ビッグブックのスタディ (79) 私たち不可知論者は 6
信じることとわかることの違い(続き)
前回は、「信じることとわかることの違い」について説明しました。
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- 信じること(believing) ・・・・何かを行なう前の心の状態
- わかること(knowing, faith)・・それを行った後で得る確信
日用品を買うことを例に使います。ドラッグストア は品揃えが豊富で、ハミガキひとつとってもたくさんの種類のものが売られています。洗顔石けん、化粧水、胃腸薬なども、棚いっぱいに多くの種類が並べられています。私たちはそのなかからどれを選んでも良いのですが、たいていの人は、いつも決まった商品を買い求めているのではないでしょうか。僕も、ハミガキは20年以上同じ商品を使い続けています。シェービングクリームや胃腸薬は10年以上同じものを使っています。違う商品を試してみることもありますが、たいていは何か不満があり、元の商品に戻ってしまいます。

しかし、最初にその商品を選んだときには、こんなに長く愛用するほど気に入るとは思いませんでした。その商品を選んだのは、テレビでコマーシャルを見たからかもしれませんし、あるいは店頭でパッケージを見たか、それとも誰かが勧めてくれたのかもしれません。ともあれ、僕はその商品を試してみる気になりました。この時点では、それが自分の好みに合った商品であるかどうかは分かりません(確信は持てない)。できるのはコマーシャルやパッケージや誰かの言葉を信じて、期待することだけです(ステップ2)。
僕はその商品を試してみようと決心し(ステップ3)、レジに持って行ってお金を払い、家に持って帰って使ってみる、という行動を取ります(ステップ4~11)。そして良い結果を得ると、これは自分に合う良い商品だということを経験によって知り、確信(faith)を持つようになります。そして、「これは良い商品ですよ」と誰かに教えてあげるかもしれません(ステップ12)。
確信を持った人は、もう店頭でどの商品を選ぶか迷うことはありません。どれが良いかは経験から知っているからです。1)
このように、疑念や不安や期待が入り混じった信じるという心の状態が、行動による結果を経験することで確信へと変化するのです。
神の存在を信じる場合も同じです。ビル・Wやフィッツ・Mは、神が存在することに大きな疑念を持っていました。その一方で、アルコホリズムから助かりたいという理由で、神の存在を信じたい気持ちも持っていました。この二人の場合には、急激な霊的体験をしたことで2)、神の存在を確信するに至りました。この状態が信仰(faith)です。
もちろん、神の存在を知る経験はこうした急激な経験ばかりではありません。ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』には多様な体験が取り上げられています。12ステップに取り組む人が最終的に得る霊的な目覚めも、自分より偉大な力が存在しているという気づき(BB, p.267/571)があり、その経験によって神の存在を確信するにいたるわけです。
このように信仰とは経験することで得られるものであり、単なる知識や願望から神が確実に存在すると思い込むのとは違うのです――そのような思い込みは信仰ではなく、「信じる」に分類されるべきものです。
不可知論者は人間は神の存在を経験することはできないと考えているので、信仰とは単なる強い思い込みにすぎないと勘違いしています。だから、12ステップに取り組むときも、その思い込みの境地を目指してしまいがちなのです。そうではなく、ステップ2で「自分も神の存在を経験できる」と信じ、その経験を得ることを目指すべきなのです。
ビッグブックには、神の存在を経験するという表現があちこちに登場します。以下はその一部です。
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- 神の訪れ(God comes to men)— p.21
- あなたを超えた偉大な力を見つける(find a Power greater than yourself) — p.67
- 神に触れる(a contact with Him) — p.68
- 神がここにいるという思い(the consciousness of the Presence of God) — p.74
- 創造主と交わっている実感(conscious companionship with his Creator) — p.83
- 彼は経験した(he knew) — p.83
- 神は必ず私たちの前に現れる(He disclosed Himself to us) — p.83
12ステップによって私たちは「ある種の信仰」を得る
つまるところ、12ステップは信仰(faith)に到達するためのプログラムなのです。
AAメンバーになるためには、自分をアルコホーリクだと認める必要はありません。必要なのは、自分に飲酒の問題があると認め、酒をやめたいという願いを持つことだけです(伝統3)。しかし、ステップ1に取り組むときには、自分がアルコホーリクだと認めなくてはなりません。
AAは自分たちは宗教ではないと主張しています。それはそのとおりで、どの宗教団体とも提携していませんし、特定の神の概念を受け入れるようにメンバーに求めてはいません。しかし、これまで説明してきたように、ステップ2に取り組む人は、何らかのハイヤー・パワー(神)の存在を信じる必要があります。
12ステップに取り組むかどうかは、AAメンバー一人ひとりの判断に任されています。12ステップをやらないという理由で、AAから追い出されることはありません。
多くの人は宗教と信仰の区別が付いていないので、AAは宗教ではないと聞いただけで、信仰とも無関係で良いのだと結論づけてしまいます。そして、宗教ではないと言いながら、神という言葉が出てくるテキストを使っているAAに疑いの目を向けます。宗教というのは特定の神概念や教義を共有する人の集団です(AAはこれにはあたらない)。信仰は一人ひとりの持つ心的態度です。
『12のステップと12の伝統』のステップ3の章では、冒頭でステップ1と2の簡単な振り返りがあります。そのなかにこんな文章があります:
私たちは・・・信仰のようなものは誰にでも可能であること・・・を知った。3)
… we also perceived that faith of some kind … is possible to anyone.4)
faith of some kind を「信仰のようなもの」と訳しています。助動詞「ような」の意味は複数ありますが、ここでは比喩の意味ですから、「信仰に似ているもの(信仰そのものではない)」という意味になってしまいます。
しかし原文の some kind は「ある種の」「何らかの」という意味ですから、私たちが12ステップで得るものが信仰であることは明らかです。
12ステップに取り組む人は、ステップ2で神の存在を信じてみます。その神が、例えばAAそのものであっても、モテモテ神であっても良いのです(第77回)。そしてステップ3から先へと進んでいけば、その神の概念は次第に変化していくはずです。やがてその人が霊的に目覚めるとき、神はその人に自ら存在を明らかにしてくれます(p.83)。その人は、自分のアルコールの問題を解決してくれたのは、神だったことが分かるでしょう。ステップ2では、自分もそのような経験ができると信じるわけです。
12ステップが、自分で自分の問題を解決するプログラムではなく、神に解決してもらうプログラムだということはとても重要です。この基本構造をねじ曲げて、自分で自分の問題を解決するプログラムに変えてしまう人たちもいます。彼らは、ステップ4・5で棚卸しをしたあと、ステップ6・7では自分で自分の欠点を直そうとし、ステップ8・9で埋め合わせに行くことで自分を変えようとします。12ステップを使って自分で自分を救おうとするのです。
そのような自力救済 型(つまりセルフヘルプ型)の解釈でステップに取り組む人も少なくありませんが、だいたいやがて行き詰まります。なぜなら、自分で自分を変えようとしても、もともとそのために作られたプログラムではないため、ステップに取り組むことが辛くなってくるからです。そういう人たちは結局途中で12ステップをやめてしまうことが多いのです。
12ステップは自由に解釈して良いとされているのは、どんな解釈でもうまくいくという意味ではありません。うまくいかなければ、その解釈は捨てて、別の解釈に変えていくだろう、という前提があってのことです(cf. 「12ステップは自由に解釈して良いのか?」)。神の概念も、12ステップの解釈も、その人の中で更新されていくべきものなのです。
シンプルなレベルから始める
ビッグブックに戻ります。70ページから:
私たちは、信仰について、自分には信じられないようなことまで受け入れなければ、霊的な原理を使うことはできないと思っていた・・・だから簡単に始めればよいことがわかった時、どれだけ元気づけられたことか。5)
多くの宗教は、膨大で複雑な信仰の体系を人々に受け入れさせようとします。だが、このプログラムは違うアプローチを採ります。信じてみようという気持ちがあるならば、あなたが信じたいものを信じて良いのです。私たちは人々に対してあらかじめ神(の存在)を証明しようとはしません。信じる気持ちがあり、あなたがこのプログラムに従うならば、神は自らをあなたに証明するでしょう。6)
だから簡単に(at a simpler level=とてもシンプルなレベルから)始めればよいのです。モテモテ神のレベルからでも大丈夫だとわかれば、元気づけられるでしょう。
アルコール地獄のみじめさに直面し、いろいろな問題に対して努力したのと同じように、霊的な事柄にも心が開く(open minded)ようになった。その点では、アルコールは偉大な説得者だった。アルコールはとうとう私たちを打ち負かし、正しい状態に叩き込んでくれた。7)
ここでも開かれた心(オープン・マインド)の大切さを強調しています。霊的な事柄、つまり神という存在に対して自分が持っている抵抗感や警戒心を自ら乗り越えて、信じてみようという気持ちになるのは、その人自身にしかできないことだからです。
スポンシーさんがあくまで神を拒むようならば、無理に説得する必要はありません。アルコールという「偉大な説得者」にまかせれば良いでしょう。アルコホーリクにとっては、神だけでなく、アルコールも偉大(great)な存在であることを忘れてはいけません。
71ページの2行目までで、第四章の最初のパートが終わります。このパートでは12ステップが不可知論者に対して取っているアプローチの説明がありました。ビル・Wは、アルコホーリクには霊性をバケツで与えるのではなく、ティースプーンでほんの少しずつロに入れてやらねばならないと述べていますが8)、ここでもまさにそのとおりに、まずスタートラインに着くにはどうしたら良いかを説明していました。
救われた人たちとまだ救われていない人たち
ハイヤー・パワーが私たちの問題を解決してくれるということは、宗教的な表現をすれば「神が私たちを救って下さる」ということです(「救い」という言葉はAAでは使われませんが)。
人生の深刻な危機に陥ったとき、宗教に助けを求めて入信し、その教義を実践した結果として、神仏によって救われるという経験をする人たちがいます。そのような経験によって危機を乗り越えて生きていけるのです。
そのような「救われた」経験を持っている人たちは、自分の力ではアルコホリズムを解決できないと知ったときに、これも神の力で解決してもらおうと考えるでしょう。その人は確信を持っているので、ステップ2を行なうのに迷いがありません。
しかし、宗教に属している人の全員が切実な必要を感じて入信したわけではありません。典型的なのは、親が自分の子を同じ宗教に入れるパターンです。大人になってもその宗教を信じている人は多いでしょうが、その人たちは「神によって救われた」という経験はしていないわけです。
僕の実家は江戸時代には近所のお寺の檀家でしたが、その寺が明治時代の廃仏毀釈 によって廃寺になったために、それ以降は神道 に属することになりました。だから僕は(形式的には)神道の信徒ということになりますが、深い信仰心を持っていたわけではありません。そのため、AAで12ステップに取り組むときに、神道の神様が自分のアルコホリズムを解決してくれるとは思えませんでした。なぜなら僕は神によって救われたという経験を持っていませんでしたし、人間が神の存在を経験できるとは信じていなかったからです。つまり僕は形式的には信徒であったものの、実質的には不可知論者だったのです。
入信の動機や事情が何であれ、宗教的儀礼と学びの繰り返しによって深い信仰を身に付ける人たちもいます。そのような信仰を持っている人たちがアルコホリズム(や他のアディクション)にかかって12ステップグループに来る場合もあります。その中には信仰を持っているにもかかわらず、ステップ2に取り組めない人たちもいるのです。このことについて最も率直に書かれているのは、オーバーイーターズ・アノニマス(OA)のステップのテキストでしょう。
信仰を持ってOAに来た人たちは、このステップを見てこう言った。「大丈夫。神様のことならずっと信じているので、このステップに書かれていることは、とっくの昔から知っています」。だがステップニを行なうに当たっては、信仰を持つ人たちのほうが、無神論者や不可知論者よりも大きな壁にぶつかることがある。信仰を持つ人たちは、神の存在をすでに信じている。だが、強迫的な食べ方のことまで神が助けてくれるとは考えていないし、自分の強迫的な食べ方が霊的な問題だとも思っていないだろう。神は世の中の重大事にかかわる存在であって、自分たちの食べ方のようなささいなことは自分でコントロールすべきなのだ。9)
この強迫的な食べ方という言葉を、アルコールや薬物やギャンブルやセックスなど、自分の問題に置き換えてみてください。信仰を持っている人たちも、自分のアディクションの問題は自分で解決しなければならないと考えて、不可知論者と同種のジレンマに陥ることがあるのです。
ときおり、信仰を持っている人から、「私は信仰を持っているのに、なぜアディクションになり、何年も苦しまねばならなかったのか?」という質問を受けることがあります。まずその人は、病気の原因と回復できない原因を混同しています。病因と回復の阻害要因は別の問題です。どんなに深い信仰を持っていようが病気になるときはなるわけです。だから病気になった原因ではなく、なぜこれまでアディクションから回復できなかったのかという部分に焦点を当てるなら、それは「信仰に不十分なところがあったから」としか答えようがありません。
ただ、そのような相手の信仰にケチを付けるような言い方はなるべくしたくないものです。自分でそのことに気づいて欲しいと思っています。気づくためにはには「自分は十分豊かな信仰を持っている」という前提条件を自ら突き崩さなければなりません。今まで持っていた信仰が全く無意味だったというわけではなく、ただアルコールの問題を解決するには足りなかったというだけなのですが、そのようなわずかな瑕疵が自分の信仰にあることを認めることすら、時に難しくなることがあります。その結果、ステップ1すら認められずに何年も過ぎてしまうのです。10)
AAにも、12ステップに取り組んで「神によってアルコホリズムから救われた」という経験を持つ人たちがいます。他方で、そんな経験はしていないし、興味もないという人たちもいます。なぜなら、12ステップに取り組むかどうかは、メンバーそれぞれの選択が尊重されるからです。12ステップに取り組まなくても、ミーティングに参加することで酒をやめ続けている人たちもいます。彼らは、AAという人の集まりが持つ「集団の力」を頼っているのです。しかしそれはあくまで人間の力です(第49回)。つまり、AAにも二種類の人たちがいるのです。
二種類の人たちの優劣を論じたいわけではありません。ただ、AAや12ステップを理解しようとするならば、この事実を無視することはできません。
次回から
次回から、第四章の二番目のパートに入ります。そのパートは、神の存在を経験した人たちが、そんなことはあり得ないと考えている不可知論者に向けて書いていることを前提に読むと、理解しやすいでしょう。
- 信仰とは経験することで得られるものであり、単なる知識や願望から神が確実に存在すると思い込むのとは違う。
- 私たちは12ステップに取り組むことで、ある種の信仰を得ることができる。
- すでに信仰をもってAAに来た人であっても、ステップ2でつまずくことがある。
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