書評 (1) 『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』

今回は新刊『アルコホーリクス・アノニマスの歴史—酒を手ばなした人びとをむすぶ』の書評ですが、話は別のところから始まります。

日本のAAのガラパゴス化とビッグブックの改訳

1970年代に始まった日本のAAは、1990年代にはほぼ全国に広がりました。しかし、海外のAAとの交流は積極的には行われていませんでした。その理由としては、まだメンバー数が少なくAAの公用語である英語(とスペイン語)に堪能な人が少なかったわけですし、当時の航空料金は現在に比べればはるかに高く海外渡航が容易でなかったという事情もありました。

しかしながら、さすがに1990年代になると、仕事で海外に行く日本人メンバーや、逆に日本を仕事で訪れる海外のメンバーが増え、その交流の中から「日本のAAは他の国のAAと違っている」という指摘がされるようになりました。日本のAAは孤立した環境の中で発展を続けた結果としてガラパゴス化 が起きていたと言えます。その違いを挙げるとするならば、例えば「ひたすらステップ1・2・3の繰り返し」であるとか「ミーティングで正直に話すこと」が強調されるのは日本のAAだけでありましょう。

ガラパゴス化は実は深刻な問題です。別の方向への発展を続けてしまうと、次第に海外のAAと相容れない部分が増えていき、やがては別の団体として分離独立せざるを得なくなってしまうからです。歴史上多くの団体が、運動の方向性や意見の相違から分裂し、細分化し、効力を失っていきました。そこでAAは、一つの団体として存続するために、12の伝統という原理が確立されました。その12の伝統の精神にもとづいて、ガラパゴス化は解決すべき課題であったのです。

対策の一つとして、ビッグブックの改訳が行われました。ビッグブックは1979年に日本語版が出版されていましたが、AAミーティングでも、スポンサーシップでもほとんど使われていませんでした。そこでより親しみやすい文体に改訳することで、ビッグブックの利用が広がることを狙ったのです。翻訳改訂は、日本AAの最高意思決定機関である全国評議会(第2回、1997年)で確認され、3年がかりの準備期間を経て、2000年に新訳版が出版されました。

あと2冊の本が必要だ

その後は日本のAAでも徐々にビッグブックが使われるようになっていきました。例えそれがミーティングで輪読しているだけだったとしても、あの当時から比べれば前進していることは間違いありません。僕は2003年にAAのサービス活動の役割に任じられて評議会に参加しました。評議会は全国からAAメンバーが集まる場なので、会議の他にも様々に非公式な「分かち合い」が行われます。その時にWSM評議員1)だったN氏から話を聞きました。彼は日本AAの翻訳作業を裏方として長く支えた人でした。

彼は改訳されたビッグブックの利用が広がっていることを率直に喜びながら、しかし日本のAAが発展するためには「あと2冊の本が必要だ」と強調しました。その2冊はどちらもAAの本ではないだけに、AAの出版関係者の努力ではどうにもならないもどかしさがありました。そのうちの一冊はウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』でした。ビル・Wが霊的体験をしたBB, p.21)翌日にこの本を読み、自分の身に起きた体験を解釈したというエピソードから、この本はAAメンバーが12ステップに取り組むことで何を得ることを目指すのかを明確にしてくれます。岩波文庫で昭和45年頃に出版されましたが(あのパラフィン紙に包まれたやつ!)、この頃には版元品切れの(事実上絶版)状態でした。そこで、復刊を働きかけたり、独自に翻訳を試みるメンバーもいましたが、幸いなことに岩波文庫で重版されて現在は容易に入手可能になっています。

Not-God

そしてもう一冊が本書 Not-God—A History of Alcoholics Anonymous でした。著者アーネスト・カーツ(Ernest Kurtz, 1935-2015)はカトリックの教区司祭でしたが、1966年にハーバード大学 に入学し、働きながら学んで、1979年にはアメリカ文明史で博士号を取得していました。Not-God は彼の博士論文を一般向けに書き直したもので、一次資料 を丁寧に調べることにより、AAの歴史を精密に描き出しています。

アメリカにはAAヒストリアン(歴史家)と呼ばれるメンバーがいて、AAの歴史を調べて情報を発信しています。特に最近ではインターネットのサイトやブログでの情報発信が増えています。自動翻訳の精度も上がっており、そうしたサイトを読む日本のメンバーも増えてきています。この『心の家路』でも、脚注でそうしたサイトを参照している例もあります。しかし「こうした情報はどれだけ信用できるのか」という疑問も残ります。複数の一次情報をあたって確認するという作業をしている人もいますが、情報源すら書いてないいい加減なサイトも多く、全般的には学術的レベルに達しているとは言えません。しかしながらカーツの本は、研究者として論文に相応しいレベルでの調査研究を踏まえてのものですから、信頼に値するものです。

AAの歴史としては『AA成年に達する』という本がありますが、これは言わばAAの「自伝」であり、不都合なことは省かれている上に、最初の20年弱の記録しかありません。一方、カーツの本では、様々なアノニミティ破りの実情(しかもAAにとってそれはデメリットよりメリットが大きかったり)や、ドクター・ボブが評議会の設立になかなか賛成せずビルが焦った様子であったり、ノン・アルコホーリクの常任理事の比率を3分の1に下げて当事者主導にすることにバーナード・スミスが大反対を続けたことなど、正史では知ることのできない「実際のところ」が描き出されています。

本書によって評価を確立したカーツは、聖職を辞して、以後は大学で教鞭をとり、多くの依存症の研究者を育てました。『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』を著したウィリアム・ホワイトWilliam L. Whiteもその一人です。またカーツは、回復とスピリチュアリティについていくつもの著作を残しました。

書名 Not-God は「神ならざる者」という意味です。ビッグブックは読者に「あなたは神ではない」と語りかけます。ビル・Wも「自分は神ではない」と認めることの大切さを説いています。神とは完全さの象徴であり、自分が不完全で、限界ある存在であることを認めることはAAのプログラムの大事な要素です。カーツは、不完全さと有限性を本書の中で繰り返し取り上げています。

邦訳『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』

『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』その Not-God の邦訳が『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』として明石書店から出版されました(以下『歴史』)。長く探していたジグソーパズルの重要なピースがやっと埋まったような喜びを感じます。

本書は大まかに三つの部分に分けられます。第一部はAAの始まりから、共同創始者のビル・Wが亡くなるところまで40年以上のAAの歴史を辿っています。一握りのアルコホーリクから始まったAAが、世界的な共同体として存続できるようになるまでには、様々なトラブルがありました。その一つひとつをどのように乗り越えていったのか。そこからは、常にその中心に存在していたビル・Wという希有な存在に気づかされます。しかしなお興味深いのは、そのビル・Wが1971年に亡くなり、精神的指導者を欠いた後も、AAが困難を乗り越えつつ安定して存続しているという事実です。そこにどんなメカニズムが働いているのか、カーツの分析には唸らされるばかりです。

第二部は、アメリカ思想史のなかでAAがどう位置づけられるかを、カーツが文明史の研究者としての立場から論じています。一つの章では広くアメリカの文化史の文脈から、20世紀になってアメリカに浸透した啓蒙主義 と対置させて論じており、もう一つの章では宗教思想史の文脈から、AAが福音主義 的な敬虔主義 を核に持ちながらも人間中心的でリベラルであり得るのはなぜかを読み解いています。さらにもう一つの章では、AAの歴史とプログラムへの深い理解に基づいて、AAの意味と意義について論じています。

実はこの Not-God はAAの仲間によって幾度も訳出が試みられました。その挑戦の帰結がどうなったのか詳しく知っているわけではありませんが、事実としてどれも出版には至っていません。第二部の翻訳のハードルが高かったのがその一因ではないかと思っています。今回の『歴史』の訳者の葛西賢太氏は宗教学者であり、また日本のAAとのつきあいも25年以上になる旧朋ですから、本書の翻訳にはまさにうってつけの人です。彼なくして今回の翻訳はあり得なかったと言っても過言ではないでしょう。本書にはカーツ自身が膨大な注を付けています(日本語版で100ページに及ぶ)。AA自身の歴史に興味を持つメンバーのために、その膨大な注を省かず丁寧に日本語に訳し、日本語版のAA書籍へのリファレンスを加える手間を選んだのは、AAを愛する氏ならではの判断だと信じています。

そして、三つ目の部分は、カーツ自身による二つの補遺であり、一つはAAをより宗教的にしようとする動きと、AAから宗教的なものを除こうとする動きのバランスについて述べており、もう一つは1991年の原著の拡大版で追加されたもので、1971年にビル・Wが亡くなった後の十数年間のAAの動きを追っています。

他の二人の訳者、岡崎直人氏・菅仁美氏は、お二方ともアルコール問題を扱うソーシャルワーカーで、岡崎氏は前述の日本AAが評議会でガラパゴス化を解消するための決議をした際に、AAのノン・アルコホーリク常任理事の任にあった方であり、管氏はアメリカの依存症治療施設ヘイゼルデンで活躍されている方です。

本書の出版の持つ意味

アルコホーリクス・アノニマス(AA)は、当事者がお互いに助け合って共通の問題を解決していくという団体としては世界最大のものに成長しました。そのおかげで、類似の当事者団体を多く作り出しました。しかし、AAがどのようにして共通の問題を解決しているのか、メンバー間の対立や分裂を回避して団結と有効性を保っているのか、またカリスマ的創始者が去った後も困難を乗り越えて継続しているのか、その仕組みを明らかにした書籍は日本に存在していませんでした。

アルコホーリクは、酒をやめるという瞬間の前後で、人生に大きな変化が起きます。だからこそ、酒をやめる瞬間ばかりが注目され、どうやってその瞬間をもたらすかということろに人びとの関心が集まります。実はその瞬間が訪れるずっと前から徐々に変化は始まっており、酒をやめた後もその変化を続けていかなければ酒はやめ続けられません。AAも同じで、ビル・Wとドクター・ボブの出会いばかりが語られますが、そのずっと前から積み上げられた様々な出来事がなければAAは始まりませんでしたし、始まった後も多くのトラブルを乗り越えなくては存続できませんでした。始まる前から、始まった後に至るまでの継続したストーリーを追わなければ、変化を把握することはできません。本書にはAAが始まる前のユングやオックスフォード・グループが関わるエピソードから、1987年までのAAの歴史全体が収まっています。

ホワイト氏による序文にあるように、40年前に出版された本書はすでに古典です。しかしながら、その40年間、本書はAAの誕生と成長を物語る歴史書の決定版であり続けました。AAが未来に経験として残そうとしたものが、そして当事者活動を、自助(相互支援)グループを語る上で、欠かすことのできない情報がここに収められています。その邦訳がやっと登場しました!

秋の四連休の前に届いた宅配便を開けて、中に本書があるのを見たときの感激は言葉にできません。訳者の方々に、そして出版に携わられた多くの方々に、お礼を申し上げます。まだAmazonも予約受付中の状態ですが、取り急ぎ紹介のエントリをブログに載せる次第です。

本書がアディクションの当事者はもちろん、治療や回復の支援に携わっている方、さまざまな社会運動においてその発展と継承に関心をお持ちの方に広く読まれること、そして重版を重ねて読み継がれる一冊になることを願ってやみません。

Nさん、やっと三冊揃いましたよ!

  1. 葛西賢太氏にはAAを取り上げた『断酒が作り出す共同性―アルコール依存からの回復を信じる人々』(世界思想社, 2007年)という著作がありますので、合わせて紹介しておきます。
  2. 日本語版への序で、ホワイト氏はアーネスト・カーツがアルコホーリクであったことを明らかにしています。僕の知る限り、彼の生前にそのことが明らかにされることはありませんでした。カーツの個人サイトは現在は友人たちの寄稿を掲載しており、カーツの著作などについてはホワイトのサイトのページにまとめられています。
  3. N氏はすでに故人だと思われるのですが、ご存命である可能性も考えてイニシャル表記にしておきました。ご存じの方がいらっしゃいまいたら、お知らせ下さい

  1. 日本のAAの代表としてAAの国際会議に出席し、常任理事会の国際交流部門を担当する役割。 []

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Posted by ragi