ビッグブックのスタディ (106) どうやればうまくいくのか 18
恨みについての棚卸し表を書き上げたたら、次は「恐れ」についての棚卸しを行います。
恐れの棚卸し
表のなかでブラウン氏、ジョーンズ夫人、雇い主、妻との問題に、それぞれ「恐れ」という言葉がカッコに入っていることに注意を向けてほしい。1)
ビッグブックの94~95ページの棚卸し表のサンプルを見ると、各行の第三列のところに(恐れ)と書き加えられています。このことから分かるように、ビッグブックの指示に忠実に従うならば、恨みの棚卸し表の各行について、その恨みが恐れを伴っているかどうか検討し、もしそうなら(恐れ)と書き加えていくことになります。しかし、恨みの表とは別に恐れの表を書く人たちもいます。例えばジョー・マキューらは、恨みの表・恐れの表・性の表・(性以外で)人を傷づけた表という四つの表を書くことを提唱しています。
このように恨みと恐れを統合した表を作るやり方と、それぞれ別の表を作るやり方があるわけですが、そのどちらが良いかは僕には判断ができません。第81回で説明したように、ビル・Wたちも具体的なやり方にはそれほどこだわっていなかったようです。やり方にこだわるよりも、それぞれのステップで起きるべき変化が自分に起きているか(より正確に言えば「変化が起き始めているか」)を気にするべきでしょう。
この恐れという短い言葉は、私たちの人生のあらゆる面にかかわっている。それは有害で心をむしばむ糸であり、私たちの存在という生地の中にその糸は織り込まれている。1)
ビッグブックでは恐れ(fear)という言葉を使っていますが、より日常的な日本語を使うならば、不安とか恐怖と表現される感情です。何らかの危機が予想されるときに私たちが味わう気持ちです。
では危機とは何でしょうか? どんなときに私たちは恐れを持つのでしょうか? ビル・Wはそれを「すでに得たものを失うことへの、あるいは求めるものを得られないことへの恐れ」と表現しました。2)。例えば僕が(会社が倒産するにせよ、自分がクビになるにせよ)失職しそうになったとしたら、収入を失って暮らしていけなくなることへの不安が生じます。浮気をしていれば、それがバレて離婚騒動になることを恐れるようになります。騒音を立てる隣人に文句を言ったら、関係が悪化するんじゃないかと恐れます。これらは、すでに得ているものを失う恐れですが、人間は求めるものを得られない恐れも持ちます。就職しようと履歴書を送り面接も受けているのに不採用の通知ばかりだと、このままどこにも採用されないのではと不安になるでしょう。
このように見てみると、私たちは、安全・性・共存という三つの本能が満たせなくなる(満たせないままになる)未来が予測されたときに恐れを持つことが分かります。私たちは本能(欲望)を自分の思い通りに満たすのを妨害された時に恨みを持ちました。恨みとは過去に起きた出来事によるものです。それに対して恐れは将来の予測から生じてきます。
本能は私たちの生存のために必要なものであり、私たちは常に自分の欲求を満たそうとしながら生きています。その本能から恐れが生じてくるのですから、私たち人間という存在と恐れは切り離せないものなのです(恐れという糸は私たちの存在という布に織り込まれている)。
しかしビッグブックは、恐れは有害なものだと明言しています。それは、恐れが(恨みと同じように)私たちと神との関係を妨げ、私たちを神から切り離してしまうものだからです。他の人と交わることに恐れがあるから人は引きこもります。断られることを恐れるから、愛の告白ができないのです。試験に落ちることを恐れるから、資格の勉強をしようとすら思わないのです。実際に危機が迫っているのか、それとも単なる思い込みなのかは関係なく、恐れは私たちを蝕んで、神が人間に与えてくれた可能性を私たちが自ら閉ざしてしまうのです。
転がるボール
これこそが、理屈に合わないと思える不幸をもたらす連鎖反応を私たちに始動させたのだ。1)
それだけではなく、恐れは私たちの様々なトラブル(悩み・苦しみ)の原因にもなります。ステップ3のところに、「恐れ・・・に駆り立てられて、私たちは人の足を踏みつける。相手も踏み返す」とあったのを思い起こしましょう(p.89)。自分の本能が満たせない未来が予測されたとき、私たちはその事態を避けようとします。それは私たちが自分を守るために行うことですが、その行いが(たいていは知らず知らずのうちに)他の人の本能の充足を妨げてしまいます。すると相手は「傷つけられた」と感じ、相手も自分の身を守るために反撃や報復をしてきます。すると私たちもその反撃によって傷つけられたと感じ・・・以下同じことが繰り返えされて、悩み・苦しみが増大していくのです。
でも、それを放っておいて増長させた(set the ball rolling)のは、ほかならぬ自分ではなかったか。恐れは盗みと同じように考えられなければならないと思う。それは、ときによっては盗み以上の問題を引き起こすもとになるからである。3)
set the ball rolling は「放っておいて増長させた」と訳されていますが、何かを始めるという意味です。報復がさらなる報復を招く連鎖反応によって私たちがボロボロに傷ついていたとしても、最初に恐れによってそれを始めたのは自分だったのではないか? という問いかけなのです。
浮気をするには金がかかります。金がなければ愛人に見捨てられてしまい、性の本能や感情的安全の本能が満たせなくなってしまう、という暗い未来(危機)が予測され、それが恐れをもたらします。この恐れを解消するためには金を入手すれば良いのですが、そのための無難な手段はもうどれも使ってしまいました。そこで経費の水増し請求という不正な手段を試み、それが成功したので、それを繰り返した結果、ついに発覚してしまい、「水増し請求を止めないのなら解雇するぞ!」と雇い主から脅しを受けるまでになってしまいました。その脅しに対して腹を立て、恨んでいるにしても、始まりは「すでに得たもの(この場合は愛人)を失うことへの恐れ」だったのではないか? と問いかけているのです。
恐れを盗みと同じカテゴリに分類すべきだ、という主張に対して疑問を抱く人は少なくありません。恐れ(不安)は感情であり、盗みは犯罪行為という違いがあるじゃないか! とこの二つを同列に扱うことに異を唱えたくなる気持ちも分からなくはありません。おそらくその人たちは、不安というものは、自分の外側(下の図の外側の黄色い部分)が原因で生じていると考えているのです。物質的・社会的次元のことが、私たちに悩みや苦しみをもたらすのであり、自分の外に原因がある以上、自分にはどうしようもないことだというわけです。
だが恐れ(不安)というものは、私たちと内なる神との関係が切れてしまっているために、私たちの本能が枠を外れて暴走した結果として生じてくるものなのです(逆に言えば、私たちの本能が神によって適切にコントロールされていれば、恐れは生じないのです)。
不安を発端として転がりだしたボールは、その後どうなるのでしょうか? 僕は長野県で生まれ育ちました。まだ気候の温暖化が進む前だったので、冬は裏山に雪が積もりました。手のひらで小さな雪玉を丸めて、新雪が積もった斜面に投げると、雪玉は斜面を下へと転がり出します。周りの雪が付着して雪玉はどんどん大きくなっていきます。やがて止まってしまうこともありましたが、斜面全体を巻き込んだ雪崩に発展することもありました。そうなってしまうと、もはや誰にも止めることはできず、斜面の下の林や岩にぶち当たるまで止まりません。雪崩はときには大変な被害をもたらします。
恐れもこれと同じです。私たちと神との断絶を根本原因として引き起こされた不安は、ほかの人を巻き込んだトラブルを私たちに引き起こさせるのです。盗みがほかの人を巻き込んだトラブルを引き起こすのと同じです。恨みと同様に、私たちは自分の持つ恐れ(不安や恐怖)を克服しなければならないのです。
恐れを完全に取り除くことが目標なのではない
このように説明すると、恐れを払しょくし、まったく恐れを持たない状態になることが私たちの目標だと勘違いする人たちもいます。私たちが「恐れる」という能力を持っているのは、神がそれを人間に与えたからです(先行的恩寵 )。
神が人間に与えた能力には、すべて本来の用途があります。その本来の用途に使われる限りにおいて、恨みや恐れですら善いものなのです。しかし私たちは、神から与えられたものをしばしば過剰使用(overuse)したり、本来の用途を越えて誤用(misuse)してしまうのです。するとそれらは私たちに害をもたらすようになり、私たちトラブルに巻き込まれることになります(第84回・第99回)。
ジョー・マキューたちもこう述べています:
ここで一つ付け加えておきたいのは、すべての恐れが有害というわけではないことである。恐れは人間に備わっている自然の感情であり、生き延びるために必要なものである。もし、恐れという感情がなかったら、私たちは一日たりとも生きられないだろう。たとえば、車を運転することも、道路を横断することや、食事をすることすらも安全にはできなくなるに違いない。なぜなら、恐れがなければ、平気で車をぶつけたり、バスの前を横切ったり、あるいは毒キノコを食べて食中毒を起こしたりするだろうからである。つまり、恐れは生存に欠かせない常識を私たちに与えてくれる。だから、ある程度の恐れは人生にとって有益なのである。4)
過剰使用や誤用されなければ恐れも有益であり、私たちに必要なものなのです。
他でもこう述べています:
たとえば、競争心は、恨みと関連していることがある。私自身、人に対する恨みとか競争心によって、自分にはできそうもないことができることがある。人類の進歩の多くはだれかに先を越されはしないかという恐れが原動力になって達成されてきたといえなくもないだろう。
30余年前のある朝、アメリカ国民は宇宙科学の分野でソビエト連邦に先を越されたというニュースで目を覚ました。ソ連のスプートニクが地球の周りをぐるぐる回っていたのである。はてさて、恨み、恐れ、もしくは競争心のどの感情が原動力になったのだろうか、アメリカは程なくして人類を月面に立たせたのである。こうした感情がなかったら、この偉業は達成されなかったのではないだろうか。5)
競争は勝者と敗者を作り出します。負けた者は悔しさと惨めさを味わいます。それらは恨みと密接に関係しています。もしこの世の中にまったく競争がなかったならば、人類の進歩は極めてゆっくりとしたものになっていたでしょう。このように、恨みについても、それが本来の用途に使われる限りは、有用であり、善いものなのです。
私たちは、恨みや恐れや本能(欲望)を完全に取り除くことを目指しているわけではありません。それらの過剰使用や誤用を見つけ出し、適切なレベルに保つことを目指しているのです。だがもちろん、それを完全に実行できる人はいないのですが(pp.86-87)、それは目指すに値する目標です。
恐れを書き出す
私たちは、自分の恐れをすべて検討してみた。恨みにつながらないものについても、紙に書き出した。6)
上に説明したように、恐れは結果として恨みをもたらすことがあるわけですが、ここに「恨みにつながらないもの」とあるように、そこまで至らずに恐れ単独で存在する場合もあるということです。恨みにまで発展したものは、すでに恨みの表に書いてありますから、その行に(恐れ)と書き加えるだけで十分でしょう。恨みを伴わない恐れについては、新しい行を追加していくことになります(そうなると、恨みの表とは別に恐れの表を作るやり方も合理的に思えてきます)。
なぜ恐れを抱いたのか、自分に聞いてみた。6)
これは第二列に書くべき情報です。
自分を頼ると恐れは大きくなる
自分の力では十分でなかった。ある程度まではできたが、それだけでは十分に恐れを取り除くことはできなかった。6)
Wasn’t it because self-reliance failed us? Self-reliance was good as far as it went, but it didn’t go far enough.7)
「自分の力では十分に恐れを取り除くことができなかった」という意味の訳になっています。誤訳とも言い切れませんが、もう少し掘り下げて説明しましょう。self-reliance の reliance とは頼ること・信頼することです。ですから、セルフ・リライアンスとは、自分を頼りにすることです。自己信頼といえば格好よく聞こえますが、自分以外を頼らず、独立独歩の道を歩むことです。
原文の意味は、恐れを取り除くのに失敗したのではなく、「そもそも恐れが生じたのは、自分を頼りにしたからではないのか?」という問いかけなのです。独立独歩が通用する範囲では自分を頼りにするのも良いでしょう。だがそれがどこまでも通用するというわけではありません。通用する範囲の外まで自分を信じて独立独歩を貫こうとしたことが、恐れが生じた原因だった、とビッグブックは言っているのです。つまり12ステップは、自己信頼の有効性は否定しないものの、それが通用する範囲は狭いと考えているわけです。
かつては大きな自信(self-confidence)を持っていたこともあったが、恐れも、その他の問題も消えはしなかった。うぬぼれたりしたときには、余計にひどくなった。6)
self-confidence は自信と訳されていますが、self-relianceとほぼ同じ意味で、言葉の言い換えが行われているにすぎません。大きな自信を持っていたとしても、恐れの問題を完全に解決することはできなかったし、自信過剰になったときにはむしろ恐れは増大した、と説明されています。
不安の強さには個人差があるようで、小さなことですぐに不安になってしまう人もいれば、少々のことでは不安にならない人もいます。不安の強い人は、自分が生きる上で不安が大きな障害になっていることを自覚して、不安になりやすい性質を取り除きたいと願うものです。周囲を見渡してみると、自信家の人たちは不安に悩まされていないように見えます。そこで不安の強い人たちは、自分も自信を持てば不安から解放されるのではないか、と期待して自信を身に付けようとします。しかし、残念ながら自信を身に付けても、不安(恐れ)の問題は解決されないのです。
では、恐れを克服するにはどうすれば良いのでしょうか?
神を頼ると恐れは消えていく
もっと良いやり方がある――私たちはそう考える。いまや自分たちは違った基礎、つまり神を信頼し、神にゆだねて立っている。有限の自分ではなく、無限の神を信頼する。神に定められた役割を果たすために、自分たちはこの世に生きているのだ。神が意図した自分たちの役割を行い、謙虚に神にゆだねていけば、神は災難を平安に変えてくれるだろう。6)
この段落を説明するために、図を作りました。暗闇の中に、裸電球がぶら下がっています。裸電球は光を発しており、その光は床の一定の範囲を明るく照らし出しています。
この電球は私たちに神から与えられた能力を表しています。私たちは自分に与えられた能力を使って、その力の及ぶ範囲のことを扱います。私たちという電球の放つ光の届く範囲(私たちの能力の及ぶ範囲)については、神は「それはお前に任せた」と言っているのです。私たちに任せた部分については神は基本的には手出しをしませんので、私たちは自分の力を使ってこの範囲のことを扱わなければなりません。そして、この領域には私たちの力が及ぶのですから、その中のことについて私たちが恐れを持つことはありません。例えば、私たちは今夜の晩ご飯について不安を持つことは滅多にありません。なぜなら、夕食についてはたいてい自分の意志の力でなんとかできるからです。
そして、光の届く範囲の外には、暗闇が広がっています。この暗闇は、私たちの力が及ばない領域です。神は「この領域については私に任せておきなさい」と言っています。だから私たちはこの領域については、神を信頼し、神にゆだねるほかありません。どっちみち、私たちの力はそこには及ばないのですから、それ以外の選択肢はありません。ところが、私たちは、しばしばこの暗い領域の事柄にまで、自分の意志が及ぶことを求めてしまうのです。すると私たちの中に恐れ(不安や恐怖)が生じてきます。
恐れの表を見返してみると、恐れはどれも「自分の力が及ばないことに対して、自分の思い通りの結果を求めた」ことから生じてきていることがわかるでしょう。神を信じ、ゆだねるほかない事柄を、自分で扱いたくなってしまう・・・それは私たちの思い上がり、あるいは自惚れです。つまり、恐れは私たちの自己中心性から生じてきているのです。
では、自分の力を鍛えることには意味が無いのでしょうか? もちろん意味はあります。40ワットの電球を60ワットの電球に、さらに100ワットの電球へと交換すれば、光に照らされる範囲は広がります。そうすれば、いままで暗闇の中にあって自分の力が及ばなかったことにも、力が及ぶようになり、自分で扱えるようになります。そのように、努力することで自分に与えられた可能性を開花させることは良いことでしょうし、これまでできなかったことが自分でできるようになったことで私たちは自信を持つようになります。だが、どんなに光を強くしていっても、無限の彼方にまで光を届かせることはできない、という事実を忘れてはなりません。その先には必ず闇が広がっているのですから、自分の力で(あるいは自信を持つことで)恐れを取り除くことはできないのです。
この明と暗との境界は、くっきりしたものではなく、グラデーション になっています。つまり私たちは時には、自分の力でなんとかすべきなのか、それとも神に委ねるべきか判断に迷ってしまうケースもあるということです。そういう場合には、見分ける賢さを与えてくれるように神に願うべきなのでしょう。
神が意図した自分たちの役割
私たち一人ひとりがこの電球のような存在なのであり、照らすべき範囲も一人ひとり違っています。神という演出家(ディレクター・第100回)は、私たち一人ひとりに違った役を割り振りました。私たちの人生は似たところもたくさんありますが、誰もが別の人生を生きています。ですから、自分に与えられた役割は他の人とは違っています。それが何であるかを知るのは簡単なことではありませんが、ともあれそれはこの明るい範囲の中にあることは間違いありません。
恐れに囚われているとき、私たちの意識は暗い領域の中へと向けられています。それが神が私たちに望んでいることではないのは明らかです。私たちはステップ3で、自分の意志と生き方を神に委ねる決心をしました。その目標を実現するためには、私たちは自分の意識を明るい領域へと向ける必要があります。それはたいてい自分の目の前にあることです。自分のやるべきことに意識を集中させていれば、苦難の時を平安な気持ちで過ごせるように神が計らってくれるでしょう。
霊的な生き方
次の段落にはこうあります:
創造主に頼ることを決して人に弁解する必要はない。私たちは、霊的な生き方が軟弱なものだという考えを聞き流す(laugh at)ことができる。6)
「聞き流す」と訳されていますが、laugh at は笑うという意味です。霊的な生き方とは、これまで説明してきたように、神を信頼し、神を頼る生き方です。その逆の、自分を信じ独立独歩する生き方こそが強い生き方だと信じている人たちもいます。若い頃の僕もそうでした。そういった人たちは、神を頼るのは軟弱な生き方だと考えるものです。私たちはそういった考え方を笑い飛ばすことができます。なぜなら、逆説的ですが、それこそが強さの道だからです。
信仰は勇気を意味するという例を一つ挙げましょう。中学校2年生の社会(歴史)の教科書に、フランシスコ・ザビエル (1506-1552)という人物が載っています。16世紀のスペイン生まれのカトリックの司祭で、日本に初めてキリスト教を伝えた人物です(現在はスペイン語読みでハビエル、あるいはポルトガル語読みでシャビエルと表記します)。
彼はスペインの地方王国の貴族の家に生れ、パリ大学 で哲学を学んでいたとき、イグナチオ・デ・ロヨラ (1491-1556、聖イグナチオ)と知り合い、その影響を受けて他の仲間と共にイエズス会 という修道会を立ち上げました(ロヨラが初代総長となった)。
ヨーロッパでは当時マルティン・ルター (1483-1546)らの始めた宗教改革 が進行中で、ローマ・カトリック教会は次第に分が悪くなっていました。そこでカトリック教会はヨーロッパの外に宣教先を求めました。宗教改革に対抗していたポルトガル王は、ポルトガルの植民地で布教を行う宣教師を派遣するようイエズス会に依頼しました。そこで選ばれたのがザビエルだったのです。彼は1年以上かけてインドにたどり着き、そこで2~3年布教を行った後に、さらに東のポルトガル領マラッカ へと向かいました。そこで、ヤジロウ (弥次郎, 1511?-1550?)という謎の日本人と出会いました。弥次郎は鹿児島の出身で、殺人を犯し、たまたま来航していたポルトガル船に乗り込んでマラッカに逃れたのですが、その船の船長によってザビエルと引き合わされ、ザビエルに罪の告白をしました。
弥次郎はそのままインドへ行って洗礼を受けたので、彼が記録に残る最初の日本人キリスト教徒ということになります。弥次郎から日本の話を聞いたザビエルは、日本に布教することを思いつきました。もともとポルトガル王がイエズス会に依頼したのは、ポルトガル領の高級官吏の霊的な指導者となることでした。だからザビエルは植民地のなかでポルトガル人を相手にしているだけでも十分な実績を積めたはずなのです。だが彼はそれだけに飽き足らず、中国経由で日本に来てしまうのです。京へ上って宣教のお墨付きを得るために天皇や室町幕府の将軍との謁見を求めたのですがかないませんでした。謁見を取り計らってもらうには高価な進物が必要なのに、彼がそれを提供できなかったからだとされています。
失意のザビエルは肥前(長崎)や周防(山口)で布教を行って信徒を獲得しましたが、2年後にいったんインドに戻りました。そして、日本に宣教するためには、まず中国からと考えて、中国に向かったのですが、そこで病気で亡くなってしまいます。46才の若さでした。
貴族の子として生れ、将来も約束されていたザビエルが極東の未開な辺境国にまでやってきたのは、宣教することが神が彼に与えた役割だと考えたからでしょう。どれだけの苦難が待っているかを考えれば、たいていの人は怖じ気づいてしまうに違いありません。だが、彼には苦難に立ち向かうだけの勇気がありました。その勇気をもたらしたのは彼の信仰だったのに違いありません。
私たちにとってザビエルは「てっぺんハゲ」の代名詞のような存在ですが、彼の人生は信仰が勇気を意味することを示す一つの例なのです。8)
恐れに対する祈り
p.100には、恐れに対する祈りがあります:
自分の恐れを取り除いてもらい、神が私たちに望まれていること(what He would have us be=神が私たちにどうあってほしいか)に自分の注意が向くよう、神に願い求める(ask)。すると、恐れはたちまち消え始める。9)
恨みの棚卸しの際に、恨みを抱いた相手に対する寛容さや忍耐力を与えてくださいと神に願う(ask)祈りがありました(p.97, 第104回)。askとは頼むという意味です。恐れに対してもここで祈りを紹介しています。その願いの内容は、
-
- 恐れを取り除いてもらう
- 神が私たちにどうあってほしいか(=神が私たちに望まれていること)に注意が向く
の二つです。自分の力の及ばない領域へではなく、自分に与えられた力の及ぶことに自分の関心が向くよう願うことの意味は上で述べたとおりです。
無限なる神、神の概念の変化
賢明な読者の皆さんはもうお気づきでしょう。ビッグブックはここで無限なる神(infinite God)という概念を持ちだしてきています。
ステップ2では、自分なりの神の概念で始めればよいと書かれていました(p.69)。だから神という概念を受け入れられない人たちは、スポンサーや、AAグループや、AA共同体そのものを自分のハイヤー・パワー(=神)と見なしてステップに取り掛かることができました(第77回)。自分より偉大な存在だとその人が見なせるものでありさえすれば、例えば故郷の山10)や一片の木片(第76回)など、どんなものを自分の神として選んでも良いのです。『12のステップと12の伝統』(12&12)でも、その人が望むならば、AAそのものをハイヤーパワーの代用として使っても良いと明言しています(12&12, pp.38-39 ― これを the method of substitution=置き換え手法・代用手法と表現している)。
無神論者や不可知論者がステップ2で掴み取る神の概念は、たいてい有限な存在です。スポンサーであれ、AAグループやAA共同体であれ、無限の力は持っていませんから、どれも有限な存在です。なのに、ステップ4の恐れの棚卸しの説明は、神は無限な存在であることを前提にしています。これはステップ2の「どんな神概念でもかまわない」という説明と明らかに矛盾しています。ステップ2では有限な神を認めていたのに、話が違うではありませんか!
これは矛盾ではなく、私たちが12ステップに取り組むことで私たちの持っている神の概念が変化していくことを示しているのです。ステップ2で自分が信じられる神の概念を掴むのに苦労する人も少なくありませんが、それを掴んだことでゴールに達せたわけではありません。それは単にスタートラインに着いただけのことなのです(第77回)。スタートラインから先に進んでいくことで、私たちの持っている神の概念は変化していくはずです。
このことは、12&12でもはっきりと記述されています。12&12には、不可知論者や無神論者は「当分の間、自分のグループやAAそのものをハイヤー・パワーにすればよい」と書かれています(傍点は筆者)。11) つまり最初の神の概念を維持していられるのは、スタートラインから当分の間にすぎないのです。
さらにはステップ11の説明の冒頭には、
まだAAグループを「ハイヤー・パワー」にしているかつての不可知論者たちにとっては・・・12)
とあって、「ステップ11まで進んできた人が、まだAAをハイヤーパワーの代用品にしているなんて、あり得ないでしょ!」と言わんばかりです。つまり、ステップ2で私たちはそれぞれの現在地を出発点とせざるを得ないにしても、スタート地点から先へ進んでいくことで、信じる神の概念も変わっていくはずなのです。逆に言えば、神の概念が最初と変わらないのならば、その人はまだスタート地点に留まったままなのです。それは本人はステップをやっているつもりでも前へ進めてない(起きるべき変化が起きていない)ということを意味します。
無限なる神という概念を最初から受け入れられる人は多くはありません。12ステップはそのような神概念を最初から押しつけるのではなく、それぞれの人が持っている神の概念から出発して、それぞれのスピードで無限なる神の概念に近づいていく、というアプローチを採っているのです。
神の概念の変化は、私たち自身の成長に他ならないのですが、それはいっぺんに起こるのではなく、変化のプロセスを必要とします。漸進的な変化の時期もあれば、停滞している時期もあり、それまで持っていた神概念がうち捨てられ、新しい神概念を探さざるを得なくなる時期もあるでしょう。神概念の棄却は、しばしば外的要因(例えば自分の良心や、スポンサーや、AAそのものへの幻滅)によって引き起こされますが、自発的な意識的努力によって行われる場合もあります。
ジョー・マキューも言っているように、スタート地点とゴール地点は同じではありません。13) つまり、私たちはいつまでもクラウチングスタートの姿勢のままスタートラインにいるのではなく、前に進んでいくのです。すなわち、最初の神の概念(スポンサーだとかAAだとかモテモテ神だとか)をいつまでも信じているわけではありません。それらは、かつて信じていた対象として、私たちが進んだ道の脇に置き去りにされていくものなのです。
霊的な成長の速度は人によって違うので、ステップ4の恐れの棚卸しをするまでに全員が無限の神を信じるようになるわけではありません。無限なる神という概念を簡単には受けられない人もいるでしょう。第四章に「とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる」(p.69)とあったことを思い出しましょう。いまは無限の神という概念をとうてい受け入れられないとしても、将来の成長した自分にはそれができるようになる、と信じましょう。今の自分はまだそこまで成長できていない、というだけのことなのです。
次回は性の棚卸しです。
- 恐れとは、三つの本能が満たせなくなる未来を予測したときに生じる不安や恐怖のことである
- 恐れは、様々なトラブル(悩みや苦しみ)や恨みを引き起こす元となる
- 恐れも(恨みと同様に)棚卸し表に書き出して分析する
- 自分の力の及ばないことにまで自分の思い通りの結果を求めることから恐れが生じてくる
- 自分の力の及ばないことは、神を信頼し、神に委ねる
- 神を頼る生き方は軟弱な生き方ではない
- 私たちが持っている神の概念は、ステップに取り組むにつれて変化していくはずである
- BB, p.98[↩][↩][↩]
- 12&12, p.100[↩]
- BB, pp.98-99[↩]
- 無名(A Program for You翻訳チーム訳)『プログラム フォー ユー』, 萌文社(ジャパンマック), 2011, p.128[↩]
- ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『回復の「ステップ」』, 依存症からの回復研究会, 2008, pp.67-68[↩]
- BB, p.99[↩][↩][↩][↩][↩][↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.68[↩]
- 教科書に掲載されているフランシスコ・ザビエル肖像 は剃髪しているが、これはトンスラ というカトリックの修道士の髪型で、ザビエルが日本を去ってから相当経ってから伝聞を元に描かれたと思われる。イエズス会にはトンスラの習慣がなく、海外で描かれたザビエルの肖像は剃髪していない。[↩]
- BB, p.100[↩]
- AACA, p.78[↩]
- 12&12, p.142[↩]
- 12&12, p.127[↩]
- ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『ビッグブックのスポンサーシップ』, 依存症からの回復研究会, 2007, p.134[↩]
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