12ステップのスタディ (13) SCA・SRAの始まり
これまでSLAA(第10回)・SAA(第11回)・SA(第12回)と性問題を扱う12ステップグループを紹介してきました。今回取り上げるSCAとSRAを含めて、この五つの共同体はまとめて S-fellowships と呼ばれます。例として、自分のところ以外の共同体を other S-fellowship(他のSフェローシップ)と表現します。五つの共同体が併存する性関係ならではの習慣と言えます。
さて、SCAとSRAは、いずれもSAの分派であることを明らかにしています。まずは、SCAから始めましょう。
SCAの始まり
特に明記しない限り、SCAについては、以下を出典としています:
セクシュアル・コンパルシブズ・アノニマス(Sexual Compulsives Anonymous, SCA)は1982年にニューヨークで始まりました。創始者としてビル・L(Bill L.)とフランク・H(Frank H.)という二人のAAメンバーの名前が挙げられています。
発展場通いをやめられないゲイ男性
まずはビル・Lのストーリーから始めます。ビルがAAに加わったのは1977年9月のことでした。彼はすぐに酒をやめましたが、アルコールという一つの薬物を手放した一方で、強迫的セックス(compulsive sex)という別のドラッグが彼の生活を脅かし始めました。
彼は19才の時から男性とのセックスに人生を費やしてきました。ゲイサウナ(gay bathhouse, 有料発展場 )で多くの男性に求められることは彼のエゴを強く刺激しました。彼はそれがロマンティックな関係に発展することを夢見たのですが、実際には肉体だけの関係しか得られないとわかって絶望しました。彼は知らない男性を家に連れてきたり、逆に泊まりにいったりすることをやめようと、AAのスポンサーを含めて話を聞いてくれる人になら誰にでもその話をしましたが、行動化(acting out)はとまりませんでした。(その話を聞いてくれた人の中に、後の共同創始者フランク・Hもいました)。
ビルは意識改革グループ(Consciousness raising, 意識向上)にも参加するようになりました。意識改革グループは1960年代からの第二波フェミニズム で活発に行われたもので、小グループで自由に議論することで「意識を高める」ことを目的にした活動です。やがてこの手法は女性だけでなく、障害者や各種のマイノリティの間に広がっていきました。ですから(ストーリー中で明示はしていないものの)ビルが参加したのはゲイ向けの意識改革グループだったと思われます。そしてそのことは彼がゲイである自分自身を受け入れるのに役に立ち、後に彼の回復に重要な影響を与えることになります。
DAの創始者に勧められて
さらに彼は1981年にデターズ・アノニマス(Debtors Anonymous, DA)のミーティングに参加しました。
DAは(無担保の)借金をやめたい人たちの12ステップグループです。DAの元となるグループは1968年にジョン・H(John H.)という金銭問題を抱えたAAメンバーが中心となって始まりましたが、最初の数年間は問題の本質を突き止められずにいました。彼らは支出をコントロールしようと試みたり、毎月貯金してみたりと、試行錯誤を重ねましたが、成果は得られませんでした。そこでGAなど他のミーティングにも参加してみた結果、問題は収支の管理ができないことでもなければ貯蓄ができないことでもなく、「支払い能力が無いのに借金をすること」であると突き止めました。その発見により「12ステップに取り組むことで無担保の借金をすることをやめ、その状態を維持する」というプログラムの根幹が1971年にできあがりました。しかしその特別グループは2年ほどで解散してしまいました。ジョンは何度か再開する努力をし、結果として1976年4月にニューヨークでDAとしてのミーティングが始まりました。6年後(1982年)にはマンハッタンで5つのグループが活動するようになっていました。その後もDAはニューヨークだけに存在する時期が長く続きましたが、やがて成長が始まり、現在では日本を含め15カ国に500以上のミーティングが存在しています。しかしながら、ビル・LがDAを訪れた1981年には、DAはまだニューヨークにしかない時期でした。2)
意識改革グループはビルの意識を高く保つことには役に立ったものの、一度は収まった彼の発展場通いは頻度を増していました。ある日、彼はサウナの小さな部屋のベッドで自分の腕を見て、自分はまるで次の注射を待っているヘロイン・アディクトと同じではないかと思いました。彼は膝をついて、神に助けを求めました。そして翌日参加したのがジョンの開いていたDAのミーティングでした。
ビルがなぜDAに行ったのかはまったく説明がありません。彼に借金癖があったからなのか、それともたまたまDAにゲイの人が多かったのか、真相は分りません。ともあれ彼はDAに行き、そこで見知らぬ男性とのセックスをやめられない自分への苛立ちと絶望を分かち合いました。話し終えるとジョンが抱きしめてくれ、「あなたは私がDAを始めた時と同じ場所にいるようだ」と言ってくれました。
どうやって始めて良いか分らなかったものの、何人かがサポートすると言ってくれたので、ビルは1981年のある日曜日に、自分のアパートで性に焦点を当てたミーティングを始めました。
SAニューヨークグループとして
それから数ヶ月、このミーティングは毎週日曜日に彼のアパートで続けられました。すると意識改革グループで一緒だった人から、他の性の共同体の情報が届きました。一つはボストンのSLAA(第10回)、もう一つはシミバレーのSA(前回)、そしてもう一つについてはビルは名前を忘れてしまいました。
ミーティングを続けることで彼の性の行動化は収まっていきました。彼らはSAの文書を――同性愛についての論調は好きになれなかったものの――気に入って読んでいました。
そしてロイ・Kと会ったことで、ビル・Lらは正式にSAニューヨークグループとなりました。ビルは前途が開けたように感じました。
SAからの分離とSCAの始まり
しかし数ヶ月後に届いたSAの文献を読んで、ビルは、その同性愛に対して否定的な論調に幻滅し、「もうSAを続けられない」と感じました。この時点でSAのミーティングは彼のアパートで約6ヵ月続いていましたが、他のメンバーに別の場所を探すように伝え、彼はSAをやめました。しかしそれによって、彼は元の自暴自棄な性行動に戻ってしまいました。
そんな時に彼は、AAの知り合いのリチャード(Richard)が自分のアパートで性の問題を扱うミーティングを開いているのを知りました。このミーティングは1982年6月に始まり、その何回目かからビルが参加し始めました。
彼はそこでもう一人の創始者フランク・Hと出会うことになりました。フランクも発展場通いがやめられずに悩んでいたAAメンバーでしたが、ビルがSAのミーティングをやっていた時期があったことは知りませんでした。
彼らは自分たちをSAと呼び、SAのテキストの気に入らない部分を消して使っていましたが、すでに「自分の回復の基準は自分で決める」という方針が確立しており、SAのプログラムとは明らかに一線を画していました。初期のメンバーは全員ゲイで、彼らはSAの文献が持っている同性愛嫌悪のニュアンスは自分たちの自尊心を損なうと考えて、別のプログラムを作ろうと考えました。
やがてこの集まりは教会の部屋に移りましたが、彼らがまず取り掛かったのは自分たちの文献作りでした。SAのロイ・KからはSAの名前を使わないように求められていたので、彼らは別の名前を必要としました。フランクは自分をセクサホーリクと名乗り、SAという名前にこだわりましたが、グループの意志は自分たちを性的強迫症者(セクシュアル・コンパルシブズ)と呼ぶことを決めました。このようにして、SCAはSAの分派としてニューヨークで始まりました。
SCAは西海岸ロサンゼルスにもう一つのルーツを持っています。SCAの基本テキストによれば、このロサンゼルスグループは、1970年代後半に始まり、1979年にピーター(Peter)という人物がリーダーになると主に対決療法(confrontational therapy)を行うグループになっていました。対決療法(Attack therapy)は、文字通り対決的な手法を用いてクライアントが抱える自己欺瞞に気づかせる技法です。セラピーと名付けられていますが、セラピーとは言えないレベルの危険な手法で、カルト化したシナノン(Synanon)という治療共同体 で使われていたことで知られています。
話をロサンゼルスのSCAグループに戻します。裁判所が飲酒運転で検挙された人をAAに送り込んでくるように、性犯罪で逮捕された人たちがこのグループに送られてくるようになりました。こうしてロサンゼルスのグループは、非自発的参加者に対して対決的技法を用いるグループとして数年間続きましたが、あるときニューヨークのSCAに参加したメンバーがSCAの文献を持ち帰ると、グループの方向性は次第にスピリチュアルな方向へとシフトし、自発的な参加者による12テップグループへと変化していきました。それは、対決的な技法よりも、対決的ではない12ステップを好む人が多かったことによります。ハイヤーパワーの概念を受け入れられなかったピーターは脱退を選びました。というわけで、ロサンゼルスのSCAグループの始まりはニューヨークより早かったものの、ニューヨークのビル・LたちがSCAの創始者だと考えられています。
SCAの基本テキストは、ピーターがリーダーになる以前のロサンゼルスのグループについては簡単に「1970年代に公園などの公共の場所で性行為に及んで逮捕された男性たちが、自分ではやめられないそうした行為をやめるためのグループを開いていた」と述べているのみです。このグループについては、かつて存在した The SCA Origins というサイトがその記録を公開していました。5) その記録によると、このグループは1973年にゲイの人たちによって始まり、自らを Sexual Compulsives Anonymous と名乗った12ステップグループでした。それがどんな事情でピーターによる対決技法グループに変わったのかは分りませんが、その時点で12ステップグループとしての連続性は途切れていることになります。それでもSCAという名前は残り、ニューヨークのグループと合流することになりました。
SCAの基本テキストは1982年から89年にかけて書かれました。現在使われているのは、2002年にビル・Lのストーリーといくつかのパンフレットの内容を追加した第二版です(2021年に出版された第三版は現在翻訳中だそうです)。
- 私たちは性的強迫症(sexual compulsion)に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
- 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
- 私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
- 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
- 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
- こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
- 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
- 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
- その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
- 自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。
- 祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
- これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを強迫的・衝動的な性行動の問題を持つ人たち(sexually compulsive people)に伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。6)
SCAの疾病概念
SCAは疾病概念を明確化していません。性的な嗜癖(sexual adicition)であるという説明はあるものの、ではその性的な嗜癖とはどういうものかは説明していません。
SCAでも compulsion という言葉は使われていますが、他の共同体とは違って、それをほぼ嗜癖(addiction)と同じ意味で使っています。これはSAのセクサホリズムという言葉は使えなかったことや、性嗜癖(sex addiction)という言葉もSAAですでに使われていたために、それらを避けて選ばれた言葉だと思われます。また、強迫観念(obsession)という言葉も使われていますが、その意味は明確ではありません。
SCAの基本テキストは疾病概念の説明にはページ数を割かず、性的強迫症者(セクシュアル・コンパルシブズ)の持つ特徴や、回復の阻害要因、ミーティングやスポンサーシップなどの説明を充実させています。回復のストーリーは創始者たちの短いものが三つ収められているだけです。
疾病概念を明確化していないのはSCAだけではありません。SCA以前でもイモーションズ・アノニマス(Emotions Anonymous, EA, 1971年創始)は問題の明確化を行いませんでした。それは感情の問題に対して明確な疾病概念を作ることが難しいという特殊事情があってのことだと思われます。それに対して、1980年代以降に成立した12ステップ共同体の多くが、EAのような特殊事情がなくても、疾病概念(すなわち問題)の明確化を避け、その問題を抱える人たちが共通して持っている特徴を描き出したり、特徴のリストを提示することで問題の説明に代えています。(e.g. CoDA(Co-Dependents Anonymous, 1986)、WA(Workaholics Anonymous, 1983)) なぜ1980年代を境にそのような変化が起きたのかは、大きなテーマなので将来別の連載で扱おうと思います。
セクシュアルリカバリープラン(性的回復計画)
SCAも、SLAAやSAAと同様に「プラン」タイプの回復の基準を使用しており、SCAではそれをセクシュアルリカバリープラン(性的回復計画)と名付けています。
プランには決まった形式はなく、
-
- 内容が明確に定義されていて
- 書かれたもので
- もう一人の人(スポンサー)と分かち合われたものであり
- 自分の能力の限りをつくしてそれに従おうとするもの
であるならば、どのような形式のものであっても有効なプランだとしています。それでもガイドラインとして、3列の表を使用することが推奨されています。それはかなりSAAの三つの円(第11回)に近いものです。7)
表の一列目は、「解放されることをハイヤーパワーに願う人々、場所、物事」というタイトルですが、それは強迫的行動(compulsion)を引き起こす対象であったり、その人自身がやめたいと考える行動のことです。その例として、売買春、男(女)漁り、感情から逃れるためのセックス、初対面の人とのセックスなどが挙げられています。
二列目は、「行動化を起こしやすい時」というタイトルで、自分が強迫的行動が起こしやすいタイミングやシチュエーションを書きます。これはSAAの境界行動と同じく警戒すべき状況を意識するためのものですが、具体的な行動を書くのではなく、スリップを引き起こしやすい状況を書きます。例として、夜一人でいる時、かつてのパートナーと会う時、上司やパートナーと衝突した時などが挙げられています。
三列目は、「自分の回復の生活に加えたい行動、人々、場所、物事」というタイトルで、自分が関わっていきたいと望むことを書きます。ミーティング、祈り、日記を付けること、エクササイズ、運動などが例として挙げられています。
プランは固定されたものではなく、見直して変更を加えていくべきものですが、変更は行き当たりばったりに行うものではなく、スポンサーや他のメンバーに相談することが良い考えだとされています。しかし同時に、他の人のプランを承認したり不承認にしたりする権限は誰にもなく、メンバーは性的回復計画を立てることで「自分の性的ソブラエティを自ら定義する」ことが推奨されています。8) すなわち、SCAにおける性的ソブラエティとはセクシュアルリカバリープランを忠実に守ることなのです。
このようにSCAは、前回紹介したSAとは対照的に、回復の基準を自分で設定するようになっています。9)
SCAの現在
SCAはそのロゴマークが性的多様性を示すレインボーカラーになっていることからわかるように、性的少数者 の存在を強く意識した共同体です。それは、初期メンバーがゲイの男性ばかりであったことで、同性とのセックスを認めないSAから分離してできあがった、という歴史的な事情によるものです。
SCAはグループ数を公表していませんが、ミーティングリストを見る限りでは、オンラインも含めて全世界で100弱のミーティングが行われているようです。一部でオープンミーティングが行われていますが、男女別のミーティングを開催している様子はありません。ミーティングは主に北米に存在しますが、それ以外では東アジア(日本・台湾・フィリピン)が特に多い地域になっています。
小さい共同体ではありますが、12のステップと12の伝統の本が2021年に出版されるなど、地道な活動が続いています。
SCAが日本でいつ頃始まったのか定かではありませんが、2004年ごろに日本語のインターネットサイトが開設されました。当時は東京でひとつのSCAグループが活動していました。それから10年近くこの東京グループだけが活動していましたが、2010年代になって全国に広がっていきました。現在では日本国内で10グループ余りが活動していると思われます。
僕の知り合いのSCAメンバーは、その半数以上がゲイでも同性愛でもない人たちです。察するに、彼らは自らのセクシュアリティを理由にSCAを選び取ったのではなく、SAの厳格な性的ソブラエティの定義を受け入れられず、残された選択肢(SCAとSLAA)のなかからSCAを選んだという事情だと思われます。
SRAの始まり
さて、最後はセクシュアル・リカバリー・アノニマス(Sexual Recover Anonymous, SRA)です。
SRAも、SAの「セックスは男女の夫婦間に限る」という性的ソブラエティの定義に反対してできあがったSAの分派です。ただSCAの創始者ビル・Lが早々にSAを諦めて別団体を立ち上げたのとは違って、SRAの創始者は何年もSAのなかで性的ソブラエティの定義を変更しようと試みた点が異なっています。
SRAの始まりについては、SRAの共同創始者の一人BMが、もう一人の共同創始者マリー・R(Murray R.)についてSRAの機関誌 The SRA communiqué の2001年秋号10)に書いた追悼記事 “Murray, A Reluctant Founder”(マレー、不承不承の創始者)、およびBM自身の体験記 “I Can’t Do It Alone”(一人ではできない)に拠っています。
マリーのSAを変える努力
SRAの実質的な創始者はマリー・R(Murray R.)という男性です。彼はAAでの経験を経て、1983年にSAに加わりました。まだ発展途上のSAのなかで活発に活動し、ボード(理事会)のメンバーにもなりました。彼はSAの性的ソブラエティの定義が同性愛者のアイデンティティを否定するものだと考え、それを変更する活動を展開しました。しかし、SAの創始者ロイ・Kはその変更に否定的でした。ロイによれば、同性婚を認めるかどうかは社会の中で活発に議論が続いていてまだ決着がついておらず、SAが間接的にであっても自分たちの立場を表明することは「外部の問題に意見を持つ」ことにつながり、12の伝統に反することになるというものでした(つまり、SAが同性間のセックスを性的ソブラエティに含めるのは同性婚が普遍的になってからで良い、ということになります)。11) そして、ロイの意見はSAのなかで圧倒的な支持を受けました。マリーは創始者が大きな影響力を持っているSAに幻滅しましたが、地元バンクーバー のSAでも同じ幻滅を感じました。
もう一人の創始者BM
しかし彼を支持する人たちもいました。その一人がBMでした。BMは三人兄弟の末弟として生まれましたが、幼い頃から母に殴られ、兄に性的に虐待されながら育ちました。そして10歳頃には同性に性的関心を持つようになりました。高校二年のときに上級生の男子に恋心を抱き、イースター 休暇の間、ラブレターを送り続けたところ、家に警官がやってきて、母親に注意しました。そのことは学校中に知れ渡ってしまい、BMはダウンタウンのゲイ集団の中に自分の居場所を見つけました。19才の時にアルコホーリクの父親が死に、彼は大学をやめました。それから彼の生活はアルコールとゲイサウナによって次第に壊れていくことになりました。
BMは32才の時にAAに加わって酒をやめました。自分の性関係を徹底的に棚卸ししたものの、それは彼をさらに自分に不正直にさせただけでした。彼はAAのニューカマーに恋心を抱いて関係に持ち込んだり、自分のスポンシーと関係を持つなど、彼の表と裏の乖離は拡大していきました。1983年11月にBMは(なぜか)OAのミーティングに参加し、そこで自分と同じように性嗜癖を抱えた友人と再会しました。それがきっかけとなって、バンクーバーで始まったばかりのSAに参加しました。最初は性的なスリップの日々が続いたものの、1990年の暮れにはSAで5年のバースディを祝うことができました。
ところがそのミーティングが終わると、SAミーティングのリーダーたちから「今後はゲイ・セックスをしながらのソブラエティという話はするな」と言い渡されてしまいました。BM自身が鈍いと認めていますが、その鈍いBMでも、ここまでハッキリ言われてしまっては、(男女のセックスとゲイセックスを同じだと見なしている)自分の考えがSAでまったく歓迎されていないことを悟らざるを得ませんでした。衝撃を受けたBMは、その晩マリーに電話し、新しい共同体作りに加わると伝えました。SRAの創始の時期には議論があるようですが、マリーはBMがSAをやめることを決心した1990年11月12日がSRAの創始日だとしています。
SRAの始まり
同じような考えを持つ人々はバンクーバー以外にも存在し、1993年にはニューヨークで、1998年にはロサンゼルスでSRAのミーティングが始まりました。12) 創始年や創始の場所、さらに創始者が曖昧にされているのは、SAでの経験から、創始者が強すぎる影響力を持つことをマリー自身が警戒した結果ではないかと思われます。SRAの基本テキストにはマリーの体験記は載せられていません。彼が創始者であることを公式に認めたのは亡くなる直前のことでした。
マリーが「不承不承の創始者」と呼ばれるのは、彼の望みはSAの性的ソブラエティの定義を変えることであって、SAとは別の共同体を作るのは本意ではなかったということを意味するのでありましょう。
SRAは2016年にメンバーの回復のストーリーと12ステップの解説を収録した基本テキスト Stories of Recovery From Members of Sexual Recovery Anonymous を発行しました。この本の後半は12ステップの解説になっていますが、ステップ7までしか掲載されておらず、残りのステップ8から12までは「でき次第、将来の改版時に掲載する」と書かれてあります。13)
SRAにおける性的なソブラエティ
SCAと違ってSRAは「プラン」タイプの回復の基準を採用していません。SRAの性的ソブラエティの定義は、基本的にはSAのものを踏襲し、唯一、SAで男女の配偶者間とされていた部分を相互に献身的な関係(mutually committed relationship)と変えただけです。
committed relationship は信頼しあった関係という意味で、広い意味では親友関係を含む表現ですが、性的な関係に限れば結婚や婚約している状態、長期的な関係(事実婚)、シビル・ユニオン (同性カップルに結婚同様の法的地位を与える制度)が含まれます。つまり何らかの理由で結婚はしない・できないけれど、ほぼ婚姻関係に等しいと認められる関係のことです。
つまり性別や法的な結婚であるかどうかを取り払っただけで、メンバー全員に一律の基準を適用している点はSAと同様です。当然マスターベーションやカジュアルなセックスは慎まなければなりません。14)
この性的ソブラエティを見ると、なぜマリーやBMが、先行していたSCAや、もっと大きなSLAAやSAAに移るのではなく、新しい共同体を立ち上げたのかが見えてきます。彼らは、SAのソブラエティの定義をよりモダンなものに変えたかったのであって、「プラン」タイプの自己決定を求めてはいなかったのです。
SRAの現在
SRAは、五つの S-fellowships のなかでは最も後発で、最も小さな共同体です。主にアメリカに存在し、そのなかでもニューヨークとロサンゼルスが活発なようです。アメリカ以外ではドイツとイギリスに存在します。ミーティング数はすべて合わせて数十程度でしょう。日本での活動は見られません。
次回は、S-fellowships についてのQ&Aです。
- SCA, SCA, SCA-JAPAN, 2021.[↩]
- DA, History of Debtors Anonymous (debtorsanonymous.org), DA GSB.[↩]
- SA, Biginnings: Notes on the Origin and Early Growth of SA, SA Literature, 2003, pp. 9-13.[↩]
- ibid., pp. 13-14.[↩]
- http://www.scaorigins.com/ — 2005年から2021年頃まで存続し、ロサンゼルスのSCAの1978年までの書簡・新聞記事などを公開していた。archive.orgで閲覧することができる。[↩]
- SCA-JAPAN, 12のステップと12の伝統 (sca-japan.org), SCA-JAPAN — as we understood God は原文ではイタリックだが、日本語訳では強調されていない。[↩]
- 3列の表については、基本テキストの第三版による。[↩]
- SCA, Statement of Purpose (sca-recovery.org), ISO of SCA.[↩]
- 英語版の Wikipedia では、SCAの性的回復プランはOAの食事計画を元に作られたという議論がされている。ビル・Lやフランク・HのストーリーにSCAには初期からOAのメンバーが加わっていたという記述があることはその傍証になるだろう。[↩]
- SRA, The SRA communiqué 2001 Fall, SRA.[↩]
- Roy K., Principles Corroborating SA’s Interpretation of Sexual Sobriety (roykfiles.com) — first appeared on Essay June 1991, Sexaholics Anonymous.[↩]
- Inter-Fellowship Forum, The S-Fellowships (sexrecoveryfellowships.org), Inter-Fellowship Forum.[↩]
- SRAの12のステップ (sexualrecovery.org) は、ステップ1では our sexual obsessions、ステップ12では those still suffering を対象としている。また Him は God にすべて変えられ、as we understood God はイタリックにはなっていない。[↩]
- SRA, Stories of Recovery From Members of Sexual Recovery Anonymous, SRA GSB, 2016, “Sobriety And Abstinence.”[↩]
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