ビッグブックのスタディ (112) 行動に移す 4
ステップ7
今回はステップ7です。ステップ7は「私たちの短所を取り除いてくださいと、謙虚に神に求めた」(p.86)となっています。そして、その言葉どおりに、p.109のステップ7の説明は、性格上の欠点を取り除いてもらうように神に求める祈りが載っているだけです。神に自分の欠点を取り除いてもらう、という考えに引っかかりを覚える人もいるでしょうが、まずはこの祈りの内容を見ていきましょう。
準備ができたら、たとえば次のように祈る。1)
準備ができるとは、ステップ6に取り組んだことで、欠点を取り除きたいという意欲が持てた状態のことです。
神さま、私はいま、私のすべてを、良いところも、悪いところもあなたにおまかせする気持ちになっています。1)
悪いところ(欠点・短所)を取り除いてもらうのはともかくとして、なぜ良いところも神に委ねなければならないのでしょうか? それを理解するためには、欠点とは何かに立ち戻らねばなりません。前回、欠点とは、私たちの精神の中にある、役に立たなくなった考えであるという説明をしまた。つまり、欠点とは私たちの意志の一部分なのです。そして、私たちの意志は、三つの本能から成り立っています。本能は私たちが生きていく上で必要なものであり、基本的には良いものです。しかし、私たちは自分の本能をコントロールすることができず、しばしばそれを暴走させてしまいます。するとそれが人間関係のトラブルや悩みを私たちにもたらします。(第96回・第99回・第100回)
つまり私たちの意志は基本的には善なるものであるにしても、容易に悪に転じうるものなのです。人間はいつでもどこでも通用する普遍的な真理を見つけることはできません。真理に近づくことはできるでしょうが、真理に達することはできないのです。私たちにできることは、せいぜいある範囲で通用する限定された真理を知ることだけです。自分の考えが人間関係や社会の中で通用していたとしても、それは現在の状況の中で通用しているだけに過ぎず、状況が変われば通用しなくなる可能性は十分にあります。棚卸しによって見つけた欠点は、かつては役に立っていた考えでした(だからこそ私たちはその考えを身に付けました)。それが状況の変化によって欠点に転じてしまったのです。であるならば、現在の自分に役に立っている考え(長所)も、将来短所に転じてしまう可能性は十分にあります。
人間は限定された真理しか手にできない、ということは、私たちの知性・理性には限界があることを示しています(それについては第86回で説明しました)。私たちはステップ3で「神を演じることをやめる」決心をしました。それは、私たちが不完全で限界ある存在であることを受け入れるということです。私たちには「善悪の最終判断を自分で行いたい」というこだわりを持っているものですが、それを手放して、良いところも悪いところも、自分の意志のすべてを神に委ねるほかないのです。
あなたと、そして仲間たち(my fellows)の役に立ちたいと願う私にとって、行く手のじゃまになる性格の欠点をどうか取り除いてください。2)
この「仲間たち」をAAメンバーやアルコホーリクのことだと勘違いしている人は少なくありません。しかしビル・Wはビッグブックで one’s fellows という表現を常に「その人の周囲の人たち」という意味で使っています。3) つまりここの「仲間たち」とは、自分の家族・親族、友人、仕事の同僚や顧客、近所の人たちなどのことです。もちろんその中にはAAメンバーも含まれているでしょうが、アルコホーリクのことだけを指しているわけではありません。
不完全で限界ある存在なのは私たちアルコホーリクだけではありません。他の人たちも皆そうなのです。人が不完全であるということは、できないことがあって当然だということです。だからこそ私たち人間はお互いに助け合って生きていくしかありません。神が人間を不完全に作ったということは、人間を「お互いに助け合うように」作ったということでもあります。だから私たちはその意図に従って、他の人たちと助け合い、頼りあいながら生きていくのが良いのです。
回復施設で働いていたとき、施設の利用者の中には生活保護を受給している人たちもいました。彼らは一様に、早く働いて自分で稼げるようになりたいと口にしていました。それは悪い考えではありませんが、僕は「なぜ働くと金が貰えるのか考えたことはあるかい?」と問いかけることにしていました。
例えば料理人は、料理を作ることで報酬を受け取っています。ではなぜその人に料理を頼む人がいるのでしょうか? 料理する技術を持っていないからかもしれませんし、料理はできるけれど忙しくて料理する時間や手間が割けないからかもしれません(料理するのは結構大変です)。いずれにせよ、料理人は料理ができない誰かの代わりに料理することでその人の役に立っているのです。言い換えれば「人を助けて」いるのです。そのことに対して対価が支払われ、それが料理人への報酬となります。
だから、仕事というのは誰かに、何らかのかたちで役に立っているからこそ、報酬が得られるのです。誰の役にも立たないことをして報酬が得られることはありません。仕事とは「誰かの役に立つこと」であるのです。金銭を媒介することで、人の役に立っていることや人を助けていることが見えにくくなっていますが、仕事とは人間どうしの協力関係なのです。
人の役に立つこと
労働の意味について僕の考えを深めてくれたのは、徳川輝尚(とくがわ てるひさ, 1931-)氏の話でした。この方は重度身体障害児支援の現場に50年以上携わってきた人です。日本で初めて身体障害者療養施設を始めた人でもあります。
身体障害者療護施設は、常時介護を必要とする重い障害を持った人たちのための施設です。4) 徳川氏はこの施設を始める前年にニューヨーク大学付属病院のリハビリテーション部を視察しました。そしてその部長から、失意のうちに自殺した重度障害者の話を聞かされました。「人間にとって目的のない人生を生きるのは死ぬより辛いことだ。どんなに小さくても、人間には自分を捧げられる目標が必要なのだ」とこの部長に言われたのだそうです。
そこで、施設を作ったとき、近くの工場からコイルに巻かれた銅線を解く仕事を請けて、入所している人たちにその仕事をしてもらったのだそうです。ボビンに巻かれた銅線を引っ張って解くだけの単純な仕事ですが、重い障害を抱えた人たちにとっては決して簡単な作業ではありません。また、たくさんの量をこなせるわけでもありませんから、たいした金額にはなりません。授産所 と呼ばれる施設などでもこうした作業が行われていることは知っていましたが、わずかな額にしかならない仕事をすることにどれだけの意義があるのか、僕は正直なところ疑問に思っていました。
どのような障害を持っているかは人によって違うので、コイルの解き方もそれぞれ違いました。板に釘を打ち付け、職員がコイルをそれに引っかけて、ピンセットで銅線を引き出すところまでは一緒ですが、ある人はその銅線を手で引っ張り、ある人は銅線を口にくわえて引っ張り、ある人は車椅子に銅線を結んで足で床を蹴って車椅子を後ろに下げることでコイルを解きました。
入所者のIさんは、重度の脳性麻痺 のために身体障害と知的障害を抱えていましたが、やはりこの仕事に挑みました。不自由な手で銅線をたぐり、一カ月かけて10円の工賃を得ました(コイル一個あたりの工賃は1円だったので、一カ月かけて10個のコイルを解いたことになります)。Iさんは、その10円玉を握りしめて離しませんでした。
年老いた母親が施設を訪れたとき、Iさんはその10円玉を母親に誇らしげに見せました。しかし母親はそれが息子が稼いだものだとは知りません。「もろうたのか、ひろたのか? まさか盗んだんじゃなかろうな。盗んだのなら返さなあかん」と叱っても、Iさんは「稼いだんや」と言うばかりでした。そして、それが息子が稼いだものだと職員から聞かされると、母親はその場でわっと泣き出したのだそうです。5)
蛇足ながら母親の涙の意味を説明すると、障害の重い息子は人の世話になる必要はあっても、人様の役に立つことなどあり得ないと母親は諦めてしまっていたのでしょう。だから、わずかなりとも人の役に立ったと知り、そのことを喜んでいる息子を見て感極まったのだと思われます。10円玉はその象徴です。
労働の意味は生活に必要な金銭を獲得することだけではありません。そもそもこの世の中には金にはならないけれども、誰かがやらねばならない仕事はたくさんあります。金銭欲を満たすだけではなく、役割を得て、その役割を果たし、人の役に立つことで自分の存在意義を示したいという欲求を私たちは誰もが持っています。なぜならそれは神が人間に与えた本能だからです(第98回)。酒を飲んでいるあいだにそのことを忘れてしまったアルコホーリクは少なくありません。だから「働く目的は、経済的自立のためだけじゃないよね」という話をするようにしているのです。
障害を持つというのは、もちろん障害の存在そのもの――例えば身体障害なら体が自由に動かないということ――が辛いことではあるのですが、それだけでなく人の世話になるばかりで、人の役に立てないという辛さもあるのです。ステップ7の祈りの中の、役に立つ(be helpful)という言葉の意味を取り違えないで欲しいと願うばかりです。
欠点を取り除くのは誰か?
さて、ステップ6には「欠点を、神に取り除いてもらう」とありますし、ステップ7には「短所を取り除いて下さいと神に求めた」とあります(p.86)。そして、前回・今回と取り上げたように、ビッグブックのステップ6と7の説明は、どちらも祈っているだけ、つまり神に欠点の除去を頼んでいるだけです。
そのことが、12ステップに不慣れな人を戸惑わせてしまいます。多くの人はこう考えるでしょう――「欠点や短所は自分で取り除くしかないのではないか。神様が欠点を取り除いてくれる、などという都合の良い話があるわけがない」、と。
それはその通りであり、ビッグブックの14年後に出版された『12のステップと12の伝統』には、「どんな場合でも、私たちが協力しない限りは、神が私たちを雪のように潔白にしてくれることはない。協力とは、私たちが進んで自分自身に働きかけようとすることだ」6)とあり、私たちに努力が求められていることを明言しています。確かに、私たちが遊んでいる間に神様が私たちの欠点を取り除いてくれた、というような経験は、AAのなかでも聞いたことがありません。
ではどのように努力すれば良いのでしょうか? ジョー・マキューは、ステップ6と7はショベル のようなシンプルな道具であるとしています。(CTM, p.135.)) シャベル(shovel)は土を掘るための道具です。その使い方はとてもシンプルで、知らない人はいません。ステップ6と7も同じです。欠点とは私たちのなかにある役に立たなくなった考えなのですから、その考えを使わなければ良いのです。しかしそれは容易いことではありません。シャベルを使う仕事が楽ではないように、ステップ6と7でもハードワークが求められるのです。
僕はジョーのこのシンプルな説明を気に入っているのですが、もっと具体的な説明が欲しいという希望もあるようです。依存症からの回復研究会はジョー・マキューの著作を紹介することを目的として作られた集まりですが、初めてジョー以外の人の著作を翻訳出版したのが『ドロップ ザ ロック――性格上の欠点を取除く』でした。この本では欠点に取り組んだ様々な人の経験が語られています。ビッグブックの説明の短さに不満を持つ人にお勧めしておきます。7)
実際にやってみると、努力したことですぐに捨てられる欠点もあります。その欠点を置き換える新しい考えを身に付けて、それが役に立つことを知ると、なぜもっと早くこの考えを手に入れなかったのかと後悔するとともに、他の人が同じ欠点をいまだに持っているのを見てそれをすでに手放している自分が優越しているように思えたりもします。そうやって、努力によって自分の欠点のいくつかを取り除く体験を重ねると、このやり方でどこまでも自分を変えていけるような気がしてきます。
しかし現実は厳しいものです。努力してもなかなか取り除けない欠点が自分の中にいくつも残っていることに気づく日がやってきます。私たちはステップ10で日々の棚卸しを続けていきますが、そのなかで、取り除かれずにずっと残っている欠点があることを思い知らされます。あるいは、取り去ったと思っていた欠点が、形を変えて現れて、新しい自分の欠点を見つけたつもりになっていたのに、実は昔の欠点が残っていただけだったということに気づかされることもあります。「取り去られる欠点もあるかもしれないが、ほとんどは忍耐強い改善をはかることで満足しなければならないだろう」8)とあるように、多くの欠点は残ったままになるのが通常です。
この『心の家路』にはステップ10用の「日々の棚卸し表」を掲載しています。ビッグブックにはステップ4・5で使う棚卸表は例示されていますが、ステップ10用の表は載っていません。ですから、ステップ10用の「標準的な棚卸表」というものはなく、どのような表を使うのもその人の自由です。掲載しているのは AA Grapevine 誌に掲載された、あるAAメンバーが使っていた一つの例にすぎません。でも、ステップ10の表について何も頼りにできる情報を持たない多くの人たちが、この表をダウンロードして使ったようです。
そして、この表を使った人たちは、異口同音に「毎日同じ所にチェックがつくんです。いつまで経ってもちっとも欠点がなくなりません」と訴えるのでした。そして、どうやったら欠点を取り除けるのかという質問してくるのです。欠点を取り除こうと真面目に取り組んでいる人ほど、「どうやれば」という方法にばかり関心が向いてしまうのです。
自分の努力によって欠点を取り除くことはできない・・・これは、本気で自分を変えようと努力した人だけが体験的に知っている真実です。多くの人は、大した努力もしないままに「その気になりさえすれば、いつだって自分を変えることはできる」と根拠なく信じているのです。それはまるで、酒を止めようと思えばいつでも止められると信じながら飲み続けているアルコホーリクのようなものです。
それでもAAのなかに10年、20年と居続けると、自分以外の人の変化に気づかされます。かつては大きな不安(恐れ)に支配されていた人が、躊躇せずにいろいろなことに挑戦していたり、どこへ行っても自分の能力を認めてもらえないと不満を溜めていた人が、与えられた役割に満足して過ごしていたり、そのように心の平和を獲得した姿を見るのは、AAにおける大きな喜びの一つです。そして、その人たちはそのような変化を得るのに、なにか特別な手段を用いたわけではないというのです。その人たちが変わったように、自分も変われていれば良いのですが、自分の変化は自分ではなかなか気づけないもののようです。その一方で、何年経っても変わらない人たちもいますが、その全員が自分を変える努力を怠っているとは限りません。
つまり私たちは、自分の変化(=回復)のプロセスを自分でコントロールすることができないのです。私たちにできるのは農夫の役割だと言えます。僕の父は農業を営んでいたので、その仕事を間近で見てきましたし、時には手伝わされてもいました。(cf. 「雑感 (12) なぜ施設で働こうと思ったのか?」) 農夫の仕事は作物や家畜を育てることです。僕の実家では米や野菜や果物を栽培していましたし、牛やヤギや鶏を育てていたこともありました。近くの家では池でコイの養殖をやっていました。作物を育てる仕事は、田畑を耕し、種や苗を植え、その世話をすることです。だが農夫が作物を育てているわけではありません。それが育つのは、作物自身が持っている生命力ゆえであり、それを取り囲む自然の育む力があってこそです。農夫は限定された役割を任されているだけであり、作柄は「お天道様次第」、つまり神様次第なのです。
米のような安定して栽培できる作物でも、時にはスーパーの店頭から米が消える程の不作になることもありますし(1993年米騒動 )、野菜や果物は豊作不作の波が激しく、台風などで壊滅的な打撃を受けることもあります。家畜にもしばしば伝染病が蔓延します。第二次大戦直後の日本では、就業者の約50%が第一次産業に携わっていました。だがそれが今や5%ほどにすぎません。9) 食料生産が人間の努力ではどうしようもない自然の力に支配されていることを、かつては多くの人が体感的に理解していました。いまやそうではなく、市民農園で野菜を作るのに失敗するまで、人間はプロセス全体をコントロールできないという真実を意識できない人が増えてしまいました。
僕は父とはまるで違った職業に就き、これまで40年以上のキャリアの大半をコンピューターのプログラムを組むという仕事に費やしてきました。コンピューターのプログラムは、役に立たなくなれば簡単にそれを捨てて、別のものに入れ替えることもできます。それはコンピューターにしても、プログラムにしても、人間が作った人工物である、というのが理由の一つです。
しかし、私たちの意志はそうではありません。私たちはコンピューターのように2進数の操作で動作しているわけではありません。生体という基礎を持った自然物として存在しており、コンピューターと違って簡単に再プログラミングはできないのです。私たちが自分の性格的な欠点を取り除こうとするとき、できることは農夫の役割と同じです。プロセス全体をコントロールすることはできず、限定された役割を果たしていくことしかできません。つまり、作物の栽培も、欠点を取り除くことも同じであり、収穫は、人々の助けを得ながら、ハイヤーパワーからもたらされるのです。
秋になれば日本の多くの地方で秋祭り が行われます。その多くは、収穫を祝う祭りとして始まったものです。その祭りは人の努力を誇り讃えるためのイベントではなく、天から与えられた恵みに感謝を表す機会です。努力は確かに必要です(田畑を耕さない農夫に収穫はもたらされない)。しかし、努力が私たちを救うわけではないということを、この二つのステップは教えてくれます。
- ステップ7の祈りは、自分の良いところも悪いところも神に委ねている。
- 私たちは善悪の最終判断を自分で行わず、その判断も神に委ねていく。
- 人は不完全だからこそ、お互いに助け合って生きていくしかない。
- 仕事とは誰かの役に立つことであり、仕事は人間どうしの協力関係である。
- 労働の目的は金銭を得ることばかりではなく、人の役に立つことでもある。
欠点を取り除くためには、その欠点をもたらす考えを使わなければ良いだけなのだが、実はそれが難しい。- 簡単に取り除かれる欠点がある一方で、ほとんどの欠点はそのまま残る――自分の努力によって欠点を取り除くことはできない。
- 私たちは自分の回復のプロセスを自分でコントロールすることはできない。
- 努力は必要だが、ステップ6と7は「努力が私たちを救うわけではない」ということを教えてくれる。
- プロセスの全体はハイヤー・パワーが司っており、私たちは限られた役割を果たしているにすぎない。
今回のエントリは長いので前半と後半それぞれに「まとめ」を入れました。2回に分ければ良かったかも知れません💦。
自分を許す
さて、ステップ7の説明はこれで終わりですが、性格の欠点とその扱いについて、いくつかのことを述べておこうと思います。それはビッグブックに書かれていることではありませんが、スポンサーとして棚卸しを聞くときにも役に立つでしょうし、自分自身のステップワークのためにも役に立つでしょう。
最初は「自分を許すことの必要性」です。私たちはステップ4で恨みの棚卸しをしました。恨みとは、誰かに対して怒りを捨てられず、繰り返しその感情を再生することでした(第103回)。だが実はそれだけではありません。多くの場合、私たちは自分に対しても腹を立て続けています。
相手を傷つけたこと自覚していれば私たちは罪悪感を持ちますし、間違った選択をしたことには後悔をします。どちらも自己嫌悪や自己非難――自分で自分を非難すること――をもたらします。自己嫌悪や自己非難を続けていると、私たちは恨みから解放されません。
夫が強迫的ギャンブラーというある女性と話をしたことがあります。彼女は夫がギャンブルの問題を抱えたことに腹を立て続けていました。貯金がなくなり、借金ができ、子どもの進学にも影響が出て、せめてこれからバリバリ働いてお金を取り戻してほしいと思っても、夜は自助グループに通うので残業ができない、ということにも不満を募らせていました。夫がそんな病気にならなければ、私はこんな不幸に陥らなくてすんだのに・・・という恨みがなくならないと訴えるのでした。
結婚すれば結婚相手が自分を幸せにしてくれるはず、という考えは、今の僕には子供のように幼い考え方だとしか思えません。なぜならそういう考えの人は結婚相手が強迫的ギャンブルではなくガンに罹ったとしても、そんな夫を恨むでしょうから。だが仮にその考え方を持ったまま生きることを良しとするならば、結婚相手の選択が自分の幸不幸を分けることになります。そして夫が原因で不幸になったと彼女が言うのなら、彼女が結婚相手の選択を間違えたことは明らかです。
「結婚する前から相手がギャンブルで借金作るかどうかなんて、分かるはずないじゃないですか!」と抗弁する人もいます。そのとおりです。人間は不完全な存在であり、未来を見通すことはできません。だから、常に間違った選択をする可能性がありますし、実際に間違えます。ところが自分が間違えたことを認めてしまうと、自己嫌悪や自己非難がやってきて苦しいので、自分の責任を否定し、相手に責任を押しつけようとする――それが恨みです。恨みから解放されるためには、自分の誤りを認め、そのような誤りをした愚かしい(不完全な)自分を許すことが必要なのです。
そうやって自分を許せば先に進めるようになります。相手が自分を幸せにしてくれるはず、という考えを持ち続けたいのであれば、今の夫を見限って離婚し、自分を幸せにしてくれそうな別の人を探すしかありません。あるいはそのような甘い考えを捨て、別の考えを手に入れて生きていくという選択肢もあります。その場合でも、甘い考えを持っていた過去の自分の愚かさを認め、それを許すことが必要です。
僕自身も離婚を経験しています。僕は当時の妻を変えようとしていました。相手が変わってくれれば結婚生活を継続できる、と考えていた間は、ひたすら相手を変える努力をし、変わってくれない相手を恨んでいました。その間は離婚は考えず、どうやったら結婚生活を続けられるか、ということばかり考えていました。しかしある時「この人はどうやっても変わらない」という事実に気がついたとき、そういう人を結婚相手に選んでしまった過去の自分の過ちを悟りました。もちろん、この女性とうまくやっていける男は世の中にたくさんいるのかも知れませんが、僕には無理なのであって、そんな相手を選んでしまった十数年前の自分の愚かさ(未熟さ)を呪い、その未熟さに相手を巻き込んでしまったことを悔やみました。だが、自分の愚かさを許さなければ、前へは進めませんでした。
AAには風俗産業に就いたことがあるという女性も少なくありません。これは女性の心身に深いダメージを残す仕事であり、話を聞いてみると、たいていはそのことを後悔しています。だからこそ、軽い気持ちからその仕事に就いたのであれ、やむにやまれず就いたのであれ、その仕事を選んだ自分の愚かしさを認め、さらにその愚かしさを自分で許さなければ、いつまでもその過去に囚われたままになってしまいます。自分の愚かさを認めなければ、自分の体を利用していった男たちや、そうした産業を許している社会構造に恨みが向かってしまいます。また、自分の愚かさを認めるだけで自分を許さなければ、やはり自己嫌悪のなかで身動きが取れなくなります。幸せになりたければ、自分の愚かしい間違いを許すことが必要です。
結局私たちには、自分の未熟さや愚かさを認めてそれを自分で許して生きていくか、あるいは自分の未熟さや愚かさを頑として認めずに誰かや自分を恨んで生きるか、この二つの選択肢しかないようなのです。スリップしたくなければ後者の選択肢は選べません。
ビッグブックのテキストでは「許す(forgive)」という言葉は、基本的には神が人を許すという文脈で使われており、人が人を許すという文脈で使われているのはわずかです。10) 神は私たちの誤りを許してくれます。なのに私たちが自分で自分を許さないのであれば、神の意志に逆らっているということになるではありませんか。ステップ3で決心した内容を思い出しましょう。
自分を許すということが、自分を甘やかすことだと考える人もいますが。決してそうではありません。自分を許すためには、自分が間違いをしたという事実を認めなければなりません。私たちは被告人として自分の間違いを認めますが、同時に判事として被告の間違いに刑を科さないことを決めるのです。なぜなら、私たちはステップ4から7を経て、同じ間違いを繰り返したくないと思っているからです。間違いを「なかったこと」にしているわけでも、無罪にしているわけでもありません。
自分の欠点に取り組むためにも、埋め合わせをするためにも、間違いをした愚かな自分を許すことは必要です。
今の人生の先に幸せを求める
人生にはときどき不運としか言いようのない出来事が起きてしまいます。そして、その不運な出来事によって人生が大きく変えられてしまうこともあります。しかし、そのことをなかなか受け入れられないこともあるのです。
そのことに気づかされたのは、統合失調症 の子を持つ親御さんたちの体験を読んだからでした。統合失調症の中でも破瓜型というタイプは15~25才あたりで発症します。中学生から、成人して就職するあたりです。その時期の息子・娘が突然自分の部屋に閉じこもるようになってしまい、話を聞いてみても要領を得ない。すると親としては、なにかショックなことがあったから引きこもるようになったのだと解釈し、その原因探しをするのだそうです。例えば、受験に失敗した、恋人に振られた、就職先でうまくいかなかったなどなどです。
そこで親として涙ぐましい努力が始まります。例えば、東京の大学に落ちたのなら、レベルは低いけれど地元の大学に行ってみたらどうかと子どもに提案し、元恋人を捜し当ててもう一度うちの息子(娘)と付き合ってやってくれと頭を下げ、就職がうまくいかなかったのなら伯父さんのやっている小さな会社で働けるように手配し・・と、子を思う気持ちがなせるわざでしょうが、どれも効果はありません。なぜなら、それらの出来事は、たいていは病気の結果であって原因ではないからです。
つまり、親として「子が統合失調症になった」という現実を受け入れられず、「その出来事がなかったならば、あったはずの人生の続き」を取り戻そうとする虚しい努力なのです。言い換えれば、統合失調症という事実を消し去るための努力です。だが、それをやっている間はひたすら不幸しか感じられません。
ところが現実を受け入れ、(統合失調症は治癒することもあるので、そうなってくれればいいのですが、そうならなくても)どうやったら統合失調症を持ったまま子が幸せになれるかということを考えるようになったとき、親として希望を持てるようになった、というのです。11)
「その出来事がなかったならば、あり得たはずの人生の続き」を求める気持ちは、誰でも持つ可能性があります。2011年の東北大震災 のとき、地震で家族も仕事も住む家も失った人たちがいました。その人たちが「地震さえなければ今でも家族と一緒に幸せに暮らしていたはずだ」と、あったはずの人生の続きを求め、それを失ったことを嘆き悲しむのは無理もないことです。
それでも、それを続けていたのでは幸せになれません。やがて現実を受け入れ、失ったものを取り戻すことはできないが、それでも自分が幸せになるにはどうすれば良いかを考えることが必要になります。
不運によるものではなく、自分の選択で人生が変わることもあります。違う学校に進学していたら、違う会社に就職していたら、別の人と付き合っていたら、別の人と結婚していたら、あんなことを言わなかったら、あんなことをしなかったら・・今とは違う別の人生があったのではないかと考えてしまうこともあります。しかし、それをいくら考えてみても、「あったはずの人生」を取り戻すことはできません。
上の図は、それを説明するためのものです。横方向は時間の流れを示します。矢印付きの実線は、人生の成り行きを示します。私たちは今の自分の生活がこの先も続いていくだろうと未来を予測しながら生きています。ところが、不幸な出来事が起きます(図の赤い丸)。それは前述のように病気や災害かもしれませんし、自分の選択によるものかもしれません。いずれにせよ、それによって人生が大きく変わってしまいます。その結果が不本意なものだった場合、「あの不幸な出来事がなければあったはずの人生」と現実の人生との差を人は意識してしまうのです。そして、人生があのまま続いてあちら側を歩めていたならば、自分は今より幸せだったはずだ、と考えてしまうものなのです。このように、幸せを別の人生に求めること(矢印付きの青い点線)は、その人を幸福にしません。
もちろん、失ったものを取り戻そうとする努力は必要です。アルコホリズムという病気を得たことは不幸な出来事であるにしても、元の生活を取り戻すために、酒をやめ、生活を再建しようという努力は必要です。しかし、その努力によってアルコホリズムという病気が消失するわけではありませんし、失ったものをすべて取り戻せるわけでもありません。「あったはずの人生」を取り戻すことは不可能です。なのになお別の人生に幸せを求め、過去の出来事を悔やみ続けるのでは、不幸にしかなりようがありません。
幸福になりたいと思うのであれば、別の人生ではなく、現在の人生の未来に幸せを求めるしかありません。つまり、アル中ではない人生に移ることで幸せになろうとするのではなく、アル中である自分がアル中のままで幸せになるにはどうすれば良いかを考えるしかないのです(図の緑色の点線)。
アダルトチルドレン (AC)の人の場合、生れたときには親がすでにアル中だということもあります。その影響によって、子供の頃から不本意な人生を強いられることになります。ACの場合にも否認がありますが、否認を乗り越えて自分がACだと認めると、自分の人生がかくも不本意になった原因は親にあることを知るようになります。そこで、不適切な親の子育てによって身に付けてしまった性格特性(cf. ランドリーリスト)やトラウマと呼ばれるものを自分から取り除く、という回復の努力が行われます。そのように、失ったものを取り戻す努力は必要ですが、残念なことにACの性格特性が完全に拭い去られることはありませんし、トラウマが完全に消失することもありません。少しずつ改善があるというだけで満足しなければならないことがほとんどです。アルコホーリクが回復しても一生アルコホーリクのままであるように、ACも回復しても一生ACのままなのです。
であるのに、ACの性格特性やトラウマが完全に解決されなければ自分は幸せになれない、とこだわってしまうと、回復は足踏みしてしまいます。なぜなら、その考え方は「あったはずの人生」を求める青い点線の考えだからです。ACのままの自分、トラウマを抱えたままの自分が、どうやったら幸せになれるか(図の緑の点線)を考えるしかないのです。
新フロイト派 の精神分析家エーリヒ・フロム (1900-1980)は、著書『悪について』のなかで、多くの人には生を愛する「バイオフィリア」という性質と、死を愛する「ネクロフィリア」という性質が同居していると説明しています。12) 若い頃にこの本を読んだ僕には、死を愛するということがよく理解できませんでした。13) だが、AAのなかで自分の内面を探り、人々を観察することで、死や不幸を愛することの意味に思い当たるようになりました。フロムは、ネクロフィラスな人は、過去に住み、未来に住もうとしないと述べているのですが、「あったはずの人生」を追い求め続けるのはまさに過去に住もうとすることであり、不幸を愛しているということです。
幸せになりたいと思うのなら、不幸を愛することをやめなくてはなりません。「もし・・だったら、自分の人生はこうなっていはずなのに」という考えの罠から抜け出して、いま自分が生きている人生の先に幸せを求めなくてはならないのです。
助長の故事
「助長」という言葉があります。成長するのを助けることですが、あまり良い意味では使われません。
この言葉は、中国戦国時代の思想家孟子 (327BC-289BC)の「公孫丑上」の中にある逸話から取られています。
宋人ニ有リ下閔ヘテ二其ノ苗之不一レルヲ長ゼ而揠レク之ヲ者上。
芒芒然トシテ帰リテ、謂二ヒテ其ノ人一ニ曰ハク、今日病レタリ矣。
予レ助レケテ苗ヲ長ゼシムト矣。
其ノ子趨リテ而往キテ視レレバ之ヲ、苗ハ則チ槁レタリ矣。
天下之不二ル助レケテ苗ヲ長一セシメ者寡シ矣。14)
高校で漢文を読んだのも遠い過去になりました。現代語訳は――宋の国の人で、苗がなかなか成長しないことを心配して、この苗を引っ張って伸ばす者がいた。くたくたになって帰宅すると、家族に言った、「今日は疲れた。私は苗の成長を助けていたのでな」。その子が(不審に思い、畑に)駆け付けて見ると、苗は枯れてしまっていた。世の中には、苗の成長を無理に助けたりしない(賢明な)者は少ない。15)
植えた作物はゆっくりとしか生長しません。それが遅いからといって、苗を引っ張れば枯れてしまうだけです。そんなことは分かっているはずなのに、私たちは自分の望んだタイミングで成果を手に入れたいと焦ることがあります。つまり、少しでも早く成果を手にしたいと余計なことをしてしまうのです。旧約聖書 のコヘレトの言葉 にも同じことが書かれています。
03:01 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
03:02 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時16)
ジョー・マキューが分かりやすく説明してくれていますので、紹介しておきます:
忍耐とは、人生のなかで神のタイミングを受け入れることである。あらゆる物事にはタイミングというものがある。接着剤にタイミングがあるように、成長にもタイミングがある。この世に時間の経過に無関係なものなど存在しない。だから、忍耐とは、なにごとも機が熟するまで待つ能力のことである。人間はタイミングに合わせなければならない。したがって、忍耐とは人生のタイミングに合わせる能力だともいえる。人生のタイミングに合わせないでいると、私たちは欲求不満になりイライラする――理由は簡単だ、人生が自然に進むのを私たちが邪魔しているのだ。その時、私たちは自分の時間の都合で人生を進めようとしているが、人生のほうでは決してそんなことは望んでいない。それゆえ、忍耐すなわち、待つ能力、人生のタイミングに合わせる能力は、よく生きるために有効な道具であることがわかる。17)
あらゆる出来事には、それが起きるにふさわしいタイミングというものがあり、そのタイミングは(おそらく)神様が決めています。自分の望んだタイミングで何かが起きて欲しい――例えば待っているバスが早く来て欲しいとか、早く信号が青に変わって欲しいとか――と願うと、イライラと心配が募るばかりです。忍耐とは、そのイライラを克服することではなく、自分を神のタイミングに合わせていくことなのです。
私たち人間が多くの欠点を抱えているように、私たちが生きている人間社会もたくさんの問題を抱えています。しかし、長い目で見れば、世の中は着実に良くなっているのも事実です。確かに、一つひとつの問題が解決していくには時間がかかるものですから、「この問題はちっとも解決されない」という印象を持ってしまうこともあります。社会問題が解決することを望むのは悪いことではありませんが、「この問題はいつまで経っても良くならない」と嘆くのは賢明なことではありません。多くの人は、その歎きが自己中心的な行動である事に気がついていません。
先ほどの孟子の逸話には説明が続いています。すぐに成果が得られないために諦めてしまい、畑の草取りをしない者に収穫はありません。逆に早く成果を得ようと焦って苗を引っ張る者にも収穫はありません。黙々と畑の世話をする者だけが収穫を得るのです。「世の中はちっとも良くならない」と嘆いている人に社会は変えられません。かといって、大きな声を出してみたところで、やはり世の中は変わってくれません。自分が生きている間には成果が得られなくても私はやる、と覚悟を決めて、自分にできる活動を続けた人が、実際にこの社会を変えてきたのです――多くの先駆者たちは、その成果を見ることなく亡くなっていますが、彼らは苗を引っ張ろうとはしなかったのです。
私たちの回復についても同じことが言えます。早く変わりたいと焦っている人は少なくありませんが、しゃかりきに頑張ってみたところで回復が早くなるわけではありません。かといって、タイミングは神様が決めるんだからと言い訳して何もしなければ、回復は停滞したままになってしまいます。作物を育てるように、自分自身から雑草を取り、栄養を与え続けるしかありません。そうすれば、あなた自身の生命力と神の恵みによって変化はふさわしいタイミングで発現するでしょう。
周りからの評価は概ね正しい
自分が周囲の人から正しく評価されていない、という不満を持つ人はたくさんいます。誤解されているとか、評価にバイアスがかかっている、というスポンシーの不満を聞かされているスポンサーも多いことでしょう。恨みの表にもしばしばこの類の不満が登場してきます。
そういうときにスポンサーとしてスポンシーに言ってあげる言葉があるとすれば、それは「周りからの評価は概ね正しい」ということです。
もちろん世の中を見渡せば、不当に高い評価を得てる人もいれば、不当に低い評価を押しつけられている人もいます。アイドル 歌手やアイドル俳優は、そもそも虚像を売っているわけですから、その人自身の評価ではないものが世間に流布しています。しかし、そういったケースは例外的で、ほとんどの人は周囲から「ふさわしい評価」というものを得ているものです。
良いほうへも、悪いほうへも誤解されているケースはありますが、誤解は――時間はかかるものの――次第に解消されていき、本来のふさわしい評価へとたどり着くものです。だから、短期的に見れば間違った評価はあり得ますが、長い目で見れば、周囲からの評価は概ね正しいものです。
もちろん人間が人間を完璧に評価できるわけはないので「概ね」正しい評価としか言いようがありませんが、逆に言えば100%間違った評価というものも滅多にないものです。
自分の仕事の能力が職場で認めてもらえないとか、妻から良い夫だと思ってもらえないとか、自分ではそこそこ回復したつもりなのに他のAAメンバーに「回復してない」と言われるとか、頭が悪いと思われているとか、性格が悪いと思われているとか・・挙げていけばキリがありませんが、要するに自分への評価を気にしていて、思ったように共存本能が満たせないので不満を持っているということなのです。
周りからの評価というのは、言わば「自分の姿を映す鏡」のようなものです。鏡に映った自分の姿が気に入らないとしても、鏡の中に手を突っ込んでそれを修正することはできません。変えられるのは鏡の中の自分ではなく、鏡の前にいる現実の自分です。太り過ぎだと思ったら痩せれば良いし、肌が黒すぎるなら美白化粧水を使えば多少白くなるかもしれません。しかし、根本的に自分の顔を作り変えることは出来ませんから、気に入らなくても自分の顔の作りは受け入れざるを得ません。
自分への評価も同じことで、頭が悪いと思われたくなければ勉強すれば良いのですし、性格が悪いと思われたくなければ人格を磨く努力をすれば良いのです。有能だと思われたければ、周囲の期待に応えてみせれば良いのです。しかし、多くの人はそうした努力をせずに、今の自分がそのままに高く評価されるべきだと考えます。いわば鏡が歪んでいると言いたいわけです。
現実の自分はそんなに頭も良くないし、有能でもないし、性格だってそんなに良くないわけで、でもしゃかりきになって努力しても、なかなか自分は変えられない・・・そうであるならば、そんな自分を現実として受け入れて、できる範囲で改善の努力をぼつぼつとやっていくしかありません。それがしらふの考えというものです。
しかし時には、周囲の評価が間違っているというケースだって少ないながらあり得ます。どんなに仕事で成果を出しても評価して貰えないという職場もあるのです。運悪く自分がそんな場所に置かれてしまったとしたらどうすればいいのでしょうか? それはシンプルに別の場所に移るしかありません。別の部署に移して貰えるならそう願い出れば良いし、それが無理ならいっそのことそんな会社は辞めてしまえば良いのです。周りの間違った評価を修正することに無駄な時間と労力を費やすよりも、あなたを正しく評価してくれる別のところへと移った方が得策です。
そして、別の職場に移っても、そこでもやっぱり自分は正しく評価して貰えない、というのなら、それはおそらくあなたが自分自身を過大評価していただけなのです。会社を辞めてやると騒いでいた人に、「あれ会社辞めるんじゃなかったの?」と聞いてみたら、「うん、俺から○○の社員という肩書きを取ったら何も残らないからな」と冷静に返された経験は一度や二度じゃありません。「周りからの評価は概ね正しい」ということを受け入れるのには痛みを伴うのです。
というわけなので、自分の能力を証明しようと焦る必要はまったくありません。それは自ずと証明されてしまうものだからです。
自分を知ることの痛み
ステップ4から7は、自分自身の真実と向き合うステップです(p.93)。聖書は「真実は人を自由にする」と言いますが18)、たいていの場合、自分についての真実は苦いものです。ジョー・マキューもこう述べています:
自分を知ることは、ときに痛みを伴う。
真実は人を自由にするというが、最初は十中八九、真実は人をみじめにする!19)
どうやら私たち人間は、その痛みを避けて成長できるようにはなっていないようなのです。
次回はステップ8に進みます。
- 恨みを棄てるためには、間違った選択をした自分自身の愚かさ(不完全さ)を認め、自分の愚かさを許さなければならない。
- それは間違いを「無かったこと」にしているわけでもなければ、自分を無罪にしているわけでもない。自分の間違いを認めた上で、自分に刑を科さない選択をする――それが「裁かない」ということ。
幸せを別の人生に求めても幸せにはなれない。幸せになりたければ、現在の人生の未来に幸せを求めなければならない。
あらゆる出来事には、それが起きるにふさわしいタイミングというものがあり、そのタイミングは(おそらく)神が決めている。私たちにできることは、そのタイミングを受け入れることだけ。
自分の能力を証明しようと焦る必要はまったくない。それは自ずと証明されてしまうものだから。- 自分についての真実はたいてい苦いものである。それを知る痛みを避けて成長することはできない。
- BB, p.109.[↩][↩]
- BB, p.109[↩]
- pp. 38, 45, 105, 109, 110, 120, 194[↩]
- 旧身体障害者福祉法による身体障害者更生援護施設の一種。2005年の法改正により、現在は障害者総合支援法の施設に移行している。[↩]
- 徳川輝尚「十円玉の重み」 — 『厚生福祉』第5454号, 時事通信社, 2007, p.219.[↩]
- 12&12, p.87.[↩]
- ビル・P他(依存症からの回復研究会翻訳チーム訳)『ドロップ ザ ロック――性格上の欠点を取除く』, 依存症からの回復研究会, 2014.[↩]
- 12&12, p.87.[↩]
- 総務省統計局『平成17年国勢調査 抽出速報集計 結果の概要』(stat.go.jp), 総務省統計局, 2006, II.[↩]
- pp.112,115.[↩]
- この話は、ジオシティーズ か類似のサービス上で運営されていた個人サイトに掲載されていたものだが、サービス終了によって消失した。[↩]
- エーリッヒ・フロム(渡会圭子/訳)『悪について』, 筑摩書房, 2018, 第3章.[↩]
- それは、フロムがネクロフィラスの人間の最大の例としてアドルフ・ヒトラー (1889-1945)を挙げていたことも原因です。ヒトラーと自分を重ね合わせることができる人がどれだけいるでしょうか。[↩]
- ウィキソース「孟子/公孫丑上」[↩]
- ウィクショナリー「浩然の気」(ja.wiktionary.org).[↩]
- 共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』コレヘトの言葉, 日本聖書協会, 1987, 聖書本文検索 (bible.or.jp).[↩]
- SWT, p.106-107.[↩]
- ヨハネによる福音書 8:31-32.[↩]
- SWT, p.89.[↩]
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