ビッグブックのスタディ (77) 私たち不可知論者は 4
役に立っていない情報
私たちが神のことを話すときには、だからあなたがあなたなりに理解している神(your own conception of God=あなたなりの神の概念)を指している。またこの本のなかに出てくる霊的な表現についても同じである。1)
ビッグブックに出てくる「神」という言葉が示しているものは、「AAの人たちが信じている神の概念」というものではなく(なぜならそんな神の概念は存在しないから)、ビッグブックの読者一人ひとりが持っている神の概念なのです。
あなたはまず、霊的という言葉について前から持っている考えを捨ててほしい。それは霊的ということが自分にとってどんな意味を持っているかを正直に自分に問いかける邪魔になるからだ。1)
Do not let any prejudice you may have against spiritual terms deter you from honestly asking yourself what they mean to you.2)
この部分はずいぶん意訳されています。元の文章は、
という意味です。
第75回で、この社会には様々な宗教が存在していて、それぞれに布教活動を行なっていることを説明しました。たいていの人は、そうした活動に触れたことがあるでしょう。また、信者ではない人たちが、宗教や信仰について語ることもあります(それはしばしば否定的な意見であったりします)。宗教団体が起こした事件が大きく報道されることもあります。結婚式や葬式で、宗教者の語る言葉を聞く機会もあるはずです。信仰について関心を持っていなくても、また宗教色の薄い日本で生きているのであっても、私たちは宗教や信仰について、自分で思っているより多くの情報を得ているものです。
人によっては、無関心どころか、むしろ積極的に情報を求める人もいます。例えば、ドクター・ボブは、ビル・Wと出会う前に、すでにオックスフォード・グループと接触していました。彼はオックスフォード・グループの霊的な原理に関心を持ち、「それから二年半ほど、たっぷりと時間をかけて、そのことを研究し」「手当たり次第に、ありとあらゆるものを読み、それについて知っていると思われるあらゆる人々と話をした」と述べています(p.250)。――にもかかわらず、彼は毎晩酔っ払っていたのですが。
つまり、私たちが霊的なことに関心を持っていようといまいと、霊的なことについてすでに多くの情報を得ているのです。そして、大事なことは、それらの情報があなたが自分より偉大な力を信じることの役には立っていないということです。もし役に立っていたならば、あなたはすでに不可知論者ではなく、信じる者(believer)になっていはたずです。情報が、正確なものであるか、偏見に満ちたものであるかに関係なく、役に立っていないのです。
そのような役に立っていない情報が、霊的ということが「自分にとってどんな意味を持っているかを正直に自分に問いかける」邪魔をしてしまうのです。だから、そうした情報は脇に置くべきだと説いているわけです。
ドクター・ボブは、医師として自らのアルコホリズムを解決しようと、あらゆる医学書を読み、専門家たちと話をしてきました(p.252)。医学の中に解決が見つからなかったにもかかわらず、そして他方でオックスフォード・グループという霊的な解決があることを知っていたにもかかわらず、彼の行動は変化しませんでした。
しかしそこへ(1935年5月)、ニューヨークからビル・Wがやってきて、ドクター・ボブと話をしました。しかし、それでもまだ不十分でした。その後で、ドクター・ボブは再飲酒をし、ようやくプログラムに取り組む意欲を得たのです(第6回)。
再飲酒したことで、どんな心境の変化があったのかを彼は語っていません。しかし、その後の彼の行動が雄弁に物語っています。霊的なことは、破滅寸前の彼にとって「唯一の希望」となったのです。
私たちは、霊的なことに対して関心を持っていなくても、無意識的に多くの情報を得ています。また、なかには知識を得ようと努力してきた人もいます。そうした情報から形作られた先入観が、私たちがステップ2に取り組む邪魔になってしまうのです。ですから、そうした情報を脇に置き、霊的なこと(つまり神という存在)が自分にとってどんな意味を持っているのか正直に自分に問いかける必要があります。霊的な成長を始めるためには、それだけで十分なのです。――ステップ1を経た人であれば、神が「唯一の希望」になっているはずです。
自分なりの神の概念で始める
霊的に成長し、自分なりに理解できる神と意識的にかかわるための出発に必要なのはそれだけだった。そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解(conception=神の概念)から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても。1)
At the start, this was all we needed to commence spiritual growth, to effect our first conscious relation with God as we understood Him. Afterward, we found ourselves accepting many things which then seemed entirely out of reach. That was growth, but if we wished to grow we had to begin somewhere. So we used our own conception, however limited it was.2)
この文章の中には出発(start)、始める(commence, begin)という言葉があります。私たちは12ステップに取り組むことで霊的に成長していくわけですが、この文章は霊的な成長を「始める」にはどうすれば良いかを教えてくれます。それは、自分なりの神の概念(our own conception)を使うことです。
先ほど述べたように、私たちはこれまで生きてきたなかで、神についての様々な情報にすでに触れています。その結果として、私たちは「神とはおそらくこういうものであろう」という考えを自分なりに形作っているのです。
あなたがその神の概念を信じることができる(あるいは信じてみようという意欲が持てる)のなら、それが現在のあなた自身の神の概念であると言えます。
しかし、信じる気になれない、ということもあるでしょう。「神様って、たぶんこんな感じの存在なんだろうなぁ」というイメージは持てても、それを信じろと言われても無理だというわけです。その場合は、そのイメージはあなた自身の神の概念ではありません。他の人の神の概念の影響を受けたために、自分の持つ神の概念を見失ってしまっているのです。
霊的な成長を始める前の私たちは、霊的には幼く未熟です。未熟であることを指摘されると傷つく人もいるかもしれませんが、否定しようのない事実です。霊的に幼く未熟な状態の私たちが持つことのできる神の概念も、やはり幼く未熟なものでしかありません。しかし、例えそれが「せまく、かぎられた」概念であるにしても、適当でない(p.68, inadequate=不適格な)概念であるにしても、それを使って始めるしかありません。
あるAAメンバーが、スポンシーから「自分なりの神の概念が分からない」という相談を受けました。そこでスポンサーはスポンシーにこう尋ねたそうです。「もしあなたを金持ちにしてくれる神様がいたら、その神様を信じてみようと思うかね?」 するとスポンシーは少し考えてこう答えました「金持ちにしてくれる神様がいるんだったら、その神様を信じますよ」 スポンサーは次にこう尋ねました。「では女性にモテモテにしてくれる神様がいたらどうだ?」 スポンシーは「その神様も信じたいです」と答えました。「ではあなたを有名にしてくれる神様がいたら?」 スポンシーは「信じます」と即答しました。スポンサーはこう伝えました。
「自分を金持ちで、モテモテで、有名にしてくれる神様だったら信じられるというのなら、それが今のあなたのが神の概念だよ」
霊的に進歩した人たちから見れば、このような神の概念は不適切に思えることでしょう。神様は自分の欲望を叶えてくれる便利な存在ではないと、伝えたくなるかもしれません。しかし、それは無用なアドバイスですし、むしろ有害なアドバイスですらあります。
なぜならば、せっかくその人が「自分を金持ちで、モテモテで、有名にしてくれる神様」という自分なりの神の概念をつかんだのに、その概念を取り上げてしまうからです。信仰を持った人たちは、その代わりにもっと進歩した概念を押しつけようとするのですが、相手はまだそれを受け入れることができない段階にいるのです。こうして、霊的な進歩を始めようとする人も、それを伝えようとする人も、両者ともに失敗してしまうのです。
ジョー・マキューもこう述べています:
それゆえ、スポンシーは自分なりに理解している神(own conception)から始める。その神の概念がどんなに未熟でも、そこが彼の出発点である。
これは基本原理である、何かを学ぶときの基本はここにある。何か新しいものを学ぼうとするときにはいつも、私たちはいま持っている概念を出発点として、そこから進んで行くしかない。それ以外のところから始めることは不可能である。3)
これは旅に例えることができます。東京に住んでいる人が、福岡まで新幹線で旅をしようとするならば、その人は東京駅から新幹線に乗るでしょう(品川駅のことは無視します)。旅をするときに、誰でも自分のいる場所から出発するのです。それ以外の場所から出発することはできません。
神の概念についても同じであり、その人がいま持っている神の概念を出発点とするしかありません。それ以外のところから始めることはできないのです。だから、その神の概念が不適格なものであったとしても、その概念を否定し、もっと進歩した概念から始めさせようとしてはいけないのです。なぜならそれは、東京にいる人に、名古屋から旅を始めるように要求するのと同じだからです。
例えば「二本足(二足歩行する人間のこと)をハイヤー・パワーにしてはいけない」という警句があります。人間は神ではないので、人間をハイヤー・パワーとして信じるのは不適切だという教えなのですが、これも無益どころか有害なアドバイスになり得ます。神は信じられないが、スポンサーなら信じられるという人にとっては、スポンサーをハイヤー・パワーとして信じることが出発点たりうるのですから。
傍から見れば、あまりに拙い概念であったとしても、その人がそれを「自分を超えた力」として信じられるのなら、他の誰もそれを否定できません。その力が自分自身ではなく自分を超えた存在であり、かつその力がアルコホリズムを解決できる、とその人が信じられる、という条件を満たしていれば十分なのです(第75回)。
見栄を張ってはいけない
私たちにはプライドというものがあり、他者からどう評価されているか気になります。それゆえに、自分がどんなハイヤー・パワーを信じているかについても、他者からの評価が気になってしまうこともあります。「実は自分をモテモテにしてくれる神様を信じているんです」とミーティングで分かち合うことには抵抗を感じてしまうわけです。「私のハイヤー・パワーはスポンサーです」などと言おうものなら、ミーティングが終わった後で「人間をハイヤー・パワーしちゃいけないよ」などと真顔でアドバイスしてくる人がいたりします。そういった言葉も、私たちの虚栄心をを煽ります。
すると私たちは、自分がもっと神らしい(適切な)神の概念を持ちたくなってしまいます。モテモテ神を信じているなんて恥ずかしいと思い、人に言っても恥ずかしくない神様を信じようとするわけです。だがそれは、自分で自分の神の概念を否定し、より進歩した概念から始めるように、自分に要求することになります。東京にいるのに、名古屋から旅を始めようとするのと同じで、不可能なことをしようとしているのです。
モテモテ神しか信じることができないのであれば、そんな自分をごまかしてはいけません。見栄を張って、もっと神らしい概念で始めようとし、そのために霊的な成長を始められないでいる人は多いのです。大事なことは、出発点に立ち、そこから進んでいくことです。まず出発点に立つために、いま自分がどんな神の概念を持っているか(どんな神様なら信じることができるか)を自分に問いかけるのです。
ジョーの話の続きです:
イエスは私たちに、子どものようになってここへいらっしゃいと説いた。しかし私たちは、子どものときでさえ、子どもっぽい神概念を持つことが許されなかった。私たちの親の多くは、自分(親)のレベルで、つまり最初から「高い」レベルで始めることを期待した。そうやって親たちは、神を信じなさいと説いたのだった。4)
多くの人が、霊的な生き方をするためには、他の人が信じているように自分も信じなければならない、と考えます。だがそれは真実ではありません。宗教は、同じものを同じように信じることを信徒に要求します。AAも、オックスフォード・グループの一部であった初期のころには、そのようなアプローチを採っていました。しかし、ヘンリー・Pやジミー・Bという元無神論者・元不可知論者たちの主張を取り入れて、「自分なりに理解した神」という表現を使うようになりました。それによって、誰もが自分なりの神の概念で始めることができるようになり、宗教に馴染めない人たちにも霊的な生き方への門戸が開かれたのです。
あなたが誰かのスポンサーになったとき、おそらくスポンシーがどのような神の概念から出発するのか確認が必要になるでしょう。「働けていないので働けるようにしてくれる神様なら信じたい」とか、「妻の機嫌が悪いので妻の機嫌を良くしてくれる神様がいて欲しい」という返事が返ってきても、その正直さを褒め称えるべきです。間違っても、もっと「高い」レベルから始めるように要求してはいけません。またその逆で、自らもっと進んだ概念で始めようとする人たちもいます。おそらく早く回復したいと焦っているのでしょう。もちろん、それが不可能なことは、これまで説明してきたとおりです。スポンサーであるあなたは、スポンシーがいまいる場所(それはモテモテ神しか信じられないということかもしれない)からしか出発できないということを伝えなければなりません(cf. p.137)。
スタート地点とゴール地点
これまで「どうやってスタート地点についたら良いか」を説明してきました。多くの人が自分なりの神の概念を使えば良いことを知らないがために霊的な成長を始められずにいるわけですから、スタート地点につけただけでも、それは一つの進歩だと言えます。
だがスタート地点につくよりもっと大切なことは、そのスタート地点から前に進んでいくことです。なのに私たちは、スタート地点についただけでも自分ながら良くできたと思ってしまい、そのことに満足してしまうがために、そこから先へと進まなくなってしまうことが多いのです。まるで、スタート地点がゴール地点だと勘違いしたかのようです。
ジョーは、「私たちはいま持っている概念を出発点として、そこから進んで行くしかない」(傍点は筆者)と、出発地点から前に進むことを述べていますし、
ゴール地点はスタート地点と同じではない。5)
という言葉で、そのことを強調しています。
ある人がステップに取り組み始めたときに、自分の良心 をハイヤー・パワーとして信じることにしたのだそうです。周囲からはそれで大丈夫と言われたので、その人は自分の良心をハイヤー・パワーとして信じてきました。数年が経ち、その人がたまたま僕に「私は自分の良心をハイヤー・パワーにしているのですが、これで良いのでしょうか?」と尋ねてきました。これで良いかと問われなければ、僕はそのことを良し悪しを言うつもりはありませんが、問われた以上は曖昧にごまかすわけにはいきません。そこで、「それではダメでしょうね」と答えました。
その人は、驚いた様子でした。なぜなら、僕も数年前に「それで大丈夫」と言った一人だったからです。あの時と言うことが違っているのですから、それで驚かないはずがありません。
もちろん説明が必要でした。最初にスタート地点につくとき、その人なりの神の概念を使うしかありません。だから、自分の良心をハイヤー・パワーとして信じたいとその人が考えたのならば、それで良いのです。それがスタートラインにつくということです。しかし、何年経っても、スタートラインにその姿勢のまま留まっているのであれば、前進していないのは明らかです。始めたときと同じハイヤー・パワーを同じように信じているのであれば、そこに成長は起きていないのですから、それで良しとは言えません。
新しい神の概念を獲得し続けていく
私たちが最初に使う神概念は、それがどんなものであれ、幼い、限られたものでしかありません。だから、その神概念を一生使っていくわけにはいきません。ジョーもこう説明しています:
迷路のなかに入れられたネズミは、壁にぶつかると別の道をあれこれ探して、苦労して迷路を進み、最後にそこから抜け出す。・・・このように、ネズミは迷路の一つの道が出口に通じていると信じ、道の選択が誤りだったとわかると、また別の道を探す。これは、私たちがやっている方法と同じだ。私たちが信じていることが間違っているかもしれない。でも、もし信じたことが間違っていて、間違った決定を下し、悪い状況に陥ってしまったら、戻って、信じるものを変え、うまくいくまでやり直しすればいいのだ。ところで、ネズミが優れている点は、同じ間違いを二度とやらないことである。しかし、人間はあまりに感情的なので、何度も何度も同じ間違いを繰り返し、場合によっては正しい道を見つけ出すことができなかったりする。6)
スポンサーをハイヤー・パワーとして信じている人のことを心配する必要はありません。遠からずその人は自分の選んだ道が行き止まりだったことに気がつくでしょう。神様のように崇拝していたスポンサーが、実はただの欠点の多いアル中に過ぎなかったことが分かるのです。AAグループという人間の集まりをハイヤー・パワーにしている人も、素晴らしいと思っていた自分のホームグループが、単なる病んだアル中の集まりに過ぎないことが分かるときがくるでしょう。
その時に、スポンサーやグループを変えてみてもいいのですが、今度のスポンサーならば、今度のグループならばうまくいくはずだと考えているのであれば、それは行き止まりだと分かっている道を再び選んでいるのと同じです。むしろ、そのタイミングで、人間は(人間の集まりも)ハイヤー・パワーたり得ないと見切って、別の道を進む(別の神の概念を求めていく)ことで前進できるのです。その人は、相変わらずスポンサーやグループを頼りにしているでしょうが、もはやそれらはハイヤー・パワーではなくなっているのです。
『12のステップと12の伝統』のステップ2では、神に対して抵抗感を持つ人に対してAA共同体やAAの人たちをハイヤー・パワーにするという提案がされています。7) しかし、ステップ11に至ると、「まだAAグループをハイヤー・パワーにして、それにしがみついている(cling)人たち」という表現が現れます8)。これはスタート地点(ステップ2)から、ステップ11へと進んでいく過程のどこかで、新しい神概念の獲得が起きることが前提となっている表現です。
ジョーは常に「信じるという力は常に光を発していて、オフにできない懐中電灯のようなものだ」と言っていました。9) 私たちは真っ暗な地下室で、その懐中電灯を使って、ハイヤー・パワーという宝物を探しています。懐中電灯を振り回していると、あるときその明かりが何かを照らし出します。私たちはハイヤー・パワーを見つけたと思って、その宝物を抱きしめるのですが、しばらくすると、それが求めるものではないとわかってしまいます。そこで、懐中電灯を部屋の別の方向へと向けて、また宝物を探し続けます。そのようにして、次から次へと、何かを見つけては抱きしめ、これは違うと分かって手放すことを繰り返していきます。10)
私たちは、成長を続けている限り、どんな神の概念を獲得しようとも、いつかそれを手放して、別のものを求めていくことになります。なぜなら、人間は神を十分に理解することはできない以上、私たちは決してゴールにはたどり着けないからです。神をより深く理解したいという霊的な成長の旅は生きている限り終わりがありません。11)
終わりのない旅なのですから、先を急ぐ必要はありません。自分のペースで進んでいけば良いのです。大切なことはスタートラインについただけで満足せずに、そこから先へ進んでいくことです。ビル・Wの霊的なメンターであったサミュエル・シューメイカー牧師(Samuel Moor Shoemaker III, 1983-1963)もそのことを強調しています。彼は1955年にセントルイスで開かれたAA20周年のインターナショナル・コンベンションで、AAメンバーにこう語りかけました:
しかしそれはただの始まりにすぎません。多くの宗教人たちがどのようであるか、皆さんもよくご存じですね。駅で座っているだけで、列車に乗ったつもりになっている人たちのようなものです。みなそれぞれに旅行の話をし、駅の名前も耳に入り、切符も手に入れました。旅行鞄の匂いもただよい、ざわめきも聞かれます。そこにずっと座っていれば、列車に乗ったような気になるでしょう。しかし乗っていないわけです。列車に乗り、駅を離れたところでやっと回心が始まるのです。12)
宗教に入り信仰を持ったことで満足し、ゴール地点に着いたと勘違いして歩みを止めてしまう人は少なくありません。彼らは不可知論者よりも自分が先に進んでいると思い、なのになぜ自分の回復が進まないのか疑問に思うのです。ステップに取り組む多くの人たちも同じ状態に陥いることがあります。つまりスタート地点についただけで、旅が始まったような気分になってしまうのです。
ステップ2だけでなく、回復全体のことにまで話が及んでしまいましたが、ともあれステップ2ではスタート地点につく(駅に行く)ことが必要です。私たちは自分なりの神の概念を使って始めれば良いのです。そのためには、自分がどんな神の概念を持っているのか(どんな神様なら信じられるか)を自分に問うのです。ただし、その答えが得られたからといって、ハイヤー・パワーが見つかったわけではありません。あなたは旅支度を調えて、切符を手に入れただけなのですから。これからあなたは列車に乗り込んで、旅を始めなくてはなりません。きっとあなたも、最初につかんだ神の概念を手放すときが来るはずです。なぜなら、あなたは出発駅から次第に離れていくのですから。それが成長の旅というものです。
- 私たちは、霊的なこと(神)についてすでに様々な情報を得ている。
- そうした情報は、自分より偉大な力を信じることの役には立っていない。
- だから、すでに得た情報を脇に置き、神が「自分にとってどんな意味を持っているかを、正直に自分に問いかける」必要がある。
- 人は自分のいる場所からしか旅を始めることができない。
- 霊的な成長も同じで、いまの自分なりの神の概念を使って始めるしかない。
- もっと進んだ神の概念から始めよう(始めさせよう)としても、失敗する。
- 私たちはスタート地点から先へと進んでいく必要がある。
- 霊的な成長を続ける過程で、私たちの神の概念は変わっていく。
- BB, p.69.[↩][↩][↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.47.[↩][↩]
- CTM, p.60.[↩]
- CTM, p.61[↩]
- CTM, p.134[↩]
- SWT, p.30[↩]
- 12&12, pp-38-39.[↩]
- 12&12, p.126.[↩]
- SWT, p.28 — 該当箇所では懐中電灯ではなく灯台となっている。懐中電灯(あるいはサーチライト)の例えは、ジョー・マキューの後継者であるラリー・G(Larry Gains)によるセミナーで幾度か取り上げられたもので、ジョーの著作を探してみたもののこの箇所しか見つけることができなかった。[↩]
- ジョー・マキューの著作はどれも人気があるが、新しい神概念を獲得し続けていくことについて明確に書かれているのは『ビッグブックのスポンサーシップ』のみで、それがこの本を薦める理由である。[↩]
- 少々補足しておくと、進歩を続けるうちに、その人の持っている神概念全体が放棄されて完全に新しい概念に置き換わることは少なくなるだろう。神に対する理解の一部分が否定されるのみで、他の部分はそれ以前のままに保たれるようになる。だが、これを繰り返すうちに、大部分が新しい理解に置き換わることになり、たとえその人が同じ対象を信じ続けていると認識していたとしても、そこには新しい神概念の獲得が起きているのである。[↩]
- AACA, p.405.[↩]
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