12ステップのスタディ (17) ACoAムーブメントの始まり
前回はアラノンACができるまでを取り上げました。今回は、そこから派生したACoAムーブメントについてです。
実のところ、このACoAムーブメント1)と、現在のACA共同体(Adult Children of Alcoholics、日本ではACoA)の歴史については、記述を何度も書き直しました。というのも、資料集めにかなり苦労し、新しい資料が得られるたびに、加筆や修正が必要になったからです。
現在、日本語で入手可能なACの12ステップのテキストは二冊あります。一冊は、1998年に日本で出版された『ACのための12のステップ』です。この本は実際にはその数年前に訳出され、以降30年にわたって日本のACグループで使われてきました。ただし、中身を注意深く読めばわかりますが、この本は自助グループの基本テキストではなく、出版社が出している自助文献(Self-help book)であるため、この本からACの12ステップグループの歴史を知ることはできません。ちなみに、この日本でテキストを使っているACの共同体もACA(アダルトチルドレン・アノニマス)を名乗っていますが、上述のACA共同体とは異なります。
もう一冊は、2022年に日本語訳が出版された『ACAフェローシップテキスト』(通称ビッグレッドブック)です。これはACA共同体がその基本テキストとして2006年に出版したものです。2011年ごろには日本語に訳されて国内のグループで使われるようになっていましたが、共同体の内部だけで使用されている書籍の内容を外部者である僕が取り上げて論じるわけにはいかないので、一般向けに出版されるのを待っていました。2022年にようやく一般販売が開始され、さっそく入手しました。
湧き上がる疑問
僕はこのビッグレッドブックを読みながら、そのなかのACA共同体の歴史に関する記述についていくつか疑問に思うところがありました。というのも僕には予備知識があったからです。僕は1995年に長野県でAAに加わりました。当時は日本のACブームの真っ只中で、その追い風を受けて2000年前後には全国的にACの12ステップグループが活発に活動するようになっていました。2) 僕はその人々と交流する中で、1980年代の日本のACグループの黎明期に関わった人たちの話を聞きました。彼らは当時のアメリカのACグループの状況を次のように語っていました:
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- 1980年代にはACAを名乗る共同体が複数存在したが、そのどれもAAのビッグブックのような基本テキストを持つに至っていなかった。
- それらACA共同体のいくつかは元を辿ればアラノンACから派生した。
- 1990年代にどのACA共同体も活動停止し、アメリカのACブームははすでに終結した。
ところが、ビッグレッドブックは読者に次のような印象を与える記述を行っています:
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- 彼らのACA共同体は、ACの12ステップ共同体としては最初に成立したものである(つまりアラノンACの分派ではない)。
- ACoAムーブメントとACA共同体は同一のものである(=他のACA共同体は存在しなかった)。
- アラノンACが存在するのは、ACA共同体がアラノンに影響を及ぼしたからである。
- 現在のACA共同体は、1980年代のACA共同体と連続性がある。
これは、僕が日本のACグループのオールドメンバーから聞いた話と明らかに矛盾しています。はたしてどちらが本当なのか? そしてビッグレッドブックの記述が真実でないとするならば、なぜ彼らが歴史修正主義 者になったのかにも興味が湧きました。さらに、ビッグレッドブックが主張している、
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- ACA共同体の創始者はトニー・Aという人物である。
- 現在のACA共同体の使っている「問題」や「解決」はトニー・Aが書いたものであり、ACA共同体は創始者の考えを忠実に受け継いでいる。
という点にも疑問が生じました。そこで、トニー・Aという人物と、彼の思想について知るために、彼が1991年に出版した The Laundry List: The ACoA Experience という本を読んでみたり、彼の講演の録音を聴いてみたり、さらにはACA共同体の設立に関わった人々のストーリーを読んでみたり・・・と、様々な資料にあたった結果、この六つの疑問にある程度の答えが出せ、ACグループの歴史の全体を大まかに描き出せるようになったと判断しました。
トニー・AとACA共同体の関係性
トニー・A(Tony Allen, 1927-2004)は、1970年代後半にアラノンACからの分流を作り出し、それがACoAムーブメントへと発展していった最初の数年間に、その全体の方向性を決定づける重要な役割を果たした人物です。実質的にこのムーブメントのオリジネーター だと言えます(ムーブメントは共同体ではないので創始者(founder)という呼称はふさわしくないでしょう)。
トニーは自分が作り出したACoAムーブメント全体と、その一部であるACA共同体を常に明確に区別しており、前者をACoA、後者をACAと呼び分けました。
それに対してACA共同体の側では、トニー・Aが自分たちの創始者であると主張し、トニーが語ったムーブメントの始まりの歴史を、自分たちの共同体の歴史として自分たちの文献に掲載しています。3) しかしトニーの側では、自身がACA共同体の創始者だとは一切述べていません(実際に彼はこの共同体の創始や運営には関わっていないはず)。どうやらACA共同体側には、トニーの意向を無視して彼を自分たちの創始者と主張し、彼が初期に行った活動を共同体創始の歴史として取り込もうという考えがあるようです。さらには、自分たちを含めたこのムーブメントがアラノンACの分流であることも曖昧にしようとする意図も見受けられます。4)
これから数回にわたってACグループの歴史と12ステップについて説明するにあたり、僕がどのような立場をとるべきかを考えましたが、複数の資料から、トニーの主張を支持するべきだと判断しました。そこで、ここではトニーの意志を尊重し、ACoAムーブメントとACA共同体を明確に区別することにしました。ACAは今日ではACというジャンルを代表する世界的共同体になっていますが、1980年代から90年代前半にかけては、ACoAムーブメントの一部を構成していたにすぎず、トニーはそのメンバーではなかったというのが、実際のところでありましょう。
日本でACAのグループが始まったのは00年代後半でした。しかしその頃にはすでにACA(アダルト・チルドレン・アノニマス)という日本独自のAC共同体が活動していました。そこで重複を避けるために、日本国内ではACoAという呼称を用いることになりました。なので、この連載でACA共同体と呼んでいるのは、日本国内ではACoAと呼ばれている団体のことです。日本のACAを指す場合にはそれを明記して区別できるようにします。
アダルトチャイルドとしてのトニー・A
トニー・AとACoAムーブメントについては、以下の文献等に拠ります:
- トニー・Aの1991年の著作 The Laundry List: The ACoA Experience5)。彼はこのなかでACoAムーブメントの始まりとその原理を解説し、さらにACoA向けの新しい12ステップを提案した。
- トニーが1991年2月25日に第7回 National Convention of Children of Alcoholics で行った講演の録音 Why 12 new steps for ACoAs followed by a group discussion led by Tony Allen.6)。
- 1997年にACAが出版したリーフレット AN INTERVIEW ABOUT THE EARLY HISTORY OF ACA。これは1992年10月5日に行なわれたトニーのインタビューを元にしており、現在は Early History of ACA7) として出版され、その前半は『ACAフェローシップテキスト』にも収録されている。

ACoA(アダルトチャイルド・オブ・アルコホーリック)としてのトニーのストーリーは The Laundry List の巻頭に掲載されていますが、彼は自分の体験の悲惨さを強調せずに、淡々と描いています。
トニーは1927年に生まれ、ニューヨークで育ちました。父親はウォール街 で成功した株式ブローカーでした。したがって経済的には恵まれていましたが、彼の人生は最初からアルコホリズムの狂気に触れていました。
トニーが1才の時のある晩、両親が連れだってディナーに出かけました。使用人たちが休みの日だったので、彼の面倒は19才の叔父がみることになりました。叔父はアルコホーリクで、一家は彼を助けるために同居させていたのですが、叔父は留守を預かっている間に酒を飲んで拳銃で自殺してしまいました。両親が帰宅した時、トニーのベビーベッドには叔父の脳と血が飛び散っていました。
この事件のあと、トニーの母親のアルコホリズムが理由となって、両親が別居しました。母親は禁酒法時代の裕福な裏社会の人たちと交際し、酒とパーティの独身生活を楽しんでいましたが、あるパーティーにでかけた翌朝、真珠のネックレスを首にきつく巻き付けて死んでいるのが発見されました。事故だったのか、事件に巻き込まれたのは分りません。その時母親は26才の若さでした。
母親が死んだ後は、父親の酒の量が増えその精神状態も荒れていきました。トニーがまだ幼かった頃、誤ってトイレの便座をおしっこで濡らしたことがありました。それに気づいた父親が、すごい剣幕で乳母の腕からトニーを奪い取り、彼の顔を汚れた便座にこすりつけました。それは、彼の一家が犬をしつけるために使っていたやり方でした。翌朝、トニーが父親のところに前夜のことを謝りに行くと、父親はそのことをまったく憶えていませんでした。トニーは、自分があまりに酷い粗相をしたので、父親が憶えていないふりをしているのだろうと考え、二度と父親に逆らわないようにしようと決めました。

トニーの祖母(父親の母)はウォルドルフ=アストリア という高級ホテルのスイートルームに住んでおり、父子は毎週日曜日に会いに行き、一緒に食事をするのが習慣になっていました。しかし、その食事の間中、祖母は息子(トニーの父)がいかに失敗作であるかという愚痴を聞かせるので、トニーは食事がまったく喉を通りませんでした。その祖母は、トニーが10才の時に鬱病になり外海に向かって泳いで自殺しました。
トニーの父親は自分がユダヤ人 であることを恥じており、トニーにユダヤ人とは遊んではいけないし、将来ユダヤ人とは結婚してはいけないと教えました。父親自身はキリスト教徒と結婚し、トニーは聖公会の一員として育てられました。やがて戦争の時代になり、アドルフ・ヒトラー (1889-1945)がヨーロッパでユダヤ人を虐殺していた頃、トニーの学校の机の中に「トニーは半分ユダヤ人だ」と書かれた紙が入っていました。また父親も当時の反ユダヤ主義 に悩まされていたため、一家は姓を変えることにし、トニーは遠方の全寮制の学校へと送られました。
父親から「半分ユダヤ人であることを明かしたら親子の縁を切る」と脅されてていたので、トニーは決してそのことは明かしませんでしたが、そのせいで本当の自分は決して誰にも受け入れてはもらえないのだ、という思いを強くしました。努力してテニスチームのリーダーになったり、学校新聞を編集したりしたのは、自分を受け入れて貰う努力でした。バージニア大学 という名門校に進んだ彼は、友愛会に入るために自分は100%キリスト教徒だと宣言しましたが、そのことで、父親から見捨てられたという思いが強くなりました。
その頃、父親のアルコホリズムはいよいよ悪化し、再婚した継母が精神科のクリニックに連れて行っていましたが、その面倒を息子に押しつけてきました。トニーは父親をほうぼうの田舎の療養施設へと連れて行きましたが、そこへ連れて行ってくれと頼んだの父親だったにもかかわらず、「お前はこんな淋しいところへ俺を置き去りにするのか」と非難するのでした。実にアルコホーリクらしい、面倒くさい性格を見事に表現したエピソードです。
大学を卒業したトニーは、父親の後を継いで株式ブローカーとして成功しますが、彼は自分がユダヤ人でありキリスト教徒でもあるというルーツを人に明かすようになりました。そして、その告白に対する反応を見て、相手が本当の自分を受け入れてくれているか試すようになったのです。彼は図らずも、父親譲りの面倒くさい性格を身に付けてしまったのです。
こうして彼は、根底に恐れがあり、その上に恥の意識と罪の意識を持った大人になったのでした。8)
1991年の講演で、彼はAAで22年間のソーバーを得ていると話しているので、1969年ごろ(42才ごろ)にAAで酒をやめたと思われます。アルコホーリクとしての彼がどのような人生を歩んだのかは詳しくは分りません。判明しているのは、彼の父親は株式ブローカーとして成功していて一家は豊かでしたが、トニー自身も株式ブローカーとして経済的に成功していたことや、結婚して子供が3人いたことぐらいです。AAに加わって12ステップに取り組んだ彼は、アルコホーリクの親がいる虐待的な環境で育ったことの影響に関心を持つようになりました。彼はその解決をスピリチュアルな方面に求め、アラノンに参加したほかに、神秘学 へ傾倒し、ヒンズー教の寺院で学ぶなどして様々な瞑想法(黙想法)の実践に取り組んでいました。彼がアラノンACの若者たちと出会ったのはその時期でした。9)
若者たちとの出会い
さて、アメリカ国内のアラティーンのグループ数は1970年代には1,500に達していました。アラティーンの対象は12才から20才なので10)、メンバーたちは20才ぐらいになると大人のアラノンのグループへと移るのが慣例となっています。ところが、前回説明したように当時のアラノンの主流はアルコホーリクの配偶者たちであり、アルコホーリクの親がいる環境で育ったことについてのトピックは通常のアラノンミーティングで歓迎されませんでした。そこでACoAである人たちはもっぱらACoAの人たちを対象にしたアラノンAC(Al-Anon Adult Children)というグループを作っていたことは前回述べました。

Smithers Alcoholism Treatment Center, from Treatment Centers Directory.com
1976年の終わりか77年の初め頃、4~5人のアラティーンのメンバーが20歳前後に達し、自分たちのアラノングループを作りました。会場はニューヨーク市のルーズベルト病院(Mount Sinai West)に隣接するブリンクリー・スミザーズ財団(Brinkley Smithers Foundation)の本部の小さな会議室でした。彼らは全員がアルコホーリクを親に持ったAC(ACoA)でした。重要なことは、彼らが全員アルコホーリクではなかった点です(20才未満でアルコホーリクになった若者たちはアラティーンではなくAAのティーン向けミーティングに行くため)。彼らはこのグループをアダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックの希望(Hope for Adult Children of Alcoholics)と名付けました。11)
トニーはこのグループが Adult Children of Alcoholics のグループとしてアラノンに登録したと明記しているので、明らかにこのグループはアラノンACの一部でした。12)
このグループが始まって間もなく、メンバーの一人シンディ(Cindy)が、アラノンのミーティングでトニー・Aの話を聞きました。トニーの話は、アルコホーリクの家庭で育ったことで彼が身に付けた破壊的な態度や行動に焦点が当てられていました。そこで彼女はトニーに自分たちのミーティングで話をしてくれと頼みました。
数日後、トニーはこのアラノンACグループで話をしました。彼は自分が現在抱えている問題のほとんどは、混乱した幼少期にまでさかのぼることができると主張し、その自分の抱える性格特性のいくつかを細かく説明しました。トニーはこの時50才前後であり、このグループを作った20才前後の若者たちより30才も年上だったにもかかわらず、お互いにとても打ち解けた気持ちになり、トニーはこのグループに加わりました。
しかし、トニーと若者たちの間には障壁もありました。トニーはACoAであるだけでなく、アルコホーリクでもありました。一方の若者たちは、アラティーンからアラノンACに移ってきたアディクションを持たないACoAでした(いわば「純粋なAC」)。彼らの中には、アルコホーリクの父親を持つ人たちもおり、トニーに対して不安を感じていました。彼らがACグル-プを作ったのは、アラノンが主にアルコホーリクの妻たちで構成されており、自分の母親を象徴するパラ・アルコホーリクの女性たちと一緒にミーティングをやることを避けたかったからでした。だから、当然彼らはトニーと一緒にミーティングをやることにも抵抗がありました。トニーも彼らの懸念を感じ取り、不本意ながらも、自分が権威的な父親を象徴していることを理解したのでした。11)
現在でもACのグループには、ACであるだけでなくアディクションも持った人たちが一定の割合で参加しています。僕が見るに、その人たちの多くはトニーのような敏感さを持たないので、自分が他のメンバーにとって権威的な親を象徴した存在であり、不安の対象になっていることに、あまりにも無自覚です。アディクションを持った人がACのグループに参加する時には、「自分が自分の親と同じ存在になっている」という自覚をしっかりと持つことが必要です。
特色あるミーティングの始まり
このグループのミーティングの形式はアラノンのままでしたが、その内容や回復プログラムはまだ固まっておらず、手探りの状況が続きました。彼らは自分たちの「怒りや自己憐憫や恐れや悲しみ」を安全に分かち合い、体験できる場所が必要だと考えて、自分たちの感情に焦点をあてたミーティングを行うようになりました。その様子をトニーは著書の中でこう述べています:
・・・通常、メンバーはアルコホーリックの家での生い立ちをこのグループで分かち合うように求められた。こうした初期の頃の話には、あまりに多くの傷と痛みがあったため、誰もが動揺したり、泣いたり、ひどく不安定な気持ちになってしまった。最終的に私たちは、リーダーが家族の長い物語を詳しく説明することはせず、皆でこの一週間に起こったことの中で最も悩ましい問題について話し合うだけにする、とグループで決めた。
だが、グループへのインプットをどう制限したり、誘導したりしてみても、どうしても苦悩や怒りが持ち出されてくるのは避けられなかった。
プロセスをよく理解していないまま、私たちは自分自身を開示し始めた。残念なことに、私たちはこれらの生の感情をどう扱えば良いのか分からなかったので、私たちは毎回のミーティングの終わりに、自分の感情を落ち着かせるための特別な努力をしなければならなかった。ミーティングの間、私たちは安全で理解のある環境を体験していた。1時間から2時間、私たちは共通の問題について率直に話し、激しい怒りの感情や密告話を解き放ち、仲間のメンバーから愛と受容のあるサポートを受けることができた。だがそこから通常のレベルの交流に戻るのは難しかった。(拙訳)13)
アルコホーリクの家で育ったことについて話そうとすると、その当時の心の傷や痛みが呼び起こされ、ひどく動揺したり、泣いたりする人があり、その激しい怒りを伴った分かち合いを聞いている人たちも自分の子供の頃の痛みの記憶が呼び起こされていく、という連鎖反応がミーティングで起きました。そのような初期の荒削りなミーティングのやり方は、ミーティングの維持を困難にするデメリットもあったのですが、トニーはそこにメリットを見いだしていました。
彼によれば、アダルトチルドレンは、その悲惨な家庭環境で体験することになった激しい感情を誰にもケアしてもらえず、自分でもケアすることができずに、それを奧へと押し込める(stuffing)という手段で回避し、心の平静を保つという習性を身に付けてしまっているというのです(彼はそれを「凍り付いた感情(frozen feelings)」とも呼んでいます)。それはACが子ども時代にアルコホーリクの家の中で生き残るために身に付けたサバイバルスキルの一つです。それゆえACは大人になっても自分の感情を回避する名人になっており、過去の感情ばかりでなく、現在の感情すらも避けてしまっているのです。
そこで、トニーは、子供の頃の感情を再体験するという手法を、積極的にACミーティングに取り入れました:
ほとんどのアダルトチルドレンは、感情を回避する名人だ。私たちは、自分の感情を感じないようにするためならば、とことんまで努力する。アダルトチルドレンにとって、感情は良いものでも悪いものでもないが、しかし感情を十分に経験することが回復のプロセスには不可欠である、という現実を把握するのは非常に難しいことだ。これをことのほか難しくさせているのは、ほとんどの回復プログラム〔他のセルフヘルプ・グループ〕が「ミーティングに参加することで気分が良くなる」という前提で運営されているからである。むしろACoAでは、ミーティングに行くと、そこで私たちは〔仲間の分かち合う〕強い感情にさらされるために、気分が悪くなることが多いのである。
アルコホーリックの家族メンバーは、自分が何者であるかに恥を感じ、自分がしたことに罪悪感を憶えるようになるが、これはACoAでの分かち合いにおいて常に存在するテーマである。他のアダルトチルドレンと同様に、私も、自分自身について感じていることや、自分自身をどう認識しているかが、必ずしも正確ではないということを学ばなければならなかった。(拙訳)14)
感情に焦点を当てたミーティングによって癒しが起こると聞くと、なんだか心に平和が訪れてほっこり暖かくなるようなミーティングを想像しますが、実際はその正反対です。
・・・ニューカマーにとって、一部のミーティングはとても精神的に動揺するものだろう。強い感情が頻繁に、しばしば爆発的に表現される。こうしたものを脅威として経験することで、長い間埋もれていた感情が呼び起こされうる。またニューカマーは、威圧的なレベルの怒りや苦痛を目の当たりにすることもあるだろう。
…
抑えの効かない怒りや悲しみは、普通は、観察することが難しく、それを経験することはなおさら難しい。それでも、それを経験することが回復の過程における不可欠な一歩なのである。私自身の回復においても、また他の何百人のアダルトチルドレンが私に語った経験においても、内面に向かう回復の旅には、ほとんどの場合に、私たちの感情を経験することが含まれている。怒り、抑うつ、見捨てられなどの恐ろしくて脅威的な感情に対して自分をさらすことが非常に重要だ。痛みや傷のどのような要素が心の表面に現れてきても、一緒に座ってそれを経験することが不可欠なのである。(拙訳)15)
確かに、子供の頃の感情を再体験することは辛いことです。しかし、それが癒しになります。人間の体には、体の傷をゆっくりと治していく機能が備わっています。ところが傷口をひっかくなどしてその治癒機能を邪魔してしまうと、傷はなかなか治らなくなります。同じように人間の心(精神)にも、心の傷をゆっくりと治していく機能が備わっています。しかし、ACが身に付けてしまった感情を押し込めるというサバイバルスキルは、心の治癒機能を自ら邪魔してしまうのです。アダルトチルドレンが負った感情的な傷を癒すためには子供の頃の(そして現在の)感情を再体験することが必要なのだ、とトニーたちは考え、それをミーティングに取り込んで成果を出していきました。(持続暴露療法やEMDR といったPTSD 治療に効果があるとされている手法も、過去の再体験と再処理を行っているということからすると、このACoAの手法もそれなりに合理的なのかもしれません)。
この過去の感情の再体験はACのミーティングを特徴づけるものだと言えます。トニーの言うとおり、AC以外のミーティングは、それに参加することで「心が軽くなる」という体験を得るという特徴がありますが、ACのミーディングでは参加者が具合が悪くなって帰っていくという違いがあるのです。――トニーは、大麻やアルコールなどの使用が、この感情の再体験による癒しのプロセスを邪魔してしまうと指摘しています。16) これが現在のACA共同体がアディクションの問題を先に解決してから次にACの問題に取り組むべきだと主張する理由の一つなのでしょう。17) しかし多くのACが先人たちの経験を無視して回復の回り道を選びます。
ACにはAAの12ステップとは違ったステップが必要だと考える人は少なくありませんが、トニーは(後に自ら違ったステップを提案しているにもかかわらず)ACの回復のために異なる道筋を辿る12ステップが必要だとは強調していません。彼が強調しているのは、ACoAのグループと、他の12ステップグループの違いは、ステップではなく「ミーティングの内容にある」という点です。
この特色あるミーティングのやり方が、始まった50年近くを経た現在のACグループでどれほど維持されているのかは部外者である僕には分りません。ただ、ACAのビッグレッドブックには、ミーティングのやり方の説明の中に以下のような記述があります:
ACAではミーティング中に誰かが感情的になった時、その人に触れたり、ハグしたり、慰めようとはしません。もし誰かが泣き出しても中断せず、その人に自己の感情を感じてもらいます。
人に触れたりハグしたりするのは「直す」こと(fixing)として知られています。子どもの時の私たちは、自分の行動によって親を「直そう」としたり、コントロールしようとしたりしていました。ACAで私たちは自分自身の世話をすることを学んでいます。私たちは他者をミーティングに受け入れ、聴くことによってサポートしています。その人たちに静かに自己の感情を感じてもらいます。18)
感情の再体験が辛いものであったとしても、自己の感情を感じることはACoAのプログラムのDNAの一つとして受け継がれているのでありましょう。
話を77年当時のアラノンACグループに戻します。ミーティングで多くの人が泣いたり、不安定な気持ちになった結果、彼らはミーティングの終わりに、自分の感情を落ち着かせるのに苦労しました。しかし同時に、ミーティングには愛と受容がもたらされました。彼らは強い感情の分かち合いには悩まされましたが、もう通常の分かち合いに戻ることはできませんでした。
アルコホーリクたちの参加
当然のことながら、そうした分かち合いに脅威を感じて参加を取りやめる人たちもあり、トニーが加わった「ACoAの希望」グループは、数ヶ月のうちに参加者が三人まで減ってしまいました。やむを得ずミーティングをもう閉じようという話になったときに、トニーはもう一回だけチャンスをくれと頼みました。他の二人のメンバーはしぶしぶ同意してくれました。彼は、次のミーティングまでの一週間のあいだに、ニューヨーク市内のあちこちのAAミーティングに出席し、新しいACミーティングでやっていることを説明し、自分と同じようにアルコホーリクの家庭で育ったAAメンバーたちに次のACミーティングに来てくれるように頼みました。
果たして、翌週のミーティングには17人のAAメンバーが現れました。そしてその人たちが、この「感情に焦点を当てた」かなり風変わりなミーティングの存在を多くの人に伝えた結果、このグループはあっという間に(アル中たちが)100人以上が集まるようになりました。
このことは、その後も繰り返し証明されることになる皮肉な真実を明らかにしています。つまり、ACのグループは本来アディクションを持たない(純粋な)ACのためのものであり、アディクションを持った人はそこではむしろお邪魔虫的存在なのですが、しかし現実のACグループはこのようなアル中ACの参与なくして維持できないこともしばしばなのです。
「問題/解決」

1978年春にはトニーは二番目のグループを作り、レキシントン街のセント・ジャン・バプティスト・カトリック教会(St. Jean Baptiste Catholic church)でミーティングを始めました。このグループがジェネレーションズ(Generations,「世代」の意)と名付けられたのは、若いACoAたちだけでなく、中年以降の世代の人たちも歓迎する意図があったからだと思われます。その思惑があたり、AAやアラノンやOAからメンバーが加わって、参加者はすぐに数十人に増えました。このグループは、AAにもアラノンにも加わらないことを決めました。
二つのグループとも、AAやアラノンのパンフレットや書籍を使っているだけで、自分たちの問題や解決が曖昧なままでした。トニーはあるメンバーから、そのような状態でミーティングを続けることを激しく非難されました。混乱した家庭で育った人たちには明確な枠組みが必要であることをトニーは理解しました。
そこで彼は、自分たちの抱える問題とその解決を文書にしなければならないと考えました。ひと晩考え、翌日職場で2時間タイプライターに向かって、アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックスが持っている一般的な特徴のリストを書き出しました。数えてみるとそれには14もの項目がありました。彼はその体験を「何者かが自分を通してリストを書いたのだ」と述べています。
The Laundry List では彼はいきなり14の特徴をすべて書いたように述べていますが、1992年のインタビューでは、最初に13の特徴を書き出した後で、恐れについて書いていないことに気がつき、「恐れに嗜癖するようになった」と書き加えようとしたものの、「ACたちはきっと恐れを〔持っていることを〕認めないだろう」と考え、その代わりに「興奮に嗜癖するするようになった」(リストの8番)を加えたと述べています。19) 7)
さらに彼は、その問題に対する解決を苦労して書き上げました。トニーはこの「問題」と「解決」のセットを、グループのセクレタリであるクリス(Chris)に渡しました。彼女は「解決」に編集を加えた上でタイプしました。そしてトニーが次のミーティングで14の特徴を読み上げた時、メンバーの一人であるバリー(Barry)が「これは僕の洗濯リストじゃないか!」と大声で言いました。それによって「問題」にはランドリーリストという愛称が付けられ、その名前で呼ばれるようになりました。
この「問題(ランドリーリスト)」と「解決」のセットは、「問題/解決」とも呼ばれ、その後この系譜を継ぐすべてのACグループで使われています。いわばACグループのDNA とでも呼ぶべき象徴的な文書となっています。20)
問題(ランドリーリスト)
1978年春にトニーが書いたオリジナルのランドリーリストはこのようなものでした:
The Problem (The Original Laundry List)
- We became isolated and afraid of people and authority figures.
- We became approval seekers and lost our identity in the process.
- We are frightened by angry people and any personal criticism.
- We either become alcoholics, marry them or both, or find another compulsive personality such as a workaholic to fulfill our sick abandonment needs.
- We live life from the viewpoint of victims and are attracted by that weakness in our love and friendship relationships.
- We have an overdeveloped sense of responsibility and it is easier for us to be concerned with others rather than ourselves; this enables us not to look too closely at our own faults, etc.
- We get guilt feelings when we stand up for ourselves instead of giving in to others.
- We became addicted to excitement.
- We confuse love and pity and tend to “love” people we can “pity” and “rescue.”
- We have “stuffed” our feelings from our traumatic childhoods and have lost the ability to feel or express our feelings because it hurts so much (Denial).
- We judge ourselves harshly and have a very low sense of self-esteem.
- We are dependent personalities who are terrified of abandonment and will do anything to hold on to a relationship in order not to experience painful abandonment feelings, which we received from living with sick people who were never there emotionally for us.
- Alcoholism is a family disease; and we became para-alcoholics and took on the characteristics of that disease even though we did not pick up the drink.
- Para-alcoholics are reactors rather than actors.21)
「問題」オリジナルのランドリーリスト
- 私たちは孤立し、人や権威者を恐れるようになった。
- 私たちは承認を追い求め、その過程でアイデンティティを失った。
- 私たちは怒っている人やいかなる個人的な批判にも怯える。
- 私たちは病的な見捨てられ欲求を満たすために、自分がアルコホーリックになるかアルコホーリックと結婚するか、又はその両方か、あるいはワーカホリックのような強迫的な性格の人を探し当てたりする。
- 私たちは被害者の視点で人生を生き、恋愛や友人関係においてその弱さで惹きっけられる。
- 私たちは過剰な責任感を持っていて、自分よりも他人のことを気にかけるほうがたやすく、そうすることで自分自身の欠点などをよく見ないですむ。
- 私たちは人に譲歩しないで自己主張しようとすると罪悪感を感じる。
- 私たちは興奮することに嗜癖するようになった。
- 私たちは愛と哀れみを取り違え、「哀れんだり」「救ってあげたり」できる人を「愛する」傾向がある。
- 私たちはトラウマを負った子ども時代から自分の感情を「押し込めてきた」。そしてあまりにも痛いので、自分の感情を感じたり表現したりする能力を失った。(否認)
- 私たちは自分自身を厳しく裁き、自己評価が非常に低い。
- 私たちは見捨てられることを極度に恐れる依存的人格である。そして見捨てられる痛みを経験しないためには、どんなことをしてでも人間関係にしがみつこうとする。この見捨てられる痛みは、私たちにとって情緒的に関われない病んだ人たちと生活したことから受け取ったものである。
- アルコホリズムは家族の病気である。私たちはパラアルコホーリックになり、たとえ自分は飲まなくてもその病気の特徴を受け継いでいる。
- パラアルコホーリックは自ら行動する人というよりも反応する人である。22)
トニーは「14の特徴のうち、8つか9つが自分にもあると同定できないアダルトチルドレンは滅多にいないだろう」と書いています。彼によると、これらの特徴はACが混乱した家庭や静かな狂気の中を生き延びるために身に付けた防衛手段(サバイバルスキル)であり、もっと短く表現すれば:
-
- 過度の警戒
- 深い不信
- 感情表現能力の欠如
- 抑鬱
- 権威者への恐れ
- 出来事や人々をコントロールしたいという強い欲求
ですが、何よりも忘れてはならないのが13番と14番です。トニーは「アルコホリズムの環境で育つことによって、人はこの病気〔アルコホリズム〕の特徴の多くを直接受け継ぐことになる」と明言しています。つまり、この14の特徴は、アルコホーリクである親が持っていた特徴を受け継いだものなのです(それだけでなくパラ・アルコホーリクであるもう一方の親からも受け継いでいる)。
12ステップに取り組んでいるけれどACのことは詳しく知らないAAメンバーにこの「問題」のリストを見せてみると、「これは普通のことでしょう?」という答えが返ってきます。つまり、権威者や批判されることを恐れたり、自分を犠牲者と捉えたり、過剰な責任感を持って人を助けたくなったり、自分を厳しく裁いたり、見捨てられることを極度に恐れたりするのは、アルコホーリクにとってはありふれた日常だというのです。
前回、アルコホーリクと暮らすことでその家族がパラ・アルコホーリック(疑似アル中)になっていくという概念を説明しました。最初は主に配偶者に対して使われていた言葉を子供に拡張したものがACという概念です。だから当然ACは全員パラ・アルコホーリックなのです(定義上そうだから)。
つまりこの14の特徴は、アルコホーリクの一家全員が共有している性格特性です。親たちとACとの違いは、ACがアルコホーリクのいる虐待的な環境で育ったために感情的な傷を負っているという点だけです(もちろん、親たちのなかには同様の過去を持っている人たちもいる)。
ACのミーティングでは、アルコホーリクの家庭の悲惨さの他に、「そこで身に付けたサバイバルのためのパターンがいかに現在の成長を妨げているかを分かち合う」とトニーは述べています。
そして、親たちがAAやアラノンで12ステップに取り組んで性格上の問題に対処できているのであれば、ACも12ステップに取り組むことでランドリーリストの特徴に対処できることになります。上の図はビッグブックの「ショー全体を取り仕切りたがる役者」の図ですが[BBS#93, #94]、アルコホーリクの一家では、夫も、妻も、そして子供たちも、皆がこの「取り仕切りたがる役者」となり、子供たちは成人して家を離れても、この「コントロールできないものをコントロールしようとする役者」であり続けるのです。
ほとんどのアルコホーリクが回復が始まる前は「自分はアル中なんかじゃない」という否認をします。多くのアダルトチルドレンも「自分は親と同じになんかなっていない」という否認をするところが親そっくりです。

クラウディア・ブラック が1981年に出版した It Will Never Happen To Me!(日本語訳は『私は親のようにならない―アルコホリックの子供たち』 (1989))はACというジャンルの古典的名著です。邦題は原意をよく汲んでいると言えます。巻頭でブラックはアルコホーリクの親に育てられたある58才の男性の短い逸話を紹介しています。その彼は、「私は父のようにならないために、一生を費やしてきました。けれど今、父と私の唯一の違いは、父はアルコホリズムで死にましたが、私にはその必要がないということだけのようです」と言っています。つまりアル中という病気以外は自分は考え方も行動も親にそっくりだと言っているのです。23)
私たちは親たちと同じになってしまった(we have become our parents)という表現をトニーは著作や講演の中で繰り返し使っています。僕が10年ほど前に香港のAAコンベンションに参加した時、予定されていたアラノンのスピーカーがドタキャンになり、急遽代わりにACAのメンバーの男性が話をしてくれました。アル中のシングルマザーの母親に育てられた彼は、いかに自分が「母のようになってしまったか」を語ってくれました。彼の「私と皆さんとの違いは、アルコホーリクになったか、ならかったかだけなのです」という言葉には心打たれるものがありました。しかし、大半のACにとって自分が親のようになったことを認めるのには、何年にもわたる長い取り組みが必要なようです。
僕は何人ものACの人が「自分は疑似アル中なんかじゃない」と主張するのを聞いてきました。そしてAAの12ステップとは違う12ステップがACには必要だと主張し、ミーティングではほっこりと暖かくなる「癒し」を求めるのです。比較することは難しいのですが、アル中よりもACのほうが否認が強固なのではないかと思うこともしばしばです。
「解決」
さて、ランドリーリストと対になる「解決」ですが、トニーは著書に「解決」の文章を掲載していません。ただ、それについてこう書いています:
問題のリストを完成させた後、私は解決の概要の説明に力を注いだ。この重要な要素については、AAとアラノンのスローガンや全般的な原則を大いに参考にさせてもらった。ミーティングに頻繁に参加すること、自分自身に焦点を当て続けること、自分の感情を感じること(そしてそれを言葉にすること)、AAのステップに取り組むこと。これらが私たちが回復のために使える主な道具であると提案した。
特に過激なことや急進的なことは盛り込まなかった。私が書いたもののほとんどは、かなり基本的なものだった。特に治療的でもなく、福音伝道的でもなかった。それは、私たちが何者であるか、そしてその問題に対して「よりバランスの取れた健全な方法で生きられる」ようになるには私たちは何をすべきかを、シンプルに定義したものになった。(拙訳)24)
これと比較してみればわかりますが、現在のACAが使っている「解決は自分自身の愛ある親になることである」で始まる「ACAの解決」は、明らかにトニー・Aが1978年に書いた「解決」とは異なっています。ACAはどこかの時点で「解決」をトニーが書いたものとは別のものに差し替えたようです。25)
そこで、トニーが書いたオリジナルの「解決」の原文を探してみたのですが、残念ながらまだ入手できていません。そこで、日本の二つのAC共同体(ACODAおよびACA)で使われている「解決」の文章が、その経緯からしてトニーの書いた「解決」に近いものだろうと推測し、それらから復元を試みました。
「解決」
- ミーティングに定期的に参加することによって、もっと意味のある生き方ができることが分かってきた。私たちは自分の態度や行動や習慣の古いパターンを変えるようになってきた。そうすることにより心の落ち着きを、さらには幸せを発見した。
- アルコホリズムは、精神的、身体的、霊的な三重の病気である。私たちの親は、この死または狂気にいたる病気の犠牲者だった。このことを知ることが自分を自由にする第一歩だった。
- 私たちは自分を見るように、自分に良くするようにした。私たちは感情を意識し、受け入れ、表現すること、そして自己評価を高めることを学んだ。
- 私たちは平安の祈りを使った。スローガンを使った。「今日一日」、「気楽にやろう」、「手を離してハイヤーパワーにまかせる」など。
- 私たちは、自分を理解してくれる、プログラムを実践している人たちと、電話などを通じて分かち合った。
- 私たちは、回復のプログラムとして提示された12のステップを使った。自分の生活がどうにもならなくなっていること、アルコホリズムの影響に対して無力であることを受け入れるようになった。
- 自分の短所や病んだ考え方を認められるようになるにつれて、態度を変え、反応を行動に変えていけるようになった。自分より大きな力があることが私たちに分かってきた。他の人たちと関わり、新しく来た人を歓迎し、グループのサービスをすることによって、自己肯定感が身に付いてきた。
- 私たちは自分を愛するようになった。そのことによって、他の人たちをもっと健康な仕方で愛するようになった。他の人たちをもっと健康な仕方で愛するようになった。
少ない資料からの復元ですので、トニーが書いた「解決」に十分接近できていると断言はできませんが、かなり近寄れていると思っています。復元についての説明は後で日本のACODAおよびACAについて述べる時に一緒に扱います。
アラノンからの分離とACoAムーブメントの始まり
続く18ヵ月(つまり1978年から79年にかけて)、このムーブメントのグループ数が増えていきました。トニーたちは三番目と四番目のグループを作りました。これらミーティングにやってきた人たちが、「問題/解決」の文書を持って帰り、ニューヨーク市の他の場所や、ニュージャージー、シカゴ、フロリダといった東海岸でグループが作られ始めました。
あるとき、ジェネレーションズのミーティングにアラノンの全国スタッフが二人訪れ、アラノンの全国会議で承認されていない独自の文献を使っているのであれば、アラノンのミーティングとして認めることはできないと通告しました。これは、アラノンが自分たちの文献以外はミーティングでは使わないと決めていたからです。これをクローズド文書ポリシー(closed literature policy)と呼び、アラノンはそれを徹底しています。ジェネレーションズのグループはアラノンには登録していなかったので問題はなかったのですが、他のグループは、「問題(ランドリーリスト)/解決」などの文章を使うことを諦めてアラノンに残るか、それらを保持してアラノンを去るかの選択を迫られました。このようにして、アラノンACとその他のACoAムーブメントが分かれる運命であることが明らかになりました。アラノンを去った人たちがいたということは、彼らにとって「問題/解決」がそれほどまでに重要な文書だったことを示しています。
このアラノンスタッフの訪問の時期については、資料の間で矛盾があります。トニーは The Laundry List ではグループの増加が起こる前(つまり1978年)であるように書いており、インタビューでは1979年末か1980年初めとしています。アラノンの中に残ることを選んだグループもありました。
というわけで、この分離が始まった時期については、1978年なのか、79年なのか、80年なのか定かでないのですが、ともあれ分離のプロセスは数年間かけて徐々に進行し、1984年に南カリフォルニアでACA共同体が設立され、自分たちが「独立した12ステッププログラムである」と宣言することで、分離は確定的なものとなりました。
アダルトチルドレンの疾病概念
このように1970年代後半のトニー・Aの努力によってACoAムーブメントが始まったのですが、彼の初期の取り組みによって、アダルトチルドレンの疾病概念やその対処策が概ね固まることになりました。それによるとACの本質は二つあり、
-
- アルコホーリクの家庭という虐待的な環境で育ったために子供時代に感情的な傷を負い、それが大人になっても癒されていない。
- アルコホーリクの親と、その配偶者であるパラ・アルコホーリックの親の両方から性格的特性を受け継いでいる。これを「親と同じになった」や「自らもパラ・アルコホーリックになった」と表現し、その特性をランドリーリストの14の特徴として表している。
このA.とB.の両方が、ACの大人としての人生に影響を与え、その成長や成熟を阻んでいます。そして、A.については、主にミーティングで自らの感情を解放して再体験するという手法によって、B.については親たちと同じ12ステップによって解決する、というアウトラインが定まりました。
A.についてはACは純然たる被害者(犠牲者, vitim)です。しかしB.について言えば、12ステップはその人が純然たる被害者であることを許してはくれません。
次回は、1980年代以降にこのACoAムーブメントがどのような運命を辿ったのか、そしてACoDのムーブメントやCoDA共同体を取り上げます。
- このムーブメントのオリジネーターであるトニー・Aがその著作や講演のなかで ACoA movement と呼んでいるので、ここでもその呼称を採用した。[↩]
- 00年代初めは、アラノンACが40グループあまり、ACODAが50グループあまり、できたばかりの日本のACAが10グループあまり活動していた。[↩]
- ACABRB, p. xiii-xviii.[↩]
- loc. cit.[↩]
- Tony A., et. al, The Laundry List: The ACoA Experience, 1990, Health Communications.[↩]
- Tony A., Why 12 new steps for ACoAs followed by a group discussion led by Tony Allen., talk in 7th Annual National Convention of Children of Alcoholics, on Feb. 25th, 1991.[↩]
- ACA, Early History of ACA, ACA WSO, 2015.[↩][↩]
- LL, ch. 1.[↩]
- W12NS.[↩]
- 2011年にアラノンが60周年を迎えたのにあたって、その歴史をウィリアム・L・ホワイトらがまとめた Al-Anon, Alateen, and Professional Studies of Alcoholism and the Family: A Chronology で、1990年には12才未満のメンバーが30%に達していたとしている — その出典は Al-Anon の Many voices, one journey。[↩]
- LL, ch. 2.[↩][↩]
- LL, ch. 2, Introduction — アラノンへのグループの登録名については前回参照。[↩]
- LL, ch. 2, In The Beginning — 対訳はwikiに.[↩]
- LL, ch. 3, feelings — 対訳はwikiに.[↩]
- LL, ch. 2, The Process Of Recovery — 対訳はwikiに.[↩]
- LL, ch. 4, Waiting In The Wings.[↩]
- ACABRB, pp. xxx-xxxi.[↩]
- ACABRB, p.640.[↩]
- ACABRB, p.16.[↩]
- LL, ch. 2, The Problem/Solution – The Laundry List.[↩]
- LL, The Original Laundry List.[↩]
- 現在ACAで使われているランドリーリストとの違いはwikiを参照のこと。しかし翻訳に影響を与える違いではないので、ここではACAの日本語訳をそのまま載せた — ACABRB, pp. xi-xii.[↩]
- クラウディア・ブラック(斎藤学監訳)『私は親のようにならない―アルコホリックの子供たち』, 誠信書房, 1989, p. i. — 原文は I spent my whole life making sure I didn’t end up like my dad. And now, the only difference between my dad and me is that my dad died from his alcoholism, and I don’t have to die from mine.[↩]
- LL, ch. 2, The Laundry List — 対訳はwikiに.[↩]
- ACAは「解決」をトニー・Aが書いたことは述べているものの、それを後に別のものに差し替えたことについては伏せている。結果として現在の「解決は自分自身の愛ある親になることである」という文章をトニー・Aが書いたかのような印象を与えている。ACABRB, p.xxxvi-xxxvii.[↩]
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