ビッグブックのスタディ (104) どうやればうまくいくのか 16

恨みの棚卸しの続きです。95ページからです。

棚卸し表を見返す

終わったら、それをじっくり検討してみた。1)

これは、棚卸表を書き終わったら、その内容を検討するように、という指示です。

ビッグブックビル・Wたちが「回復を達成した方法」を述べたものです第3回。ですから、「私たちは~した」という経験を語る形式で書かれています。そこには「あなたも回復したかったら、私たちと同じことをやってみたらどうですか?」という含意があります。それゆえこれらは提案と呼ばれるのですが、回復する方法を知りたい人にとっては、これは「あなたも~しなさい」という指示(direction)に等しいわけです。

ですから、私たちも書き上げた棚卸し表を先頭から見返して、その内容を検討してみましょう。

最初にはっきりしたことは、この世間と世間の人間どもは何ともひどいものだということだった。2)


The first thing apparent was that this world and its people were often quite wrong.3)

するとすぐに、第一列に書いた人たちは、しょっちゅう間違ったことばかりしている(often quite wrong)、ということが分かります。では、彼らがどんな間違いをしたのか、じっくり検討してみましょう。


不倫
by kun10, from photoAC

まず、ブラウン氏は、私(この表を書いた人物)の妻に関心を持っています。人妻との不貞行為 を狙っているなんて、彼は人の道を外れた男だと言えます。さらに、私に愛人がいることを私の妻にバラしてしまうなんて、なんという酷いことをするのでしょうか。そのおかげで、妻も、私も、愛人も、みんなが傷つきました。そんな誰も幸せにならない余計なことをするなんて、とんでもなく間違ったことです。しかも、職場では私の仕事を奪おうと画策している。いったいどれだけ私を傷つけ、どれだけ迷惑をかけるつもりなのでしょうか?

by OKAME, from illustAC

次に、ジョーンズの奥さんは、私の数少ない酒飲み友だちであるジョーンズを入院させてしまいました。夫が少々酒を飲みすぎるという、たったそれだけの理由で入院させてしまうなんて、なんて酷いことをするのでしょう。ジョーンズもあんな冷たい女と結婚して可哀想に! おかげで私は孤独に酒を飲む羽目になってしまいました。しかも、飲みに誘いに訪れた私に対して、まるで私のせいで旦那が入院したみたいなことを言って冷たく追い返し、さらに私のことをアル中だと周りに言いふらしているのです。そんなことを言うなんて、きっと彼女は頭がおかしいのに違いありません。

クビ
by ちょこバナナ, from illustAC

さらに、私の雇い主にいたっては、私が少々経費の水増し請求をしたという些細なことを非難するのです。おまけに酒をほどほどにしないと解雇すると私を脅すのです。他人の酒の飲み方にまで口を出すなんて、まったくワガママで横暴な人です。

は、私がこんなに辛い思いをして働いているのに、その気持ちを分かってくれません。さらに、常に不機嫌で文句ばかり言うのです。妻がブラウンと会っていたことが分かったので、それをとがめると、あろうことか、私が仕事をクビにならないか心配してブラウンに相談しただけだなんて白々しい嘘を言うのです。おまけに家の名義を自分に書き換えようとしています。きっと私と離婚して、ブラウンと一緒になろうと思っているに違いありません。


このようにして私の性関係(妻との関係、愛人との関係)は脅かされ、邪魔され、危機にさらされています。社会的地位(雇用されていること)や、それによる物質的安全(収入)も脅かされています。人間関係(ジョーンズとの友人関係)はその奥さんによって邪魔されています。ブラウンや雇い主や妻から、邪魔物扱いされ、軽んじられることで私の自己評価プライドは傷つけられています。そんな事情があるのですから、私が激しく怒るのも当然ではないでしょうか?

もちろんこれは自己中心的な人物の言い分にすぎません。けれども、まずはこのような

あいつらはひどく間違ったことばかりしている

という立場に自分を置いてみることは大切です。なぜなら、私たちが誰かに腹を立て、恨みを持ち続けているのは、自分の中にそのような考えが存在しているからです。なのに、それが存在しないことにしてはいけないのです(それは正直ではない)

ポイントアダルトチルドレン (AC)の自助グループの実質的な創始者であるトニー・A(Tony A., 1927-2004)は、ACはそのような怒りの感情を奥に押し込めてしまっていると述べていますランドリーリストの10番目に相当する)。なぜなら、そのような(ある意味子供らしい)感情を表出することは、アルコホーリクの親がいる家庭においては、より傷つく、より悪い結果をもたらすことが多いわけで、ならばそんな感情(やその背後にある考え方)は自分の中に存在しないことにしたほうが、さらに傷つくことを避けられます。こうしてACは傷ついた自分の一部の感情と考えを抑圧し、奥へ押し込めることを子供時代に身に付けます。やがてそのやり方に習熟し、意識せずにそれを行うようになります。しかしそれはアル中の親相手には通用するやり方ではありましょうが、自分が大人になったときに社会のなかで他の人相手にそれを使ってもうまくいきません。そのことに気づいたとき、多くのACは、手っ取り早く自分の行動だけを修正しようとしますが、結果だけを変えようとしてもうまくいきません。まずは押し込められている感情を取り出して表現することから始めなければならない、とトニーは言うのです。4)

アダルトチルドレンであろうともなかろうとも、私たちは自分の中に恨みが存在し、しかもその恨みは、自分の自己中心的な、子供っぽい(幼い)考えがもたらしていることに気がつかなければなりません。なのに多くの人は、自分がもっと理性的な、大人びた考えをしているという自己像にしがみつきます。自分の何かが脅かされているから恨んだ、という捉え方は、自分の弱さを認めることになるので認めたくない人もいます(特に男性は自分の弱さや怯えを認めることを嫌う)

けれど回復したければ、私たちは自分に対して正直になる必要がある、とビッグブックは繰り返し述べています。私たちは、清く正しい自分という自己像を壊して、その裏側に隠してきた弱くて醜い自分を見つめなければなりません。私たちは、人間の持つ弱さや醜さを非難する気持ちを持っています。だから先ほどの例では、第一列に書かれたブラウン氏・ジョーンズ夫人・雇い主・妻の弱さや醜さを非難しています。それだけでなく、実は私たちは自分の弱さや醜さも非難の対象にしています。誰かから非難されるのも辛い経験ですが、自分で自分を非難する自己非難 のも辛いことです。私たちはその辛さから逃れるために、自分の弱さや醜さから目を背け、清く正しい偽りの自己像を作り上げるのです。(もちろんこれは、アルコホーリクやACだけがやることではなく、すべての人がやっていることですが)。

自分は清く正しいという立場から、「この世間と世間の人間ども」の弱さと醜さを非難している――それは自己中心的な幼い考えと行動なのですが、自分の自己中心性や幼さに気づくためには、まずその考えを言葉に表現してみる必要があります。問題に対処するためには、まず問題の存在を認めなければなりません。「あいつらはひどく間違ったことばかりしている」という立場に自分を置いてみることの大切さはそこにあります。

その結論がいつもどんな結果をもたらしたか

私たちのほとんどは、他人が間違っていると結論するところまでがせいぜいだった。世間の人間たちにいつも不当に扱われ、自分たちは傷ついたのだ、というのがおおざっぱな結論だった。5)


To conclude that others were wrong was as far as most of us ever got. The usual outcome was that people continued to wrong us and we stayed sore.6)

何もかも取り仕切りたがる役者(pp.87-89, 第93回第94回)である私たちは、「自分にも幾らかはまずい点があったかもしれない」と認めるのですが、「それ以上に人のせいにする」のです(p.88)

「世間の人間たちにいつも不当に扱われ、自分たちは傷ついたのだ、というのがおおざっぱな結論だった」という部分はたいへん残念な翻訳です。The usual outcome は「それが通常もたらす結果」であり、soreは「腹を立てる」でよいでしょうから、この部分を訳し直すと、

その結論がいつもどういった結末をもたらしたかと言えば、人々は相変わらず間違ったことをし続け、私たちは腹を立て続けたのだった。

「彼ら」が間違っているのならば、間違った考え方や行動を修正すべきは「彼ら」であって私たちではありません。そこで私たちはその人たちの考え方や行動を変えさせようとします

そのように他の人たちに考え方や行動を変えるように要求するのが悪いことだとか、してはいけないことだとは、ビッグブックのどこにも。ではなぜ、私たちの共同体の中に「他の人たちは変えられない、変えられるのは自分だけ」というスローガンが伝わっているのでしょうか?

もしその人たちが私たちの要求を受けいれ、(考え方はともかく)行動を変えてくれたならば、その一件は恨みの表には載らないはずなのです。私たちはあの手この手を使って、相手の間違った行動を修正させようとします(戦略①と戦略②、第94回第95回第96回第100回。それに失敗し、さらに相手に腹を立てたからこそ、それがこの表に載ってくるのです。

つまり、相手が行動を変えてくれなかったときに恨みという形で反応することが、私たちの問題(trouble)なのです。私たちは相手が悪いと断じ、その相手を変えようとし、相手が変わってくれないと恨むのです。人間はそう簡単には変化できません。もちろん、変われないわけではありませんが、こちらの望んだタイミングで、こちらの望んだ変化をしてくれと願っても、そう思い通りにはいかないものです。なのに、こちらの思い通りになってくれることを願うのが、支配とコントロールを狙う共依存の本質なのです。

ときにそれは後悔になり、自分を責めることになった。5)

先ほど述べたように、私たちは自分が清く正しいという立場から、相手の弱さや醜さを非難するのですが、時には自分の弱さや醜さを意識せざるを得なくなることもあります。それによって、自責の念に落ち込んだり、自分に腹を立てたり、後悔でいっぱいになったりします。

自己中心的な人間というのは、神を演じているのです(p.90, 第100回。しかし時には、自分が神のような完璧な存在ではなく、他の人たち(この世間と世間の人間ども)と同じように弱く醜い存在であることに気づかざるを得なくなり、自分の不完全さに激しく落ち込むのです。そして、誰かにその落ち込みを解消してもらおうと必死にあがきます。でもそれは、もう一度神の座に上ろうとする努力にすぎません。世の中も、自助グループと呼ばれる集まりの中も、そのような自己欺瞞的な癒やしを求める人たちで溢れています。

わきみち人間が徹底的に社会的な動物である以上第98回)、社会の構成員には道徳や良識の実践が求められます。中世までは、道徳や良識は宗教や王権が規定していました。それによく従う人間が良識ある人間でした。しかし、18世紀に始まった啓蒙思想 は道徳や良識を規定する役割を個人に分配しなおしました。近代社会においては、人間は自分の理性を頼りに道徳や良識を自ら規定し、実践して生きていかなければならなくなりました。デカルト (1596-1650)が『方法序説 (1637)で人間には良識が公平に分配されているはずだと説いたとき、同時に彼は理性を正しく使えている人間はまだ誰もいないことを認めました。そこで啓蒙思想 は、人間社会が進歩し続けるという前提に立ち、科学や学問が進歩し、人々が教育を受けることで、やがては人間の理性が平等に開花する時代が来るという立場を取りました。しかし、20世紀後半になると、進歩の限界や弊害が指摘されるようになり、理性への依存を批判したポストモダニズム が登場しました。AAや12ステップは、人間理性を究極とする近代を批判する点はポストモダニズムと同じですが、むしろ信仰に回帰し、普遍的な価値は存在するという立場を取ったところが、ポストモダニズムと決定的に違うところです。

闘う生き方とは

闘うにつれ、自分のやり方を通そうとするにつれ、事態はどんどん悪くなった。戦争と同じで、勝者は勝ったように見えるだけなのだ。私たちは勝っても、その時間は長続きしなかった。5)

闘う(fight)という言葉がでてきました。第七章の終わりには、私たちは誰に対しても、何に対しても、闘うことをやめなければならない、とあります(pp.149-150)。この闘うは何を意味しているのでしょうか?

それは、続いて説明があるように、「自分の意志を押し通そうとする生き方」です。ショー全体を取り仕切りたがる役者のように、様々な戦略を駆使して他の人たちを支配し、コントロールしようとする共依存の生き方のことです。神ではないのに神の役を演じようとする無理のある生き方のことを「闘う」と表現しているのです。

自分の正しさを他の人に押しつけようとすれば、時にはそれに成功することもあります。相手が自分の誤りを認めて修正してくれることもあります。そのとき、私たちは自分の正しさや優秀さが証明されたと勘違いしてしまいます(勝ったように「見える」だけ)。自己中心的な人間はそれでは満足しません。ますます自分の正しさを証明しようと、すぐに次の闘いを始めてしまうのです。何しろ自分は彼らの行いによって傷ついているのであり、誰も傷つくことのない世界を目指さなければならない・・・それが神たるものの勤めなのですから。こうして、神たろうとする者たちは、つねに傷つき続け、恨み続け、それでも人や状況を支配しようと挑み続けているのです。

闘う生き方は避けるべきだと言ってはいるものの、それは誰かに反対することや競争することを避けるべきだ、と説いているわけではないことがお分かりいただけるでしょう。

以前、この段落の解説を一枚の紙にプリントアウトして配ったところ、妙に好評だったので、ここにもそれを載せておきます。

これまでの自分の人生を振り返ってみると、私たちは「傷つけられた」と感じたとき、いつも「自分は悪くない、相手が間違っている」という結論を出すことしかできなかった。それが私たちの古い生き方だった。相手の間違った行いを止めさせようと努力したこともあったが、それで相手が考えや行動を改めることはなく、こちらはますます嫌な気分にさせられただけだった。本当に、この世の中も、そこに暮らす人間たちも、ひどい間違いばかり繰り返しているのに、そんな連中が平気な顔をして生きている。ときには、自分がしたことを後悔し、自分で自分が嫌になったこともあった。本当にこの世の中は生きづらい。

でも、そのように「相手が間違っている」と結論づけて、腹を立てたり、恨んだり、自己憐憫に浸ったりしながら生きるのは、自分の考えや自分のやり方を押し通そうとしているだけの、自己中心的な「闘う」生き方ではないのか。闘えば、ときには勝つこともある。すなわち、自分のやり方を押し通し、自分の正しさを証明できた喜びに浸れるときもあるだろう。しかし、すぐに次の闘いが始まり、また恨みや自己憐憫が戻ってくるだけだったのだ。

自分は「生きづらさ」を抱えていて・・・などと気取ってしゃべっているけれど、実はイコール自己中心的なエゴイストだってことなのだ。そのことに、本人だけが気づいていないおめでたい「困ったちゃん」ではないのか。

すなわち、闘う生き方とは、自分の意志を押し通す生き方、何もかも取り仕切りたがる生き方のことなのです。

恨みがもたらすもの

次の段落は、深い恨みを抱いて過ごす人生は虚しさや不幸に行き着いてしまう、と述べています。さらに、

恨みをそのままにしておく分だけ、もっと楽しく過ごせたはずの時間が無駄になるだけだ。5)


To the precise extent that we permit these, do we squander the hours that might have been worth while.6)

「楽しく過ごせたはずの時間」と訳されていますが、価値ある時間という意味です。私たちは恨みに浸ることで、生きるに値する人生を自ら捨ててしまうことになります。「こんな人生は生きる価値がない」などと嘆いていたとしても、実は人生の価値を損なっているのは自分自身なのです。

私たちがステップに取り組んでいるのは、霊的体験(霊的目覚め)を得て、それを維持し、発展させていくためです。なぜなら私たちは霊的体験によって神との関係が作られることに望みをかけているからです。ところが、恨みは私たちと神との関係を邪魔してしまいます(神との関係を妨げるのは恨みだけではないが、恨みは最も妨げとなる障害物である(p.93、前回)。

こうした感情を抱いていれば、私たちは霊的な光the sunlight of the Spirit)から自分を閉め出してshut ourselves offしまう。5)

the sunlight という言葉は第一章のp.18でビル・Wが使っています。彼はそこで「ようやくぼくは太陽の光(the sunlight)の中に立った」と述べています。この「太陽の光」「霊的な光」という言葉は何を意味するのでしょうか? それは、宗教的な言葉を使うならば神の恩寵であり、よりAA的な言葉を使うならば「ハイヤーパワーの恵み」のことです。この恵みは、私たちが努力によって獲得したものではなく、私たち一人ひとりの一番深いところに生まれつき与えられているものです(p.80-81、第87回

だが私たちは、恨みやその他の諸々のことによって、せっかくの恵みを遮断(shut off)してしまっているのです。ジョー・マキューは、私たちは神を閉め出して(blocked out)いるのではない、神を閉じ込めて(blocked in)しまっているのだと述べています。7)

人生(生活・生命)の三つの次元(構成要素)

恨みを抱いたままでは、またアルコールへの狂気強迫観念がやってきて、私たちはまた飲み始めてしまいます。

ポイントこの部分を読んで、恨みという悪感情を持っていることが再飲酒の原因だ、という勘違いをする人がいます。そのような解釈だと、ともかく悪感情を持たないように、自分の気分を良い状態に保てば再飲酒を防げるということになります。しかし、そんなことは実現不能ですし、それができると考えるのは自力での解決を目指しているということでもあります無力を認めていない)。恨みという障害物によって、私たちと神とが隔てられ、神の力が私たちに及ばなくなることが私たちの苦しみの根本原因なのです。

私たちにとって、飲むことは死ぬことです第100回

恨みに対処する

酒をやめ続けたければ、生きていたければ、恨みに対処しなければなりません。ジョー・マキューもこう言っています:

あなたが人々に傷つけられたことを否定するつもりはない。平気で他人を傷つけるような人がいるのも確かだ。生きることは簡単ではないし、いやなことが起きるのが人生というものだ。生きているかぎり、傷つけられることもある。8)

この現実は受け入れるほかありません。アルコホーリクである私たちが生き続けるには、恨みに対処する方法を身に付けなければなりません。

ではどうやったら恨みを克服できるのでしょうか? 多くの人は「もう恨むのをやめました」とか「相手を許します」と言って、恨みに決着を付けようとします。しかし、この方法はうまくいきません。なぜなら恨みは結果に過ぎないからです。

材料と結果

ステップ3では意志と生き方について学びました第92回。意志とは私たちの考えであり、私たちは自分の意志にもとづいて行動し、その行動が積み重なって生活や人生となります。自分の考えにもとづいて行動し、その行動の結果誰かとトラブルが起こり、結果として恨みが私たちの中に生じているのです(考えが恨みを直接もたらす場合もあるので、上図では点線の矢印で示した)恨みの原因となった自分の考えや行動をそのままにしておいて、恨みという結果だけを変えることはできません

材料と結果もう少しシンプルに説明しましょう。カツ という料理があります。肉にパン粉を付けて揚げる料理です。いろいろな種類の肉が使われますが、材料として鶏肉を使えばチキンカツができあがりますし、豚肉を使えばトンカツができあがります。図にするまでもありません。

鶏肉を使ってトンカツを作ることはできませんし、逆もしかりです。そんなことは誰でも分かっています。でも私たちは、自分の考えや行動は変えずに、恨みという結果だけを変えようとするのです。それはまるで、鶏肉を使ってトンカツを作ろうとするようなものです。自分の中で恨みという料理ができあがるのを避けるには、材料を変えなければならないのです。恨むのをやめようとか、相手を許そうとかしてみても、自分の考え(と行動)を変えない限り、恨みは消えません。

だが、自分の考えや行動を変えるのは容易なことではありません。そもそも、どこをどうやって変えれば良いのか。それに、自分で変えることができるのでしょうか? 先を読んでいきましょう。

私たちはさっきの一覧表に戻る。未来へのかぎがここにかくされているからだ。9)

もう一度、恨みの棚卸し表を検討しなおします。

今度は全く違った角度から見てみることにする。私たちはこの世の中や世間の人たちの圧力に身動きが取れなくなっていた(really dominated us=実際に支配されている)ことが見えてきた。9)

「この世間と世間の人間どもは、ひどく間違ったことばかりしている」と非難しているつもりでも、この表をもう一度見直してみると、実は恨むことによって私たちはその人たちに実際に支配されている(really dominated us)ことが分かってきます。

恨むことによって、恨んだ相手に支配されてしまうことについては前回説明しましたが、ここではジョーたちの文章を紹介しましょう:

恨みを手放そうと考え始めると、世の中が少し違って見えてくるだろう。恨みの中で生きていたころは、恨んでいた外の世界や他人に支配されていた。恨みを抱いている他人、組織、しきたりによって、自分の考え方や行動が決められていた。怒りにしがみついているかぎり、行動も人生も他の人たちにコントロールされる。他人に恨みと怒りで報復することは、彼らの支配下に自ら入ることを意味する。つまり、恨みは致命的で、人生を終わらせてしまうほどの威力をもっている。恨んでいる理由が真実であるか、それとも自分の思い込みであるかは関係がない。10)

つまり、ステップ4で恨みの表を書き、それを自ら検討することによって、

恨むことで自分を相手に支配させている

という現実を見て取ることが期待されているのです。せっかくがんばって棚卸し表を書いても、こうした成果(効果)が得られなければ、書くために費やした時間や労力が無駄になってしまいます。第89回で、12ステップでは「やることさえやっていれば、結果は後からついてくる」と考えてはいけない、ということを説明しました。スポンサーシップにおいてもそうですが、事情があって一人でステップに取り組まなければならない場合には、特にこのことが重要です。(アダルトチャイルドの場合には、恨みの表を書くことで、自分の人生がうまくいかないのは親のせいであるという恨みによって、大人になった今でも、親に対して自分の人生を「どうぞ支配してください」と差し出している、という現実を見て取ることになるわけです)。

さてこれで、恨みを克服(master)しなければならないことは分かりましたが、具体的にどうすれば良いのでしょうか? 恨みも、酒の問題と同じで「消えろ」と願っただけで消え失せてはくれません。

神の力を頼る

だから私たちは次のようにした。自分たちに不当なことをした人たちは、多分、霊的に病んでいるのだと考えた(realized=気づいた)9)

私たちは自分が霊的に病んでいることを受け入れ、それを前提として棚卸しを始めました(p.93)。この作業によって、霊的に病んでいるのは自分だけでなく、第一列に挙げた人たちも、自分と同じように霊的に病んでいるということに気づくことになります。

私たちは(神ではないのに)神の役を演じようとしています(p.90, 第100回。自分の不完全性を棚に上げて、他の人たちの不完全性を非難しているのです。

彼らのやり方(symptom=症候は気に入らず、私たちに大いに反感を抱かせたが、彼らもまた私たちと同じように病んでいるのだ。9)

私たちは霊的に病んでいて、そのせいで霊的に病んだ行動を取ります。同じように、第一列に挙げた人たちも霊的に病んでいて、霊的に病んだ行動をして私たちを傷つけました。だが彼らの行動は、霊的な病気の症候に過ぎません。症候とは病気が表面に表れてきたものです第102回。病気の症状を非難するのは良いこととは言えません。

病気の友に喜んで示すような包容力(tolerance=寛容さ)、思いやり(pity=憐憫)、辛抱強さ(patience=忍耐)を与えてください、と私たちは神に願った(ask)9)

ここで願う(ask)という重要なキーワードが登場しました。askは「頼む」という意味です。自分ではできないことを、神様に代わりにやってくださいとお願いすることです。祈りの本質は、神様に願い事をすることであり、神の力を頼るという自分の意志を示すことです。

私たちは、自分でできることは、自分でやらねばなりません。でも「できないことまでやれ」とは神様は言いません。できないことは神様にやってもらえば良いのです(もちろん、それをどのように、いつやるかは神様次第なので私たちのコントロールは及びませんが)。私たちは、自分では解決できないアルコールの問題を、神に解決してもらうために12ステップに取り組んでいます(pp.66-67, 第75回。それだけでなく、アルコール以外の自分では解決できない問題も、神に解決を頼むというやり方を12ステップを通じて身に付けていきます。

Serenity Prayer Flyer
Serenity Prayer Flyer, from Alcoholics Anonymous New Zealand

AAだけでなく12ステップ共同体で広く使われている「平安の祈り」も、神様に頼み事をする内容になっています:

「神さま、私たちにお与え下さい。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えていく勇気を、
そして二つのものを見分ける賢さを」11)

この祈りがAAで使われるようになったきっかけは『AA成年に達する』のpp.296-297に書かれています。この祈りは一行目の「与えてください」という頼み事で始まっています。そして二行目以降で落ち着き・勇気・賢さという三つを求めています。つまり、自分で落ち着きを得ようとしても得られないし、勇気を得ようとしても得られない、そして自分で自分を賢くしようとしても賢くなれない。だからこそ、それらを与えてくださいと神に頼んでいるのです。

自分で落ち着き・勇気・賢さの三つが獲得できるのなら、こうした祈りは必要ありません。しかし私たち人間は不完全な存在であり、この三つを必要なだけ得ることができません。でもこれらが必要だから、「ちょうだい」「くれ」「よこせ」と神に迫っているのです。

私たちは落ち着きや、勇気や、賢さを、自力で手に入れられると思っています。AAのミーティングで平安の祈りを唱えながらも、自力でそれらを得なくてはならない、と考えている人もいます。私たちは、自分ではそれらを獲得できないという考えを嫌いますし、神にそれを求めることも嫌います。手を合わせ、こうべを垂れることも嫌がります。だが、生きていくためにそれらが必要なのだと気がついたとき、それを実行するようになります。なぜなら、自分で獲得しようが、神から与えられようが、ともあれ自分がそれらを手に入れるということが大事だと理解するからです。

自分を傷つけた相手を病んだ友と見なして、寛容さや、憐憫や、忍耐を示す・・・そんなことは到底できそうにないことです。しかし考えてみてください。自分でそれを実現しようとするから「そんなことは無理だ」という結論になってしまうのです。自分にはできないことも、神にはできると信じれば、神様に頼むことができるでしょう。

ここから先のステップでは、しばしばこの「祈る」という手段が用いられます。自分ではできないことを神様に頼みながら進んでいきます。p.91のステップ3の祈りも第101回、読み返してみれば神様に頼み事ばかりしていることが分かります。自分ではできないから、あれもやってください、これもやってください、と願うのが祈りなのです。

そして、多くの経験者が語っているように、祈りには効果があります。つまり、神は私たちが願ったことを実現してくれるのです。もちろん、いつ、どのようにそれを実現するかは私たちのコントロールの及ぶことではありませんが、例えば、祈りを続けるうちに、以前だったら顔を見ただけで腹が立ってきた相手が、いつの間にかそれほど気にならなくなっていることに気づいたりします。自分の中に、以前にはなかった寛容さや、場合によっては相手に対する同情さえ与えられていることに気づくようになります。それを得るために、自分が特別な取り組みをしたわけではありません。ただ祈り、神に願っていただけなのです。

そうやって、自分も霊的に病んでいて、霊的な病気を自分では治せないように、相手も霊的に病んでいて、それを自分ではどうしようもない、という現実が見えてきます。人間の理性の限界を理解するようになります第82回

ビッグブックには、「自分ではできないことを、私たちのために神がやってくれる」という表現が何度も登場します。祈りを通じて頼んだことを、神様がやってくれた、という体験を繰り返すことで、私たちは少しずつ霊的に目覚め、神の存在を確信するようになっていきます(だって、頼んだことをやってくれたんだもん、姿は見えないけど、きっといるはずだよ)。

そうやって作りかえられた私たちが、過去の自分を振り返ってみると、恨んでいた自分の考えが、あまりに愚かで、幼く見えて、自分でも恥ずかしくなってしまうこともしばしばです。それは成長したからこそ、かつての自分が幼く見えるのです。子供から大人へと身体は自然に成長しますが、すでに大人になってしまった私たちは自然には成長しません。何らかの取り組みが必要であり、祈りはその一つです。

受け入れること

私たちは報復や論争を避けた。誰も病人に向かってそんなことはしないだろう。でなければ、その人の助けになれるチャンスをつぶしてしまう。12)

ステップ3の本能のところで学んだように、私たち人間は徹底的に社会的な動物であり、一人で生きていくことはできません第96回第98回第100回。人間とはそれほどまでに脆弱な動物であり、一人では自分の生存に必要なものを揃えられないのです。だから私たちは社会という集団を作って、できないことをお互いに補い合い、助け合って生きています。金銭を媒介にしたり、行政システムを構築することで、この「助け合い」の仕組みは見えにくくなっていますが、人間は助け合わずには生きていけないということを忘れてはいけません。

万人の助けになることはできなくても、少なくとも神は、どうすれば誰に対しても優しく、包容力(tolerant=寛容さ)を持って接することができるか私たちに示してくれるだろう。13)

ステップ3で登場した「ショー全体を取り仕切りたがる役者」(それは私たち自身のことでしたが)は、なぜ、何もかも取り仕切りたがるのでしょうか? 自己中心的というと、「自分さえ良ければいい」という考えで、自分の幸せだけを追求している状態を思い浮かべます。確かに「自分さえ良ければいい」というのは自己中心的な考えであり、トラブルの元です。しかし、この役者さんはそう考えているわけではありません。

彼はショーを成功させようとしているのです。ショーが成功すれば、自分だけでなく、が幸せになれます。彼は(自分を含めた)みんなのために努力しているのです――Everybody, including himself が訳し落とされているのでそのことが分かりにくくなっていますが第93回

棚卸しを通じて、自分が「自分さえ良ければいい」という考えに染まっていると気づいたときには、そうした考えを捨てるのはそれほど難しくはありません。けれど、誰かの言動に傷つけられたとき、それが自分だけでなく、相手(その人自身)にとっても良くないことだと思ったり、みんなのため、社会のためにも良くないことだと思うときには、ますます相手の言動を受け入れられず、寛容さを持てなくなります。

つまり、ショー全体を取り仕切りたがる役者とは、「自分さえ良ければいい」という人のみならず、私は「あなたのために」あるいは「みんなのために」やっているのに、なんでわかってくれないの? と腹を立てたり、分かって貰えない自分を惨めに感じている人のことなのです。それも「自分さえ良ければいい」と同じぐらい自己中心的だというのです(自分では公憤だと思っていても、実は私憤をぶつけているだけなのである)

上に述べましたが、他の人たちに考え方や行動を変えるように要求するのが悪いことだとか、してはいけないことだとは、ビッグブックは主張していません。そうすることが必要な場合もあるでしょう。しかし、そうやって相手に要求した結果、相手がこちらの考えに反対したり、聞き入れてくれなかったり、無視されたときに、私たちは「なんでわかってくれないの?」という恨みで反応し、相手の支配下に入ってしまいます。それが、恨みがましい私たちの考えと生き方なのです。「相手が間違っている、自分が正しい」という考えに凝り固まって、再び神の座へと上ろうとするのです。

どうやったらその罠を避けることができるのでしょうか? 英語版のビッグブックの個人の物語に、そのヒントとなる記述があります。ドクター・ポール・Oの「受け入れることが答えだった」から、少し長いですが、その有名な一節を紹介しましょう:

つまり、受け入れることが、私のあらゆる問題に対する答えだったのだ。私の気持ちが不安定になるのは、ある人物、どこかの場所、ものごとや状況といった、自分の生活の中の何かが、私には受け入れがたいからなのであり、その人や場所やものごとや状況を、あるがままに受け入れてこそ、落ち着きが得られるのである。神が作った世界では、たまたま何かが間違って起こるというようなことはありえない。自分のアルコホリズムを受け入れて初めて、私は酒をやめることができた。同様に、人生をあるがままに受け入れなければ、幸せになれるはずがないと思っている。私が全力を注ぐべきことは、自分のまわりを変えることよりも、自分自身を変えること、自分の態度を変えることなのだ。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」とはシェークスピアの言葉だが、シェークスピアは、私のような鋭い批評家がいることを忘れていたようだ。私は、どんな人物であれ、どんな状況であれ、必ずそこに欠点を見つけ出した。人は誰しも、私と同じように完ぺきを求めていると思っていたから、その人の欠点を指摘することに喜びを感じた。しかし、AAによって、そして受け入れることによって私が学んだことは、最悪の人の中にも良いものが必ずあり、最高の人の中にもいやな面があるという事実だった。また、私たち全員が神の子であり、すべての人にそれぞれの居場所と自由があるということを学んだ。私が、自分自身のことや人のことに文句をつけるなら、それは神の行いに対して文句を言うのと同じことである。そしてそのことは、神よりも私のほうがものごとがよくわかっていると言っていることになる。14)

繰り返しますが、人間はそう簡単には変化できません。もちろん、変われないわけではありませんが、こちらの望んだタイミングで、こちらの望んだ変化の仕方をしてくれと願っても、そう思い通りにはなってくれません。だから私たちは、まず現状を受け入れる必要があります。その現状に対して私たちが何かできるのは、受け入れた後です。

同居している家族の行動が気に入らないという場合で、例えば「靴下は脱いだら裏返して洗濯機に入れておいて」と言っても、いつも脱ぎっぱなしで放置されているとしましょう。いつかはそれをやってくれるようになるかもしれませんが、それがいつかは分かりませんし、それまで腹を立て続けるわけにもいきません。ならば、その現実を受け入れて、見つけた自分が靴下を洗濯機に入れるほかありません。そのかわり、自分ができないことを相手にしてもらえば良いのですし、してもらえないなら要求すれば良いのです。そうやってお互い補い合いながら暮らしていれば、関心は「相手が正しいことをしているか」ではなく、お互いの負担のバランスが取れているかに向きます。

職場に欠点だらけの上司や同僚がいることも珍しくありませんが、だったらその欠点を受け入れて、補うために自分ができることをすれば良いだけなのです。その欠点のせいでトラブルが起きてしまうこともあるかもしれませんが、それを防ごうとするあまりに自分が「ショー全体を取り仕切る役者」になることを正当化してはいけません。

恨んでいれば相手が変わってくれることはありません。恨みで社会を変えることもできません。この世はアルコホーリクで溢れかえっているわけではありませんが、「神よりも自分のほうがものごとがよくわかっている」と思っている人で溢れかえっています。それは(アルコホーリクだけでなく)誰もが多かれ少なかれショー全体を取り仕切る役者である以上、仕方ないことではあるのですが。

次回も恨みの棚卸しの続きです。

今回のまとめ
  • 表を見返してみると、この社会も、そこにいる人々も、しょっちゅう間違ったことばかりしている、といういうことがわかる。
  • 私たちは、周りの人たちにいつも不当な扱いを受けている、という結論にしか達せなかった。
  • だがその結論は私たちをますます傷つけるだけだった。
  • それは私たちが自分の意志を押し通す(闘う)生き方をしているからだ。
  • 恨みは私たちと神との関係を遮断してしまう。
  • 恨みの原因となった自分の考えや行動をそのままにしておいて、恨みという結果だけを変えることはできない。
  • しかし自分の考えを変えるのは容易ではない。だから、私たちは神を頼る。
  • (例として)相手に対する寛容、憐憫、忍耐を与えてくださいと神に頼む。
  • 神がしかるべきタイミングでそれを与えてくれることから、私たちは神の存在を確信するようになっていく。
  • その時私たちは、神によって自分が変えられていることに気づくだろう。

  1. BB, p.95 []
  2. BB, pp.95-96 []
  3. AA, pp.65-66 []
  4. Tony A., et. al, The Laundry List: The ACoA Expereince, 1990, Health Communications, Chater 3, 4 []
  5. BB, p.96 [] [] [] [] []
  6. AA, p.66 [] []
  7. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『ビッグブックのスポンサーシップ』, 依存症からの回復研究会, 2007, p. 94 []
  8. 無名(A Program for You翻訳チーム訳)『プログラム フォー ユー』, 萌文社(ジャパンマック), 2011, p.107 []
  9. BB, p.97 [] [] [] [] []
  10. 無名, p.116 []
  11. AACA, pp.296-297 より慣用に従って一部修正 []
  12. BB, pp.97-98 []
  13. BB, p.98 []
  14. AA『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol.2』, AA日本ゼネラルサービス, 2011, pp.70-71 []

2024-01-16

Posted by ragi