが好んで使う肩書きのようです)。当時ブルームは、チューリッヒの初期のユンギアン(ユング派)サークルのメンバーだったキャロル・ソーヤー・バウマン(Carol Sawyer Baumann, 1897-1958)の生涯を再構成するという研究に取り組んでいました。10)

ブルームが自分の研究のためにロードアイランド歴史協会に調査に出かけようとしていた日の朝、ワシントンポスト紙を読んでいると、そこにはスーザン・チーバーSusan Cheever, 1943-)によるビル・Wの伝記11)の書評が掲載されていました。書評の中にローランド・ハザードの名前があるのを見つけたブルームは、その名前に見覚えがありました。

調べてみると、ローランドは、キャロル・ソーヤー・バウマンの従兄弟でした。さらに、この二人の共通の従兄弟にレオナルド・ベーコンLeonard Bacon, 1887-1954)という詩人がいました。

ブルームは調査の対象をロードアイランド歴史協会だけでなく、イェール大学 のバイネッケ希少本・原稿ライブラリBeinecke Rare Book and Manuscript Libraryにまで広げました。はたして、そのライブラリには、チューリッヒでユングの分析を受けている真っ最中のローランドがレオナルド・ベーコンに宛てて出した手紙が収蔵されていました。

結論を言うと、ローランドがユングによる分析を受けたのは、1931年(あるいは1930年)ではなく、1926年でした。ローランドと妻ヘレンはこの年の5月6日にチューリヒに到着し、その翌日にローランドは助手のトーニ・ヴォルフToni Wolff, 1888-1953)の初回面接を受け、次の日から「休日を除く毎日一時間をユングと過ごしている」と書いています。ローランドがレオナルドに手紙を書いたのは、ユングを紹介したのがレオナルドだったからです。ブルームは分析の終結がいつだったのかは不明としていますが、ローランドが手紙に「感謝祭 の頃には戻る」と書いていることから、6カ月程度続いた可能性があるとしています。

翌1927年9月、ローランドはアフリカ旅行に出発しました。親族間の手紙のやりとりからは、アフリカ滞在中に彼に何らかの「病気」が起こり、その救援のためにレオナルドが派遣されたことが分かります。レオナルドが自伝のなかで、「自分の問題ではないトラブルに巻き込まれて、1928年春に再びヨーロッパに行った」12) と述べていることもこれを補足します。この「病気」が何であるかは明らかでないものの、これがローランドのアルコホリズムの再発であるならば、アフリカからの帰路でローランドがチューリヒのユングに会いに行った可能性がでてきます(だとすればその時期は1928年春)

ともあれ、ユングによる治療が1926年に行われたことは確実となりました。ウィリアム・ホワイトは2014年に『アディクション列伝』の第二版を出しましたが、ブルームの論文に沿って時系列を書き直しています。13)

しかし重要なのは、ローランドが再飲酒した後に、ユングに再び会ったのかどうか、そしてあの会話が行われたかどうかです。ブルームの調査はそのことを明らかにできておらず、謎は残されたままとなりました。

星の炎

ブルームの論文が発表されたのと同じ2006年に Stellar Fire というWebサイト14)が公開されていました。作者はコーラ・フィンチ(Cora Finch)という人物で、アマチュア研究者であるという以外に詳しいことは分かりません。サイトの内容は、やはりユングによるローランドの分析に関するものでしたが、調査の範囲はブルームより広く、詳細にわたっていました。

残念ながら現在はサイトが消失していますが、Hindsfoot Foundation のサイトに収録されているPDFファイルから、同じ内容を得ることができます(すでに Hindsfoot Foundation のサイトも消失した)

そこで、次回は、フィンチの Stellar Fire(星の炎)の内容の概略をお伝えすることにします。

今回のまとめ
  • ビル・Wは、ローランドがユングの治療を受けた時期を1930年頃、その期間を一年間、そして治療を終えて数週間後にローランドが再発し、ユングの所に戻って、二人の会話があった、としている。
  • しかし後の調査では、1930年から34年までのあいだに、ローランドがヨーロッパで長期の治療を受けられたはずが無いことが明らかになった。
  • ブルームの調査は、ユングによるローランドの分析(治療)が1926年に行われたことを明らかにした。
  • しかし、ローランドが再発後にふたたびユングに会いに行ったかどうかは不明のままであった。

  1. Bill W., Bill W.: My first 40 years, Hazelden, 2000, p.124.[]
  2. AACA, p.x.[]
  3. AA, Alcoholics Anonymous Comes of Age: a brief history of A.A., AAWS, 1957, p.ix.[]
  4. アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, p.39.[]
  5. ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, p.126.[]
  6. Richard Dubiel, The Road to Fellowship: The Role of the Emmanuel Movement and the Jacoby Club in the Development of Alcoholics Anonymous, iUniverse, 2004, pp.160-161.[]
  7. ibid., pp.71,76.[]
  8. ibid., p.78.[]
  9. Amy C. Bluhm, Verification of C. G. Jung’s Analysis of Rowland Hazard and the History of Alcoholics AnonymousHistory of Psychology, 9(4), 2006, pp.313-324.[]
  10. キャロルは1929年にチューリッヒに引っ越してユンギアン・サークルに加わった。[]
  11. Susan Cheever, My Name is Bill, Bill Wilson — His Life and the Creation of Alcoholics Anonymous, Washington Square Press, 2004.[]
  12. “Troubles not my own took me to Europe again in the spring of 1928” — Leonard Bacon, Semi-centennial: Some of the life and part of the opinions of Leonard, Harper & Brothers, 1939, p.194 – Google Booksにより確認.[]
  13. William L White, Slaying the Dragon: The History of Addiction Treatment and Recovery in America (2nd edition), Chestnut Health Systems, 2014, p.170.[]
  14. http://www.stellarfire.org/[]

2024-08-21

Posted by ragi