12ステップのスタディ (7) OAの始まり 1
今回は強迫的過食者のグループ、オーバーイーターズ・アノニマス(Overeaters Anonymous, OA)の創始の物語です。
前回までのNAの創始では、「ブリッジメンバー」と呼ばれるアルコールと薬物の両方の問題を持ったAAメンバーが、アルコールの問題を持たない薬物嗜癖者のためにNAの基礎を作り上げました。ブリッジメンバーたちはすでにAAでの回復の経験がありましたから、12のステップなどの霊的な原理をすでにつかんでいました。ただそれを薬物というジャンルに当てはめるのは容易ではなかったというストーリーでした。
それに対してOAの創始は、まったくAAと関わったことのない人たちが自分たちのための共同体をスタートさせ、その後でAAの霊的な原理をかなり苦労しながら吸収していくという展開になりました。したがって、これは創始者の霊的成長のストーリーでもあります。
さらに、AAにおけるソブラエティにはまったくアルコールを飲まないという前提があります。これはNAにおいてもまったく薬物を使わないクリーンという概念へとそのまま転用されました。しかし食べ物の場合、人はまったく食事を摂らずに生きることはできません。そのため、OAは過食症に対する回復の基準を作り上げねばなりませんでした。その基準と、その基準を実現するための食事計画(plan of eating, food plan)を巡って、長く複雑な歴史が展開しました。
この完全にやめることができない行動の場合に何を回復の基準とするかという主題と、その基準を達成する道具としてプラン(計画)という概念を12ステップグループに持ち込んだ点で、OAはその後に誕生したいくつかの12ステップ共同体のモデルとなりました。
今回はOAから出版されている三つのテキストに拠っています。
- ブラウンブックと呼ばれるOAの体験記集 Overeaters Anonymous 1) に掲載の創始者ロザンヌ・Sの “KEEP COMING BACK: ROZANNE’S STORY”。
- OAが始まってからの約30年の歴史をロザンヌが記述した Beyond Our Wildest Dreams: A History of Overeaters Anonymous as Seen by the Founder 2)。
- OAによる創始者の追悼記事 A Tribute to OA’s Founder, Rozanne S.。3)
ロザンヌの過食
ロザンヌ・S(Rozanne S., 1929-2014)は、1929年にウィスコンシン州ミルウォーキー で生まれました。父親はブナイ・ブリス の国際的なメンバーで(つまり一家はユダヤ人 )、母親はアメリカで最初の栄養士の一人でした。ロザンヌと弟は、勤勉で完璧主義で教育熱心な両親に育てられ、努力して人並み以上の成果を上げることが重要であり、自分たちは愛すべき存在であるばかりでなく、卓越した存在でなければならないと信じるようになりました。
10代前半の彼女は、有名な女優になることを夢見ていました。注目され、拍手喝采を浴びれば、自分は人々に受け入れられるはずだと考えました。
12才の時に一家はシカゴ へと引っ越しました。太った子供だった彼女は、太ったティーンエイジャーになっており、「あなたは美人なんだから、もっと痩せたほうが良い」と人々から言われるようになりました。シカゴ大学 の三年生になったとき、他の女子学生たちが皆デートしているのに、彼女だけは誘いを受けませんでした。太っていては男子学生を惹きつけないのは明らかでしたので、彼女は意を決して過食をやめ、人生で初めて痩せました。身長157cmで64Kgあった彼女の体重は54Kgまで減りました。
その効果はてきめんで、彼女は急に男性にモテ始め、デートが忙しすぎて留年してしまいました。そのことに怒った父親は、「生きていくためのスキルを身に付けろ」と言って、彼女をビジネススクールに送りました(そこで身に付けたスキルは後に彼女がOAの事務局を切り回すのに役に立ちました)。再び過食が始まり、体重も元に戻り、大学にも戻ることができました。
卒業した彼女はニューヨークのテレビ局で働き始め、オーディションでたくさんの女優が落とされていくのを見て、女優になる夢を諦めました。体重64Kgの彼女は不合格と言われるのを何よりも恐れたからでした。やがてシカゴに戻り、コピーライターの仕事に就きました。書くことは彼女にとって誇りを持てる仕事となりました。
彼女はシカゴの寒い冬が嫌になり、陽光溢れるカリフォルニアに住んでいた母方の祖母を頼ってロサンゼルス に移住し、そこでも広告の仕事を見つけました。仕事は順調で、痩せることもでき、男性からのデートの誘いもあって、人生は彼女の思い通りに進むようになりました。しかし内面では、どんなに痩せても自己嫌悪が彼女の心を蝕み続けていました。摂食障害の女性のご多分に漏れずロザンヌも母親への激しい恨みを抱え、自分の不幸を母親のせいにしていました。
1955年1月、ロザンヌはダンスパーティで夫となるマーヴィン(Marvin)と出会って恋に落ちました。その時の体重は54Kg。およそ1年後に結婚し、10ヵ月後に最初の娘を、さらに17ヵ月後には二人目の娘を産みました。結婚と同時に過食を再開した彼女の体重は29才の時には69Kgになっていました。
ギャンブラーズ・アノニマスとの出会い
1958年11月のある日の夜10時、ロザンヌはポール・コーツ(Paul Coates, 1921-1968)というジャーナリストが出演するテレビ番組を見ていました。夫と赤ん坊二人はもう寝ていました。そのようにしてテレビを見ながら寝るまで食べるのが彼女の日課になっていました。
その夜の番組では、ギャンブラーズ・アノニマス(GA)が取り上げられていました。なぜテレビに映る男はカメラに背を向けたまま振り向かないのか、と疑問に思いながらも、彼女は話の内容に惹きつけられていきました。その理由は、夫マーヴィンの友人に強迫的ギャンブラーがいたからでした。4)
ギャンブラーズ・アノニマス はジム・W(Jim Willis, 1903?-1983)によって1957年にロサンゼルスで始まりました。ポール・コーツによる好意的なプロモーションのおかげで、9月13日に行われた最初のミーティングには13人が参加しました。ジムはアルコホーリクでもあり、AAで回復したブリッジメンバーとしてGAを始めました。この番組が放送されたとき、GAはまだ始まって1年あまりしか経っていませんでした。
彼女と夫はなんとか友人を説得して三人でGAのミーティングに出かけました。そこには25人ほどの男たちと、数人の妻たちがいました。ロザンヌは、男たちが嘘をついたり、ごまかしたり、盗んだりしてきた人生について語るのを聞き、「だがもうそのような生き方をする必要は無いのだ」という言葉に心を打たれました。
彼女は、自分も彼らと同じだと感じました。彼らがギャンブルするのに対して、自分が過食しているところが唯一違っているだけであり、彼らが強迫的ギャンブルという病気に罹っているように、自分も強迫的過食という病気なのだと悟ったのでした(GAはギャンブル依存症やギャンブル障害という用語を使わず、もっぱら強迫的ギャンブルという用語を使っています)。
彼女は自分も他の過食者(オーバーイーター)と話をしたいと思ったものの、電話帳には過食についての団体は一つも掲載されておらず、そのまま過食を続けざるを得ませんでした。
ワイルデスト・ドリーム
1年後、ロザンヌの家の隣に、ジョー・S(Jo S.)という太った女性が引っ越してきました。90Kgを越えるその姿をみて、ロザンヌは「私は決してあそこまで太らない」と内心思いましたが、それは過食者が誰でも思う最後のあがきなのでした。
彼女は、それに続くクリスマスシーズンを、ニューメキシコ州にいる弟夫婦の家で過ごしました。義妹の料理は美味しく、ロサンゼルスに帰ったロザンヌは、一週間で体重が4Kgも増えたことでパニックに陥りました。医者もダイエットも役に立たず、彼女は絶望に打ちひしがれました。そして、もう一度GAに行ってみることを思いつきました。
その時にはGAは始まってから2年半が経っており、1年前にいた男たちの何人かが回復を続けていたことに彼女は勇気づけられました。そして、GAが強迫的ギャンブラーに効果があるのなら、きっと自分のような強迫的オーバーイーターにも効果があるに違いないと思いました。それが見つからないのなら、自分で作るしかありません。
彼女はジム・Wに声をかけました。そして「これは私のような強迫的過食者にも効果があるでしょうか?」と尋ねました。彼は、「当然でしょう。私はGAを始める前はAAにいたんですよ」と答えました。そして、「グループを始めたいのですか? それともこの市でいくつかのグループを作りたいのですか?」と尋ねました。
それに対してロザンヌは「違います。私の作る組織は、いずれAAと同じぐらいか、もっと大きくなるでしょう。そして世界中に広がるんです」と答えました。ジムは「あなたならきっとできます。私のGAも成長していますから」と応じました。
この壮大な夢がOAが自らの歴史を語る書籍 Beyond Our Wildest Dreams のタイトルになっています。wildest dream(壮大すぎる夢)はAAでも使われる言葉です。アルコホーリクは誇大性(grandiosity)があり、自己誇大感を抱きがちだということを表現する言葉なのですが、強迫的過食者もアルコホーリクと同様に誇大性を持っているというのです。だが、その誇大性がOAを大きな共同体へと成長させる原動力にもなりました。
ともあれ、ロザンヌは自分の意志で世界を救うという作業に取り掛かりました。だが彼女も、AAを始めたビル・Wと同じように、最初の一人を見つけるのに苦労しました。GAメンバーの妻たちや、娘の通う幼稚園で会った太った女性達に声をかけてみたものの、すげなく断られるばかりでした。誰もが、いずれダイエットを始めたり、医者の勧める薬を飲めば解決するからという理由を付けていました。
ともあれ会場が必要だということで、夫が勧めてくれたヘルスクラブに交渉に行く途中、彼女は隣人のジョー・Sと偶然会い、勇気を持って声をかけました。さらにはGAメンバーの妻のバーニス(Bernice)に声をかけ、こうして1960年1月19日にバーニスの家で最初のOAミーティングが開かれました。
ロザンヌはこの集まりに Overeaters Anonymous という名を付けました。Fatties Anonymousという団体がどこかにあることは知っていましたが、誰も fatty(デブ)とは呼ばれたくないだろうという理由で退けられました。AAが強迫的に飲み過ぎる人(compulsive overdrinker)たちなのであれば、自分たちは強迫的に食べ過ぎる人(compulsive overeater)たちなのだと考えましたが、Compulsive Overeaters Anonymous では長すぎるので、短縮して Overeaters Anonymous に落ち着きました。
当時の心理学のキャッチフレーズは「劣等感」で、彼女たちは過食の原因としてそれを使っていました。またロザンヌは自分の問題の多くを母親のせいにしていました。問題は自分の側にあることに気づくには、その後何年間もの12ステップへの取り組みが必要でした。
最初のOAのステップ
ロザンヌはGAに行ったときに、細長いGAのパンフレットとAAのビッグブックを買っていました。彼女はビッグブックを読んで、これはバーモントの田舎者が書いた本だと結論づけました。それにビル・Wは株式ブローカーにすぎず、それに対して自分は都会で8年間ファッション・コピーライターをやってきたのだから、もっと洗練された文章が書けるはずだと考えました。そこでタイプライターの前に座って、最初のOAの12ステップを書き始めました。
まず、AAもGAもステップ1に「無力」という言葉を使っていますが、彼女は自分が無力だとは認められなかったので、さっそくその言葉を削除することにしました。その代わりに強迫的過食者であることを認めることにしました(彼女が食べ物に対しての無力を認めるにはさらに1年かかりました)。
次にステップ2と3を見て彼女は困ってしまいました。彼女はユダヤ人の家庭で育ちましたが、家の中で神が話題に上ることはありませんでした。両親の教えはむしろ自己信頼と意志の力を重んじていました。そうした教えとステップをどう調和させたら良いか悩んだ挙げ句、ステップ2から「信じる」を削除して「助けが必要だと認める」に置き換え、「自分を越えた大きな力が、私たちの考え方や生活を正常なものに戻してくれる」と続けました――彼女はGAがAAのステップ2から sanity(正気)を取り除き、それを normal way of thinking and living で置き換えたことに気づきませんでした。
ステップ3は彼女にとっては大きなつまずきでした。「私はどんな神の世話にもならない」と考えた彼女はステップ3全体を削除しました。しかし、それではステップが11個になってしまいます。そこで、ステップ1のあとに医者の世話になることを決意するステップ2を入れ、元のステップ2を3のところに移しました。
彼女は大学で心理学を学び、セラピーを受けた経験もあったので、ステップ4の示す自己探求の必要性は十分納得できました。しかし、元の文章は弱く思えたので must(ねばならない)という言葉を加えました(彼女はビル・Wが最初は must を入れたものの他のアルコホーリクたちの反対に遭って削除したことを知りませんでした)。彼女はステップ5の「過ち」という言葉が引っかかりました。「私は何も悪いことはしていない」と考えたからです。そこで difficulties(困難)という言葉なら受け入れやすいと思ってそう変更しました。
ここで彼女は、12ステップから神を取り除いてしまったら、人々はこれをAAやGAのステップと同じだと見なしてくれないかもしれない、と不安になりました。そこで、ステップ7の神という言葉は残すことにしたものの、短所を取り除いてくださいと神に頼んでも効果はないと思ったので、神からは助けを借りるだけにして、自分の欠点を取り除く責任は自分で負うように変更しました。
彼女は他の人への償いのためにステップを二つも使う必要性が理解できず、アルコホーリクや強迫的ギャンブラーたちはどうしてこう非効率なんだろうと頭を振りながら、ステップ8と9を一つのステップにまとめました。その結果、ステップ10はステップ9の位置に移動しました。
また彼女は新しい人たちに食事計画を守ることが不可欠であることを知って欲しかったので、それを空いたステップ10のところに入れました。ステップ11はそのまま使いました。
AAのステップ12の「霊的な目覚め」は彼女の生い立ちや育ちとは全く異質なものだったので、その言葉を削除したGAのステップ12を転用することにしました。
- We admit that we are compulsive overeaters—that our lives have become unmanageable.
- Before embarking on this program, we know that we must seek the aid of a physician of our own choosing, returning to him for regular checkups. We know that he, and only he, can advise us regarding our own calorie allotments and wisest nutritional program.
- We admit that we need help–that a Power greater than ourselves can restore us to a normal way of thinking and living.
- We must make a searching and fearless moral inventory of ourselves.
- We have admitted to ourselves and to another human being the exact nature of our difficulties.
- We are entirely ready to have these defects of character removed.
- We humbly ask God (of our understanding) to help us remove our shortcomings.
- We shall make a list of all persons we have hurt through our actions and willingly make amends to them.
- We shall continue to take personal inventory, and when we are wrong, promptly admit it.
- We shall set up a regular pattern of eating for ourselves, and this we pray we may maintain for the rest of our lives.
- We must seek through prayer and meditation to improve our conscious contact with God as we understand Him, praying only for knowledge of His will for us and the strength to carry that out.
- Having made an effort to practice these principles in all our affairs, we shall try to carry this message to other compulsive overeaters.5)
- 私たちは強迫的オーバーイーターであり、思い通りに生きていけなくなっていることを認める。
- このプログラムに着手する前に、私たちは自分で選んだ医師の助けを借り、定期的な検診を受けなければならないこと、そしてその医師だけが私たちにカロリー配分や最も賢明な栄養プログラムについてアドバイスできることを知る。
- 私たちは助けが必要なこと、自分を越えた大きな力が、私たちの考え方や生活を正常なものに戻してくれることを認める。
- 私たちは恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行なわなければならない。
- 私たちは自分に対して、そしてもう一人の人に対して、自分の困難の本質をありのままに認めた。
- 私たちはこうした性格上の欠点全部を取り除く準備をすべて整える。
- 私たちの短所を取り除くのを手伝ってくださいと(自分なりに理解する)神に求める。
- 私たちは自分の行為によって傷つけたすべての人の表を作り、進んでその人たちに償いをしなければならない。
- 私たちは自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めなければならない。
- 私たちは規則正しい食事パターンを確立し、これを残りの人生も維持できるように祈らなければならない。
- 私たちは祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めなければならない。
- 私たちは自分のすべてのことにこの原理を実行しようと努力を続け、このメッセージをほかの強迫的オーバーイーターに伝えるように努めなければならない。(拙訳)
この12のステップの大半がAAやGAのステップのように過去形で書かれておらず、現在形で書かれているのは、AAやGAと違ってOAには過去がなく、現在だけがあったからでした。ロザンヌが棚卸しなどに取り組むのはこの数年後のことで、なのに未経験な自分が、AAやGAのステップを判断したり、ましてや書き換えるのには不適任だとはまったく考えませんでした。その12ステップに呆れたからなのかどうかは分かりませんがバーニスは去って行き、ロザンヌとジョーの二人だけのミーティングが続きました。
広報と変化
そのころジム・Wは、OAの二人にAAのミーティングに行ってみるように提案しました。ロザンヌは拒んだのですが、ジムは辛抱強く彼女がビッグブックに書かれた「自己意志が暴走する極端な実例」(BB, p.90)であり、だからこそAAを経験しなければならないと諭しました。ロザンヌは初めてGAに出席したときと同じ感覚をAAで味わいました。その後10年間、彼女がAAのオープンミーティングに参加する回数は次第に増え、最終的には週に1~2回出席するようになりました。
ジョーは離婚によってロサンゼルスから転居していき、そのままOAからも去ってしまいましたが、ロザンヌの夫の従兄弟の妻バーバラ・S(Barbara S.)が加わりました。しばしばジムがミーティングに来て話をしてくれたものの、彼女たちの12ステップに対する抵抗は強く、「最初の2年半の間、私たちOAは単なる女性の集まりにすぎなかった」とロザンヌは振り返っています。何人もの女性がOAを訪れたものの、そのまま去って行き、グループは成長を見せませんでした。
潮目が変わったのが1960年の暮れでした。ロザンヌはGAの例にならって、OAもポール・コーツの番組で取り上げてくれるように番組のスタッフと粘り強く交渉を続けていました。ようやく11月になって収録が行われ、OAの7人の女性がインタビューを受けました。まだその時は無名性(アノニミティ)に対する理解が十分でなかったので、撮影は顔出しで行われました。放映に備えてOAの連絡先として私書箱を契約しました。
その頃、ジムはロザンヌに彼女の書いた12ステップを霊的なもの、つまりAAの12ステップに沿ったものに戻すべきだと提案しました。彼女が頑固に拒むので、ジムはこう伝えました。
“if you could have one it by yourself, you would have done it by yourself. But all your life you’ve depended on doctors, fad diets and pills. These are all powers outside of you. Now,” he went on, “you have a meeting every week and you talk to someone every day. Don’t you see that these are powers outside of you, too?” Hesitantly, I agreed.6)
「もし君が自分でできたのだったら、自分でやったはずだ。だが君は、いつも医者や、流行のダイエットや、薬に頼ってきた。そういったものは全部君の外にある力じゃないのかね。今も君は毎週ミーティングをやり、毎日誰かと話している。それらも君の外にある力だということが分からないのか?」(拙訳)
彼女はしぶしぶ同意せざるを得ませんでした。そしてジムはこう付け加えました:
"Then say to yourself, 'I’m willpowerless over food.’ Can you do that?"6)
だから自分にこう言うんだ。「私の意志の力は食べ物には及ばない」と。それならできるだろう?
意志の力(willpower)はダイエッターが使う言葉でした。彼女はずっと「私には意志の力が無い」と自分に言い続けてきました。――つまり、そんなはずはないと否認を続けてきたということです。意志の力を使ってダイエットを成功させている人もいるのに、自分にはできない、と認めることができずにいたということです。しかしそれを認めることで、霊性(スピリチュアリティ)への扉が開かれました。まだ彼女にはその扉の中に入る準備はできていませんでしたが、その時は近づいていました。
ポール・コーツの番組の威力はすさまじく、私書箱は500通の手紙で溢れました。他のメンバーは働いていたので、二人の子供を育てる専業主婦だったロザンヌがひたすら返信を書き、11月29日には75人が参加する大きなミーティングが開かれ、それに参加した女性の多くがその後もOAに残りました。OAが始まってから、まだ1年も経っていませんでした。
ポール・コーツの番組は、いわゆる番組販売 が行われ、ロサンゼルス以外の地域でも放送されました。その結果、1961年は各地でOAのグループが誕生していき、ロザンヌとバーバラはひっきりなしの長い電話に応対する羽目になりました。何と言っても、彼女ら二人がコーツの番組に出演した「成功者」であり、皆に他のメンバーと話すように促しても、多くの人がこの二人と話したがりました。その結果「一人の過食者が、もう一人の過食者に話す(one overeater talking to another)」ことによる恩恵はもっぱらこの二人が得ることになりました。また、二人は火曜のミーティングを続けていましたが、そのリーダーを降りて他の人に代わってもらおうとしても皆に受け入れて貰えませんでした。
変化が起きたのは、男性をOAに入れるかどうかの議論が起きたときでした。これまでミーティングには女性しか参加してきませんでしたが、男性からの問い合わせの手紙が増えていました。ロザンヌは賛成でしたが、他の多くのメンバーは反対でした。そこで、火曜のミーティングのことを話し合う小さな委員会が設けられ、そこでの激論の結果、男性の参加は認めないことになりました。ロザンヌにとってはOAが分裂しないこと(一体性)こそが最も重要で、そのためには犠牲を払ってでも平和を選択せざるを得ないと考えて譲歩したのでした。そして、重要なことは、これが、ロザンヌとバーバラが創始者としての権限を委員会(サービス機構)に委譲する機会になったことです。
サイコロジー vs. スピリチュアリティ
ロサンゼルスから西へ丘を越えたところにサンフェルナンド・バレー という谷があり、そこから3人の女性が車を運転して火曜日のミーティングに毎週通うようになりました。当時はまだフリーウェイ がつながっておらず、女性たちは曲がりくねった谷間の道を使ってロサンゼルスまでやってきていました。すぐにバレーでも三つのOAグループが始まりましたが、その後も毎週火曜日のミーティング通いは続きました。
ロザンヌは12ステップについては何も知らず、だからこそ大胆にステップを書き換えることができました。しかし、OAがコーツの番組のおかげで拡大していった結果として、AAの12ステップをよく知っている女性たちが多くOAに加わってきました。AAメンバーである女性もいましたし、家族が長くAAで活動している人もいました。その多くがロザンヌが12ステップに加えた変更に腹を立て、AAの「本当の」ステップに戻すように要求しました。そのように、12ステップはあくまで「霊的」なものでなくてはならないと主張するグループは、主にサンフェルナンド・バレーに存在しました。彼女たちにとってのロールモデルはあくまでもAAでした。
一方で、火曜日のミーティングを起点としてロサンゼルス市内にもOAグループが広がっていきました。こちらの一派は(ジム・Wがいくら勧めてもステップに取り組まなかったにも関わらず)ロザンヌの書いた12ステップを変更することには反対しました。彼女たちは自分たちが加わったときにOAが持っていた心理学的な基調を気に入っていて、「神の言葉(God-talk)」が多すぎると新しい人を遠ざけると主張しました。また、火曜日のミーティングは「マザーグループ」としてOA全体の基準を設定する役目に(つまり自分たちがロールモデルであることに)慣れており、バレー側の主張はその権威を脅かすように感じられました。
こうして、心理学派と霊性派の対立が始まり、次第に熱を帯びていきました。そのあおりを喰らって過食に戻る人や、単にOAを離れる人も出始めました。バレー側の一部(アイリーン・B(Irene B.)ら)はOAから出て別の団体を作ると主張し始めました。この混乱の中で創始者ロザンヌがどうたち振る舞ったのでしょうか?
ポール・コーツの番組の後でOAに加わった女性の中に、バレーのテルマ・S(Thelma S.)がいました。テルマの夫は16年間AAにおり、テルマもステップと伝統を熟知していました。彼女は重度の肥満問題を抱えていましたが、OAでアイデンティフケーション(自分も同じだという認識)を得ると実に50Kgも減量しました。そして、ロザンヌはテルマをスポンサーに選びました。
それまでジム・Wが仮のスポンサー的な立場に就いていて、ロザンヌに霊的な概念を注ぎ込むのに苦労していましたが、その役割はテルマに引き継がれました。テルマは、ロザンヌが自己意志によって作り上げた防壁の内側に「小さな女の子」がいることを指摘しました。それは「内なる子ども」というキャッチフレーズが一般化する30年も前のことでした。テルマは彼女に降伏することとハイヤーパワーに依存することの価値を教えました。しかし、彼女を変えたのは、スポンサーの教えではなく、彼女自身が引き起こした出来事でした。
何年も後になって、他のOAメンバーが、当時のロザンヌについてこう語りました。「ロザンヌ、あの頃のあなたは意固地で、いつも上から目線で、人を見下す態度を取っていた。でも、こんなに痩せている人は見たことがなかったし、あなたからは成功がにじみ出ていた。みんなあなたの持っているものを欲しがっていたのよ」
ある夜のミーティングで、一人の女性が立ち上がって皆の前でロザンヌを非難しました。数日後の深夜には、別の女性が電話をかけてきて彼女を罵倒しました。二日後の夜10時にも電話がかかってきて、また続けました。彼女はなぜ自分がこんなに攻撃されなければならないのか分からず、受話器を叩きつけて電話を切り、暗いリビングの床に突っ伏して、こらえ切れずに泣き始めました。そして「神様、私が必要だというのなら、私をもうあなたのものです」と叫びました。こうして、彼女は降伏(ステップ3)を行いました。
1962年2月1日、OAグループの代表が集まって会議を開きました。ステップをAAのものに戻すことが受け入れられないなら分離すると主張するアイリーンたち一派、分離は望まないがステップは戻すべきだと考える一派、頑なに変更を拒む一派、それぞれによる激しい議論を聞きながら、ロザンヌはOAを作るとジムに言った晩のことを思い出していました。「いつかOAはAAと同じかそれ以上の規模になり、世界中に広がる」と言ったのだから、それを実現するにはどうすれば良いのか・・・。
ロザンヌはAAのステップをそのまま受け入れることに決め、皆に伝えました:
“the watered-down Steps are not as effective as they might be.”7)
「水で薄めたステップは、元のステップほどの効果はありません」
誰もが分裂を臨んでいないことは明らかでしたし、それまで議論を黙って聞いていた創始者の言葉には重みがありました。それでも議論は続きましたが、心理学派が霊的な概念を受け入れる譲歩を行った結果、皆で共有する印刷物にはAAのステップと伝統をそのまま使い、それをどう解釈するかは自由ということになりました。唯一の変更は、アルコールを食べ物(food)に、アルコホーリクを強迫的過食者(compulsive overeater)」に置き換えることでした。
- 私たちは食べ物に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
- 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
- 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
- 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
- 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
- こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
- 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
- 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
- その人たちやほかの人を傷つけずに、可能なかぎり、その人たちに直接埋め合わせをした。
- 自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
- 祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
- これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを強迫的なオーバーイーターに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。8)
こうして見ると、ロザンヌの「OAをAAに匹敵する共同体に育て上げ、世界中に広げたい」(そしてそれによって世界中の過食者を助けたい)という願いを共有した仲間たちが、OAの分裂を防ぎ、AAの見つけた原理の持つ力を余さず受け取るという選択をさせた、と言えるでしょう。ワイルデスト・ドリームが団結と成長の原動力になりました。
12ステップについてのグループ間の会議はOAにとって重要な転機ではあったものの、それはロサンゼルスとサンフェルナンド・バレーという南カリフォルニア地域のOAグループだけによる決定でした。ロザンヌは父がブナイ・ブリスの地域の代表者として広い範囲の人たちを集めて会議をしているのを見ながら育ちました。そこで、他の地域のグループも含めたすべてのOAグループの会議(カンファレンス)を年に一回ロサンゼルスで開くことを提案し、全会一致で受け入れられました。さらには、グループ間の交流のためにニューズレターを定期的に発行することも始めました。
OAの拡大は、もちろんそれを必要としていた人々がたくさんいたからでもありますし、テレビ番組による広報が効果的だったこともありますが、その初期からグループ間の交流と全体の意思決定を促す中央サービス機構が形づくられたことが寄与しました。ロザンヌは個人的なリーダーシップをこのサービス機構に徐々に委譲していきました。
男性の参加
さて、テキサス州にいたA.G.という男性は、1961年5月当時は31才でしたが、過食でそれまでの人生の大半を体重130Kg以上で過ごしてきました。彼にはジョン・B(John B.)というアルコホーリクの友人がおり、すでにAAで2年以上酒を止めていました。そこでA.G.は勇気を出して、ジョンに「AAプログラムは自分のような人間にも効果があるだろうか?」と尋ねました。友人はその質問に対して長く考え込んだ後、大きくうなずいて「効かない理由が思いつかない」と答えました。
A.G.は12ステップについてはよく知らなかったものの、自分が食べるのと同じ理由でジョンも酒を飲んでいたのだろうと考えました。そして、その日のうちに圧倒的な霊的体験をしました。
ジョンは彼をAAのミーティングに連れて行き、AAグループは彼を(クローズドミーティングにも)受け入れる決定をしました。A.G.はすぐにノーマ・B(Norma B.)という女性にメッセージを伝え、AAの12のステップと12の伝統に基づいた Gluttons Anonymous (グラトン・アノニマス、大食いアノニマス)を二人で始めました。
A.G.はAAのニューヨークのGSOに手紙を書き、他にも同じような団体はないかと問い合わせました。ロザンヌも同じ内容の手紙をAAのオフィスに出し、自分たちのGSOの番号(彼女の家のキッチンの電話番号)を伝えました。こうしてAAを介して二人が連絡を取り合った1962年7月には、A.G.たちは5グループ、ロザンヌたちは16グループになっていました。
ただOAは1年半前に女性限定という決定をしたばかりでしたが、男性の参加に反対したバーバラはすでにいなくなっていたので(皆いなくなるのが早いな)、全員一致で男性の参加を受け入れることにしました。
全国会議
1962年8月11日、初めてのOA全国会議が開かれました。テキサスの石油産業で成功していたA.G.は自家用飛行機に他のグループの代表を乗せてロサンゼルスに到着して参加しました。
この会議の時、ロザンヌは体重47Kgでサイズ6の服を着ていたとか、A.G.は45Kg以上痩せたという記述があるところが、彼らの数字へのこだわりの強さを感じさせられます。
会議(カンファレンス)では、「OAの12のステップと12の伝統に従おうとするグループはOAを名乗ることができる」と決められ、A.G.たちもOAに合流することになりました。9) 続いて最初の公式文献が承認されました。ここでも南カリフォルニア地域の心理学派と霊性派の対立が繰り返されたのですが、興味深いのは心理学派は「OAは霊的・感情的(精神的)・身体的な三つの要素を持ったプログラムだ」という主張へと立場を変えていたこと(霊性を受け入れた上で、他の要素とのバランスを取ろうとした)、そして霊性派は宗教的用語の排除へと動いたことです。
そして、この二つの派閥の対立の結果として、中央サービス機構の主導権がどちらかに握られないように、集団指導体制としてボード・オブ・トラスティー(日本のAAでは常任理事会と呼ぶもの)が選ばれました。OAの急速な拡大と、派閥の対立が、AAを模倣した民主的な全体運営体制を早々と作らました(OAの始まりから2年半しか経っていません!)。
翌63年5月には第2回の全国会議が開かれ、全国会議のガイドラインが検討されました。これは後にサービス機構が法人化されたときの細則に相当するものです。このなかで評議員(ボードのメンバー)は標準体重を維持していなければならないと決められました。これは評議員が太っていた場合、広報の場で外部の職業人たちにOAについて否定的なメッセージを送ると考えられたためでした。そして、任期中に過食が再発して体重が増えたと申告があった時点で辞任したと見なされることになりました。
すぐにこれが原因で辞任する評議員が出ました。その年の秋にはロザンヌ自身が過食に戻って辞任し、さらに翌64年の暮れにはA.G.も「スリップした。もう私は嘘をついて生きることはできない。だが自分に正直になることはできる」と手紙を書いて評議員を辞任し、4年後にはOAから去ってしまいました(お前もか!)。
このことから、OAの回復の概念の一部を知ることができます。体重がリバウンドすることで役員を辞任するという取り決めは厳しすぎるように思われますが、AAの評議員や理事もまれに再飲酒して辞任していくことを考えれば当然なのかも知れません。AAメンバーは、自身が酒を飲まないでいる姿そのものが回復を伝えるメッセージになっている――AAメンバーが飲んだくれているとAAについての否定的なメッセージを発することになる――ことを経験的に知っており、飲んでいる人がAAを代弁することはできないのはやむを得ないことだと考えています。それはOAも同じなのでしょう。
以下次回
このようにして、GAとAAをモデルとして始まったOAは、そのメディア広報戦略によって、わずか3年ほどで数十のグループと、全国的な中央サービス機構を備えた共同体へと発展しました。霊的な面での回復プログラムに関する議論は(紆余曲折あったものの)AAの12ステップをそのまま採用することで早々と決着しましたが、OAにおける回復をどのように定義するか、そしてその回復を身体的・精神的にサポートする食事計画に関する議論は、その後も長く続くことになります。そして、創始者ロザンヌの回復はどうなるのかも含めて、次回に続きます。
- OA, Overeaters Anonymous Third Edition, Overeaters Anonymous, 2015 — 初版は1980年.[↩]
- OA, Beyond Our Wildest Dreams: A History of Overeaters Anonymous as Seen by the Founder, OA, 1996.[↩]
- この文書の日本語訳がOA JAPANのサイトにあるが、メンバー向け情報とあるので参照やリンクは避けた。[↩]
- 夫の友人の抱えるギャンブルの問題には関わりを持たずにいることもできたはずなのだが、ロザンヌはそれを解決しようとした。それは共依存的な「おせっかい」ではあるかもしれないが、そのように他者を救おうとする指向性は、前回までのNAの創始者たち(失敗した者たちも含めて)も備えていたものだった。AAの創始者ビル・W妻ロイスによれば、ビルは常に(株式のビジネスを行っているときでさえ)、人類を救うことを考えていたという。それは世界的な回復共同体の創始者に必要とされる資質なのかもしれない。[↩]
- OA, Beyond Our Wildest Dreams, ch.1.[↩]
- ibid., ch.2.[↩][↩]
- ibid., ch.4.[↩]
- OA12&12.[↩]
- 同じ時期にアリゾナ州Emma W.という女性が偶然に同じ名前の Overeaters Anonymous という集まりを始めており、これも合流した。このようにグループの合同が起こるためにも全国的なサービス機構が必要なのだろう。[↩]
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