12ステップのスタディ (29) 性のステップ1 (1) コンパルジョンとオブセッション

12月14~15日の愛知県犬山でのBig Bookスタディは、おかげをもちまして51人の参加を頂き、無事開催できました。ホスト委員会の皆様、参加者の皆様に感謝申し上げます。次は3月に安曇野で開かれる見込みです(日帰り開催)。

テキストの選択について

今回から性の問題の共同体のステップ1に入りますが、どの共同体のテキストを使うかずいぶん迷いました。というのも、これまで取り上げてきたAA・NA・OAは、それぞれアルコール・薬物・食べ物の分野でドミナントな共同体ですから、AA・NA・OAテキストを使うのが一番自然1な選択でした。

ところが、性の分野には S-fellowships と呼ばれる五つの共同体があり第14回、そのうちSA・SCA・SLAAの三つが日本国内にも存在しています(SLAAは現在のところオンラインのみ)。SAとSCAは基本テキストの日本語訳が出版されています。SLAAも基本テキストの日本語訳が進んでいるようですが、部外者の僕の手には入りませんし、手に入ったとしても未公開のものをここで取り上げて論じるわけにはいきません。

となると、SAのホワイトブック第12回・『セクサホーリクス・アノニマス』)か、SCAのブルーブック第13回・『セクシュアル・コンパルシブズ・アノニマス』)という二つの選択肢が残ることになります。しかし、どちらを選べませんでした。というのも、僕は両方の共同体に知り合いがおり、どちらのテキストを取り上げるにしても、取り上げなかったほうに対して申し訳ない気持ちになります。それに、SAもSCAも S-fellowships のなかでは比較的マイナーな存在で、できればメジャーどころを選びたいという気持ちもあります。

Sex Addicts Anonymous
Sex Addicts Anonymous

そこで、メインのテキストとしてはSAA第11回Sex Addicts Anonymous(通称グリーンブック)を選びました。SAAは日本にはまだ存在しませんが、何よりも S-fellowships のなかで最大の規模であること、そして犯罪を構成する性の嗜癖に強みを持っているという点で、日本でも必要とされている共同体だと思われるからです。また、きっとそのような共同体のアディクション概念やプログラム解釈に興味を持つ人もいるだろうと思ったのも理由の一つです。

とは言っても、日本に存在しない共同体について論じてばかりなのもつまらないので、SAのホワイトブックやSCAのブルーブックも適宜参照して、違いなどを論じていくことにします。

SAAのステップ1は、

We admitted we were powerless over addictive sexual behavior—that our lives had become unmanageable.1)


私たちは嗜癖的な性行動に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。(拙訳)

です。

SAAのアディクション概念

グリーンブックの第一章 Our Addiction の冒頭です:

Sex addiction is a disease affecting the mind, body, and spirit. It is progressive, with the behavior and its consequences usually becoming more severe over time. We experience it as compulsion, which is an urge that is stronger than our will to resist, and as obsession, which is a mental preoccupation with sexual behavior and fantasies. In SAA, we have come to call our addictive sexual behavior acting out.2)


 性嗜癖(sex addiction)精神身体スピリットに影響を及ぼす病気である。この病気は進行性であり、行動とその結果は通常、時間とともに重症化する。私たちはこの病気を、抗おうとする私たちの意志より強い衝動である強迫的欲求compulsionと、精神が性的な行動や妄想によって占められてしまう強迫観念obsessionとして経験する。SAAでは、私たちの嗜癖的な性的行動を「行為化(アクトアウト)」と呼んでいる。(拙訳)

ここから、性嗜癖(sex addiction)という病気が、

    • 精神・身体・スピリットの三つの側面を持っている
    • 進行性
    • コンパルジョン(強迫的欲求)とオブセッション(強迫観念)の組み合わせ

であることが読み取れます。この三つはAA・NA・OAの病気の概念と共通しています。また、対象となる性行動を取ることを行為化(アクトアウト)と彼らが呼んでいることがわかります。

強迫観念(オブセッション)

SAAの性嗜癖の概念もコンパルジョンとオブセッションの組み合わせになっていますが、まずオブセッションから:

Acting out altered our feelings and consciousness, and we found this altered state very desirable. The obsession and rituals that led up to the sex act itself were part of the “high.”3)


 行為化することで、私たちの感情や意識は変化し、私たちはこの変化した状態がとても好ましいと感じた。性行動に至るまでの強迫観念(オブセッション)や儀式もこの「ハイ〔な気分〕」の一部だった。(拙訳)
 〔訳注:*儀式(ritual)とは強迫性障害の人が繰り返す行動のこと〕

アルコホーリクは酒に気分の変化を求めていますBBS#015。そして、その気分の変化を「とても好ましいものだ」と感じています。もちろんアルコホーリクでない人が酒を飲んだ時にも気分の変化は起きますし、それが好ましい変化だからこそ、酒が嗜好品として社会に広く受け入れられています。しかしアルコホーリクは酒を飲んだ時に、おそらく普通の人と比べて格段に大きい気分の変化を経験します――もちろん気分の変化量を客観的に計測することを難しいので「おそらく」としか表現しようがありませんが、これはほぼ確実なことでしょう。そして、それをユーフォリア (euphoria)と呼びます。ユーフォリアの日本語訳は定まっておらず、多幸感、陶酔感、高揚感などと訳されます。

アディクトの場合には、対象となる物質がアルコール以外の薬物というだけで、他はアルコホーリクと基本的に同じです。そして、前々回前回と取り上げた強迫的オーバーイーターの場合には、対象が食べ物です。普通の人でも食べることは気分の変化をもたらします(美味しいものを食べたり、満腹になると幸せな気分になる)。しかし強迫的オーバーイーターは特定の食べ物や食べ方によって、普通の人よりずっと大きな気分の変化を経験します。興味深いのは、食べることだけでなく、食べ過ぎて吐くという行為も気分の変化をもたらすという点です。僕はアルコホーリクなので、酒を飲みすぎて吐いた経験は数限りなくありますが、どれも辛い経験ばかりでした。けれどOAの人たちによれば、嘔吐は(身体的にはきついけれど)不思議な高揚感があるのだそうです。このように、アルコホーリクも、アディクトも、強迫的オーバーイーターも、対象が異なっているだけで、同じように脳がバグっていることがわかります(身体的側面)

そして、グリーンブックは、アルコホーリクが酒に、アディクトが薬物に、オーバーイーターが過食に「気分の変化」を求めているように、セックス・アディクト(性嗜癖者)も特定の性行動に気分の変化を求めている、と言っています。そして、同じようにその変化を「好ましい」と感じます。

一口にアディクトと言っても対象としている薬物が人それぞれ違っているように、オーバーイーターにとってのトリガーフードが一人ひとり違うように、性嗜癖者にとっての対象となる性行動も様々です。グリーンブックの後半に掲載されている「個人の物語」を読むと、その多様性に驚かされます。SAA創始者の対象とした性行動は露出行為でしたが、その他にも、女学生たちに不倫関係を迫る教授や、ネットポルノを見るのをやめられない主婦、ペドフィリア (小児性愛)犯罪で服役している青年、女装して男性とセックスする青年、ポルノや買春を求める男性たち、ともかく毎晩誰かとセックスしなければ眠れない女性・・・。

具体的な行為に違いがあったとしても、性嗜癖者にとっての性行動は、どれも次に述べるコンパルジョン(強迫的欲求)を伴います。コンパルジョンは性行動のコントロールが失わせます。そして、性行動にのめり込みすぎた結果として社会生活上のトラブル(あるいはリスク)が生じてきます。

性嗜癖者はトラブルやリスクを避けるために、なんとか自分の性行動をコントロールしようとしますが、その失敗が繰り返された結果として、「どうやら自分にはコントロールできないようだ」と諦めて、性行動を一切慎むことを決意します。僕はアクトアウト(行為化)を慎んだ時期は無い、という性嗜癖者には会ったことがありません。性嗜癖者は誰もが自分の意志でやめてみようとします。

そうしてセックス・アディクトは、やめ続けたいという自分の願望に従って、性行動を慎み続けています。しかしあるとき、普段とは違った異常な精神状態(オブセッション)が訪れ、「行為化して良い」という判断をしてしまうのです。そしてその判断に従って再び性行動を始めてしまいます。これがスリップです。

SAAの創始者(名前は一切掲載していない)のストーリーは、性行動を慎む決意をして性的アブスティネンスを維持した時期がありながらも、またスリップして性行動の繰り返しの中に戻っていく、という経験を語っています。4) 

このようにして、オブセッションが行為化をもたらすということ、またアブスティネンスを続けていてもオブセッションによってスリップしてしまうことを、SAAのテキストは明確にしています。

性的に興奮しているとは限らない

SAAのテキストに書かれていることから離れてしまうのですが、当事者の話から、オブセッションが生じているときでも性嗜癖者は性的に興奮しているとは限らないことが明らかになっています。例えば、電車の中で痴漢をする男性や他人の性生活を窃視する男性が、その行為化をする際に勃起しているとは限りません(行為の結果として勃起することはあり得る)

これは性嗜癖が性欲によって駆動されているわけではないことを示すものと思われます。性嗜癖者はセックスそのものではなく、行為化がもたらす「ハイ」な気分、つまりユーフォリア(高揚感)を求めているのです。

人間は自分の経験の延長線上で考える癖があります。例えばアルコホーリクではない人は、自分の飲酒の経験をもとにアルコホーリクが飲酒する精神状態を想像します。僕はアルコホリズムの当事者の経験をたくさん聞いたり読んできましたが、それだけでなく当事者ではない人たちがこの病気の精神状態を描写した文章も読んできました。アルコホーリクと日常的に接している精神科医が観察にもとづいて書いたものはともかく、臨床心理士や研究者たちによるこの病気の描写はまったく的外れなものが少なくありません。なぜそうなってしまうかというと、彼らが自分の飲酒の経験の延長線上にアルコホリズムというものを置いて考えてしまうからです。治療者・援助者はアルコホーリクでない以上、彼らがどれほど大酒を飲んだとしても、その体験は「健康な範囲」のものでしかありません。その経験を延長しても「健康な範囲」のなかでしか想像できません。アルコホリズムは精神の病気であり「健康な範囲」の外にあるものです。ですから「なんでこいつらが酒を飲んじゃうのか、さっぱり理解できねぇ」という印象を持つ人の方が真相に迫っているのです。

同じことが性嗜癖にもあてはまります。誰もが性欲を持っていて、時には性欲がトラブルを引き起こしてしまうこともあります。人はしばしばそのような自分の経験の延長線上で性嗜癖を理解しようとします。例えば僕は女性とデートしていると、「せっかくデートしてくれたんだから、この人をホテルに連れ込んでセックスしたい」と考えてしまいますし、その時に自分が下腹部から湧き上がってくる欲求に突き動かされていることを意識せざるを得ません。しかしながら、僕のそのような性欲が原因で傷つけられたという女性がいたにしても、僕が性嗜癖者でない以上、僕のそのような性的な経験は「健康な範囲」のものでしかありません。ですから、僕が自分の経験をもとに性嗜癖を理解しようとしても、それはまったく的外れなものにしかなりません。むしろ、僕が自分のアルコホリズムという病気の経験をもとに、対象をアルコールから性行動へと置き換えたほうが近い理解ができるでしょう。

アルコホリズムが「酒好きが過ぎる」という問題ではないように、性嗜癖も「性欲が強すぎる」という問題ではありません。

コンパルジョン(強迫的欲求)

では、強迫的欲求(コンパルジョン)の説明はどうなっているでしょうか?

We sought this addictive high repeatedly, preferring it to many other activities, and feeling our compulsions more strongly than our basic needs to eat, drink, sleep, or be safe. These compulsive desires were irresistible, persistent, and insatiable. They went off like alarms in our heads that made it difficult to focus on anything else. When we wanted to act out, the urge didn’t go away. Nor did we feel satisfied when we got our “fix.” Instead, the more we acted out sexually, the more we wanted to act out.2)


私たちはこの嗜癖的な高揚感を繰り返し求め、それが他の多くの活動よりも好きになり、食べる、飲む、眠る、あるいは安全であることへの基本的な欲求よりも強い強迫的欲求(コンパルジョン)を感じた。こうした強迫的な欲望は抗いがたいものであり、執拗で、それを満たすことは決してできなかった。強迫的な欲望が私たちの頭の中でアラームのように鳴り響き、他のことに集中することが難しくなった。行為化をしたくなると、その衝動(urge)が消えることはなく、また「目的の行為」が得られても満足感はなかった。それどころか、性的な行動をすればするほど、私たちはもっと(more)行為化したくなった。(拙訳)

コンパルジョン(強迫的欲求)とは、一度行為化を行うと、もっと(more)行為化がしたくなって、次の行為化がとめられなくなることです。これは、第22回第25回第27回で説明したのと同じものです。つまり、SAAは、AA・NA・OAと同じコンパルジョンの概念を共有しています。

SAAの創始者のストーリーには、夕食前に妻から牛乳を買ってきてくれと頼まれ、車で買いに出かけたら、そのまま3時間半も露出行為に費やしてしまい、しかも牛乳を買わずに手ぶらで帰ってきたというエピソードが書かれています。また、SAの創始者ロイ・Kのストーリーでは、スーパーマーケットの雑誌棚で、女性のヌード写真の表紙を見たことでトリガーが入ってしまい、そのまま売春婦を買いに出かけてしまうエピソードが書かれています。5)

つまり性嗜癖者は、性行動に対して普通の人とは違った反応をします。前の連載でも説明したように、普通の人でも性のトラブルは起こしてしまうものですBBS#97。つまり、健康な人であっても性はトラブルの元です。けれど、トラブルを起こすものであったとしても、普通の人の性は「健康な範囲」にとどまっています。それに対して性嗜癖者の場合には、対象の性行動をアクトアウトすると、さらなる行為化へと駆り立てる強い衝動を感じます。理性はさらなる行為化をとめようと必死でブレーキをかけているのですが、そのブレーキが役に立たないほどコンパルジョンは強力なのです。

コンパルジョンの特徴は、それを決して満たすことができないことです。普通の酒飲みなら、一、二杯の酒で満足できますが、アルコホーリクは何杯飲んでも「もう十分飲んだ」という満足感を得ることはできません。普通の人なら、食事して満腹になれば満足してそれ以上食べようと思わなくなりますが、オーバーイーターはどんなに食べても満たされることはありません。むしろ欠乏感がどんどん強くなっていきます。同じように、性嗜癖者はどれほど行為に及んでも、もう満足したから十分だと思えず、欠乏感ばかりが強くなります。――さきほどオブセッションの項で「嗜癖者はユーフォリアを求めている」と説明しましたが、実際にはどの分野のアディクションでも病気の進行とともに心地好さは失われ、むしろ欠乏感が際立ってきます。

性嗜癖者はコンパルジョンによって性行動のコントロールを失います。他のアディクションの場合には、発症前はコントロールが保たれていたケースは珍しくありません。例えば、アル中になる前は普通に酒が飲めていたとか、オーバーイーターになる前は普通に食事ができていたというケースのことです。そういった人たちは、ある時点からコンパルジョンが起きるように体が変化してしまい、しかもその変化は不可逆で、もう普通に酒が飲めるように、あるいは何でも普通に食べられるように戻すことはできません。

性の嗜癖の体験記の多くは人生の途中でコントロールが失われる変化が起きたとしていますが、なかには性的なことを意識し始めた幼い頃からすでにコントロールが失われていたと述べているストーリーもあります。その変化がいつ起きたかにかかわらず、対象となる性行動を取ってもコンパルジョンが起きないようにする方法はない、という点は他のアディクションと共通しています。

各 S-fellowships の創始の歴史の回で説明しましたが、コントロールを取り戻せない以上、性的なアブスティネンス(あるいはソーバー)の状態に留まるしかない、という点はどの共同体も同じです。ただし、アブスティネンスの基準については、一律の基準をメンバー全員に課す共同体もあれば、メンバー一人ひとりが自分で基準を作っていく「プラン」タイプのところもあります。また、マスターベーションして良いのか、ダメなのかという点も共同体によって異なります第14回。そういった違いがあっても、コントロールを失わないためには安全な範囲に留まらなければならない、という点は一致しています。

コンパルジョン+オブセッション=無力

性嗜癖のサイクル

上の図は第23回の図のセックス・アディクト版です(第23回・第25回第27回の図と見比べてみてください)。性嗜癖者が対象となる性行動を行為化(アクトアウト)すると、やがてコンパルジョン(強迫的欲求)が発現してきます。このコンパルジョンによって性行動のコントロールが失われ、過剰な性行動の状態に戻ってしまいます。

コンパルジョンは、普通の人たちが性行動を取っても起きず、性嗜癖者だけが経験する特異反応です。しかもそのコンパルジョンを抑制する方法はまだ見つかっていません。

コンパルジョンによって性行動のコントロールが失われると、性行動による社会的なトラブルやリスクが生じてきます。性の問題の場合、それは違法薬物を使うアディクトや盗癖の人たちのように法的なリスクを含みます。そこで性嗜癖者は性行動をやめる決心をします。その実現には、飲んでいるアル中が酒を断つのと同じような苦労が必要ですが、やがて性的アブティスネンスは安定してきます。アブスティネンスを維持している間は性の問題によるトラブルは生じません。ところが、あるとき、その人の精神の中でオブセッションが生じてきて、性行動を「ふたたび」行為化するという狂った判断を下してしまうのです。

こうして性嗜癖者は再び強迫的な性行動へと戻っていきます。そして、性行動によってトラブルを起こしてそうした性行動をやめることを決意し、またオブセッションによってスリップし・・・というサイクルを繰り返していきます。強迫的な性行動をしている最中の性嗜癖者はこの循環図の左側のオレンジ色のところに、性的アブスティネンスを維持している性嗜癖者は右側のブルーのところにいるのですが、どちら側にいたとしても、このサイクルの中に閉じ込められているのです。

SAAのテキストの引用部の続きです:

We lost more and more of our lives to our addiction, which cost us time, money, relationships, our health, our jobs, and even our freedom. The consequences of our addiction did not make us stop or limit our acting out. The more we tried to control our behavior, the worse it got. We were unable to stop on our own, and the pleas or threats of the people in our lives didn’t help us to stop, either.2)


私たちはこの嗜癖によって、時間、金銭、人間関係、健康、仕事、さらに自由さえも失い、人生のますます多くの部分を失っていった。私たちの嗜癖がもたらしたそのような結果が、私たちに行為化をやめさせたり、制限させたりすることはなかった。自分の行動をコントロールしようとすればするほど、悪化していった。私たちは自分ではやめることができなかったし、周囲の人々の嘆願や脅しもやめる助けにはならなかった。(拙訳)

SAのホワイトブックでも、ロイ・Kが彼自身のストーリーのなかで「自分は周期的に売春婦を買うのをやめると誓うだろう。だが自分のセックスは決して止むことはなく・・・せいぜい数週間がいいところだった」と書いています。6)

性嗜癖者は自分の力ではこの悪循環から抜け出すことができません。性嗜癖という病気は自分より強力で、自分はその病気に勝つことができない、という「完全な敗北」を認めることが、ステップ1の「嗜癖的な性行動に対する無力を認める」ことなのです。

物質系と行為系の違い?

このように、SAAではコンパルジョンとオブセッションの組み合わせとして性嗜癖を捉えています。この二つの組み合わせは、AA・NA・OAと共通しています。つまり、コンパルジョンとオブセッションは明確に別のものとして分離されています。

ところが、SAA以外の S-fellowships では、コンパルジョンとオブセッションを明確に分離していません。例えばSAは compulsion-obsession モデルは採用しておらず、その代わりに lust(性的渇望)が問題の中核だとしています。lustはコンパルジョンとオブセッションを両方含んだ概念です第12回。SLAAのテキストにはコンパルジョンとオブセッションという言葉が登場しますが、それが何であるかを説明しようとしていません。そして、SCAのテキストは自分たちの性強迫症とはどんな病気かという説明をすっかり省いてしまっています。

またギャンブルを対象とするGAでもコンパルジョンとオブセッションの分離は明確ではありません(まったく区別していないわけではないが)

こうしてみてみると、AA・NA・OAという物質系の共同体ではコンパルジョンとオブセッションを明確に分けているのに対し、(SAAを除く)S-fellowshipsやGAという行為系の共同体ではコンパルジョンとオブセッションが分離されていないという違いがあることが分かります。これはひょっとすると、これは物質系の嗜癖と行為系の嗜癖の違いを反映しているのかもしれません(しかしそれではSAAだけが二つの概念の分離を行っている理由が説明できません)。ともあれ、このような文献研究だけでは、こうした違いが生じた理由を明らかにするのは困難です。

SCAが自分たちの問題の説明を省いたことについては、第13回で説明したように、1980年代以降に成立した12ステップ共同体の多くが、自分たちの疾病概念(すなわち問題)の明確化を避け、その問題を抱える人たちが共通して持っている特徴を描き出したり、特徴のリストを提示することで問題の説明に代えています。SCAもその一つだと考えられます。

しかしながら、コンパルジョンとオブセッションの分離が明確でなかったとしても、基本的なコンセプトは受け継がれています。あらゆるアディクションにはアクティブな時期(上の循環図の左側のオレンジの領域)とインアクティブな時期(右のブルーの領域)があり、どんなジャンルであれアディクトはそのどちらかにおり、この悪循環の中に閉じ込められている点は同じです。また、コンパルジョンという病的な欲求が満たされることはなく、もっともっとと求めてしまうことや、そのような「異常な反応」を抑止する手段がないこと、さらにはせっかく断っていてもスリップが起きて再発してしまうところも同じです。従って、上に示したアディクションの概念図は、物質系・行為系のどちらにも当てはまります。

次回は「思い通りに生きていけなくなっていた」の部分を扱います。

今回のまとめ
  • SAAでは性嗜癖はコンパルジョン(強迫的欲求)オブセッション(強迫観念)の組み合わせだと説明している。
  • 性嗜癖者が対象となる性行動を行為化(アクトアウト)すると、さらに行為化をしたくなるコンパルジョンが生じてきて、性行動のコントロールを失わせてしまう。
  • 性嗜癖者は、やめ続けたいという自分の願望に従って、性行動を遠ざけ続けているが、あるとき、普段とは違った異常な精神状態(オブセッション)が訪れ、「行為化して良い」という狂った判断をしてしまい、再び強迫的な性行動へと戻っていく。
  • 性嗜癖に対して無力であることを認めるつもりなら、自分にコンパルジョンとオブセッションがあることを理解し、認めなければならない。

  1. SAA, ch.3, The Twelve Steps of SAA.[]
  2. SAA, ch.1.[][][]
  3. loc. cit.[]
  4. SAA, Personal Stories, “He Did Not Want to Be Alone”.[]
  5. SA, p. 22.[]
  6. SA, p. 17.[]

12ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi