ビッグブックのスタディ (5) 再版にあたって 2
うまくいかないビル・Wの人助け
「再版にあたって」の続き、p.xx (20)の11行目から:
アクロンに行く前、ブローカーは、他のアルコホーリクを助けられるのはアルコホーリクだけであるという考えを持って、大勢のアルコホーリクたちと懸命にかかわったのだが、できたのは自分自身がどうにか飲まずに過ごせたということだけだった。
1934年12月中旬、病院を退院したビル・ウィルソン(ブローカー)はオックスフォード・グループの集会に出るようになりました。そして伝道所や病院でアルコホーリクを見つけては酒をやめさせようとしましたが、うまくいきませんでした。彼は当時のことを振り返って、こう語っています:
Something like a religious crank, I was obsessed with the idea that everybody must have a “spiritual experience” just like mine. I forgot that James had said that there were many varieties of the transforming experience. My brother alcoholics just stared incredulously or joshed me about my “hot flash.” 1)
私は宗教狂いになったかのように、誰もが自分のような「霊的体験」をしなければならない、という考えに取り憑かれていました。そうした変化の体験は実に多様である、と(ウィリアム・)ジェームズが言ったことを、私は忘れていたのです。私の「ホットフラッシュ」の話を聞くと、アルコホーリクたちは唖然として私を見つめるか、冷やかしの言葉を返すばかりでした。(拙訳)
どうがんばっても誰の酒もやめさせることができない、とビルが嘆くと、妻のロイスは「このプログラムは一人のアルコホーリクにはっきりとした効果が出ている」と言って、ビル自身の酒がとまっていることを気づかせたのでした。2)
ビルから相談を受けたシルクワース医師は3)、「彼らに説教するのはやめて、医学的な事実を伝えなさい」とアドバイスしました。その事実とは、アルコホーリクは医学的に絶望的(hopeless)であるということです。4)
仕事のためにアクロンへ
ところでこの時のビルは無職であり、ロイスが百貨店で働いて生計を立てていました。「ビルはどうして働かないのだ?」とオックスフォード・グループの人たちから言われるようになり、ビルは株式ブローカーをしていた頃のウォール街 の知り合いを介して、オハイオ州アクロンの小さな会社の経営権争いに加わりました。5)
インターネットで「アクロン」と検索すると、洗剤がトップに表示されます(それはAcron)。ですが、このアクロン(Akron)は人口20万人ほどのアメリカの市の名前です。五大湖 のすぐ南にあり、上の地図を見るとアメリカの中ではずいぶん東寄りのところにあるのがわかりますが、ビッグブックではここは「西部」と呼ばれています。(BB, p.23, 223, 236, 245)6)
アクロンは当時はゴムとタイヤの産業が集積した都市でした。現在世界の三大タイヤメーカーと言えば、グッドイヤー (米)、ブリヂストン (日)、ミシュラン (仏)ですが、グッドイヤーの本社は現在でもアクロンにあります。他にファイアストン というタイヤメーカーがありましたが、今はブリヂストンに買収されています。またグッドリッチ という会社もありましたが、ミシュランに買収されています。これらがすべてアクロンに集まって「ゴムの都」と呼ばれる工業地帯を作っていました。
そのアクロンに National Rubber Machinery Company という工作機械の会社がありました。日本語に訳すならば「ナショナルゴム機器」です。この会社を買収しようとプロキシーファイト (委任状争奪戦)が始まっており、もしビルの加わった一派が勝てば、ビルにはこの会社の取締役(あるいは社長)の地位が約束されていました。ロイスが親から受け継いだ家は、ビルの破産によって抵当に取れられていましたから、それを取り戻すチャンスでもあったわけです。7)
1934年4月、ビルたちはアクロンに乗り込んでいきました。しかし5月には、この買収計画は失敗に終わり、ビル以外の人たちはニューヨークに帰ってしまいました。
仕事の失敗と再飲酒の危機
彼らが泊まっていたのはメイフラワー・ホテルというアクロンで一番の高級ホテルでしたから、きっと滞在費用がかさんだことでしょう。
ビルの財布の中には10ドルしかなく、ホテルの支払いにも足りなかったので、どうしたものかとロビーをうろうろしていたとき、突き当たりにバーがあるのが目に入りました。自分がバーで酒を飲もうとしているのに気づいたビルは、これまでの経験から再飲酒を避けるには、誰か他のアルコホーリクを助けなくてはならないと考え、ロビーの電話の脇にあった教会の住所録のなかから、ウォルター・タンクス牧師(Reverend Walter Tunks, 1887-?)を選んで電話をかけました。8)
アクロンのオックスフォード・グループとの接触
アクロンはオックスフォード・グループの活動が盛んな場所でした。ファイアストンの創業者社長の息子はアルコホーリクでしたが、オックスフォード・グループの会員の助けを得て酒をやめました。それに感謝した創業者は、1933年1月にブックマン他60人をアクロンに招いて、10日間のキャンペーンを行いました。これがアクロンのキリスト教社会に影響を与え、オックスフォード・グループは多くの会員を獲得しました。この創業者の息子がふたたび飲酒に走ったことで、会員たちは面目を失ってしまうのですが、それでも現在のAAのような毎週のミーティングがあちこちで開かれていました。9)
タンクス師もオックスフォード・グループの支持者になっていたので、ビルの用件をすぐに理解してくれ、アルコホーリクを知っていそうな10人の名前と電話番号を教えてくれました。その中の一人ノーマン・シェパード(Norman Sheppard)という男性がヘンリエッタ・サイバーリング(Henrietta Buckler Seiberling, 1888-1979)という女性を紹介してくれました。ヘンリエッタには「深刻な飲酒問題を抱えた友人」がいるので、ぜひ彼女に電話した方が良いと勧めてくれたのです。(AAの本ではサイバーリングと読んでいますが、セイバーリングという読みの方が一般的でしょう)
ですが、ビルは電話するのをためらいました。彼はウォール街で仕事をしていた知識で、グッドイヤーの創業者社長がフランク・サイバーリング(Frank Seiberling)であることを知っており、ヘンリエッタはその妻ではないか推測したからです。
ともかく、もう一人のアルコホーリクの存在を知っただけで、バーに行きたいというビルの衝動は治まりました。ビルはためらったあげく、その日の遅くヘンリエッタに電話をかけました。彼女はフランク・サイバーリングの妻ではなく、義理の娘でした。サイバーリングの息子との結婚生活が破綻し、別居のために広大な敷地のはずれの小さな門番小屋を与えられ、そこで子育てをしていました。10) 彼女の「深刻な飲酒問題を抱えた友人」がドクター・ボブだったのです。11)
ドクター・ボブを手助けしていた人たち
ドクター・ボブは妻のアンに促されて、すでに2年半オックスフォード・グループのミーティングに通っていました。しかし彼がそこで自分の飲酒の問題を打ち明けることはありませんでした。ビルの電話の一、二ヶ月前には、ヘンリエッタがドクター・ボブの飲酒問題を知り、友人のウィリアムズ夫妻(T. Henry and Clarace Williams)の家でボブのための特別なミーティングを毎週水曜日に開くようになりました。そこではさすがにボブも酒の問題を認めざるを得なくなったのですが、それで彼の酒が止まったわけではありません。悩むボブにヘンリエッタは「実現する方法がまだ見つかっていないだけだから」と言ってなぐさめました。
このように、ビルとボブとの出会いは、妻のアン、ヘンリエッタ・サイバーリング、ウィリアムズ夫妻、タンクス牧師という人びとが、ドクター・ボブが酒をやめる手助けした努力の結果でもありました。それがなければAAは始まらなかったかもしれません。依存症の人の回復には、家族や周囲の人たちの手助けが必要なのです。しかしながら、手を尽くしても酒をやめる方法が分からないとき、ドクター・ボブにも、その妻にも、周囲の人たちたちにも、できることは祈ることだけでした。
そんなときに、ヘンリエッタにビル・ウィルソンが電話をかけてきました。彼女の記憶によると、ビルは電話でこう言ったそうです:
「私はオックスフォード・グループの者ですが、ニューヨークから来た酔っぱらいなのです」12)
ヘンリエッタはこれこそ本当に天の恵みであり、祈りへの答えだと感じました。事情はよく飲み込めなかったものの、ともかくこの二人の男をすくに引き合わせなくてはならない、と決めたのでした。次回に続きます。
- ビルは、他のアルコホーリクを助けようとすることによって、自分が助けられていた。「助かりたければ、誰かを助けよ」というのが12ステップの根本原理の一つである。
- ビル・Wとドクター・ボブの出会いは、家族や支援者の支えや協力の結果であり、「手放すこと」によるものではなかった。
(それにしても、タイヤメーカーの話ばっかりでした)
- AA, P-6 Three Talks to Medical Societies by Bill W., Co-founder of A.A., AAWS, p.15 — 「アルコホーリクス・アノニマス、その始まりと成長」[↩]
- Susan Cheever, My Name is Bill, Bill Wilson — His Life and the Creation of Alcoholics Anonymous., Washington Square Press, 2004, p.131.[↩]
- シルクワースに相談するようビルに助言したのはロイスだったという — アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, p.63.[↩]
- AACA, p.20.[↩]
- AACA, p.97.[↩]
- かつては、アパラチア山脈 より西が西部と考えられていた。cf. アメリカ合衆国西部 [↩]
- Cheever, loc. cit.[↩]
- ビルはニューヨークのオックスフォードグループで米国聖公会 のサミュエル・シューメイカー牧師(Samuel Moor Shoemaker III, 1983-1963)の世話になっていたので、同じ聖公会のタンクス牧師を選んだのだろう。[↩]
- DBGO, p.78.[↩]
- ヘンリエッタ・サイバーリングが離婚していたというのは誤りで、別居に過ぎなかったようだ。少なくともビル・Wとドクター・ボブを引き合わせた時点でヘンリエッタが離婚していたことを示す情報は無い。[↩]
- DBGO, pp.90-92.[↩]
- DBGO, p.88.[↩]
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