ビル・Wに問う (20) 初期のAA

『ビル・Wに問う』の第20回です。


Q20:初期のこと、それからクリントン通りの自宅でのミーティングの様子を教えてください。

A20:当時私たちは、オックスフォード・グループと一緒にやっていました。オックスフォード・グループの創始者の一人はサム・シューメーカーSam Shoemakerで、彼らはカルバリー教会Calvary Churchに集まっていました。私たちはオックスフォード・グループからたくさんのものを受け継ぎました。そうした原理はおそらく他で見つけることもできたでしょうが、それを私たちに与えてくれたのが彼らだったのです。そのことに対する根本的な感謝を、ここで再度記録に残しておきたいです。また私たちは彼らから――これも同じく重要なことですが――アルコホーリクに対しては何をしてはならないかも学びました。イエズス会における私たちの偉大な友人エドワード・ダウリング神父Edward Dowlingがかつて私にこう言いました。「ビル、良かったのは、君たちAAが何を受け継いだかではなく、何を退けたかのほうだろう」 私たちはオックスフォード・グループの友人たちからこの両方の考えをもらいました。それによってエビーが酒を止め、私のスポンサーとなって、このメッセージを私に届けてくれたのです。

私たちはカルバリー・ハウス(Calvary House)1)でのオックスフォード・グループのミーティングに行くようになり、そこでタウンズ病院から出たばかりの私は初登板を果たしました。つまり、私の不思議な体験について話したのですが、聞いていたアルコホーリクたちには何の感銘も与えませんでした。ですが、他のことがある男に影響を与えました。私がこの病気の本質について話し始めると、彼は耳をそばだたせました。彼は化学の教授で、無神論者でした。後で私のところにやってきて、話をしました。私たちは彼をクリントン通りの自宅に招きました。つまり彼が本当の最初の相手というわけです。私たちはこのフレディ(Freddy)を相手に三年間一所懸命に取り組みましたが、悲しいかな、その後11年間彼は飲んだくれたままです。オックスフォード・グループの聴衆の中に私たちのところへやって来る人たちも出始めました。やがて私たちは当時教会の付属施設としてあったカルバリー伝道所(Calvary Mission)2)に行くようになりました。そこは実に扱いにくい人たちの宝庫でした。私たちが彼らをクリントン通りに招くようになった時点で、オックスフォード・グループの人たちは、私たちが飲んだくれ(アルコホーリク)相手にのめり込みすぎだと感じるようになりました。彼らは世界を救おうと考えており、一方で私たち(アルコホーリク)といると居心地悪く感じているようでした。サムと彼の仲間たちは――今では彼も笑って話してくれますが――奇跡を期待してカルバリー・ハウスに集めた飲んだくれの一団を追い出していました。飲んだくれを素晴らしいアパートの二階に住まわせ、完全な優しさと明るさで包み込んでみたのですが、飲んだくれたちは酒をたくさん持ち込んできました。中の一人はアパートの窓から靴を教会のステンドグラスの窓に投げつけてしまったのです。そんなわけで、ウィルソン夫妻がやってくるまでは、飲んだくれは実際には評判が悪かったのです。

ともあれ、私たちはアルコホーリクと四六時中一緒にすごしてみたのですが、6ヶ月は何も成果が上がりませんでした。オックスフォード・グループの人たちのように、私たちもアルコホーリクを看護しました。実際のところは、私たちはクリントン通りにそれからの二、三年間で、ボイラー工場に似た、ある種のクリニックにも似た、いや病院に似た、無料の下宿を作ってみたのですが、実質的には一人もしらふになりませんでした。ですが、私たちはたくさんの経験を得ました。

私たちはやり方がだんだん分ってきました。そしてオックスフォード・グループから脱退した後には――それは1934年に私がしらふになった一年半後でしたが――しらふになった数人とミーティングを開くようになりました。私はこれが本当の最初のAAミーティングだと思っています。ビッグブックはまだ書かれていませんでした。アルコホーリクス・アノニマスという名前すらなく、人々から私たちは何者かと聞かれたら、「えーと、私たちはアルコホーリクの名前のない集り(a nameless bunch of alcoholics)です」と答えていました。この「名前のないネームレス」という言葉を使ったことが、後の「無名アノニマス」というアイデアにつながったのだと思っています。後にビッグブックの書名を決める時に、アノニマスという言葉が使われることになりました。

クリントン通りではいろいろ大変なことがありました。ミーティングは応接間でやっていました。私たちが最初の頃に話していたのは、希望、そして恐れについてでした――私たちの恐れはとても大きかったのです。当時数ヶ月酒を止めていた人がスリップすると、それは大変な苦悩をもたらしました。エビーが私たちのところにやってきて一年半後、彼が飲んでしまった時のことを一生忘れないでしょう。私たちは皆こう言いました。「おそらく、これは私たちの誰にでも起こりうるだろう」 そして、私たちはそれがなぜなのか自問自答し、ともかく続けていきました。

クリントン通りでは、私の役割はもっぱら話をすることでしたが、働き、料理をし、その初期の人たちを世話するのはもっぱらロイスの役割でした。

ああそうだ、こんなエピソードもありました。私は一度出張旅行で家を空けたことがありました(短い間仕事に戻っていたのです)。その時に、飲んだくれの一人が応接間の寝椅子で寝ていました。ロイスは真夜中に大きな音を聞いて目を覚ましました。飲んだくれの一人が酒をひと瓶手に入れ、それを飲んで酔っ払い、キッチンに入りこむと、そこにあったメイプルシロップの瓶を飲み干し、石炭入れに落ちてしまったのです。ロイスがドアを開けると、彼は全裸なので隠すためにタオルが欲しいと言ったんです。別の夜にはロイスがこの紳士を医者に診せに夜の町に連れ出したことがあります。医者が見つからなかったので、仕方なく酒を探しました。なぜなら彼が、翼が片方だけでは飛べないと言い始めたからです。

ある時、五人いたなかで、二人が一緒に酔っ払ったことがあります。また別の時には、その全員が同時に酔っ払ったこともありました。また、2フィート×4フィートの地下室で二人が殴り合いのけんかをしたこともありました。ある晩、可哀想なエビーが、ドアを開けようと何度も試しては失敗し、最後には閉め出されてしまいました。だが驚いたことに、彼はなんとか中に入りこんできました。石炭シュートをよじ上ってきたので、すすで真っ黒になっていました。

これでお分かりのように、クリントン通りは鍛冶屋のようなものでした。そこで私たちは、こうした原理を鍛え上げたのです。ロイスと私にとって、あらゆるものはクリントン通りにつながっているのです(1955年マンハッタン・グループにて)。


  1. カルバリー教会の隣りにあった施設で、中流以上の人たちのためのもの。 []
  2. カルバリー教会およびカルバリーハウスから1キロほど離れたあまり裕福でない地域の古いビルを使った施設で、ホームレスに援助を与えるためのもの。 []