ビッグブックのスタディ (114) 行動に移す 6
今回からステップ9です。ステップ9は「その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした」となっています(p.86)。
「直接」の意味
直接埋め合わせをするとは、相手と対面して(face-to-face)埋め合わせをすることです。1) これは、ステップ9の埋め合わせは、相手に会いに行って行うのが基本だということを示しています。
僕が常々不思議に思っているのは、オンラインで行うAAミーティングを否定し、対面のミーティングにこそ価値があると主張している人たちが、埋め合わせをするときには(対面で行うことを避けて)メールや手紙で埋め合わせを行おうとすることです。対面へのこだわりが、なぜ埋め合わせについては発揮されないのでしょうか?
ジョー・マキューらもこう述べています:
手紙や電話では、最大限の努力を行ったという確信がもてないのではないだろうか。心のどこかに、相手と正直に向き合うことを避けてはいないだろうか。もし、実際にその人に会って、腰をおろして互いに目を見て話し合えば、自分としてはできるだけのことをしたと確信できるだろう。しかも、埋め合わせの努力がどのように相手に受け取られたか、その場で知ることができる。2)
電話や手紙で埋め合わせをすることを否定はしませんが、それはあくまで対面することができない場合の非常手段であり、対面しての埋め合わせが最も効果的だと言えます。
なんとか12ステップを先へ進んでいきたいけれど、直接埋め合わせをする意欲がまだ十分に持てない、という状態の人にとって、(相手と対面せずに)電話や手紙やメールなどで埋め合わせを行うことが魅力的な選択肢に思えることもあるでしょう。しかし、そのような手段に頼らずに、対面して埋め合わせする意欲を持つ方へと努力を向けるべきでしょう。
私たちはステップ4から9で自分の内面の掃除に取り組んでいます。その中のステップ4・5・6・7は自己(つまり私たちの精神)を対象にしたステップでした。この四つのステップによって私たちの精神に変化が訪れたはずです。つまり私たちは新しい考え方をするようになりました。
ところで、ステップ3では、考えが行動を生み出すことを学びました(第92回)。私たちの考えが変わったのであらば、私たちの行動も変わるはずです。逆に言えば、私たちの行動が変わらないのであれば(私たちがいくら自分が回復したと主張しようとも)それは私たちの考えが変わっていないということになります。だから私たちは、直接埋め合わせするという行動を取ることによって、私たちの考えが実際に変わった証拠を示さなければなりません。
12のステップはまさに行動のプログラムです。AAミーティングで埋め合わせについて話したり、考えたりしているだけでは埋め合わせの成果は得られません。その成果は、埋め合わせを実行することで得られるのです。
埋め合わせの分類
ステップ9の説明は110ページの9行目から121ページの7行目まで、約11ページもあります。第六章ではステップ5から11までの七つのステップを扱っていますが、そのなかでステップ9に最も多くのページを割いています。
その長い説明を分かりやすくするために、埋め合わせをいくつかに分類するという試みが行われています。例えばジョー・マキューらは、
-
- 直接顔を合わせてする埋め合わせ
- 金銭の埋め合わせ
という二つに大分類しました。3) 4) また、ワリー・P(Wally P., 1946-)は、埋め合わせを
-
- 直接の埋め合わせ
- 生活の中での埋め合わせ
- 別のことでの埋め合わせ
- 会おうにも会えない人への埋め合わせ
の四つに分類しました。5)
さらに、エド・W(Edward Webster, -1971)とバリー・C(Barry Collins)というメンバーが1946年に An Interpretation of the Twelve Steps of the Alcoholics Anonymous Program(AAプログラムの12ステップの解釈)という本を出版しましたが、これは後に The Little Red Book(リトル・レッド・ブック)と改題され、ドクター・ボブの勧めもあってAAのなかで大いに広まりました。この本のなかで彼らは埋め合わせの対象を「友人」「家族」「債権者」「故人」の四つに分類しました。6)
それぞれの分類には意味がありますが、このスタディではあえて埋め合わせの分類を行わず、別の切り口で説明していこうと思います。それは、埋め合わせに含まれているべき要素です。今回と次回にわたって四つの要素を挙げますが、すべての埋め合わせにおいてこの四つの要素が必ず含まれていなければならない、というわけではありません(すべてが含まれる必要のない場合もある)。しかしそれぞれの埋め合わせに必要な要素が含まれていなければ、それは十分な埋め合わせにはならない、という点で、重要な意味を持っています。
最もシンプルな埋め合わせ
110ページから112ページまでには、最もシンプルな埋め合わせについての説明があります。それは、相手に直接会いに行き、面と向かって行う埋め合わせです。
では、相手に会ったら、私たちは何をすれば良いのでしょうか?
自分の落ち度を積極的に認める(admitting our faults)ことには気乗りがしないかもしれない。7)
気乗りはしませんが、私たちは相手に対して、自分の誤りを認めなければなりません。自分の非を認めることの必要性は115ページと117ページでも述べられています。8)
ところで、ビッグブックの説明に従って12ステップに取り組む人々が少しずつ増えだしたのは、2003年ごろからでした。それは2000年にビッグブック日本語版の改訳が行われたことが一つの契機になっており、その意味では改訳は成功だったと言えます。しかし、ビッグブックのやり方が広まっていくにつれて、その意味を汲み取れていない人たちによるトラブルも起きました。その一つを紹介しましょう。
10年ほど前のことでした。日本のある地域で、AAの古参メンバーたちが不平をこぼしていることが伝わってきました。彼らは「最近、長く会っていなかったメンバーが、久しぶりに私の出ているAAミーティングにやってきて、帰り際に『いろいろとごめんね』と言って去っていったのだが、あれは埋め合わせのつもりなのだろうか?」と言うのでした。
おそらくそれは埋め合わせのつもりだったのでしょう。「ごめんね」と言っているのですから、一応謝罪の意志は示しています。しかしそれだけでは、明らかに何かが足りないと多くの人が感じるはずです。いったい何が足りないのでしょうか?
日本では、何かトラブルが起きると、自分が悪いわけでもないのに「すみません」とすぐに謝ってしまう人が少なくありません。しかし政治家だけは例外なようで、彼らは明らかな間違いを犯しても屁理屈をこねてなかなか謝ろうとしません。その謝罪を拒否する姿を揶揄して、「彼らは謝ったら死ぬ病気にかかっているのだ」と言われるほどです。実のところアルコホーリクもその点では政治家と似たようなもので、謝罪したり頭を下げたりするのは大嫌いなのです。しかし、自己中心的なアルコホーリクたちが謝ることよりさらに嫌なのが「自分の非を認めること」なのです。
たとえ謝ったとしても、自分の非だけは認めたくない、というのが回復前のアル中の心情です。その心情が「いろいろとごめんね」とか「いろいろとすいませんでした」というみっともない言葉を産み出すのです。それに対して「いろいろって何だよ! 具体的に言えよ」と指摘したとすれば、その人は傷ついて「俺が謝っているのになんだよ!」と逆ギレしてくるでしょう(あー、めんどくせー、だからアル中は嫌われるんだよ)。
自己中心的な人は、自分の誤りを認めることが、相手に対する負けを認めることだと思っているのです。埋め合わせは勝ち負けなどではありません。自分の誤りを認めることには大きな価値があります。私たちはその価値を実践を通じて学ばねばなりません。
すでに棚卸しのときに「どこで誤ったか、その代わりにどうすべきだったか」(p.101)を検討してあるはずです。それを率直に相手に認めれば良いのです。何をどう間違えたのか、本来はどうすべきだったのかを相手に話すのに長い時間は要りません。1分あれば十分でしょう。
ここで良くある間違いは、なぜ自分がそんな間違いをしてしまったのかを説明しようとして、長々と言い訳をしてしまうことです。本来善良な自分が、こういう事情で間違いをせざるを得なかったのだ(つまり「私のせいじゃない」)という文脈になってしまうと、相手は「お前は本当に自分の誤りを認めるつもりがあるのか!」とイライラしてくるでしょう。どんな事情があるにせよ、決断したのは自分であり、自分に非があると認めることが欠かせないのです。
相手が会ってくれないとか、会った途端に追い返されたのではなく、話を聞いてくれたのに、途中から相手が怒り出したという場合は、こちらが自分の誤りを認めていないか、認めたとしても、その後が言い訳ばっかりになってしまったケースがほとんどでしょう。それだけに、簡潔に自分の誤りを認めることが大事なのです。
自分の誤りを認めた後は何をするのでしょうか?
遺憾(regret)の気持ちをあらわす。9)
自分の行為についての regret は、後悔しているという意味です。113ページには「申し訳なく思っている気持ち(sorry)を伝える」ともあります。私たちは自分が間違ったことをしたことで相手を傷つけ、そのことを申し訳なく思い、後悔しているのですから、それを相手に言葉で伝えるのです。シンプルに表現するならば、謝罪するということです。
謝罪の言葉は、相手との関係性によって、「申し訳ありません」でも「ごめんなさい」でも良いでしょう。これも長々と語る必要はありません。
このように、自分の誤りを認めることと謝罪が埋め合わせを構成する二つの基本要素になります。おそらくどのような埋め合わせにおいても、この二つは欠かせないでしょう。そして、この二つを相手に伝えるのに長い時間は必要ありません(もちろん、会いに行って長い時間を過ごすことを否定するわけではありません)。
12ステップを描いた映画が何本かあります。そのなかでも『ドント・ウォーリー 』(2019)は、風刺マンガ家のジョン・キャラハン(John Callahan, 1951-2010)の半生を描いた同名の自伝10)を元にしています。ジョンは21才のときに飲酒が原因の交通事故で四肢麻痺になってしまいます。リハビリによって上半身が部分的に動かせるようにはなるのですが、その後も車椅子の生活で酒を飲み続けました。映画でもなかなか酒をやめず、後半のAAでの回復は駆け足で描かれています。
映画の中でスポンサーに言われて埋め合わせに取り組みだしたジョンは、買い物に行った食料品店で偶然高校時代の美術の先生を見かけます。そこですかさず先生に声をかけ、高校時代のことを謝りたいと言って過去に自分がしたことを詫びるのでした。そのシーンは短くほんの数十秒しかありません。それをきっかけに、ジョンはステップ8の表を手に次々と埋め合わせを進めていきます。依存症を取り上げた映画は数多くありますが、12ステップを描いた映画はわずかしかありません。そのなかでも『ドント・ウォーリー』は12ステップとは何なのかをかなり的確に表現している名作だと言えます。11)
『ドント・ウォーリー』メイキング映像(DVDはすでに品切れになっていますが、Amazon Primeで観ることができます。映画.comのページに予告編やメイキング映像があります)
また、ビル・Wの妻、ロイス・ウィルソン(Lois Wison, 1891-1988)がアラノンを作るまでを描いた映画 When Love Is Not Enough: The Lois Wilson Story(2010)には、ロイスが友人に埋め合わせをするシーンがあります。彼女は二度の子宮外妊娠によって子供を産めなくなってしまったのですが、それでも子が欲しいと願うビルのために、夫妻は養子を迎えることを決めます。しかし、養子縁組を紹介する協会から一向に紹介が無いことを不審に思った彼女は、友人がビルの飲酒のことを心配してそのことを協会に伝えたせいで紹介が無かったことを知り、その友人を非難しました。だが、友人と再会したロイスは、友人の心境を慮ることができなかった自分の至らなさを認めて謝罪するのでした。感動的なシーンですが、時間は短いものです。(残念ながらこの映画は日本では未公開です)
映画の一シーンだから短く描かれているという事情もあるのかも知れませんが、率直で簡潔な言葉があればよいのであって、長い話は要らないという良い例になっていると思います。
12ステップが描かれた映画としては、もう一つ『チェンジング・レーン 』(2002)を紹介しておきます。
相手を非難しない
どんな状況であっても、決して相手を批判したり、言い争ったりしない。・・・私たちは相手がすべきことは何かを伝えるためにきたのではない。したがって話は相手の欠点(faults=誤り)ではなく、自分の欠点(誤り)だけに絞られる。9)
人と人との間にトラブルがあるとき、どちらか一方だけに誤りがあることはまずありません。それはつまり、私たちが埋め合わせに行く相手にも誤りがあるということです。しかし、埋め合わせは相手の誤りを指摘しに行くことではなく、自分の誤りを認めに行くことです。ですから、相手の誤りには言及しません。
私たちはステップ4で、他人が間違っているという結論にもとづいて生きていたのでは、この先も自分が傷つき続けるしかないという現実に気づきました(p.96, 第104回)。この先も人に傷つけられながら生きていくのは嫌ですし、そんなことを続けていたらまた飲んでしまう可能性も高くなります。だから私たちは、相手の間違いではなく、自分の間違いに目を向けることにしたのでした。
その行動原理をステップ9にも応用するだけのことです。
おおむね良い結果が得られる
もし私たちの態度が穏やかで、率直で、広い心に満たされていれば、必ず満足のいく結果が得られるだろう。9)
埋め合わせがさらなるトラブルを引き起こすことはまずありません。もしトラブルが起きるとすれば、これまで書いてきたように、私たちが自分の誤りを認めずにごまかそうとしたか、相手の誤りを指摘しようとしたときだけでしょう。
埋め合わせの経験を通じて、私たちは自分の誤りを他者に対して認めることの価値を知るようになります。多くのAAメンバーが経験として語っているように、その瞬間私たちは心が軽くなったように感じます。それは、私たちの中の掃除が進んだのであり、神との関係を邪魔している障害物がまた一つ取り除かれ、神の存在を感じられるようになってきたことを意味しているのです。だが、埋め合わせの意欲を与えてくれたのは神であったことを忘れてはいけません。
ジョン・キャラハンが食料品店の店内で高校の先生に埋め合わせをしました。ステップ9は「可能なときはいつでも(whenever possible)」ではなく、「可能ならばどこでも(wherever possible)」となっています。12) もし「いつでも」と書かれていたら、私たちアルコホーリクはせっかくそのチャンスが与えられても「また次の機会に」と言って、埋め合わせを無期限に延期しかねません。埋め合わせにふさわしいタイミング、ふさわしい場所、ふさわしい状況は神が与えてくれます。私たちはそれを逃さないように、自分の側の準備を整えておけば良いのです。13)
拒否されたとしても
もしも相手からとっとと帰れと言われたとしても、気にすることはない。私たちは自分の意思を示したのだし、できることはやった。それ以上はいまさらどうにもならないことなのだ。9)
相手から追い返されたとしても、そのことは問題ではありません。こちらが自分の誤りを認めて謝罪しても、相手がそれを拒否することはあり得ます。その場合には私たちにそれ以上できることはありません。
埋め合わせは、自分と神との間にある障害物を取り除くことが目的であり、埋め合わせする相手との関係を修復したり、相手から許してもらうことが目的なのではありません(もちろん結果としてそうなるのであらば、それに越したことはありませんが)。
しばしばある間違いは、相手がこちらの埋め合わせを受け入れてくれるまで、あるいは許してくれるまで、何度も埋め合わせを試みることです。あるいは、埋め合わせを拒否されたことを必要以上に気に病む人たちもいます。その人たちは、自分が相手から恨まれていることや、自分が酷い人(悪い人)だと思われていることに耐えられないのです。あるいは、自分で自分のことを許せていないのです。自分が不完全な人間であることを受け入れられず、完璧な存在でなければならないと思っているのです(第112回)。だから、埋め合わせを相手に受け入れてもらい、許してもらうことで、過去の自分の誤りを「無かったこと」にしたいという願望に支配されているのです。
結局のところ、自分の誤りをどうしても認めたくないとか、相手の誤りについても言いたくなるとか、自分が過ちを犯した事情を説明したい(つまり言い訳をしたい)とか、相手に許してもらうことを求めてしまうという状態であるならば、それはまだ埋め合わせの準備ができていないのです。なのに、ステップを先に進めたいという考えが勝ってスポンシーが埋め合わせを強行しようとしている場合には、それにブレーキをかけてあげるのもスポンサーの役割でしょう。(12ステップは「ともかくやるべきことさえやれば結果は後からついてくる」というものではありません)。
私たちはステップ4から9の掃除のプロセスを通じて、自らの不完全性、人間というものの不完全性に気づき、それを受け入れていかなければなりません。なのに12ステップを、完全になるために――すなわち自分が「ちゃんとした人間」であることを証明するために――使おうとする人が後を絶ちません。
なぜ神は人間を不完全に作ったのか? という質問を頂いたことがあります。神の意図が僕ごときに分かろうはずがありませんが、僕としては「私たちが不完全に作られているのは、私たちが常に神を必要とするようにするため」という説明が気に入っています。
次回予告
今回は、相手に会いに行き、自分の誤りを認め、謝罪するという最もシンプルな埋め合わせについて説明しました。しかし、これだけでは埋め合わせとして不十分な場合もあります。113~120ページでは原状復帰や再発防止の努力について述べられています。次回はその部分を扱います。
- 直接埋め合わせするとは、相手と対面して埋め合わせをすること。
- 直接埋め合わせをする意欲がまだ十分に持てない場合に、電話やメールで埋め合わせを済ますべきではない。
- 最もシンプルな埋め合わせは、相手に会いに行き、自分の誤りを認め、謝罪すること。
- そのために長い言葉は必要ない。
- 言い訳をしないように気をつける。
- 相手の誤りは指摘しない。埋め合わせを拒否されたとしても、それ以上私たちにできることはない。
- 12&12, p.104 — 「向き合い」と訳されている。[↩]
- PFY, p.164.[↩]
- CTM, pp.144-148.[↩]
- PFY, pp.163-167.[↩]
- Wally P., Back to the Basics of Recovery[, Faith with Works Pub., 2016, p.43.[↩]
- Anonymous, The Little Red Book: The Original 1946 Edition, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2013 — 後にHazeldenから出版された同題の本では大幅に加筆修正が行われているが、この四つの分類は維持されている。[↩]
- BB, p.111.[↩]
- 「自分の非を認め」(p.113)、「自分の過ちは認めなくてはならない」(p.117)[↩]
- BB, p.112.[↩][↩][↩][↩]
- John Callahan, Don’t Worry, He Won’t Get Far On Foot, Vintage Books, 1990.[↩]
- ジョン・キャラハンは実母に捨てられ養子として引き取られたというエピソードは映画に出てくるが、自伝に書かれている性的虐待を受けたことは映画では省かれている。[↩]
- 「機会あるたびに」と訳されている。[↩]
- CTM, pp.146-147.[↩]
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